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表2 華北工場の実出資額、1939・1942年(1933年価格)
表4 華北工場の生産額、1939・1942年(1933年価格)
表11 全工業分野対象の比較データ(33年価格表示、*32年の年販売額による)
表12 紡織工業の比較データ(33年価格表示、*32年の年販売額による)
表13 食品工業の比較データ(33年価格表示、*32年の年販売額による)
表14 機械工業の比較データ(33年価格表示、*32年の年販売額による)
表15 化学工業の比較データ(33年価格表示、*32年の年販売額による)
表19 1933年全国(関内)中国資本工業生産額推計値の比較
日中戦争の期間中、日本はその占領下にあった中国華北地区の近代工業について、2回にわたり全般的な工場調査を実施した。調査対象工場数は、第1回目(調査年=1939年)が 3,157、第2回目(調査年=1942年)が 6,413 であり、工場所在地・経営者氏名・出資金額から職工数・生産量・生産額に至るまでの詳細な情報が、前者は合計 1,300頁以上、後者は合計 2,000頁以上の名簿と統計表にまとめられ、印刷されている。後述するように国民政府の下で1933年に実施され、劉大鈞『中国工業調査報告』にまとめられたデータを除き、この戦時華北工場調査に匹敵する量と質を備えた近代工業関係の統計的データは存在しない。中国における近代工業の発展過程を解明する上で、日本側調査機関による本調査の内容がきわめて重要な意味を持つことは明白である。
にもかかわらず、その精密な調査内容を検討する作業は、汪敬虞氏の貴重な研究成果(1 をほとんど唯一の例外として、中国に於ても日本に於ても、戦後の半世紀を通じて行われてこなかった。こうした事態を招いた最大の理由は、当時日本が調査結果を戦時機密として「極秘」扱いにし、戦後も適切な形で保存公開する措置をとらなかったことにある(2。 加えて敗戦前後の資料棄却ないしは隠滅工作、占領軍による戦争関連資料の接収、調査に関わった人々の沈黙など、複雑な経緯も影響したものと推測される。戦時期に行われた中国実態調査や中国研究の直接の意図は、ほとんどの場合、多かれ少なかれ侵略戦争の遂行にかかわるものであった。しかしたとえそうであったとしても、調査研究の成果自体には、科学的、客観的な中国研究にとって意味を持つものが含まれていた。調査研究者の戦争協力に関する主体的批判的総括を深めるとともに、そのような価値ある調査研究成果を拾い上げ、生かしていくことが、本来、戦後の日本の中国研究に求められた大切な課題の一つではなかったか。この調査に限らず、戦時日本の中国研究に関する全般的な総括作業は、今なお重要な課題として残されていることに留意しなければならない(3。
ともあれ幸いなことに日本の敗戦直後、汪敬虞氏をはじめとする何人かの中国人研究者らの努力によって本調査の報告書類は系統的に収集保存され、現在は二ヶ年分の工場名簿と統計表全13冊をすべて北京の中国社会科学院経済研究所で見ることができる。本稿はその調査の概要を紹介するとともに、調査精度を検討し、さらに近現代中国工業史の理解にとって本調査が意味するところについても考察しようとするものである。