エジプト農業労働力の動態



長沢 栄治

東京大学東洋文化研究所




    はじめに − 研究状況の紹介

    1.人口成長の長期的動態

    2.農業労働力の長期的推移

    3.性別・年齢別構成の変化

    4.就業上の地位別構成の変化

    5.農業/農業部門からの労働力流出







 


はじめに−研究状況の紹介

エジプトは、長いあいだ過剰労働経済の典型国として扱われてきました。このエジプト農業における過剰労働問題が理論的関心を集め、「不完全雇用論争」とでも呼ぶべき議論が行われたのは、1960年代後半から70年代初めのことです。報告者も、この論争について簡単な紹介を試みたことがあります[長沢 1986]。この論争では、有名なルイス(W. A. Lewis)の開発モデルに対する批判として、とくに「偽装失業(disguised employment)」と「生存可能賃金(subsistence wage)」概念に対するハンセン(Bent Hansen)の批判を中心にして、また不完全雇用(underemployment)の概念の提示や、雇用と賃金の季節変動や家族農場の賃労働排出をめぐる問題などを絡めながら、数々の論文が発表されました([Hansen 1966,1969],[Mabro 1967],[Mohie-Eldin 1975],[モヘッディーン 1980]など)。また、この時期にはエジプトの国家計画研究所(Institute of National Planning:INP)とILOが合同で農家労働の標本調査を実施し、それぞれの報告書を出版しています。([ILO 1966],[INP 1966])。

次に、1980年代前半に再びエジプトの農業労働市場の問題が関心を集める時期がやって来ます。この時期に問題となったのは、農業部門における労働過剰ではなくむしろ労働不足の現象でした。それは、1973年の石油危機以降の中東産油国における経済ブーム(オイル・ブーム)が大規模で高賃金の雇用機会を作りだし、その結果として発生した空前の出稼ぎラッシュが周辺の非産油国の労働市場に大きな影響を与えた時期です。(たとえば[長沢 1994]を参照)。この時期は、以前の時期ほど経済研究者の理論的関心を集めることはなかったのですが(むしろ出稼ぎの影響に関する社会学的関心にもとづく研究が目立ちました)、それでも米国の援助プログラムと結びつく形でいくつかの調査が行われました([Richards & Martin 1983]を参照)。報告者もこれらの調査と労働・農業統計を用いて、労働不足問題への農家経営の対応などについて若干の考察を試みたことがあります[長沢  1986]。また、この時期に労働力不足と並んで注目を集めた問題として、従来の統計では過少評価されたきた女性農業労働力の問題があります。(この問題のサーベイとして、[泉沢 1993]を参照)。その背景には、成年男子労働力を中心にした大量の出稼ぎの影響と、そして女性と開発に関する国際的な関心の高まりがありました。

しかしその後、1985−86年の石油の値崩れ(オイル・グラット)を境目にして出稼ぎブームの終焉が取りざたされ[Commander & Hadhoud 1986]、また湾岸危機・戦争時には帰国労働者問題が関心を集め[長沢 1991a]、さらには90年代後半以降、労働不足からの労働過剰への逆転現象が起きることを危惧する意見が出はじめている[Richards 1991]ところが、この問題をめぐる現在の研究状況といえるでしょう(とくに、オイル・ブーム期のベビー・ブーム世代が労働市場に参入してくるという問題があります)。

さて、このように労働過剰から労働不足へ、そしてまた労働過剰へと、変転してきたとされるこの20年ほどの動きを(もちろん、これは論点の移り変わりであって、現実に過剰と不足が交代して発生したかどうかは別の問題です)、19世紀以来のエジプト経済の発展過程という長期的な視点から見ることもまた必要なように思います。多くの経済学者によって労働過剰の典型国とされたエジプトも、他のいくつかの開発途上地域と同様、近代的な経済開発が開始された時点において問題となったのは、むしろ労働不足の現象でありました。輸出向け一次産品の組織的生産のためには、その労働需要に適合した大量な労働力の動員のシステムが必要とされたからです。この労働不足の問題(しばしば、農民の遠隔地への逃亡も発生しました)に対応するため、農民を土地に緊縛させ、農業法という名の刑法を施行して([加藤 1993]を参照)商品作物(綿花)の作付強制や灌漑施設建設への労働動員が行われました。そして、とくに1820年代以降栽培面積を拡大した綿花の生産のためには、その季節的突発的な労働需要に対応する過剰労働力のプールが必要になりました。19世紀末から20世紀初頭にかけて、エジプトにおいて綿花経済と呼ぶべきモノカルチャー型経済システム[長沢 1991b]が完成する過程は、労働不足経済から労働過剰経済への転換を意味していたともいえます。とくにエジプト綿花経済の中心的経営体であった、イズバといわれる新村形態をとる地主経営地においては、綿花を中心とする三つの作季をもつ輪作体系に対して異なった種類の労働力を動員するシステムが作りだされてゆきます。農場内に囲い込んだ小作農的常雇い労働者と近隣の日雇い労働者、そして遠隔地からの季節移動労働者を組み合わせたこの労働動員システムには、ただし強制労働の遺制ともいえる「不自由な賃労働」関係が色濃く残存しました[長沢 1992]。

この20世紀初頭の農業労働市場の実態については、残念ながら一部のイズバ経営の紹介や経営マニュアルなどしか使用できる資料がありませんが、たとえば、近代エジプトにおける最大の農民蜂起があった1919年革命の原因の一つが、第1次大戦期に農業労賃が高騰する中で行なわれたイギリス軍による低賃金の農民徴用にあったとする最近の研究[Goldberg 1992]などを見ると、当時の成熟した農業賃労働市場の存在をうかがい知ることができます。ただし、この第1次大戦前後から、次の第1節で述べるように、過剰労働の存在が社会問題として顕在化しはじめます。綿花経済システムが自らの必要に応じて作りだしたかのように見える過剰労働が、経営にとって必要な過剰労働のプールであったとするならば、この新しい過剰労働の現象は、社会問題としての過剰労働だとも言えましょう。それは、耕地および作付面積の拡大が停滞し、綿花経済が危機に陥ったこの時期、土地/人口バランスの悪化によって起こった過剰労働問題でありました。たとえば、この過剰労働・土地不足の問題は、1920年代以降、深刻化する小作問題(小作料の高騰と農民騒乱)となって表われ[バラカート 1991]、やがて1952年革命と同年の農地改革を導くことになります。

しかし、1952年革命体制による国家主導の経済開発政策によって、農村の過剰労働問題は、改善されることなく、むしろこの問題の構造の根本的変化は、冒頭で述べた産油国への大量出稼ぎ(それは、同時期の門戸開放政策による労働の海外移動の規制緩和によるものでありました)によってもたらされたと言えるでしょう。さて、報告者は、以前、この産油国への労働移動がエジプトの農業労働力に与えた影響について考察したことがありました[長沢 1986]。今回の報告では、この論文に、初期センサスを用いて農業労働力の長期的推移について若干の説明を加え、また執筆後に公表された1986年人口センサスのデータを主として用いながら、1980年代以降の変化とその展望に関する分析を付け加えたいと思います。ただし、前回の論文で行なったこうしたマクロな統計数値による分析と、フィールド調査によるミクロなレベルでの数値との付き合わせという作業は、今回は行なうことができませんでした。その他、今回使用できなかった資料(とくに農業センサス関係)を合わせて、今後の課題とさせていただきたいと思います。