5.国民所得推計作業との関連性

 

 それでは、戦時華北工業調査並びにそれを独自の基準で再整理した汪推計を用いることによって、近現代中国の国民所得推計を軸とする長期経済統計の編纂作業、とくに近代工業の発展過程を統計的に把握する作業にとって、どのような成果を見込むことができるであろうか。

 まず第1に、劉大鈞による1933年の全国工業調査と比較することにより、1933年から42年にかけての華北における工業発展を、工場数・投資額・労働者数・生産額などの数値に依拠し、業種別・地区別に考察することが可能になる。本稿第4節の分析も、そうした試みの一つに位置づけられるであろう。なお中国工廠法適格工場のみの数字を、同法の工業分類にしたがって再整理した汪推計は、この点において大きな意義をもつ。ただし劉大鈞の工業調査の統計のうち、もっとも信頼性の高い中冊の統計表は「華北」という地域での集計作業をおこなってはいない(16。したがって汪推計をこれと比較するためには、劉の調査をあらかじめ整理しておく必要があり、汪敬虞氏自身、それを行っている(17

 第2に戦時華北工業調査・汪推計・劉大鈞の工業調査の3者を総合的に考察することにより、1933年及び1942年時点における中国の近代工業の全体像について、その輪郭を把握することが可能になる。すなわち先にも触れたとおり劉大鈞による1933年の工業調査は、きわめて精度の高い全国的な調査だったとはいえ、実質的には大規模・中規模工場に限定される中国工廠法適格工場しか精度の高い統計表(中冊所収のもの)の対象に含めなかったため、近代工業の全体像の把握を困難にさせている。それに対し1942年の戦時華北工業調査は、地域的に限定された調査だったとはいえ、やはりきわめて高い精度で、しかも小規模工場も含む広範囲の近代工業を捕捉するものであった。すでに第3節で述べたとおり、汪推計はそのうちの中国工廠法適格工場のみを、したがって実質的には大規模・中規模工場のみの数値を集計したものである。

 したがってこの3系列の統計のそれぞれの特徴を生かし、全国的な工業生産額の推計を試みることが可能となる。すなわち@近代工業全体の中において華北地域の工業が占める比重は1933年(但し中国資本工場のみ)・1942年(外資系工場を含む)とも同一、A近代工業全体の中において中国工廠法適格工場が占める比率は1933年(但し中国資本工場のみ)・1942年(外資系工場を含む)とも同一、B1933〜1942年の成長率は全工場とも同一、という3つの仮定を置くならば、次のような作業によって1933年及び1942年における中国の近代工業の全体像を描いていけるであろう。むろん@Aの仮定はかなり強引なものであるし、Bの仮定は第4節で得た見通しと異なっている。汪推計にも本稿第3節で検討したような問題点が含まれている。そうした限界に留意し、あくまでも暫定的な試算として、以下の推計を提示しておく。

 1942年の華北工場調査を中国の国民所得推計に利用しようとする場合、次の2つの方向性が考えられる。その1つは、劉大鈞による1933年の調査において華北地域の工業生産が全国の工業生産の中で占めていた比率は1942年にも同一であったと仮定し、1942年華北工場調査の数値をその比率で除して、1942年の全国工業生産額を推計しようとするものである。その結果は下記の表16に示されている。

 すなわち本推計Tは巫宝三推計より3割近く多くなっているが、牧野・久保推計 並びにLiu & Yeh 推計との差は小さく、いずれも数%程度のズレにとどまっている。もう少し厳密にいうと、牧野・久保推計よりは8%多く、Liu & Yeh 推計よりは3.5%少ない、というのが本推計Tの位置である。

 1942年の華北工場調査を中国の国民所得推計に利用するもう1つの方向性は、42年華北調査の工場規模別比率を算出するとともに、その比率によって中国資本の中・大規模工場のみの調査となった33年全国調査の数値を修正し、小規模工場も含めた33年の全国工業生産額(但しこの場合は中国資本工場のみの値となる)を求めるものである。42年調査における工場規模別の数値としては、さしあたり汪推計を大規模・中規模工場の数値として用い、42年調査の結果を小規模工場も含めた数値として用いることにする。その結果が下記の表18である。

 すなわちこの方法で比較してみた場合、本推計Uは巫宝三推計より4割近く多くなるが、牧野・久保推計よりは10%多く、Liu & Yeh 推計よりは 5%少ない、ということになる。

 すでに別稿で指摘したとおり、巫宝三推計には過小評価している傾向が、一方、Liu & Yeh 推計には過大評価している傾向が認められた。そこでこのギャップを埋めようとして作業を進めた結果、得られた数値がさきの牧野・久保推計であった。そのような経緯を念頭に置いて表9表11の比較結果を見てみると、牧野・久保推計を 8ないし10%程度上方修正した数値が、1933年の中国近代工業生産額として最も妥当な推計値だと言えるかもしれない。

 なお以上の結果は、統計の信頼性という別の面においても重要である。なぜなら、牧野・久保推計の基礎となった劉大鈞の1933年全国工場調査、1942年華北工場調査、章長基が作成した工業生産指数、南開大学経済研究所と支那問題研究所が編纂した天津物価指数という4系列の統計が、相互に関連しあう意味のある数値になっていることが示されたからである。我々が国民所得推計を行う場合、少なくともこの4系列の統計の当該時期の数値については、相当の信頼性を置いてよいことが確認されたものと言えよう。

 そのほか戦時華北工業調査の結果を活用できる領域として、近代工業の発展過程を統計的に把握するための工業生産指数の編成作業も検討に値する。工業生産額に関する限られたデータをもとに、全般的な工業生産指数を編成していくためには、工業分野別の生産額の比率が不可欠になる。しかし従来、多くの研究者によって用いられてきた Chang, John K.(章長基)の工業生産指数は、劉大鈞による1933年の全国調査の結果だけを、そうした比率の材料にしたものであった。工業生産の構造的な変化が進行しつつあったことを考えるならば、1933年時点の比率だけで同指数を編成することには、当然無理がある。他に適切な材料を見いだせなかったための、やむを得ざる選択であった。戦時華北工業調査の結果をこの方面にも活用できるならば、新たな工業生産指数を編成することが可能になるであろう。