1.人口成長の長期的動態

農業労働力の長期的推移の問題に入る前に、その前提として近代(19世紀)以降のエジプトの総人口の動きを振り返って考えてみたいと思います。というのも、後で述べますように、農業労働力の統計的数値が利用できるのは、20世紀以降(正確には1897年センサス以降)であり、それ以前の時期については、総人口の推計をもとに議論する必要があるからです。

さて、しばしばエジプトの近代は、18世紀末のナポレオンのエジプト侵略によって開始されると言われますが、近代的な人口統計への関心が発生するのも、このときに溯られるようです。そして、ナポレオン軍に随行したフランス人専門家が行なった当時の人口調査は、19世紀になって試みられた人口推計に大きな影響を及ぼしました。ただし、1897年に開始される本格的な人口センサスの数値を基準に考えると、パンザック[Panzac 1987]が述べるように、これらの19世紀の人口統計には大きな過小評価があったようです。この過小評価の問題は、当時の労働力不足の議論と関連するかもしれません。

パンザックは、整備された統計手法による本格的な人口センサスである1892年センサスによる総人口の973万4000人という数値と、それ以前の人口統計の数値、すなわち1800年の248万9000人、1846年の446万4000人、1847年の454万3000人、1887年の680万6000人といった数値との間の整合性を検討します。たとえば、上記の数値によれば、1847年と1882年の間の人口成長率が1.2パーセントであるのに対し、1882−1897年の間の人口成長率は2.4パーセントとなってしまいますが、最初の本格的な人口センサス(1897年)後の四回(40年間)の人口成長率が、1.2から1.4パーセントの間であることを考えれば、後者の2.4パーセントは明らかに高すぎます。

仮にここで、1882−97年間の人口成長率を1.3パーセントとしますと、1882年の人口は800万人くらいではなかったか、というのがパンザックの推計です。彼は、また同様の修正を加えて(当時の疫病による死亡率上昇の影響などを考慮に入れながら)、1848年の人口は、センサスの数値より20パーセントほど多い540万人ではなかったかと推計します(この場合、1848−1882年の人口成長率は、1.2パーセントという仮定に立っています)。以上の結果を表1にまとめて整理しますと、パンザックによれば、19世紀初頭のエジプトの人口は、それより80パーセントほど大きい450万人ではなかったか、ということになります。

ここで参考までに、前近代、とくに古代エジプトの人口推計についても言及しておきましょう。興味深いのは、代表的な研究者であるブッツァー[Butzer 1976]が、古代のナイル川流域の人口を推計する作業において、近代の統計数値を参照すべき一つの基準としていることです。彼は、古代エジプトの総人口の上限に関するいくつかの説を紹介する中で、たとえば750万人とする説に対し、これは近代のAD1882年センサスの数値を大きく上回る数値で受け入れられるものではないとして否定的な見解を示しています。そして、エドフの神殿資料にもとづいて推計された当時の耕地面積の24,600平方キロメートルという数値が1882年センサス時の27,659平方キロメートルと十分比較可能な数値であるとして、それを根拠に450万人という最大限の総人口推計を示しています[Butzer 1976:92]。

この推計における耕地面積当たりの人口密度は、上エジプトのある地域の場合、その神殿建設の労働投入量から考えて少なくとも約100人/平方キロメートルであったとしています。(ちなみに現代の人口密度は約300人/平方キロメートルであります)[Butzer 1976:87]また、このブッツァーによる450万人という推計値は、19世紀初頭のパンザックによる統計修正値と偶然にも一致する点が興味をそそります。参考までに、図1で、BC5000年からAD1000年まで6000年にわたる期間のエジプトの人口変動に関するブッツァーの推計を示しておきました。

さて、この古代エジプトの6000年の変動と比べると、近代エジプトのこの200年はいかに急激な変化であったことが分かります。それは、人類全体の人口増大の縮図を示すものであったとさえ言えるかもしれません。前掲のパンザックの仮定した人口成長率によれば、エジプトの総人口は、19世紀初頭の450万人から(1840年代の人口停滞期を挟みながら)年1.2ないし1.3パーセントの上昇率で増大をつづけ、世紀末には二倍を超え、20世紀に入ると1000万人の大台を越えました。そして、その後も一貫して増えつづけ、現在(1995年)は、6190万人に達しています。(『統計年鑑』〔1996年版、アラビア語〕による推計数値)。また、21世紀初頭、2001年には、6792万人に達するだろうと予測されています(同上)。すなわち、エジプトの人口は、19世紀に二倍以上、そして次の百年で七倍近くに(200年間で15倍、年率にして1.4パーセント)増大したことになります。

この近代エジプトの人口成長で特徴的なのは、ナイル川にほぼ全面的に依存した古代の人口動向とは異なり(それは、後述のように、とくに20世紀以降について言えることですが)、耕地面積の制約を超えて推移してきた点であります。ここで、19,20世紀の人口成長の推移を、耕地面積と作付面積の拡大との関係で見てみましょう。表3は、リブリン[Rivlin 1961,73]とベアー[Baer 1962,20]が示す19世紀の耕地面積(正確には課税地・非課税地面積の合計)の拡大の推移を示したものです。この表でも、人口成長率と同様に、耕地の拡大率の変化に数値の修正が必要な部分が指摘できます。とくに、1844−63年の期間の年変化率は、この時期にこうした特別の数値をもたらすほどの灌漑施設上の改革があるとは思われませんから、大きすぎるように思います。そこで、1863−97年の34年間の年変化率である0.4パーセントを63年以前の時期に適用してみた修正値を、1820,1844年の耕地面積を括弧の中に示しておきました。

さて、1863年と97年の間で0.3と0.6パーセントの間にある耕地の拡大率(平均0.4パーセント)と、前述の19世紀エジプトの人口成長率の数値、たとえば1848−97年間で平均1.0パーセントと比較すると、耕地の拡大を上まわる勢いで人口が増大してきた印象をもたれるかもしれません。しかし、近代エジプトの農業発展にとって、大きな意味をもったのは、耕地面積の拡大もさることながら、土地利用率の上昇による作付面積の拡大でした。この作付面積の飛躍的拡大を可能にしたのが、灌漑施設の改良、あるいは伝統的なナイル川氾濫に依存したベイスン=水盤式灌漑から通年の水路式灌漑への移行です。(近代エジプトの灌漑制度改革については、[石田 1974][長沢 1996]を参照)。この灌漑制度改革が、夏作である綿花栽培の拡大を目的にしたものであること、そしてそのための労働動員そのものが結果として農業労働市場の形成に大きな役割を果たしたことについては、[長沢 1979]を参照していただければと思います)。

ただし、ここで19世紀の作付面積の拡大に関する統計を紹介することは、資料的な問題からできません。そこで、表4が示す20世紀に入ってからの耕地面積と作付面積の推移を参考にして考えてみたいと思います。この表から、1907年以降、耕地面積も作付面積も拡大の歩みが停滞する時期に入り、とくに1927−37年間には(大恐慌の影響によるものと思われますが)むしろ縮小の状態に陥ったことが分かります。これは、後述の農業の労働生産性の推移の問題とも関係してきます。ここでは、19世紀から続いてきた耕地と作付面積の拡大がそのまま継続していたと考えられる1897−1907年間の世紀転換期の数値に注目してみましょう。この時期の耕地面積の拡大率は0.6パーセント、作付面積の拡大率は1.3パーセントであります。ここでひとつの仮定として、この耕地面積の拡大と作付面積の拡大の相互の比率が、この時期直前の19世紀においても同様であったとしてみましょう。すると、たとえば、1844−97年の耕地の拡大率は0.4パーセントでしたから、作付面積の拡大率は、約0.9パーセントとなります。この作付面積拡大率0.9パーセントという推計値は、前出の人口成長率の推計値、1848−97年の1.0パーセントとかなり近い数字といえるのではないでしょうか。以上から、19世紀のエジプトの人口は、灌漑設備の改良による作付面積の拡大の動きとほぼ歩調を合わせて拡大していったと考えてもいいように思います。

こうした19世紀のエジプト農業の発展において見られた人口と農地(作付面積)との調和的な関係が失われてゆくのが、表2に見るように、人口センサス年でいうと1907年以降のことでした。この時期以降、拡大する人口と土地とのバランスに、そして生態学的なバランスに(急激な灌漑体系の転換による塩害や病虫害の進行)破錠が見られてゆきます。また、この1907年は、同年に起きた恐慌の影響によっても、まさにエジプト綿花経済がその絶頂期から凋落する画期となった年だったといえるかと思います。そして、耕地や作付面積の拡大という局面が終わり、強まりつつある人口圧力の中で、両大戦間期のエジプト農業は、一種のインボリューション的な局面に入ったという表現もあります[Richards 1982]。

この時期の農業生産の停滞は、オブラエン[O'Brien 1968]が示す農業の労働生産性の推移(1895−1962年)、表5によく示されています。彼の推計によると、20世紀初頭に頂点に達した労働生産性は、とくに1915−19年期以降、極端な低水準に陥ります。前に示した耕地面積や作付面積の変化率の推移は、この労働生産性の動向と強い結びつきをもっていたといってよいかと思います。そして、この農業生産における労働生産性の低迷が克服され、上昇局面に入るのは、ナセル政権による開発政策が施行された1950年代後半のことであります。同表には、その後の1960年代、70年代の農業生産における労働生産性の推移に関する数値も示しておきました。また、表6では、GDPに占める農業の比率と、労働力構成に占める農業労働力の比率を示し、両者から農業労働の「相対的な生産性」の推移を算出してみました。綿花経済の危機に対する対応として、経済活動の多様化(具体的には1930年代に始まる工業化の試み)の結果がそこに示されています。

さて、再び表2に戻って、こうした20世紀のエジプトの人口成長に概観を与えておきましょう(同表が示す農業労働力については、後述します)。前掲の19世紀の人口成長の推計を示した表1と連続して考えると、19世紀末にかけて急速に上昇した人口成長率は、1897−1907年間に頂点に達します。この人口が急成長した世紀転換期は、ちょうどイギリス占領体制の下でエジプト綿花経済が制度的にも完成した時期に当たると言えましょう。その後の1910年代以降、人口成長率は低下して、緩慢な成長の時期が1930年代ぐらいまで続きます。人口成長が再び上昇傾向に転ずるのは、1940年代以降のことです。この急増傾向は、1952年革命後されにピッチを上げ、人口成長率は、1947−76年の期間、2.4パーセントの高水準で推移します。さらに1970年代後半になると近代エジプト史上かつてない高成長の時期が訪れます。この1976−86年の時期の成長率は、2.8パーセントに達しました。この人口の急増期は、オイル・ブームによる出稼ぎと門戸開放経済の時代でありました。ただし、人口爆発の傾向も、1990年代に入ると、ブレーキがかかり始めたようです。最近の『統計年鑑』(1995年版、アラビア語)によれば、人口成長率は、1985年に3.04パーセントに達したのを頂点として、1991年には2.24パーセント、そして推計値ではありますが、1995年には2.07パーセントにまで急降下しました。ただし、このような人口成長率の急降下が実際に起きたかどうかについては、若干の留保が必要かもしれません(エジプトは1991年の湾岸戦争時の貢献の見返りとして多額の債務帳消しを得ましたが、このときIMFが提示した融資条件の一項目に人口成長率の抑制があり、そのための人為的な数値ではないか、という説もあります)。