脚注

 

1 本稿の執筆にあたり、錦見浩司氏(アジア経済研究所)、宇山智彦氏(北海道大学)、Peter Sinnott氏(コロンビア大学)に資料の入手等で協力を得た。ここに記し謝意を表したい。


 

2 現在の正式名称はカザフスタン共和国。ソ連時代の正式名称はカザフ・ソビエト社会主義共和国であるが、文中ではその略称として「カザフ共和国」を用いた。「ロシア共和国」、「ウズベク共和国」なども同様である。


 

3 当初は1月14日から調査を開始する計画であったが、1月10日に実施された大統領選挙との関係で延期された。Inside Central Asia, issue 258, January 18 - January 24, 1999: 4.


 

4 ソ連時代の用語法では、中央アジア(Sredniaia Aziia)はウズベキスタン、キルギスタン、トルクメニスタン、タジキスタンを指し、カザフスタンは含まれていなかった。ソ連邦崩壊後は、カザフスタンを含めた5カ国を中央アジア(Tsentral’naia Aziia)と呼ぶことが定着している。


 

5 のちにソ連を構成する地域が対象となったが、連邦成立は1922年12月であるから、厳密にはソ連初のセンサスではない。


 

6 国民経済中央計算局人口厚生課のクルマン副課長は、1926年のセンサスは、農村部で15〜20日間にわたって実施されたため(都市では7日)、二重登録された人がいたと主張していた(Tsaplin, 1989: 177)。またジロムスカヤによれば、調査期間中に農村から都市に移動した人は、都市・農村で二重に登録された可能性がある(Zhiromskaia, 1990: 87)。


 

7 アンドレーエフらは、1927〜41年の犠牲者を約700万人と推定している(Andreev, Darskii and Khar’kova, 1993: 60-61).


 

8 1919年に設置された中央統計局は、28年にゴスプラン付属の国民経済中央計算局となった。48年、ゴスプランから独立し中央統計局に戻され、ゴルバチョフ政権下の87年には国家統計委員会に改組されている(島村, 1985: 169-170;『ロシア・ソ連を知る事典』平凡社、1989: 384)。


 

9 ジロムスカヤは独自に推計し、実際の人口は1億6760万人であったとしている(Zhiromskaia, 1992: 8)。


 

10 トルクメニスタンでは1995年にセンサスが実施されている。


 

11 国外勤務の軍人は、徴兵された地域の実在人口に加えられる(アンダーソン・シルヴァー論文では言及されていないが、定住人口からは除外されるとみられる)。また、仕事や留学で一ヵ月以上国外にいる人とその家族は、定住人口から除外されるが、どこで実在人口に加えられるのかははっきりしない。


 

12 ただし、アンダーソンとシルヴァーによれば、双方とも過小評価されている可能性がある。一時的不在者の情報は、家族や隣人、住宅の管理人や行政機関の役人など、第三者からしか得られない。他人がその人物について情報提供する場合は居住者名簿に頼ることになるが、この名簿は完全でなくしばしば幼児が登録されていない。また「一時的居住者」は、調査員に定住地の情報を提供するが、その住所が不完全であった場合、その人は定住地の定住人口からもれてしまう可能性がある。さらに移動中であったり調査可能な地域にいなかったりして実在人口からもれた人は、その定住地でその人に関する情報が得られなかった場合、センサスからまったく消えてしまうことになる。また、不在の人物が「恒久的に」他の場所へ移動したかどうかは、家族や他人の客観的な判断にまかされる。また、答える本人が統計局の定義とは違った答え方をする可能性もある。このため、定住人口から完全にもれてしまったり、あるいは二度登録されている可能性もある。


 

13 1992年に刊行された39年のセンサス結果を見る限りでは、都市・農村別定住人口はソ連全体のデータしかなく、また男女別定住人口は掲載されていない(Poliakov, 1992: 90)。


 

14 カザフ自治共和国全体の値からカラカルパク自治州の値を引いたもの。


 

15 1937年のセンサスでは「都市型居住区(poselok gorodskogo tipa)」と「労働者居住区(rabochii poselok)」という定義が使われているが、それらの人口の規模は公表されたセンサス結果からは明らかではない(Institut istorii, 1991: 69)。


 

16 1955年出版のものは「ソ連国民経済統計集」、それ以降は若干の例外を除き「ソ連国民経済統計年鑑」。


 

17 当時ロシアでは、誤ってカザフ人をキルギス人と、キルギス人をカラ・キルギス人と呼んでいた。


 

18 現在の正式名称は、カラカルパクスタン共和国。名称上はもはや「自治共和国」ではないが、現在もウズベキスタン共和国の一部である。


 

19 カザフスタン大統領府ホームページ参照。http://www.president.kz


 

20 CIS国家間統計委員会のElena Skobtsova氏によれば、1992〜95年にはこれら二つの数字が併用されていたが、96年以降は272.49万km2で統一されており、こちらの数字がより正確であるという。なおこの情報は錦見浩司氏から教えられた。


 

21 アブルホジンらによれば、1926年のセンサスが実施されたころは、一夫多妻制が廃止されたばかりであったが、実際にはそれがまだ慣習として残されていた。そのため、後妻である若い女性たちはかなりの数が登録されなかった。また当時は、帝政ロシア政府による第一次世界大戦への強制的動員の記憶が強く残っており、若い男性は登録されることを望まなかった。さらに、遊牧民が広大な土地に分散して暮らしていることも人口の過小評価につながった。


 

22 ドイツ人の強制移住は1941年に行われた(Kendirbaeva, 1997: 745)。


 

23 タチモフは第二次世界大戦のカザフ人犠牲者を35万人と推定している(Tatimov, 1993: 133)


 

24 1997年12月にアルマトゥからアクモラに首都が移転され、98年5月にアクモラがアスタナと改称されたされた。アスタナとは、カザフ語で「首都」の意。


 

25 カザフスタン統計局のホームページ(http://www.asdc.kz/kazstat/index.html)によれば、1998年初の人口は1564万1900人。一方、カザフスタン大統領府(注19参照)によれば、同じく98年初の人口は1567万2000人である。


 

26 別の情報によると、1991〜94年にトルコから1900人がカザフスタンに移住している(Tishkov, 1996: 205)。