4.工場規模と生産性−42年調査による華北工業分析の試み

 

 第2節の検討から明らかにされたとおり、戦時華北の工場調査のうち、とくに1942年の結果は相当な程度の信頼性を備えている、と判断される。そこで42年調査に基づき華北地域の近代工業の様子を大づかみに把握した上で、とくに工場の平均規模と生産性に着目し、劉大鈞による1933年の全国工業調査の結果(以下「33年全国調査」)と比較しながら、1942年の華北工業の実態について、ここで若干の考察を試みておくことにしたい。ただし現在のところ膨大なデータを全面的に検討するまでには至っておらず、以下に示すのはあくまで暫定的な分析結果である。

 1942年当時、華北地域における近代工業は操業工場数がおよそ6,400、資本金総額が3億1,000万元(実出資額、33年価格、換算方法は表2参照)、職工数が27万人、生産総額が4億3,000万元(33年価格)であった。地域的には、天津、並びに青島の二大工業都市の比重が大きく、両都市の数字の合計は華北地域の工場のおよそ半数、生産額のおよそ三分の二を占めている。産業別の内訳を見ると、紡織工業・食料品工業などの軽工業が主力であった。この2つの分野を中心に軽工業部門の工場数合計は全体の四分の三を越え、資本金総額では68%、職工数では72%、生産総額では78%であった。ただし機械器具・金属・化学の重化学工業部門に分類できる工場数も、合計すると全体の四分の一近くに達しており、決して少ない数ではない。

 次に工場の平均規模と生産性に着目した分析を試みてみることにしよう。ただし42年華北調査を33年全国調査と比較する場合、両調査の対象と集計方法の相違について改めて整理して理解しておくことが望ましい。両調査の相違点を整理すると下記の表9表10のようになる。

 要するに、42年調査は対象を広くとっているが地域的に限定され、33年調査は逆に地域的な限定はほとんどないが調査対象が中国資本の中規模以上の工場に限られているのである。ここでは、地域的な偏差は小さいものと仮定し、両調査の対応関係がほぼ確認し得る工業分野を選び、比較検討を進めていく。

 まず全工業分野の総額で工場の平均規模と生産性を比べてみよう。なお生産性の指標としては労働者当り年生産額に着目する。生産設備に対する投資金額のデータが欠けており、それに関連する生産性指標を算出するのが、さし当たり困難なためである。出資額当り年生産額の比率は参考までに掲げたに過ぎない。

 平均規模は42年調査の方が33年調査を下回り、生産性も42年調査の方が33年調査を下回っている。すなわち全工業分野対象のデータで見た場合、「規模の経済」が成り立つわけであり、両調査の結果は相応するものになっているといってよい。なお上記の調査対象の相違により、42年華北調査は33年全国調査に比べ小規模な工場を数多く含んでいる。したがって、42年調査における工場平均規模が33年調査より小規模化することは、統計上、妥当性をもつ結果である。

 以下、工業分野別のデータを比較していく。紡織工業の場合、33年調査に於ける「10.紡織工業」並びに「11.服用品製造業」の合計と、42年調査に於ける「1.紡織工業」とが比較の対象である。

 紡織業の場合、平均規模は42年調査が33年調査を下回るのに対し、生産性は逆に42年調査が33年調査を上回るという結果になっている。この現象に対しては2つの解釈が可能であろう。すなわち、@ 元来、紡織業の場合、綿紡績工場のような大規模工場よりも捺染加工綿布工場のような小規模工場の方が付加価値が大きかったため、小規模工場をより多く含む42年調査の方が高い生産性を示す結果になった、

A 戦時期にも紡織業は他産業より高い操業率を維持していたため生産性も高くなった、の2つの解釈である。あるいは2つの要因が重なっているのかもしれない。

 次に食品工業をとりあげる。

 食品工業についてみれば、平均規模も生産性も、42年の数値が33年の数値を下回る結果になっており、「規模の経済」に反する現象は生じていない。ただし生産額で20分の1以下、労働者数で10分の1以下と、42年の数値に著しい規模縮小化が認められるのは、なぜなのだろうか? 可能な解釈としては、@元来、食品工業に存在していた多くの小規模工場が、42年調査によって初めて広くカバーされ統計に組み込まれた、Aたとえ職工数10人未満であっても電動力さえ使っていれば対象工場にする、という42年工場調査の規定も、食品工業で多くの小規模工場を対象に含む一因になった、B食品工業は戦時経済の影響を大きく受け、他産業より小規模化する傾向が強かった、などの説明を提示することができる。恐らく、3つの説明の何れもが、42年の著しい規模縮小化に関係していると考えた方がよいであろう。

 以上の繊維及び食品工業は軽工業部門に属する工業分野であった。それに対し重化学工業部門では、どのような状況がみられるだろうか。まず機械工業について。

 機械工業の場合、平均規模・生産性ともに42年の数値の方が33年を下回っており、統計的に妥当な結果を示している。また、よく注意してみると、規模の縮小化は、労働者数でみても、出資額でみても、およそ4割減程度にとどまっており、全分野平均の8割減(労働者数)ないし7割減(出資額)に比べ、小規模化の程度が小さくなっている。機械工業においては小規模工場が元来少なかったため、調査対象を小規模工場にまで拡大しても、それほど大きな影響がでなかったのかもしれない。あるいはまた33年〜42年に機械工業が発展し、規模を拡大した工場が多かったのかもしれない。

 もう1つ、重化学工業部門に属す工業分野から化学工業をとりあげておこう。

 化学工業の調査結果を比較すると、平均規模は小さくなっているにもかかわらず、労働生産性については、42年の数値の方が33年の数値を上回るという興味深い結果を示している。あるいは33年〜42年に化学工業が発展し、労働生産性を向上させた工場が多かったのかもしれない。

 もし以上の議論が成り立つならば、1つの可能性として、33年〜42年という期間をとった場合、軽工業部門よりも重化学工業部門の方が高い成長率を示していたという見通しを持つことができる。軽工業部門を上回る速度での重化学工業部門の成長は、恐らく、戦時経済の進展と密接に関わっているものと思われる。無論この期間を通じ、中国の工業構造を全体としてみると、後でも触れるように軽工業部門が主力であった。しかしその変化の方向について言えば、重化学工業部門の比重が上昇しつつあった、ということになる。これは、その後の中国の経済発展の傾向を考える上でも、重要な論点になるであろう。