2. 調査の精度

 

 この工場調査は膨大な量の数字を整然と並べており、相当に信頼できるものという印象を与える。しかし当然のことながら、この調査の精度自体については、独自に検討されなければならない。そのためには2つの方法が考えられる。1つは他の信頼できる工業調査類と比較検討することであり、いま1つは、39年調査と42年調査とを比較検討してみることである。幸い前者の点についていえば、1938〜39年に実施された満鉄北支経済調査所による青島・天津・済南・芝罘・県・山西の4市1県1省に関する工場実態調査報告書が存在するので(以下満鉄調査と略称)、これと照合しながら考察していくことにしたい。ただしこの満鉄調査と本稿でとりあげる戦時華北工場調査の間にはやや入りくんだ関係があり、39年調査においては天津が除外され、満鉄調査の方を参照するようにとの指示が記されている。これは恐らく租界問題をめぐる紛糾などの影響から、天津における39年調査の実施を回避したためと思われるが、いずれにせよこの点についても独自の検討が必要となる。

〔1〕 満鉄調査との比較検討−1939年の青島を例にして−

 満鉄調査は1939年7月に実施された。したがって39年12月末日の時点の数字を集計した同年の戦時華北工業調査とは半年間のズレがある。そのことを念頭においた上で、満鉄調査と39年調査とを比較検討してみた(表5参照)。工場数でおよそ300、実出資額でおよそ1,700万元、常時職工数でおよそ6,000人の差があり、いずれの場合も満鉄調査よりも、戦時華北工場調査の方が多い数値を示している。その理由は恐らく比較的単純なものであろう。すなわち、満鉄調査においては調査対象から漏れていた業種や工場が、戦時華北工場調査においては捕捉されたためと判断される。業種名をあげると、製薬業・大豆油製造業・製紙業・煉炭製造業(以上は化学工業に分類)、ガラス製造業(窯業)、中国酒製造業・味噌醤油醸造業(食料品工業)、木製品製造業(製材及木製品工業)、裁縫業・履物製造業(雑工業)などがそれに該当する。また業種ごとにいうと、製粉業における「電動機を使用する磨坊」、金属・機械器具工業における「資本金1,000元以下の工場」などが、満鉄調査では除外され、戦時華北工場調査では捕捉されている。いずれも「電動機使用もしくは10人以上の職工雇用」という戦時華北工場調査の基準の中に入るべき存在であり、同調査の精度の高さを示す事実といってよい。

 一方、満鉄調査において記録されているにもかかわらず、39年調査においては除外されているものも若干存在する。浦賀船渠青島工廠(39年当時の名称、軍管理の下、浦賀船渠に経営委託。元来は中国海軍の青島造船廠)、頤中煙草(軍管理、元来は英米タバコグループ中の1社)、永裕塩業公司小港精塩工場、日本酒醸造工場の一部、レンガ製造工場の一部などがそれに該当する。このうち最後の2つの工場群は、前記の39年調査の基準を満たさない存在であり、とくに注意する必要はない。しかし前にあげた3工場、とくに浦賀船渠青島工廠(資本金200万元、職工数660人)と頤中タバコ(資本金300万元、職工数2,000人)とは、きわめて大きな近代工場であって、当然39年調査に含まれるべき存在である。実際、両工場とも42年調査では、調査対象に含まれている。確証はまだ得られないが、恐らく、39年調査においては、軍管理工場を除外したのではないだろうか。いずれにせよ両工場と永裕塩業公司の工場が含まれていないことは、39年調査の精度を低めている。

 なお一部の業種について、満鉄調査と39年調査の産業分類に不一致が見られる。だがこれはもちろん39年調査の精度を損なう問題ではない。

 以上、満鉄調査と比較検討した結果を総合的に見るならば、戦時華北工場調査の精度は相当に高いといってよいように思われる。ただし、軍管理工場など、修正を要する部分も若干認められるので、修正作業を試みてみた(表6参照)。出資額と工場数で7%の上方修正となる。

〔2〕 39年調査と42年調査の比較検討−北京の食料品工業を例にして−

 39年調査の工場総数3,157と42年調査の工場総数6,413の間には大きな開きがある。もしこの3年間に工場数が2倍以上も実際に増えているならば、この時期の工業発展は大変なスピードであったことになる。しかしいうまでもなく日中戦争の最中のこの時期、日本の占領地経営は様々な障害に直面しつつあったのであり、工場数のこれほどの激増があったとは考えにくい。この点も、調査精度について慎重な検討が必要だと思われる理由のひとつである。

 そこでここでは、もっとも工場数の伸びが大きくなっている北京を例にとり(表1参照、157→591)、その中でもとくに伸びが大きい食品工業(同、12→127)について、工場名・所在地・工場主名・設立年などに関する39年調査と42年調査のデータを照合してみた。42年調査の工場名簿をベースにし、「39年以前の設立と記載されているにもかかわらず39年調査には掲載されていない工場」を拾いあげていくというのがその方法である。42年調査は「39年以前に設立されながらも40年以降に閉鎖された工場」を集計していないし、逆に「39年以前に設立され、40年以降にモーターを設置するか、もしくは10人以上の労働者を雇用するようになった工場」を集計の対象にしているという2つの点において、必ずしも39年調査の内容と完全に照応するものではない。そうした限界を念頭に置いた上で検討を進めたい。

 表7によれば、北京の食料品工業の工場数は1939年の12から42年の127へと3年間で10倍以上に増えたことになっている。しかし上記の方法により42年調査に記載された工場設立年にもとづき整理してみると、実は42年調査にある127工場中101工場までが1939年以前に設立されたものであった。42年調査と39年調査の工場名簿によって工場名を照合したところ、その101工場中 11工場しか39年調査には記載されていない。すなわち39年調査は、北京の食料品工業の場合、1割程度しかカバーしていなかった。42年調査に即して換言するならば、127工場のうち7割の工場は実際に1939年から42年の間に増えたものではなく、統計の対象として新たに捕捉されたものにすぎない。出資額に即してみても42年調査の4割近くが実際の増加を示すものではなかったことになる。

 以上の検討は、あくまで42年調査をベースにした作業であり、前述したような限界をもっているとはいえ、39年調査の精度に相当の問題があることを示している。したがって39年調査と42年調査の単純な比較にもとづき、この間の工業発展などを論じるのは、あまり意味がないと考えられる。むろん、39年から42年の間にある程度の工業発展が見られたことは恐らく事実であり、39年調査の精度に留意するならば、その発展の内容や程度についても認識を深めることができるであろう。一方、42年調査が39年調査に比べかなり精度の高いものになっている可能性も、認められてよい点だと思われる。

〔3〕 天津の39年データ問題

 この節の冒頭でも触れたとおり、39年調査においては天津の分が調査されておらず、満鉄調査を参照するようにとの指示が記されている(8。 ところがこれが実は大きな問題を含んでいる。というのは天津の工場に対し、満鉄調査が実施された時期は1938年11月27日から同年12月20日までのことであり(9、当然のことながらその際に収集されたデータは、1938年のものであって1939年のものではありえないからである。しかも同調査は工業分類の方法や調査対象工場の選択基準などにおいて後述するように戦時華北工場調査とは相異するところがある。加えて、満鉄調査は「調査期間の短時日なりしと、たまたま租界問題の緊迫せるに因り、十分なる成果を得られなかった事は甚だ遺憾である。殊に部門により精粗不均一なるは全般的に見て甚だ不本意……」(10と調査者自身が弁明せざるをえなかったほど、不完全な部分がある。

 したがって、満鉄調査の結果を戦時華北工場調査における天津の39年のデータとして利用するためには、慎重な修正作業が必要とされる。前掲の表1〜4においては、とりあえず工業分類の方法を戦時華北工場調査にあわせて訂正しただけの数値を掲げておいた。それでは天津の39年データを得るためにはどうすればよいだろうか。1つの方法は、戦時華北工場調査における42年調査のデータにもとづき、39年以前に設立された工場のリストを作成し、満鉄調査と照合しながら、統計を再編成していくことである。しかし、これを全工場に関して実施するのは、大変な労力と時間を必要とする。そこで本稿においては、中分類の業種別に満鉄調査の工場数(M)と42年調査における39年以前設立の工場数(S)とを比較し、(1) M≦Sの場合はSの数値を採用、(2) M>Sの場合は個別の工場ごとに検討し、満鉄調査のみにあって42年調査にはなく、しかも42年調査の基準(戦時華北工場調査のモーター使用もしくは労働者10人以上雇用)を満たしていると判断される工場の数のみ Sに加算、という原則によって統計を再編成してみた。なお、このような方法では満鉄調査時点では存在したが、39年 1月〜11月の間に閉鎖された工場なども集計の対象になってしまうため、必ずしも正確な数値を得られるわけではない。しかし、他に適切な方法がない以上、全体的な傾向を把握するためには有効なものだと思われる。

 以上の作業の結果は表8に集約されている。満鉄調査(M)では850工場、42年調査(S)における39年以前設立分が1,171工場だったのに対し、本稿の修正作業の結果は1,292工場となった。具体的に主な修正点を列挙しておく。

@ 綿糸紡績:Mは開業予定を含む数なので採用しない。

A 綿織物、人絹織物:綿と人絹の交織布を多く製造していた工場については、Mは それを人絹織物業として集計し、Sは使用原料の比率によって区分し集計したと判断される。MよりもSの合計値の方が多いので、前記原則の(1)に従いSを採用する。

B その他紡績工業:Mが絨氈製造工場を集計しているのに対し、Sはそれを手工業とみなしたためか、あるいは1942年には輸出困難のためほとんどが閉鎖されていたためか、全く集計していない。前記原則の(2)に従い、Mの工場リスト中、Sの基準に該当する工場を集計した。

C 金属工業、機械器具工業:MとSの業種区分が異なるため、各工場ごとのデータを検討し、原則(2)により、Sを基礎にしつつ、Mにしかない工場でSの基準に該当する工場を加えた。

D ガラス製造業:Cに同じ。

E レンガ製造業:Mが 小規模な手工業レベルの工場も集計しているのに対し、Sはそれを除外している。モーターなどの動力を用いておらず、労働者数も10人未満であるため、原則(2)によりSを採用する。

F 染料製造業、塗料、顔料製造業:Cに同じ。

G 製革業:Eに同じ。

H 食料品工業(缶詰製造業を除く):原則(1)により、Sを採用する。

I 缶詰製造業:Eに同じ。

J 木製品製造業:Hに同じ。

K 雑工業(その他雑工業を除く):Hに同じ。

L その他雑工業:Cに同じ。

 本稿で試みた統計の再編成作業が妥当なものであるならば、天津の39年データとして満鉄調査を利用した場合、工場数において全体のおよそ三分の一程度の誤差が生じることになる。これも39年調査の精度を判断する材料の一つである(11

 以上、3つの角度から、戦時華北工場調査の精度について考察した結果をまとめてみよう。満鉄調査との対比においては、39年調査・42年調査ともに相当の精度を備えていたとはいえ、両者を比較検討してみると、地域と工業分野によっては39年調査のカバー範囲がきわめて狭い場合があったことは否定できない。また39年調査の天津のデータとして満鉄調査の結果を用いることにも大きな問題が存在する。要するに戦時華北工場調査のうち、39年調査を用いる場合は慎重な配慮が必要である。

 それに対し42年調査はきわめて高い精度を備えた工場調査であった。こうした評価は、調査に関わった当事者の一人岡崎次郎自身が「華北ニ於ケル斯ル大規模統計調査ノ最初ノ試ミトシテ特筆ニ値」し、「数個ノ前提条件ノ考慮ノ下ニ於テハ、工

場工業概観ノ資料トシテ充分ノ利用価値ヲ有スル」工場実態調査の「最終ノ業績」として、この42年調査を挙げていたこととも一致する(12。岡崎によれば、42年調査以前にも華北地域の工場統計が「種々ノ形デマトメラレテアルガ、何レモ充分ニ包括的デハナイ」ものだった。

 なお岡崎は同じ文章の中で、戦時華北工場調査の「調査方法ソノモノノ誤謬トシテ反省サレル点」として、次のような興味深い指摘を残している。「〔業種ノ分類方法〕日本ノ官庁統計ニ拠ッタコトハ、生産品種ト生産技術トヲ異ニスル所ノ多イ華北工場ノ実情ニ適シナカッタ」、「〔調査対象工場〕職工10人以上ト言フ規模ニ置イタコトハ、零細経営ガ生産額ノ大キナ部分ヲ占メル華北工場ノ全体ノ概観ニハ不適当」だった、「〔調査表〕発展段階的ニ異ナル各種ノ経営形態ノ混在セルニモ拘ラズ、日本的形式ノ同一様式調査表ヲ用ヒタコトモ、種々ノ無理ヲ生ゼシメ、事態ノ精確ナ把握ヲ妨ゲタ」。以上の指摘、とくに業種分類と調査表の問題は、日本で有効だった方法を、そのまま中国へ直接持ち込んだところに端を発しており、戦時期日本の中国研究全体にも通じる重要な問題を提起していると思われる。ともあれさしあたり我々が42年調査を使用するに際しては、こうした点にも注意しておくようにしたい。