3.実 態

 

『 労働新聞 』は、朝鮮労働党の機関紙( 日刊,6頁 )である。これは北朝鮮の政治、外交の動きを知るうえで基本的な資料であり、大きな注目を集めてきた。農業にかんする記事もかなり多く、研究者がしばしば参照している。しかしそれは断片的にすぎず、本格的な分析は行われていない。本節では、1966−7年と1976年における同新聞の農業関係記事を分析する。上記年を選んだのは特定の理由によるものではない。同新聞はときおり、重要な情報源となるそのとき限りの記事を掲載するが、一般には類似の内容を繰返し伝える。60−70年代のすべての記事に丹念に目を通すことは、得られる情報量に比して過大な労力を要する。そこで10年間隔をおいて、60年代と70年代の半ばの各1年間に作業を集中することとし、66、76年を選んだ。ただ66年は、元首訪問が重なる等の理由により政治、外交記事が多く、それに反比例して農業など経済記事が少なかった。そのため、合わせて67年の記事を参照した( そのほかに、逐一ではないが、1966年以降最近にいたる5年毎の記事にも目を通した )。『 労働新聞 』は党の政策を忠実に伝えるから、政策の変遷をたどるには適当である。反面、生産実績などにかんする記事は信頼性に欠ける。記事の目的は政策の成功の宣伝であり、多くの場合誇張、さらには虚偽によって歪曲されている。本節で注目するのは、そのような記事ではなく、具体的な出来事にかんする記事である。とくに各季節にどのような農作業が行われたか −いわゆる主体農法の実際− を示す記事を収集する。これはその時々に起ったことを伝えるものであり、事実と受け止めることができる。じっさい『 労働新聞 』は、驚くほど詳細に農作業の実状を記している。もっとも、その報道は網羅的でなく、記事の背後に本来重要でありながら伏せられている事柄が存在する。この点はつねに念頭におかねばならない。また基本的に、記事の趣旨そのものでなく「 裏 」を読むことが肝要である。

以下、季節ごとに1966−67、1976年の農業関連記事を整理する。そのさい、繰返し登場する類似の記事については、場所、描写の点でとくに具体性が高いものを選択し、他は省く。 結果を表4、表5に示し、さらにその内容をまとめる。

 

(1)1966−67年

    1−3月 ( 表4−A )。正月早々興南の工場( 化学コンビナート )では化学肥料の増産運動が展開された。同時に一般の企業所、政府機関、さらに家庭において大々的に「 自給 」肥料の生産が行われた。堆肥、人糞、草木灰などがその主たるものであり、それは自動車、荷車で各農場に運ばれた。農場でも同様に肥料生産が活発に行われ、その様子は連日のように報道された。また客土作業、すなわち川や池から沈殿した土を掘り出し、耕地に入れる作業が各地で展開された。客土作業および段々畑造成には大量の労働が投下された。各地における農具、叺、農機械生産の報道も多く、1月7日の記事によると降仙製鋼所でも鍬、鎌が生産された。同製鋼所の労働者はまた、農場にでかけ農機具の修理手伝いなど「 支援 」を行った。各農場においては農機具の修理、再生作業とならんで、役牛の管理も重要な仕事であった。荷車とともにトラクターの利用を伝える記事も散見される。平安南道の農場では、客土、施肥( 元肥 )を終えたのち、3月末に畑に春麦の播種が行われた。

    4−6月 ( 表4−B )。この時期は春耕、播種、苗床準備、田植えといった重要な農作業が続いた。また( 秋播き )大麦の収穫も行われた。4月には前期にひきつづいて、農機具の準備、自給肥料生産、客土作業が行われ、5月にはいると田植えの準備が本格化した。各工場から田植え支援のために多くの労働者が派遣された。地方の党員、幹部は政治宣伝によって支援労働者、農民を督励し、田植えの促進を図った。開城からの報道によると、同地の人民委員会は、田植えのときに必要な長靴、その他消費物資の確保に大きな努力を払った。耕起、代掻きにおいては役牛、トラクターが用いられた。これに関連し、役牛の世話、トラクターの管理−稼働率向上の必要性を指摘する記事がたびたび登場した。6月末には大麦の刈入れが行われた。その他の作業としては、除草、病虫害の防止、梅雨への備え( 水路工事 )が重要であった。

    7−9月 ( 表4−C )。夏から秋にかけての最大の課題は、除草、草刈り、稲・トウモロコシの刈入れであった。除草は数回にわたって行うことが求められ、その進行状況にかんする報道も多かった。草刈りは堆肥材料確保に必要な作業であった。論説は、草刈りの重要性はきわめて大きく、その成果が翌年の肥料生産量を左右すると指摘した。夏季におけるこうした一連の作業は、農場内外の労力を総動員して行われた。稲刈りについては、一部地域で機械の導入が伝えられる一方、鎌の準備の必要性がつよく指摘された。鳳山郡の農場では役牛、荷車とともに、各農場員に鎌1本を準備することが課題であった。9月末には脱穀、調製、籾摺・精米作業の準備が行われた。

    10−12月 ( 表4−D )。9月につづいて稲刈り、脱穀が行われた。いくつかの記事は、刈った稲を圃田から脱穀場に運搬し脱穀、包装をするのに、多くの日数がかかったことを示す。11月7日の社説は、同作業を早めて収穫米の腐敗、変質を防ぐように努めよという党の指示を伝えた。しかし粛川郡の農場では、12月にはいっても依然脱穀作業が完了しなかった。運搬手段には牛、人力のほかトラクターが使われたが、その稼働率は十分に高くなかった。脱穀には大型の機械も用いられたが、どのような機器が一般的であったかは記されていない。収穫、調製終了後は、秋耕、河川工事、客土用土掘り、肥料生産、耕地造成、さらに精米工場補修などの作業に労力が動員された。また役牛飼育にも努力が払われ、咸鏡南道農村経理委員会は、具体的計画にもとづいて各農場に役牛を増殖するよう指示を与えた。

以上の観察から、1966−7年において、農業の化学化がほとんど進展していなかったことが明らかである。主要な肥料は有機質のものであり、これが各地、各機関( 協同農場、企業、人民班など )で大量に生産された。同時に、地力を高めるために冬から春にかけて、客土が大々的に行なわれた。客土源としてもっとも重要であったのは、川や池に沈殿した土や山麓の有機質の土であり、これは北朝鮮では「 泥炭 」( ニタン )と呼ばれた。 この時期、北朝鮮ではすでに土壌の酸性化が進行しており、これを防ぎ、また一層土質を改善するために政府は労力を動員して客土作業を推進した。 さらに、耕地拡大、田植え、除草、刈入れにも多大な労力が投下された。こうした作業においてトラクターや各種機械も利用されたが、それは限定的にすぎず、主力は人力、畜力であった。トラクターは、台数が少なかったのみならず、故障が多く稼動率が高くなかったとみられる。各郡の農機械作業所はじっさい、つねに修理に追われていた。 記事から推して、その原因として、製品の質、さらに運転技術、整備・保守の問題を指摘しうる。10

このほかにもとくに注目すべき点がある。それは、鍬・鎌・シャベルなどの「 中小農機具 」の不足である。協同農場では、こうした簡単な農具すら不足し農場員各自に行渡らないほどであった。この不足を解消するために、各工場で農具が大量に生産され協同農場に送られた。生産は、降仙製鋼所など本来農具の生産を目的としない工場においても行なわれた。さらに農場自身、ありあわせの材料で農具を製作に従事した。このように政府は、トラクターなどの機械の普及以前に、農具をいかに供給するかという問題の解決を迫られていた。

 

(2)1976年

    1−3月 ( 表5−A )。この時期の主要作業は腐植土、糞土を利用した肥料作りであり、海州、恵山などの都市においても労働者がこうした肥料生産に従事した。また客土作業、段々畑造成も各地で推進され、このために多くの労力が動員された。中小農機具、トラクター部品の生産、搬送も活発に行なわれた。農機具生産活動は、平壌、清津では市内の全機関・企業所に及んだ。

    4−6月 ( 表5−B )。ひきつづいて糞土肥料、農機具の生産が行なわれる一方、春耕、播種、さらに田植え、除草作業が推し進められた。こうした作業には農場内外の労力が動員され、田植えのさいには労働者向け消費物資を確保する「 闘争 」が展開された。トラクター、田植機、除草機利用にかんする記事も多い。「 農機械作業所 」は、農場に移動修理車を派遣し、トラクターの修理にあたった。化学肥料の農場への搬送、田畑への施肥を伝える記事は少なく、一例のみであった。

    7−9月 ( 表5−C )。除草、中耕、草刈り、収穫が主要な作業であった。徳川郡の農場ではひとつの作業班が刈る草の量は、1日数十トンに達した。さらに、農機具の生産・修理、トラクター部品の調達・修理、その他収穫用資材の準備に力が注がれた。そのなかで、荷車、鎌、縄、叺といった伝統的用具の重要性の大きさがうかがわれる。収穫には工場労働者が動員された。

    10−12月 ( 表5−D )。稲の脱穀・運搬、段々畑造成、河川工事、秋耕、堆肥生産、苗床製作などの作業が行なわれた。平壌市、咸州郡において脱穀が終了したのは、11月末から12月初めにかけてであった。段々畑の造成は、トラクターが入れないような急斜面においても進められた。一連の作業においてひきつづき労力が広汎に動員され、同時に各工場に必要資材、設備増産の呼びかけが行なわれた。

以上を一言で要約すると、1976年の状況は基本的に10年前と変わらなかった。有機肥料の生産、客土、田植え、除草、草刈り、耕地造成における農場および企業所・工場労働者の労働動員、農機具の準備・修理の様相は同一である。とくに有機肥料生産の記事が依然多いのに比して、化学肥料投下を示す記事は非常に少ない。農村で化学化が大きく進んだ様子はうかがえない。反面トラクターおよびその他機械関連の記事は増えた。しかし同時に、その修理、部品および燃料確保の問題を伝える記事も増えた。結局、トラクター台数は増加したが、その利用率が大きく上昇したとみることはできない。1975年において運搬作業、耕起は100%機械化されたという前記の政府発表は、誇大宣伝あるいは虚偽であるといわねばならない。11

何よりも政府は、相変わらず機械化以前の問題、すなわち中小農機具の供給問題に取組まねばならなかった。『 労働新聞 』にはしばしば、○○市の すべての 機関、企業所、工場が、糞土とともに中小農機具の生産を行ない、農村に送ったといった記事( 下線筆者 )がみられる。70年代半ばにいたっても、鎌、鍬などの生産が緊急の課題であったこと、その解決のために各工場の資材、労力が本来の生産活動以外に動員されたことを知る。これは特定の年に限らず、他の年においても同様であった。なぜそのように政府は、毎年農機具を生産し農場に送らねばならなかったのか。考えられる理由は、第1に、製品の質が劣悪で長期の使用に耐えないこと、第2に、農場員の使い方が粗雑ですぐに壊してしまうこと、第3に、農場における管理が不十分で容易に紛失、破損することである。『 労働新聞 』に、製品の品質向上、国家財産愛護、管理事業の改善を訴える主張が繰返し登場することは、この推測を支持する。たとえば、ある農場の農機具管理責任者は「 農機具登録手帳 」を考案し、さらに自宅の納屋に分組農機具倉庫を造ったことで、模範的な管理者として賞賛された。12 これは、そのような厳密な管理が例外的であったことを示唆する。

上記の機械化、化学化の遅れ、さらにこれに関連する問題の存在は、金日成自身のつぎの言葉が裏づける。

「 腐植土を多量生産する運動を大々的にくりひろげるべきである。おがくずや雑低木の多いところに腐植土工場をつくり、協同農場で稲わら、トウモロコシのからなどを腐らせて腐植土を自力で生産する運動も積極的にくりひろげるべきである 」( 1975年1月15日 );13

「 営農準備で最も重要なことは腐植土を十分に用意することである。混合糞尿土の生産を大衆的運動でくりひろげるべきである 」( 1980年3月5日 );14

「 農場では、手ぐわや鎌、からすき、シャベルなどの小農具や農薬も、管理をなおざりにして使えなくしている 」( 同 );15

「 道党委員会や農業指導機関では、田植えを5月末までに終えたと偽りの報告をした。田植えを67%機械化したというのも信じられない 」( 1980年3月26日 );16

「 今年の営農準備における主な欠陥は、トラクターの稼働率を高める対策を立てていないことである。平安南道と平安北道へ行ってみると、トラクターの稼働率がきわめて低い状態にあった。主な原因は潤滑油、部品、タイヤなどを十分に補給していないことである 」( 1975年3月31日 );17

「 協同農場ではトラックやトラクター不足で、つみごえを野良へ運びだせない状態である。報告では大量のつみごえが準備されたことになっているが、実際に野良にほどこされたのはいくらにもならない 」( 同 );18

「 稲刈り機を大量に生産して農村に送るべきである。全国的に稲作を主とする協同農場の7千2百の分組に1台ずつゆきわたるよう、稲刈り機を7千−1万台生産すべきである 」( 同 );19

「 移動式脱穀機を、稲作を主とする6百の協同農場の2千4百の作業班に1台ずつゆきわたるように生産しなければならない 」( 同 );20

「 協同農場にトラクターが不足して秋耕も満足にできない。今年は協同農場に苗取り機も十分に提供できなかったので、苗取りをほとんど手でやった 」( 1982年12月9日 )。21

このように金日成によると、1970年代以降においても稲刈り機、脱穀機の総数( ストック )がそれぞれ、数千−1万台に達しなかった。かれは上記と同じ趣旨の発言を繰返し行なっており、器材、化学肥料の不足が常態であったこと、さらにその他さまざまな隘路が生産の障害となっていたことは疑いない。22

こうした状況は、植民地期に比べて部分的には進歩していた。なぜならば1945年以前、トラクターは全く普及していなかったからである。しかし重要な点で後退した。植民地期において、鎌や鍬の調達、準備にかんして問題が生じるということは考えられなかった。また土壌の酸性化問題も生じていなかった。さらに調製、脱穀作業において、1930年代には足踏脱穀機が広く普及し、一部では動力( 火力乾燥機、脱穀機 )の利用も始まった。23 同作業が12月まで遅延するという事態も、植民地期の経験からすれば尋常ではない。