2.農業労働力の長期的推移

では、ここで本論に入って、農業労働力の長期的な動態について見てみることにしましょう。農業労働力の推移を考えるとき、まず注意が必要なのは、その出典が複数あるということです。農業労働力の統計資料としては、次の五つの種類が少なくとも考えられます。(1)人口センサス、(2)労働力標本調査、(3)農業センサス(および農業省内部資料)、(4)計画省内部資料、(5)FAO推計資料です。この他に、世銀やIMFなどの国際援助・金融機関による推計資料もあります。この中で農業労働力の動向が一貫してもっとも長期的にたどれるのは、(1)の人口センサスです。人口センサスで農業労働力の規模が把握できるのは、1882年のセンサスからです。ただし、この年の数値は、男性のみであり、またその後の初期のセンサスも同様ですが、現在のような経済活動部門別ではなく、職業別の分類であることにも注意が必要です。人口センサスの実施主体は、19世紀には内務省統計局、その後は財務省統計局、そして1952年革命後は、CAPMAS(中央統計動員局)へと変わっています。次の(2)労働力標本調査は、同じくCAPMASによって、1957年以来実施されています。(ただし、人口センサス実施年には行われません。)手元にある1993年の労働力標本調査によれば、標本世帯数は、4万世帯(都市部17,920、農村部22,080)です。(3)農業センサスは、農業省によって1929年からほぼ十年単位で実施されてきました(ただし、同年の農業センサスによる農業労働力の数値は、1927年人口センサスによるものです)。

さて、このように出典を異にする農業労働力の数値を、それぞれ示したのが表8であります。この表から、それぞれの統計数値の系列の間にかなりの相違があることが分かるでしょう。たとえば、1947年人口センサスの409万人と三年後の1950年農業センサスの344万人の間、同じく1960年人口センサスの441万人と1961年農業センサスの380万人の間、1976年人口センサスの488万人と1975,77年労働力標本調査の数値、443,422万人の間などであります。また、1970年代について見ると、労働力標本調査と農業省内部資料の間には26万人から40万人と、おおよそ一割に近い偏差が存在します。

こうした統計数値の相違の原因としては、調査時期や調査対象人口の年齢の相違、労働力の概念(就労日数・期間)などの問題が考えられます。これらの相違は、しばしば過少評価さえてきた女性労働の規模の推計に大きな影響を与えたでしょう。さて、これらの相違点のうち、代表的なものとして、調査時期の問題をまず取り上げてみましょう。労働力標本調査は、5月に行なわれていました。(当初は11月に実施されていたようです)。この5月という調査時期は、エジプトの作付体系においては、小麦の収穫期とトウモロコシを初めとする夏作物の作付の準備作業が重なる農繁期であります。これに対し、人口センサス(1976,86年)が実施される11月は、綿花の収穫期が過ぎた農閑期に当たります。たとえば、モヘッディーンが例示する月別労働需要日数の推計表によれば、5月は5万4757日の男子労働需要と4万9490日の非男子(女子および児童)労働需要があるのに、11月にはそれぞれ2万1220日、8245日に減少します。[モヘッディーン 1980:34]。すなわち、農閑期の労働需要は、農繁期と比べると男子で38.8パーセント、非男子で16.7パーセントまで低下することになます。後者の人口センサスの行なわれる農閑期には、季節的な失業が就労意志に影響を与え、いわゆる「意欲なき労働者」(discouraged worker)現象を発生させ、結果として農業労働力の過少評価をもたらす可能性があります[Richards 1991,66]。もっとも表8が示すように、上記の危惧とは反対に、農繁期に行なわれる労働力標本調査の方が、農閑期に実施される人口センサスの数値より少ない結果になっています。

次に調査対象年齢の相違について見てみると、人口センサス(1976,86年)が5歳以上のすべての年齢を対象にいているのに対し、農業センサスでは12歳以上、そして労働力標本調査では12歳以上64歳未満の年齢階層を対象にしています(ただし、労働力標本調査には12歳未満と65歳以上の人口をそれぞれ別に計算しています)。ちなみに現在の労働標本調査(1993年)では、労働力、すなわち就業者の定義を、事業所の内部あるいは外部で6歳以上が経済活動を調査期間(一週間)にある時間(少なくとも一時間)継続的に従事している者としています。したがって、これらの統計の数値を相互比較するためには、少なくとも同じ年齢階層に加工する必要が出てきます。図2は、人口センサスの数値を12歳以上年齢に加工して比較して示したものです。これに対し、FAO資料は、「農業経済活動人口」=経済活動での雇用に従事しているか求職しているすべての年齢人口(雇用者・被雇用者・自営・家族労働を問わず)を含むとし、もっとも広い定義を示しています。したがって、表8に見るように、その数値は、他の資料の数値を上回っています。

以上のような違いを念頭に置きつつも、それぞれの統計の中ではある程度の数値に一貫性があるものと仮定するならば、今世紀のエジプトの農業労働力の規模の推移について、いくつかの一般的傾向を読み取ることが許されるかと思います。表8に見るように、人口センサスから長期的推移を見るなら、20世紀初頭の1907年の240万人から、20年代の300万人、さらに40年代以降は400万人、そして70年代中葉には480万人という水準まで、初めは急速にその後しだいにゆっくりと増大してきたことが分かります。また、前に挙げた表2で人口成長率の推移と比較してみると、20世紀初頭までは歩調を合わせて増大していた人口と農業労働力は、20年代以降しばらくの間、前者が緩慢な成長に留まるのに対して後者が急増する時期が続いた後、今度は反対に急上昇する人口成長率に対して、農業労働力の低成長という傾向がはじまります。

次に表8において、一連の農業センサスについて述べると、まず何らかの原因で過少評価があったと思われる1950年センサスを除けば、1939−61年間でやや低下し、その後の農業省内部資料によると70年代に入って400万人〜420万人台へと微増し、かなり安定した推移を示しています。同様に、労働力標本調査の数値も70年代中葉、すなわち1977年ごろまでは安定した推移を示していたといってよいでしょう。こうした農業労働力の規模の安定性(とくに1937年以降のセンサス数値における)について、モヘッディーンは、これは何人かの経済学者の主張するような余剰労働の存在を否定する根拠にはならないと主張します。そしてむしろ1930年代以前にすでに存在していた余剰労働の継続性を示唆し、1940−60年代の農業労働力の安定性は、むしろそれ以上の新規労働力を吸収できないほどの労働過剰の状態を示唆するものだとしています[モヘッディーン 1980,37-38]。彼によれば、これまでのエジプトの農業労働力に占める余剰労働力の割合は、25パーセントから40パーセントに達するとされてきました[Mohie Eldin,1966]。この過剰労働(または不完全雇用)の計測をめぐる議論は、[長沢 1986]の紹介を参照してください。

さて、もう一度表2に戻って、人口センサスにもとづく農業労働力の動向を人口成長率の推移と対比させながら振り返ってみましょう。同表から、おそらく統計資料上の問題があるかと思いますが、1930年代まで着実な上昇(ただし、1917−27年の急速な増大は実際には考えにくいですが)が見られた後、60年代まで緩慢な増大が、そして70年代後半以降、急激な変化があったことが分かります。70年代後半以降の変化については、年齢階層に関する修正を加えた人口センサス、農業センサス(および農業省内部資料)、労働力標本調査の三系列の数値を比較して見せた図2において、それまで安定して緩慢に増大していた農業労働力が1976年以降急激に減少したことが見て取れます(ただし、1981年までの数値)。この農業労働力の絶対数の減少は、1986年人口センサスでも見られますが、労働力標本調査の場合、次の節で述べますように実は女性農業労働の算出をめぐって重要な変化が1983年調査以降に見られることから、男子の農業労働力に限って観察することに意味があります。1970−93年まで、この労働力標本調査にもとづき、男子の農業労働力の推移を示したのが、表9であります。同表から、このような急激な変化をもたらしたのが、1970年代以降のエジプト経済の変化、とくに産油国への出稼ぎにあったことは十分予測されます。この点は、前の論文[長沢 1986]で不十分ながら論じました。今回の報告では、第5節農業・農村部門からの労働力流出の部分で、その後の変化については論じてみたいと思います。

さて、この節の最後に初期センサスの数値から観察できる当時の農業労働力の規模をめぐる問題について、若干ふれておきましょう。ここでいう初期センサスとは、1907,1917,1927,1937年の四回のセンサスを暫定的に呼んだものです。これらのセンサスにおける農業労働力とは、前述したとおり、職業分類から算出したもので、実際にはそれぞれのセンサスには、次のような職業分類として記載されています。

1907年センサス:(1)自作農(ashab atyan min ar'uf:proprietaires cultivant euxmerned leur terres)、(2)小作農(muzari'un biyazira: fermiers et cultivateurs)、(3)農場労働者・奉公人(harrathun akkarun wa'amala ya'milun bi-l-ard: ouviriers et domestiques de ferme)、(4)農場内家畜飼育者、(5)果樹園菜園労働者、(6)林業、(7)幼家畜飼育者。

1917及び1927年センサス:(1)耕作者(2)園丁(3)林業(4)家禽飼育者(5)家畜飼育者(6)養蜂(7)養蚕(8)鳥など鑑賞用動物飼育(9)地主(10)所領地監督・ブローカー。

1937年センサス:(1)農業(2)園丁(3)家畜飼育者(4)家禽飼育者(5)農家内酪農製品製造(6)養蜂(7)養蚕(8)鳥など鑑賞用動物飼育(9)孵化業(10)農家内家事労働(11)地主。

また、広義の農業に属する漁業や狩猟については、1907年センサスでは、狩猟・漁業の項の中に(1)狩猟及び漁業と(2)遊牧民の欄がありますが、1917・27年センサスでは、遊牧民は、上記の定住民の職業とは区別されて、非定住民として分類されるようになっています。また、1937年センサスになると、狭義の農業からさらに林業が区別され(もっと、正確に言って近現代のエジプトに林業が存在したかどうか問題であり、この項目自体、ヨーロッパの職業分類の翻訳ではないかと思われるのですが)、これを伐採・製炭として狩猟の欄に並べています。

ところで、もちろん数としては少ないのですが、広大な砂漠を抱えるエジプトにとって(他の中東アフリカ諸国などについてもある程度言えるのではないかとも思うのですが)実は遊牧民が近代初頭において農業労働力の給源であったことも、ここで指摘しておく必要があります。「まつろわぬ民」であった遊牧民に対する政府の定住化政策の結果、彼らの大多数は、19世紀後半以降、遊牧生活を止めて農業に従事するようになりました(とくにデルタの縁辺部の新規開拓農地で)。この規模を正確な統計数値で示すことは、きわめて難しい作業となります。ちなみに、1907年センサスにおける遊牧民の数は、97,381人、1917年が1,513人1927年はわずか223人となりますが1937年センサスは、1,934人としています。これらの数字は、明らかに過少評価のように思われます。

前掲の初期センサスと比較するために、現在のセンサス(1986年)の経済活動および職業分類における「農業」の項をここに挙げてみましょう。経済活動部門としての農業は、全体が農業および狩猟・漁業、その細項目が(1)農業・狩猟、(2)伐採・製炭、(3)漁業と別れています。一方、職業分類では、大項目が農業および狩猟従事者、細項目が、(1)農場の経営者・監督、(2)農業者 muzari'un(土地保有者 ha'izun:自作・小作を含む)、(3)農業労働者・家畜飼育者、(4)狩猟・漁業従事者となっています。そして、かつてのセンサスのように非定住者としての遊牧民の欄は、現在消滅しているようです。おそらく、上記の職業の細項目(3)農業労働者・家畜飼育者に含まれているといってよいでしょう。