2.カザフスタンの人口変動

 

2-1. センサスおよび統計集のデータ

 

2-1-1. 領域の変化

 カザフスタンの国境はめまぐるしく変化している。ロシア革命後の1920年、ロシア共和国内にキルギス自治共和国17が創設され、1922年のソ連邦成立を経て、1925年にはカザフ自治共和国と名称を変更、1936年にカザフ共和国に昇格、15の連邦構成共和国の一つとなった。なお、この間のもっとも大きな領域変更は、カラカルパクスタンにかかわるものである。この地域はカラカルパク自治州として、1925年にカザフ自治共和国内に創設されたが、32年に自治共和国に昇格されロシア共和国へ直属することになり、さらに36年にはウズベク共和国へ帰属変更となった18

 各種統計集に載っているカザフスタンの領土面積は、以下のとおりである。データはその統計集の発行年初の値とみてよい。

 

 「社会主義国家ソ連統計集」(USSR, 1936: 109):274.4万km2

 「ソ連国民経済統計集」(USSR, 1956: 22):276.6万km2

 「カザフ共和国国民経済統計集」(Kazakh SSR, 1957: 9):275.62万 km2

 「1956年ソ連国民経済統計年鑑」(USSR, 1957: 22):275.6 万km2

 「1958年ソ連国民経済統計年鑑」(USSR, 1959: 48):275.60 万km2

 「1961年ソ連国民経済統計年鑑」(USSR, 1962a: 33):275.60万 km2

 「1962年ソ連国民経済統計年鑑」(USSR, 1963: 42):271.52万 km2

 「1963年ソ連国民経済統計年鑑」(USSR, 1965: 44):271.51万 km2

 「1970年ソ連国民経済統計年鑑」(USSR, 1971: 31):271.51万 km2

 「ソ連国民経済1922-1972 記念統計年鑑」(USSR, 1972: 17):271.73万 km2

 「カザフスタン人口年鑑」(Republic of Kazakhstan, 1993: 4):271.73 万 km2

 「1994年1月1日現在のカザフスタン共和国人口数」(Republic of Kazakhstan, 1994: 1):272.49万 km2

 

 一方、「カザフ共和国法令・カザフ共和国最高会議幹部会令集 1938-1981」(Akaev, Sipovich and Iarinova, 1981: 41-44)によれば、カザフスタンの領域に関する変更は以下のとおりである。

 

@1955年12月13日:ロシア共和国へ70.49 km2

A1956年1月12日:ウズベク共和国へ4990 km2(そのうち3290 km2は36-37年にウズベク共和国に一時的に引き渡していたもの)および南カザフスタン州の一部(面積は不明)

B1962年5月22日:ロシア共和国とのあいだで381ヘクタールの交換(領土面積の変更なし)

C1962年9月20日:ウズベク共和国へ4123 km2、ウズベク共和国から35 km2(全体では4088 km2の減少)

D1963年1月26日:ウズベク共和国へ3万6630 km2

E1965年9月16日:ロシア共和国へ18.33 km2

F1971年5月12日:ウズベク共和国シルダリア州の一部を譲渡される(面積は不明)

 

 1936年および56年出版の統計集によれば、カザフスタンの面積はこの間に2.2万km2増加している。一方法令集によれば、この時期には面積はほぼ不変であるか(Aの決定が56年出版の統計集に反映されていない場合)、むしろ減少しているはずである。このような不一致の理由はこれらの情報だけからはわからないが、法令集がカバーしていない36〜37年に何らかの変更が行われた可能性もある。

 また統計集によれば、1962〜63年に4.08万km2減少している。この間の変化を法令集から計算すると、CとD(Dの変化は63年出版の統計集に反映されていると仮定する)の変化により、4.0718万km2の減少となり、統計集とほぼ一致する。71〜72年の間に0.22万km2増加しているのはFが関係している可能性がある。

 一方、統計集のうえでは1993年に271.73万km2であったものが94年には272.49万km2に増加しているが、情報ソースによっては、現在も前者の数字が使用されている場合もある19。95年、96年の発行のカザフスタン統計年鑑には、領土面積について「土地関係・土地開発国家委員会のデータによる」との但し書きがあるが、これは同委員会があらたに測定しなおしたことを示唆するものともとれる(Republic of Kazakhstan 1995: 6; 1996b: 6)20。したがって、70年代なかば以降は実際の領域は変わっていないとみられる。

 なお本稿では触れないが、カザフスタン内部の行政区画も非常に頻繁に変更されている。そのため、州ごとの人口の時系列的比較はきわめて困難である。

 

2-1-2. 全人口の値

 表1は、全人口の値を、年代の異なる様々な統計集から拾ったものである。1960年代を境に同じ年のデータが異なっているのは、その後の統計集では領域の変化に応じて、過去にさかのぼって調整がなされているためであると考えられる。

 統計集によって最後の一桁(1000人の単位)が微妙に違っているのは、合計を出すさいに、もとの数字を四捨五入した場合と(例えば、2.8の小数点以下を四捨五入すると3となる)、男女別や都市・農村別など、個別のデータを四捨五入したものを、合計を出すさいに単純に足した場合(1.4プラス1.4は2.8であるが、それぞれまず四捨五入して1プラス1とした場合、合計は3でなく2になる)とがあるためにおこる誤差であることが多い。

 しかし、原因がわからないこともある。1968年の統計集と75年以降出版された統計集のデータを比べると、61年までは前者の、62年以降は後者の数字のほうが少なくなっている。また89年のセンサスと、独立後に出版された統計集のデータを比較すると、70年以降のデータについては後者のほうが少ない。何らかの理由で新たに推計しなおされたものと考えられるが、その理由や根拠は統計集には書かれていない。

 

2-2.人口変動の歴史

 

 カザフスタンの人口の変化は、この地域の人々を翻弄してきた歴史を雄弁に語っている。カザフスタンの人口のおもな特徴としては@1910〜30年代と90年代に人口減がおこっているA人口移動の影響が大きいB民族構成の変化が顕著であることなどが挙げられる。

 もともとは、住民のほとんどがカザフ人遊牧民であったこの土地は、ロシア帝国の経済的・政治的進出とともに、ヨーロッパ系の農民や軍人、商人たちが続々と移民してくるようになった。多くのカザフ人がこれらの入植者によって土地を奪われたため、18世紀末には反ロシア暴動も起こっている。さらに1860年代、ロシアが名実ともにカザフスタンを支配下におさめると、ロシアやウクライナなどから、さらに多くの農民がカザフスタンに入植してきた。しかしいずれにせよ革命前には、カザフスタンの人口の大多数はカザフ人によって占められていた。タチモフによれば、1897年に実施されたロシア帝国のセンサスでは、現在のカザフスタンの領域内で、カザフ人は全人口の82%を占めていたという(Tatimov, 1993: 132)。

 

2-2-1.1910〜30年代の人口喪失

 1916年、中央アジア全域でロシアの植民地支配に抵抗する大反乱が起こった。さらに1917年にはロシア革命が勃発、その後も内戦が続き、たびかさなる戦闘とそれにともなう社会的な大混乱によって、カザフスタンでも多くの人口が失われた。前出のタチモフによれば、直接的・間接的なカザフ人の人口喪失は、1916年の蜂起によるものが15万人、革命・内戦によるものが80万人であったという(Tatimov, 1993: 133)。

 さらに1920年代末から30年代はじめにかけ、農業集団化と飢饉により、カザフスタンでは膨大な人口が失われている。長らく極秘であった1937年のセンサスを見ると、1926年に607.9万人であったカザフスタンの人口(26年の人口は37年の領域に合わせて調整済みであるとみられる)は、37年には482.0万人となっている(表1)。これらの数字が正しければ、11年間に125.9万人減少したことになる。

 アブルホジンらは(Abylkhozhin, Kozybaev and Tatimov, 1989: 65-67; Kozybaev, Abylkhozhin and Aldazhumanov, 1992: 27-35)、カザフ人の人口に注目し、農業集団化と飢饉の影響を分析している。それによれば、1926年のセンサスではカザフ人の数が過小評価されており21、実際の人口はそれより6.7%多かったという。その数字から推計すると、30年代なかばまでにカザフ人人口は412万人に達していたと考えられる。ここから自然減を引き、39年のカザフ人人口(当時の領域で233万人)と比較すると、飢餓・疫病の犠牲者は175万人、カザフ人全体の42%と推定される。さらに生存者のおよそ半分にのぼる103万人が他の共和国やソ連国外へ移住し、その後カザフスタンへ戻ったのは41.4万人にすぎない。ソ連国外ではモンゴル、アフガニスタン、イラン、トルコおよび中国へおよそ20万人が移住した。

 一方、1930〜40年代、農業集団化、粛清の嵐が吹き荒れた時代に、カザフスタンは「富農」や「敵国のスパイ」などの烙印を押された人々の流刑地とされた。また、朝鮮人(岡, 1998)、ドイツ人、ポーランド人、チェチェン人など、第二次世界大戦前夜および戦争中に対敵協力の罪をきせられ、故郷を追われた様々な民族の受入先ともなっている。一説には、集団化で失われたカザフ人人口を補うため、これらの人々の追放先の一つとしてカザフスタンが選ばれたともいわれている。

 表7を見ると、1930年代にはカザフ人人口が激減する一方、ロシア人、朝鮮人、ポーランド人人口が増加、さらにその後ドイツ人が急増し22、民族構成が大きく変化していることがわかる。なおウイグル人もカザフ人同様、人口が激減しているが、飢饉の犠牲者が出たほか、同民族が多数住む中国領内などへ移住した者が多かったとみられる。

 次に人口に大きな影響を与えたのは、第二次世界大戦である。ソ連全体では、2500万人以上の人々が犠牲になったとされる(Rowland, 1997: 1)。絶対数が減少した地域もあったソ連ヨーロッパ部に比べると、カザフスタンが受けたダメージは相対的には少なかったといえる23

 表6を見ると、性比(女性100人に対する男性の数)は1959年に90.5と低く、とくに30歳以上の年齢階級における値が少ないが、これにも第二次世界大戦が影響しているものとみられる。しかし、この値は89年にも93.9であまり回復していない。ちなみにソ連全体の性比は59年に81.8、89年に89.4とこれよりさらに低い。島村(1985: 90-101)は、ソ連における性比の低さの理由として、戦争の影響とならんで青壮年期の男子の死亡率の高さを挙げ、その上昇とアルコール消費量の増加との因果関係に注目している。

 

2-2-2.戦後の人口移動

 第二次世界大戦中、ソ連ヨーロッパ部が戦場となったため、カザフスタンやその他の中央アジア諸国では既存の工場が軍事上重要な役割を果たしたほか、ヨーロッパ部から多くの工場が疎開してきた。これを受けて戦中および戦後、工場労働者の流入が増大した。この影響は、とくにカラガンダ州など工業開発が進んだ地域の都市人口の増加にみられる(Rowland, 1997: 15-16)。

 またフルシチョフ政権(1953〜64年)は「処女地開拓」を大々的に行い、カザフスタン北部を穀倉地帯とする計画をたてた。それを実現するため、ソ連ヨーロッパ部から多くの人々がカザフスタン北部の農村部に移住してきた。ちなみに、現在のカザフスタンの首都アスタナ24は、かつてツェリノグラードと呼ばれ、この処女地開拓事業の中心地であった。再びタチモフによれば、これによって1950年代には95万4000人、60年代には56万6000人の人口流入があった(Tatimov, 1993: 136)。

 このように1950〜60年代、カザフスタンは多くの移民を受け入れたため、非カザフ人の割合はさらに増加し、この傾向は北部でとくに顕著であった。またこの時期には、他の共和国からの人口流入はカザフスタンからの人口流出をつねに上回っていた。しかし1960年代末から流出が増え、この現象は逆転した(表11)

 戦後のもう一つの大きな変化は、都市化の進行である。前述のように、ソ連における都市人口の定義にはあいまいな部分があるためその分析には注意を要するが、センサスの結果から大体の傾向をつかむことは可能であろう。それによれば、都市人口が全体に占める割合は1939年には27.8%であったが、59年に43.8%、70年には50.3%に達している(表2)

 またここで注目すべきは、民族ごとの違いである(表5)。とりわけ対照的なのは、カザフ人とロシア人である。ここに挙げた11民族のうち、ロシア人は朝鮮人に次いで二番目に都市化率が高い(1989年に77.5%)。一方カザフ人は、中央アジアの地元民族であるウズベク人、ウイグル人に続き、農村人口の割合が3番目に高い(1989年に61.6%)。ただし、これらの差は必ずしもヨーロッパ系民族とテュルク系民族とのあいだに現れているわけではない。ヨーロッパ系のなかでも、例えばドイツ人とポーランド人は農村人口が5割を超えており、またテュルク系のタタール人の都市化率は、ロシア人のそれとほぼ同じである。

 

2-2-3.独立後の変化

 カザフスタンでは1994年から人口が減少し続けている。94年と98年の人口25を比べると、約130万人のマイナスである。これには、独立後の経済的困難、社会的混乱にともなう出生率の低下、死亡率の上昇(表9)も関係しているが、もっとも大きな影響を及ぼしているのは、国外移住である(表11)。上述のようにこの現象は新しいものではないが、全人口の減少をもたらすほどではなかった。なかでも、ロシアとドイツにそれぞれ移住するロシア人、ドイツ人の流出が目立っている。彼らのようなヨーロッパ系住民は、工場の技術者など熟練労働者に占める割合が高かったため、その移住が経済全体に与える影響が憂慮されている。なお、このような非カザフ人の流出は、独立後の民族間関係の緊張や、カザフスタン政府による民族政策(言語法など、カザフ人の民族的利益を考慮した政策)が原因であるとの指摘もあるが、実際には経済的動機がより重要であるとみられる。

 その一方で、独立後、カザフスタン政府は国外のカザフ人の「帰国」を奨励する政策をとっている。カザフスタンでは上述のように、農業集団化と飢饉を逃れ、多くの人々がソ連の他地域や国外へ移住した。政府はこれらの人々とその子孫を含む在外カザフ人にカザフスタン国籍を与え、積極的に受け入れている。それにともない1991〜96年、旧ソ連以外ではモンゴルから6.2万人、イランから4600人、中国およびアフガニスタンからそれぞれ数百人のカザフ人が移住してきている26(International Organization for Migration, 1997: 61)。

 そもそも、ロシア人よりもカザフ人のほうが出生率が高かったことに加え(表10)、このような人口移動がおこったため、カザフスタンの民族構成は再び大きく変化している(表8)。カザフスタンはソ連時代、連邦構成共和国のなかでは例外的に地元民族が過半数を割っていたが、カザフ人は1995年初頭で全人口の46%を占め、1997年にはすでに51%に達しているとの推測もある(Heleniak, 1997: 370)。

 

おわりに

 カザフスタンの人口は、これからどのように変化していくだろうか。現在は減少しつづけているが、ヨーロッパ系住民の流出が底を打てば、人口は再び緩やかに増加するだろう。また、カザフスタンの二大民族であるカザフ人とロシア人についていえば、出生率が相対的に高く年齢構成が若いカザフ人の人口は、今後も増加するものとみられる。一方ロシア人は自然増加率がマイナスを記録しており、人口流出が止まったとしても、全人口に占める割合だけでなく絶対数も減少し続ける可能性がある。

 今年予定されている人口センサスは、独立後の大きな変化を反映した、きわめて貴重な材料を提供してくれることになろう。