4.農業の位置

 

(1) 通常、金日成政権の経済政策の特徴は重工業重視にあるといわれる。この見解は、全く誤りというわけではないが正確さを欠く。既述のように、金日成は早くから工業とともに農業の重要性を強調し、以後もその方針は変わらなかったからである。とくに穀物生産の増大は、かれにとって第1とすらいえる目標であった。それは「 米は社会主義である 」というかれの言葉に端的にあらわれている。じっさい金日成は1960年代には、穀物総生産800万トン、70年代には1,000万トン、さらに80年代には1,500万トンを目標に掲げ、それぞれ「・・・万トン高地占領 」と呼んで目標達成を国民に督励した。

周知のように農業発展には3つの方向がある。(@)耕地の拡大、(A)土地生産性の向上、(B)労働生産性の向上がそれである。24 金日成が採った政策は、この3方向への同時発展であった。植民地期以来、北朝鮮には大規模な開墾可能地は存在していなかった。そのため金日成は、段々畑の造成、干潟の干拓を推進し(@)の実現を図った。○○郡では100町歩耕地造成目標達成といった『 労働新聞 』の記事はその例である。25 耕地拡大政策は徹底的に実行され、畦への作付奨励、住宅の移転 − 畑の中にある住宅を山麓に移転させ、跡地を耕地に転換する − にも及んだ。26 (B)についてはつぎの点に留意する必要がある。すなわち金日成政権は重工鉱業成長、軍隊の強化、政治的建築物の建設等のために多くの非農労働力を必要とし、その結果経済全体の労働力不足が深刻化した。27 その解決のために農業部門において労働生産性向上を実現せねばならなかった。農村の技術革命はこのような3方向への発展の原動力であり、なかんずく機械化は(@)、(B)、化学化、水利化は(A)を実現する重要な手段であった。

しかし前節の実態観察が示すように、機械化、化学化は容易に進展しなかった。そこで金日成は、(B)を犠牲にし(@)、(A)を実現すること、すなわち一層の労働力動員による耕地拡大、土地生産性増大を図った。具体的には、個々の農業労働者の労働時間延長、および非農部門労働者の農業労働への動員が行われた。前者を示すのは、労働者の休日の少なさ、および1日の実質的労働時間の長さである。28 後者については非農労働者によるつぎの活動があった。第1は、田植え、除草、草刈り、収穫などの農作業および耕地開墾、灌漑工事への従事である。これは恒常的、大規模に行われた。この点について1964年に当時の第1副首相金一は、「 緊張した 」労働問題を解決するために、労働者、事務員、青年、学生、軍人が毎年、農村に数千万「 工数 」( 作業日あるいは労働点数 )の労力援助を与えたと報告している。29 こうした労働者には都市に在住しそこから動員される労働者と、もともと農村に在住する非農労働者の両者が含まれた。金日成政権は朝鮮戦争以来、工場の地方分散をすすめ、とくに58年の党中央委員会全員会議において、地方工業の大々的な建設を打出した。30 これには、生産施設を全国に分散し国防に備える、地方の物的資源( 繊維原料など )を最大限利用するという2つの大きな理由にくわえ、工業労働力を同時に農業にも利用するという意図があったと考える。31 すなわち、都市に工業を集中させると、農業への労働動員において移動、宿泊といったコストが加わる。農村に工場を建設すればこれを避けることができた。32

第2は「 自給 」肥料生産である。すでにみたように金日成は、化学肥料の不足を在来肥料で補うために、農場のみならず全国の各企業所、工場、さらに一般家庭にその生産を課した。原料には人糞、枯葉、泥土、灰などあらゆる有機廃物が利用された。33 元来農業部門内で自給する在来肥料の生産に非農労働者が参加したという点で、こうした活動は、非農労働者にたいする農業労働動員と異ならない。

第3は企業所、工場の敷地内、あるいはその周辺における農作業である。これは非農労働者が本業のかたわら、主として副食物( 野菜のほか調味料原料、畜産物 )生産に従事するものである。中央政府は全般的な食糧不足に対処するために、こうした生産活動を各機関の「 後方供給事業 」として、建国以後早い時期から積極的に奨励した。34 その基本方針は、米、生活・作業必需品( 布、衣服、ゴム靴、石鹸等 )を「 国家唯一供給通路 」によって保障し、それ以外の消費物資(「 人民消費品 」)を各地方さらには各企業所、工場で自ら生産、供給する体系を築くというものであった。35 この目的のために各機関には「 後方供給部 」がおかれ、その下に食糧部、副食物供給部、住宅管理部、便宜施設部等が組織された。「 後方供給部 」は周辺に「 副食生産基地 」を造成する一方、山菜採取などの運動展開の責務を負った。36 こうした農業生産は、軍隊の駐屯地においても行なわれた。37

国家による農業労働動員にくわえ、きわめて限定的ではあるが個人による公認、非公認の私的農業労働も存在した。各耕地は家庭菜園程度とはいえ、おそらく労働投入は少なくなかった。これらを総合すると北朝鮮経済における農・工の比重は、一見するより大幅に農業に偏っていた。この点は北朝鮮経済を正しく理解するうえで、重要な意味をもつ。

表4( A.1-3月B.4-6月C.7-9月D.10-12月 は北朝鮮政府が公表した全国就業者比率を示す。一般の解釈では、同表の国営企業労働者は工業就業者、事務員は行政サービス就業者、農業労働者は農業就業者、協同組合労働者は手工業就業者を表わす。これによると、農業就業者比率は1960年代初に50%を割り、その後約20年間にさらに半減した。他方この間に工業就業者比率は全体の過半を占めるに至った。こうした数値は通常、北朝鮮における非農化、工業化の進展の根拠とみなされる。この考えは正しいであろうか。通常、産業の規模を比較するうえでもっとも適切な方法は、各産業が生み出す付加価値を計測することである。しかし北朝鮮は非市場経済であり、かつ極度に統計が不足しているため、この方法は適用しがたい。そこで次善の方法として、労働の産業間配分に注目する。北朝鮮においては、単純労働にもとづく労働集約的生産方法が支配的である。この下では、各産業における労働投下量( man-hour )によって産業規模を測ることができる。38 データの制約のために実測は不可能であるが、上述の議論は、労働配分が上表の就業者比率と大きく異なることをつよく示唆する。すなわち、同比率は金日成が強制的に国営企業就業者を増やした結果であり、産業構造を正しく示さない。39 建設事業をその目的に応じて農業あるいは工業に含めれば、1960年代において農業への労働投下量が全体の過半を占めたこと、したがってこの基準の下で、農業が経済の主要産業を構成したことは確実である。その後、耕地拡大が進められた反面、農業労働生産性が停滞または低下した可能性が大きいから、農業労働が依然全労働の主要な割合を占めたと考える。1982年、金日成は「 全国の農村支援者に送る感謝文 」( 春期の営農作業と干害防止作業を成功裏に終えたすべての労働者、事務員と軍人学生・生徒に送る文 )のなかで、つぎのように述べた。

「 全党、全国、全人民が 総動員 して農村を力強く支援するのは、わが党の一貫した方針である 」( 8月11日、下線筆者 )。40

この言葉は、金日成政権下における農業部門の大きさを端的に表わすものである。

以上の議論は図1のように整理しうる。同図は各産業の規模と中央、地方の担当( 責任 )範囲をそれぞれ、四角の面積と白地・斜線によって表わす。農業、ついで重工鉱業の規模が大きく、その反面軽工業は小さい。また北朝鮮においては対個人サービス業がほとんど存在しない( したがって図示していない )。この2点は北朝鮮住民の消費生活の貧しさを象徴する。中央、地方の関係については、重工鉱業の大半と穀物生産は前者、その他は後者の管理下にあることを示す。41

 

(2)北朝鮮は気候、風土の点で農業生産に必ずしも適しない。反面鉱物・動力資源は豊富であり、この点で鉱工業生産に有利である。植民地期朝鮮において南農北工と呼ばれる分業関係が南北間に成立していたのは、こうした状況を反映する。それにもかかわらず北において金日成は、なぜ一貫してつよく農業生産とりわけ食糧穀物−糧穀の生産に固執したのであろうか。従来この点はほとんど議論されていないが、その理由をさぐることは、北朝鮮の政治経済を特徴づけるうえで不可欠であると考える。

まず第1に留意すべき点は、朝鮮の長い歴史において米を十分に摂取することが住民のつよい願望であったこと、日本統治下においては、米の生産が急増した反面その多くが輸出されたために、この願いが実現しなかったことである。植民地崩壊後、政権を獲得した金日成にとってこの点で実績をあげることは、政権の「 正当性 」を主張するうえで是非必要であった。すなわち金日成は、抗日パルチザン運動の指導者という経歴にくわえて、住民に糧穀を保障することによって政権の存立根拠を固めようとした。ここには、「 カリスマ的支配 」の一般的な条件との一致、および儒教的な農本主義、またそれにもとづく仁政思想の影響を見出しうる。42 さらに金日成は、輸入に頼るのではなく、国内生産によって糧穀供給を保障することを目指した。これは民族の自立・自主 −「 主体性 」を確立するというかれの国家理念にもとづいていた。のみならずその背後には、糧穀生産を革命と結びつけるというかれの特異な考えが存在した。43

第2に、糧穀供給は住民の管理、統制の有力な手段であった。金日成政権は1950年代後半に農業集団化を推進する一方、農民の個人的糧穀販売を禁止した( 1957年 )。同時に労働者にたいする糧穀管理、配給制度を強化した。こうした措置の結果、同政権は農民、労働者にとってもっとも重要な生活物資を掌握し、住民支配の基盤を固めた。

第3に、糧穀は人口を扶養する基本的な財であり、国家が労力、兵員を動員する基礎であった。金日成政権の人口政策がどのようなものであったかは不明である。明確な政策はなかったとする見方もある。44 一般的には、経済成長、軍事力強化のためには人口が多いほうが望ましい。南との厳しい競争に直面していた金日成政権にとって、明らかに人口増は必要であった。その反面、人口増は糧穀不足を引起こすおそれがあり、金日成はじっさいその可能性を憂慮していた。45 糧穀需要を充足し、人口を一層増やすために糧穀増産を図ることは当然の戦略であった。

第4に、糧穀は輸出しうる財であった。もし国内人口を扶養する以上の穀物増産が実現したら、その分は輸出に回せばよかった。つねに外貨不足に悩んでいた金日成は、穀物を貴重な外貨源−資本財、武器等を購入しうる−と考えた。46

以上のように、糧穀とくに米は金日成政権にとって、消費財であると同時に( 潜在的な )資本財であり、さらに政治権力・権威を保障、象徴する財でもあった。それゆえわれわれは北朝鮮における糧穀を、万能財 と呼ぶことができる。糧穀がこのような性格を帯びたのは、国民の消費において糧穀の重要性が高かったからに他ならない。これは後進経済の特徴である。47 明らかに、北朝鮮の経済は60−70年代をつうじて( またそれ以後も )後進性を脱却しえなかった。こうした経済的後進性はまた、同国の政治的前近代性−指導者のカリスマ性を基盤に、単一もしくは少数の重要な財の独占的供給および、それを一手段とする住民統制によって権力を維持する−と結びついた。この特徴は、たとえば米を小麦など他の穀物に置き換えれば、他の旧社会主義国にも妥当する。しかし北朝鮮において、この特徴はとくに顕著であった。

 

(3) 金日成政権の糧穀増産政策は、長期的にどのような結果をもたらしたのか。これについて詳細な分析はデータ不足のために行なわれていないが、一般論はほぼ尽くされている。すなわち、非合理的な報酬体系・農法と集団労働の強行、無理な耕地拡大が労働意欲低下、土壌の劣化を招き、結局生産が大きく低下した。48 表7は植民地期以降の穀物生産、耕地面積の推計を示す。これによると、金日成・正日政権下の1人当り穀物生産は戦前のピークに及ばなかった。耕地面積は一見して、戦前・戦後間で不連続であり、比較不能である。戦前の調査はかなり厳密なものであるから、これを前提とすると戦後の数値には大幅な過小評価がある。49 趨勢に目を向けると、戦前と同様戦後も増加傾向にあった。これは金日成の耕地拡大政策と符合する。50 穀物貿易統計は相対的に信頼性が高い。表8によると、1960年代以降ほとんど毎年輸入超過であった。51 金日成の生産目標 − 800万トン、1000万トン・・・が達成されていたら大幅な輸出超過が生じていたはずであるから、これは、実際の生産高が目標に遠く及ばなかったことを改めて立証する。