1.概要

 

〔1〕 第1回の調査は1940年(昭和15年)、北支工場調査委員会(興亜院華北連絡部政務局調査所内)によって実施された。同委員会を構成したのは多田部隊(=北支派遣軍)参謀部、興亜院華北連絡部政務局調査所、日本大使館経済部、満鉄北支経済調査所、北支那開発株式会社、華北交通株式会社資業局、株式会社興中公司の7つの機関であり(4 恐らく、戦時経済力調査の一環として、軍の指揮と興亜院の調整の下、満鉄などから派遣された相当な数の調査マン達が協力して調査集計したものと思われる。「思われる」と、はなはだあいまいな表現しかできないのは、印刷物に調査の実施過程が明記されていないためである。恐らく今後、当時の文書史料が利用できるようになった時、より具体的に明らかにできるはずである(5

 調査地区は、当時の北京と青島の2特別市、並びに河北(但し北京・天津を除く地域)・山東(同じく青島を除く)・山西・河南(但し隴海線以北の北部のみ)・江蘇(同じく隴海線以北の北部のみ)の5省。要するに占領地支配に際し、日本が華北と区分した地域に限られる。

 天津については満鉄北支経済調査所が独自に実施した別の調査を参照するようにとの指示が工場統計各巻の凡例に記されている(6。しかし ここには実は大きな問題がある。というのは、元来満鉄の天津工場調査は1938年11月から12月にかけて実施されたものであって、1939年のデータとして採用するにはそもそも無理があること、満鉄の工場調査と北支工場調査委員会の工場統計との間には調査項目や調査方法に相違があるからである。これらの点については第2節で改めて検討したい。

 調査の対象時期は1939年(暦年)の1年間とされ、労働者数など特定の時点に関する調査項目は、1939年12月末日現在のデータが採用された。

 調査の対象工場については「電動機ヲ有スル工場及10人以上ノ職工ヲ使用スル設備ヲ有シ又ハ常時10人以上ノ職工ヲ使用スル工場ニシテ学校慈善団体等ノ直接営利ヲ目的トセザル工場ハ之ヲ除外セリ」とされた。この規定のもつ意味は重要である。なぜなら、劉大鈞らの『中国工業調査報告』の方は基本的に(ここで「基本的に」というのは同報告の上冊・中冊で扱われる基本的データはという意味であり、実は下冊では 別の基準が採用されている(7)中国工廠法適用工場を対象とし原動力を使用し、かつ30人以上の労働者を雇用する工場に、調査対象を限定していたからである。したがって当然、戦時華北工場調査の方が対象工場数は多くなる。この点についても、後で改めて論じることにしたい。

 調査項目については残念ながら、凡例に書かれている「北支工場調査委員会ノ調査要領」なる文書を見い出せないため、正確なことは判明しない。しかし残された名簿と統計表から判断する限り、次のような相当に詳細な情報が調査された。

 ・工場の住所、工場主名、創業年、企業形態

 ・従業者数(職員・職工・同見習工別、国籍別、男女別)

 ・資本金額(公称資本金、払込資本金、実出資類)

 ・生産額、販売額、在庫額(主要品目別、資本国籍別)

 ・従業状況(作業日数、時間、賃金)

 ・原材料使用額(品目別、産地別)、燃料使用額、原動機台数・馬力(種類別)

 ・主要生産設備台数

 工業の分類について。ILOの工業分類に準拠した劉大鈞調査の分類とは異なり、下記のように日本国内の統計調査に準じた工業分類が採用された。1930年代に実施された東北地域での工場調査でも、同じ方針が採用されたようである。調査者たちが慣れ親しんでいたという事情に加え、そうした統計の方が日本を中心とした戦時経済体制の整備に活用しやすい、と判断されたためであろう。

 T紡織工業、U金属工業、V機械器具工業、W窯業、X化学工業、Y食料品工業、Z電気工業、[ガス工業(実際には華北地区にないため項目自体省略されたことも多い)、\製材及木製品工業、]印刷及製本業、]T雑工業

 第1回の調査結果は2つの文献にまとめられた。

北支工場調査委員会編『華北工場名簿 昭和14年』 1941年、273頁。

北支工場調査委員会編『華北工場統計 昭和14年』 1941年、全5冊7巻、1095頁。(第5・6・7巻が一冊に合本されている)

〔2〕 第2回の調査は1943年(昭和18年)5月から10月にかけ北支軍参謀部(但し印刷後に墨で塗り消され、「甲第一八〇〇部隊」という暗号名を印刷した紙片が貼りつけられた。表紙の当該個所の紙片がはがされ、墨が多少削りとられているので、以上の事情が判明する。)と「在北京大日本帝国大使館事務所」の協力によって実施された。第1回とは異なり工場調査委員会という組織はとくにもうけなかったようである。但し名簿及工場統計の「序言」に、「実態調査及之ガ調査結果ノ集計整理ニハ、在天津日本総領事館、満鉄北支経済調査所、北支那開発株式会社調査局、華北交通株式会社資業局ノ調査員ヲ軍嘱託トシテ動員従事セシメタリ」とあり、実質的には、第1回に近いメンバーで調査集計が進められたものと推測される。

 調査地区は、天津が加えられたほか、第1回と全く同じである。

 調査対象時期が1942年(昭和17年)となっているほか、調査対象工場の規定や調査項目、工業分類等にほとんど変更点はない。但し企業形態に「軍管理」という項目が新設され第1回調査よりも正確な把握が可能になった。なお第1回調査においては、軍管理工場も軍管理経営委託工場も全く記載されていないようである(前者の例は青島の頤中煙草工場、後者の例は浦賀船渠青島工場=旧中国海軍青島造船廠)。

 第2回の調査結果は下記の2つの文献にまとめられた。なぜ第1回目の時は「華北」とし、第2回目の時は「北支」としたのか、やや興味をひく点であるが、とくに説明はされていない。

 北支軍参謀部・在北京大日本帝国大使館事務所『北支工場名簿(昭和18年度調査)』1944年、553頁。

 北支軍参謀部・在北京大日本帝国大使館事務所『北支工場統計 昭和18年』1944年、全6冊8巻、1518頁(第6・7・8巻が一冊に合本されている)。

 以下記述の便宜上、第1回の調査の集計結果を「39年調査」、第2回のそれを「42年調査」と呼ぶことにする。なお39年調査と42年調査を比較しやすい形にまとめておく(表1表2表3表4)。これは膨大な調査結果の中の一部分だけを要約したものに過ぎない。