恵さん、松尾さんへのリプライ

吉原直毅

1.       恵さんへのリプライ

1) 「私が、物神性について述べた理由」について

この節で恵さんはまず、マルクスの資本論から引用され、「生産価格には、ある社会的力がもたらす社会的意識が、含まれているのです。このような課題を抱いているならば、価格=価値として、論理を出発できないのは明らかです。」と述べておられる。「生産価格には、ある社会的力がもたらす社会的意識が、含まれている」という議論は、私も物象化論的な視点として解らなくもない。しかし、その後、「このような課題を抱いているならば、価格=価値として、論理を出発できないのは明らかです。」と続く論理の展開が意味不明です。私自身は価格=価値として論理を出発すべきであると述べた覚えはないし、何よりマルクスの資本論Iが価格=価値で議論を進めています。

続いて、「商品価格の分析による「価値の大いさの規定」をしていたのが、リカード価値論であることでは、合意できるはずです。マルクスは、古典派の経済学的諸範疇を革命する絡みで、商品の物神性に論及したのです。そして、リカード流の労働価値説(生産価格 生産費=価値)では、利潤と剰余価値の混同をもたらし、学説の基礎・価値をも危うくしてしまう事は、よく知られているのではないでしょうか。」と書かれているのですが、これも何を意図してこういう事を書かれているのか良く解りません。私の最初の論稿から、私が「マルクス=リカード」という議論を展開していると思われたのかとも考えますが、マルクスが資本主義的生産様式の歴史的限定性を捉えない古典派経済学への批判として物神性論を展開した事や、リカードにおける剰余価値概念と利潤概念の混同を批判した事は、私も承知している事であり、それらを否定するようなマルクス=リカード論を展開した覚えはありません。商品の価値を投下労働量と見なす点でマルクスはリカードの議論を受け継いでいる(さらに概念装置を一層発展させている)事に関して言及しただけです。

2)           「マルクスの以上述べた物神性」について

ここでも最初にマルクスの資本論からの引用が長々と続き、

ありていに言えば・・労働生産物が、その<<本質>>の人間的労働力一般の支出の意義において価値属性となる(「対象的仮象」を、本質の実在とする取り違え)と見なさざるをえない必然性が、物神性である。無意識の内にしてしまった私的生産者の本能的行動の成果を問う形式として、交換される労働生産物の本質を、人は、訊ねたのです。 マルクスは、意識の転倒などの問題を一般的に扱ったのではなく、価格の分析から価値を導きだす形式との関連で、その事を訊ねた。そして、ブルジョア的労働が、人間的労働力一般の支出の形態をとるのは、労働生産物の本質(人間社会の非歴史的な社会的生産過程の本質)ではなく、物象の社会関係を媒介とする特定の歴史的な人間の社会関係のもたらす必然性――だと明らかにした。

とマルクスの議論の講釈を行っています。その後、いきなり

過去労働+生きた労働=商品の価値量という方程式は、成立しない。
と続くのですが、前のパラグラフまでのマルクス物神性論からのこの議論の展開が全く理解できません。論理の飛躍があり過ぎて著者の意図を推測する事すら不可能です。しかも「成立しない」として挙げられている議論で、恵さんがとりあえず私に何を言いたいか理解できたのは

生きた労働は、流動的なもの・,生成しつつあるもの・・・つまりは、可変量である。尺度すること自体が成り立たない。

の部分だけです。これに対しては、「マルクス的な言葉の選択の厳密性からすれば私の言葉の選択がいいかげんであったと反省して、では対象化された(あるいは凝固された)生きた労働とでも言い換えましょうか?」と答えておきます。その後の恵さんの文章は叙情文的というか詩的というか、主語や指示語が具体的に何を指示し受けているか文章構造が解らない為に、「過去労働+生きた労働=商品の価値量という方程式」がどうして成り立たないか、まったく理解できないのです。

3)「マルクスの社会的必要労働量」について

       この後の恵さんの議論は「マルクスのリカード批判――学説の基礎・価値をも危うくしてしまうとの論証」の節で、再びマルクスの長い引用を続けられ、

ともあれ価値の価格への転化が、私的労働が社会的労働の姿態を取る事での矛盾(商品・貨幣の二重の姿態をとる)と示されている。資本論3章での、価値の価格への転化の論証を踏まえて、初めて価格=価値と条件を設定でき、剰余価値を論じる土台ができる。

とマルクス資本論の講釈をされる。その後、

価値の価格への転化があれば、他方に商品の分析による価値の実体と価値の生成があり中間項として価値形態が論じられるのは、道理です。まず価値実体について考えてみたい。

と続けられ、私の「社会的必要労働量」理解についての検討に入るようになっているように見えます。まず、上に引用した恵さんの「・・・道理です。」の部分には特に異論はないし、これに対する反論も展開した覚えも私にはないので、何でこんな事をわざわざ言われるのかよく解りません。私は、マルクスの「正の利潤の唯一の源泉は労働搾取の存在である」という命題の論証問題、すなわち「マルクスの基本定理」の検討を課題にする限りにおいて、価値形態論は直接関係しない、と言ったまでであって、マルクスの資本論体系において価値形態論が不必要であるなどとは一言も言っていない。上記の論証問題自体、マルクスの資本論体系を前提にした議論であって、マルクスの資本論に取って代わる資本主義論を展開するものではないからです。どうも恵さんはマルクスの資本論体系に即して議論を進めないと納得されないように思えるのですが、違いますか?

       それからまた文章の事でうるさいでしょうが、「価値形態論が論じられるのは道理です。」とあってその後に「まず・・・」と続くので、これはなぜ道理であるかについて説明するんだな、と期待させるのですが、その後に論じられている事はいきなり話題が飛んで、私の「社会的必要労働量」の議論を引用した後、混乱しているという話になっているわけです。つまり論点の飛躍があるというか、恵さん本人の中ではきちんと論点のつながりと言うか流れがあるのだろうかも知れませんが、他者たる読者にはまったく伝わってこないのです。あるいは叙情的に文章を読む人には伝わるのかもしれませんが、論理的に相手の議論を読み取ろうと努力している読者には全く理解できないのです。

       最後に「吉原さん、ちょっと混乱のもとを一つ片付けておこう。」と、私の文章の引用の後を続けており、そして榎原さんの「商品が生産された時と、交換過程に入るときには時間差があり、この間に社会的必要労働時間の変化が起こり得る。」という議論の意味をマルクスの引用を用いて説明されています。

「主観的な誤算は度外視しよう、――それは、市場でただちに客観的に訂正されるのだ。彼はその生産物に、社会的に必要な平均労働時間だけを支出したはずである。だから、その商品の価格は、その商品に対象化されている社会的労働の分量の貨幣称呼にほかならない。ところが、わが亜麻織物業者の許可なしに、しかも彼の背後で、古くから確実な根拠をもっていた亜麻織物業の生産諸条件が激変をきたしたとしよう。昨日は疑いもなく、一エルレの亜麻布の生産のために社会的に必要な労働時間であったものが、今日はそうでなくなるのであって、そのことは、貨幣所有者が、わが友のさまざまな競争者たちの値段表からきわめて熱心に立証するところである。彼には不幸なことだが、世間には織物業者が多いのだ。」(資本論1 P94河出)

この部分は、榎原さんの「変化」の議論の意味がはっきりして、恵さんが何をおっしゃりたいかもようやくそれなりに伝わってきました。榎原さんや恵さんが言われる事はこういう事でしょうか?

「商品の生産過程で労働価値量を決定する方程式を定義する置塩流労働価値の定義は間違っている。生産過程で商品生産に投下される直接・間接の労働量はあくまで私的労働の投下量にすぎずそれはまだ社会的必要労働として実現されていない。その実現は交換過程でその商品が商品として実現される、すなわち貨幣と交換される事を通じて初めてなされる。実際、ある生産プロセス(一企業)で生産された商品が、仮にその生産プロセスが社会的平均的な生産性と平均的な労働熟練度の下で生産された、従って、そこに投下された労働量を社会的必要労働と見なせるようなものであったとしても、その直接・間接の投下労働量が価値量として実現されるわけではない。なぜならば、その商品が流通過程に入るときに、他企業における技術革新等で社会的に平均的な生産性が大きく変化してしまい、その商品は交換過程ではその新しい社会的平均的生産性の下で定められるより少ない価値量を体現するものとしてしか実現されないかもしれないからである。つまり私的生産過程で投下された直接間接の労働量が価値になるのではなく、あくまで交換過程で実現される社会的必要労働として価値になるのである。」

この議論で描いているような商品の生産及び交換の動学プロセスは、商品の貨幣への変転の議論として重要であるばかりでなく、資本論第3巻の市場価値論で描かれるような部門内競争の議論にも関わってきます。そこでは部門内の様々な生産者(現代的には企業)の個別生産条件に規定された個別的価値が市場生産価格ないしは市場価値とは区別して定義されています。同一産業内での企業間での生産技術力の優劣によって個別的価値の小大が決まってくるわけですが、市場で実現される市場価値はこれら様々な個別的価値の「平均」水準として決まるという議論です。つまり市場で社会的必要労働として実現される市場価値と各企業の生産条件に規定されて与えられている個別的価値とは一般的には一致しないわけです。

       榎原さんや恵さんが主張される、「生産過程で労働価値は定義できない」の意味がこういう事であれば、私のリプライはいたって簡単です。「マルクスの基本定理」が対象とする課題の下では、技術革新等で社会的平均生産性が不断に変化しているような動学的短期的プロセスを分析対象にしておらず、長期的な再生産過程の静態的分析を行うものである。そこでは技術革新の問題も捨象されておりしたがって、社会的平均的生産性は一定の水準で与えられていると仮定されたある種の「理想的平均的モデル」の下で分析が行われている。言い換えれば、資本論第1巻第3章や3巻の市場価値論で議論された、生産条件に規定された私的個別的価値と市場を通じて社会的に実現される価値との乖離という事象を捨象したモデルを想定しているわけです。長期的な再生産条件を規定する生産価格において正の利潤存在の唯一の源泉が労働搾取である事を論証するという論脈では、そういう単純化された静態分析で取りあえず十分である、と言うわけです。そもそも個別商品の労働価値の解を求める置塩流価値方程式では一商品部門の生産技術体系は一つしか存在しない形になっており、部門内での生産技術の違いやその優劣を巡る競争といった現象を分析する枠組みにはなっていません。その点はマルクス自身も、資本論3巻での「剰余価値の平均利潤への転化」「価値の生産価格への転化」の議論で同様のモデルを扱っていたわけです。つまり技術革新による社会的生産性の変化の問題は当面捨象して、部門間における利潤率の違いに起因して生ずる資本の部門間移動としての競争にフォーカスした分析を行っていたわけです。

       いずれにせよ、こうした想定の下では生産過程の下で決定される商品1単位生産に必要な直接・間接の投下労働量でもってその商品の労働価値量と定義する事は、労働の測定単位がある「社会的平均的」なものとして共通化されていると想定できる限り、問題ないでしょう、と言う事が私の変わらぬ見解です。置塩派の方(例えば佐藤良一さんや松尾匡さん)は、価値方程式における直接労働係数riを価値形態のプロセスを経た抽象的人間労働で測られた労働支出量と解釈されているようですが、それも可能なモデルの解釈であるとは思います。ただそれは、価値形態プロセスを経て導出される抽象的人間労働による各具体的労働の還元率が、生産技術体系のデータから導かれる各具体的労働間のある共通な労働測定単位による還元率の値を反映していると保証できる限りにおいてでしょう。そうでないと直接労働係数riはもはや生産技術体系のデータを意味しない事となり、価値方程式の双対体系としての数量方程式に意味がなくなってしまいます。従って、置塩価値方程式の直接労働係数riに関する、「抽象的人間労働」単位による社会的必要労働量という規定は、上記したような静学的想定の下で、生産技術条件の分析において得られる範囲のものであって、価値形態プロセスはその実現過程として見なせる範囲でないといけないであろう、という事です。つまり、価値形態プロセス、すなわち市場での評価を経て事後的に確定されるしかないようなものとしての「抽象的人間労働」による還元率ではなく、論理的には価値形態プロセスに先んじて、ないしは独立に、生産技術条件や社会的条件等から事前的に決定される共通な労働測定単位に基づく還元率であって、価値形態プロセスは事後的にそれを追認する形で実現していると解釈するものでなければならないでしょう。榎原さんはおそらく、「価値形態すなわち市場での評価を経て事後的に確定されるしかないようなもの」として抽象的人間労働を考えているように思えます。[1]そのようにして確定される抽象的人間労働が生産技術条件を全く反映しないものとはならないという論拠があるのかどうか、が問題です。そのような論拠がないという事になると、抽象的人間労働は諸個人の(市場を通じた)主観的評価の産物でしかなく、それを単位にする投下労働量の測定は、実際の生産技術条件を反映してなされている労働の社会的配分状態を反映するデータ[2]とはなりえないかもしれません。他方、置塩派の佐藤良一さんの議論[3]

などは、景気変動など市場での評価を経て事後的に確定される抽象的人間労働での評価値として直接労働係数riを解釈する一方で、その係数は交換過程に論理的に先行して確定されなければならないと主張されている。しかし両者が果たして整合的な主張かは、必ずしも自明ではないと思うわけです。私は後者の主張――この主張自体は私も同意するし、佐藤さんの示されたその論拠も的を得ていると思う――を維持するならば、前者のような主張は何らかの条件付きの下でないと成立しないのではないかと思うわけです。

佐藤さんの前者の主張の解釈として少なくとも二つの解釈が有り得ると思います。一つは(私が解釈する)榎原さんの見解に近いもので、技術革新による社会的平均生産性の変化や部門内での生産技術条件の格差等の動学的短期的諸要因を捨象した下であっても必要なプロセスとしての、「価値形態すなわち市場での評価」を経て事後的に確定される抽象的人間労働に基づく評価値としてのriという解釈です。この解釈の下では、もはや数理マルクス経済学で論じられたような異質労働問題[4]

は存在しなくなる、というかそれは価値形態プロセスにおいて、異質な労働が投下された商品間でも等価関係が成立する事で、解決済みの問題であるという話になります。しかし「価値形態すなわち市場での評価」を経て事後的に確定される商品間の交換比率は、現実には生産価格に基づく交換比率として成立します。従って、事後的に確定される抽象的人間労働に基づく評価値としてのriとは、実際には生産価格に基づく評価値という事になります。この場合、商品の労働価値は生産価格に一致したものとして確定されなければならないわけですが、いずれにせよ価値が生産価格決定に依存して決定されるという結論になります。これは佐藤さんが、一方で抽象的人間労働に基づく係数riは交換過程に論理的に先行して確定されなければならないと主張されている事と明らかに矛盾します。実際、佐藤さんは、係数riが交換過程に論理的に先行して確定されなければならない理由として、価値が価格に論理的に独立に定義されなければならないと主張され、この理由に基づいて、交換過程を経て抽象的人間労働に基づく係数riが確定されると主張する頭川さんの議論を批判しているわけです。

もう一つの解釈は、「価値形態すなわち市場での評価」云々の部分は単なるお話として言っているだけで、それが実際意味する事は、技術革新による社会的平均生産性の変化や部門内での生産技術条件の格差等の動学的短期的プロセスが、長期的には社会全体の生産技術条件を反映する社会的平均生産性のある一定の水準への収束、各部門での労働の強度・熟練度のある一定の平均水準への収束、ならびに部門内の生産技術条件格差の解消ないしは平均化が生じており、この長期において成立している生産技術条件に基づいて労働価値が定義されるという事です。この長期において成立した生産技術条件の下で得られる「社会的標準的な(佐藤さん(1997))」直接労働係数riを「抽象的人間労働で測られた労働支出量と読むべきものなのである(佐藤さん(1997))」と主張されている、という解釈です。これは私自身の見解と事実上同じといってよいものです。さらに佐藤さんのもう一方の主張である「係数riは交換過程に論理的に先行して確定されなければならない」との論理的整合性を考えるならば、こちらの方の解釈を取らざるを得ないであろうと思うわけです。ただし、こちらの解釈では異質労働問題は解決されていない事に注意すべきです。私が先に

「何らかの条件付きの下で」と申し上げたのは、一つの理由に異質労働問題は当面捨象するという条件が必要であろうという事があるわけです。

いずれにせよ私は、技術革新による社会的平均生産性の変化や部門内での生産技術条件の格差等の動学的短期的諸要因を捨象した下であっても、商品の労働価値は、価値形態すなわち市場での評価を経て事後的に抽象的人間労働単位が確定される事によって同時に決定されるとする頭川さんや(おそらく)榎原さんの見解には同意しません。[5]この種の見解が成立する為には、市場の長期的均衡において商品は労働価値比率で交換される事が前提されなければなりませんが、市場の長期的均衡において実際に成立するのは生産価格です。従って、頭川さんや(おそらく)榎原さんの見解は事実上、諸商品の労働価値をその相対比率が生産価格比に等しくなるようなものとして再定義する事を要請するものである、と言えるように思えます。[6]

これでは生産過程における労働搾取を反映するデータとして労働価値を捉えることが出来なくなります。マルクスの資本論第3巻の議論で、労働価値比率が生産価格比率に一般に成立しない事実は、費用価格を生産価格でなく労働価値で評価する段階の議論ですでに明らかにされたわけです。それは全ての生産部門での剰余価値率が等しいとき、部門間の資本構成の違いによって、労働価値比率に等しい価格の下では利潤率の部門間不均等が生じるからでした。部門間の資本構成の違いも全生産部門での剰余価値率が等しい状態も事実として存在した場合、労働価値比率を生産価格比率に一致させるという事は、資本構成を操作できないとすれば、労働価値は生産過程における労働搾取を正確に反映しないものとなります。

2.      松尾さんへのリプライ

        松尾さんの議論は、置塩学派としての数理マルクスモデルの議論、並びにアナリティカル・マルキシズムの搾取論に対する批判を展開するものです。その解釈は正統的な

マルクス主義の議論に即してモデルを解釈し位置づけようとするもので、その結果数理モデルによる分析によって、正統的なマルクス主義の議論を擁護する立場に立っていると言えるでしょう。

1) 価値方程式の解釈に関して

       置塩流価値方程式の解釈に関する松尾さんの見解が表れているのは、以下の箇所であろう。

置塩価値規定式は、異種労働還元がどのようになされたのかについては一切言っていない。・・・これが商品生産社会の分析に使われているならば、この式の示すものが現実に投下された労働とみなすのは誤解です。それは、価値形態を通じて抽象された労働なのです。すなわち、それに向かう自然発生的力が常に働きながら、常にそれをめぐって交換割合が動揺し続けるところの、長期平均的均衡において、はじめて成り立っている事態の描写です。

なお、別途、価値形態をダイレクトに表現する交換式から貨幣論や価格論などの展開につなげていく必要は認めますが、本質規定が現象形態の描写に先行するのが『序説』の方法論だったと思いますので、まずは置塩価値規定式から始まるのは正当だと思います。

この見解は、市場における交換割合が動揺し続けるところの長期的平均的均衡を介して初めて価値方程式が定義できるという論理になっているように読める。すなわち動揺し続ける市場における交換割合の平均値ないしはある収束値として得られた交換割合を抽象的労働に基づく交換割合と見なすと主張されている。この議論は、動揺し続ける市場における交換割合の平均値ないしは収束値を、市場メカニズムの運動とは独立に定義ないしは特徴付けられない限り、労働価値を価格に論理的に先行、ないしは独立に定義する事が出来ないという結論を含意するように思えます。「本質規定が現象形態の描写に先行するのが『序説』の方法論だ」という議論で「置塩価値規定式から始まるのは正当」と主張されるのは、正統派マルクス主義の方々には説得的であっても、そうではない方々には説明になっていないと見なされるでしょう。

       従って、私が松尾さんにお聞きしたい事は、労働測定単位の「抽象的人間労働」によるそれへの還元率の決定は、論理的に交換過程に先立って(あるいは独立して)生産過程で確定されると見なされているのか、それとも論理的に交換過程で初めて生成される(あるいは交換過程の帰結の関数として決定される)と見なされているのかという問題です。前者の見解に立つのが佐藤良一さんや私であり、後者の見解に立つのが頭川博さんや榎原さんであると位置づけられると思うわけです。前者の立場に立つ場合、異質労働の量的還元問題に直面します。それゆえに私は同質労働、単純労働のみからなる生産工程と労働賦存に関して全て同一な個人からなる経済モデルに議論を取り敢えず限定しています。他方、後者の立場に立つ限り、異質労働の量的還元問題は原理的に生じなくなるでしょう。なぜならば交換過程における異なる商品の等価関係の成立によって、異質な労働間でも抽象的人間労働としての量的な比較可能性が確立したと見なせるからです。その代わり、佐藤さんが頭川さんを批判したように、労働価値の決定は生産価格の決定に依存してなされるという議論に行き着く事になります。

2)       搾取論に関して

       搾取論に関する松尾さんのアナリティカル・マルキシズム批判、すなわち

アナリティカル派による「基本定理」批判の論理は、アナリティカル派がマルクスの人間主義的前提を共有していないことの現れ

は完全に的が外れています。まず、「バナナの身になれば、利潤が存在するのはバナナが搾取されているからだ」という主張をしているわけではない事はすでに私の榎原さんへの最初のリプライで明らかにしています。人間社会における生産関係の一歴史的形態としての資本主義経済での労働搾取の含意と「バナナの搾取」とを同列に扱えない事くらいは十分に承知しているわけです。また、資本主義経済で労働搾取が存在しないという事を主張しているわけでもありません。正の利潤の唯一の源泉として労働搾取の存在を説明するマルクス理論は、「マルクスの基本定理」によっては論証された事になりませんよ、と主張しているわけです。「バナナの搾取」とは要するにこの経済の生産技術体系の下での正の剰余生産物生産可能性をバナナをニュメレール財にして表現したものに他ならず、同じような解釈は労働をニュメレール財にして表現した場合にも成立するから、結局、マルクスの基本定理とは、正の利潤の存在の必要十分条件は正の剰余生産物生産可能性であるという命題を、正の剰余生産物をある特定の財をニュメレール財に選んだ上で表現しているに過ぎないという解釈も可能であるわけです。このような複数の全く異なる含意が導出可能な定理に基づいている限り、正の利潤の唯一の源泉としての労働搾取の存在というマルクス命題の論証にはならないと言っているわけです。それに対して、「アナリティカル派がマルクスの人間主義的前提を共有していないことの現れ」という批判で対応するという事は、「お前はマルクス主義のイデオロギー的立場を理解していないから間違っている」と言っているに等しいと思うのですが、いかがでしょうか?論証とは、異なる思想的立場に立つ論者に対しても、共有する論理的思考のルールに従って議論する事で、真命題であると認めさせるものであるはずです。置塩さんが近代経済学のツールを使ってマルクス命題の論証問題に取り組んでこられたのも、思想的立場を異にする近代経済学の人であってもマルクスの命題を認めざるを得ないように論ずる為であったと私は理解しているのですが、「マルクスの人間主義的前提を共有していない」という批判は、この論証問題に関する置塩派の敗北宣言に等しいと思うわけです。

       次に、「アナリティカル派がマルクスの人間主義的前提を共有していないことの現れ」という批判自体に関しても反論したいと思います。松尾さんは

人間の社会は、超歴史的に本来、人間自身のためにあるという立場、人間こそが経済活動の本源的主体であり最終目的であるという立場に立つのならば、投下労働価値・純生産体系こそが経済システムの本来的本質を表す表現だとしなければなりません。

と主張されます。この主張自体には、松尾さんがこの主張の論拠をどの程度熟考されているかは解りませんが、論理的飛躍があります。社会科学の目的は人間の社会・歴史を分析し特徴付ける事だという意味で、前半の「・・・立場に立つならば」までは同意するとしましょう。ではその立場に立つならばなぜ投下労働価値を採用しなければならないのか?この最後の結論に飛躍があるわけです。この結論に意味がある事を主張する為には、人間の社会・歴史を分析し特徴付ける議論の際に、労働価値概念を採用すればそれを明晰に議論できるがバナナ価値概念では労働価値概念ほどには出来ないという事を主張できなければなりません。

       例えば、資本主義経済での資本蓄積能力は生産技術が剰余生産物生産可能である事を観察する事で説明でき、剰余生産物生産可能性は任意の財1単位の生産の為に必要な直接間接のこの財の投入量が1以下である事の確認で観察できるわけです。この限りでは、ニュメレール財に選ばれる財が労働であろうとバナナであろうとどちらでも構わないという話になります。しかし労働価値を採用した場合には、剰余生産物の生産性を増加させる為のプロセスを分析する事によって人と人との生産関係の特性を見ることが可能になります。例えば、一単位の雇用された労働力からどれだけの多くの労働を抽出するかを巡る階級闘争の分析が可能となります。他方、バナナ価値を採用して剰余生産物の生産性増加のプロセスを分析する事とは、人が生産技術を発展させてバナナ一単位の投入からどれだけ多くの剰余生産物を産出できるかを分析する事に関わってきます。これらいずれが人間の社会・歴史を分析し特徴付ける説明力をより多く持つでしょうか?我々が人と人との生産関係、あるいは階級闘争の歴史的特性に関心がある限り、労働価値概念の方が説明力を持つと主張できるでしょう。他方、人間と自然との生産性を巡る闘いの観点で社会の分析を行う場合は、バナナ価値では駄目で労働価値なのだという結論になるかどうかは必ずしも明瞭でないと思います。例えば環境資源問題を考える場合は石油価値などがより有効な説明概念になるかもしれないわけです。

        では実際にアナリティカル・マルキシズムがどういう立場に立ってきたかという点を見てみれば、ジョン・ローマーに関して言えば、彼は人と人との生産関係、階級関係の分析に関心を持って議論してきたわけです。そしてその分析に有効な概念として労働価値を採用する事からスタートしたわけです。その結果、導かれたのがいわゆる「搾取・階級・富の対応原理」という議論です。松尾さんはすでによくご存知の議論ですが、榎原さんや恵さんがこの話に通じているかどうか解らないので、以下エッセンスを説明しておきます。[7]

今、収穫一定の生産技術体系が与えられた下で、全ての個人が同質の一単位の労働力を持っているが、物的資本財に関しては私的所有制度の下で個々人に不均等に賦存している状況を考えます。この状況で各個人は自分の与えられた条件下で収入最大化を目指して生産活動に参加し、市場を通じて財または収入を得るものとします。今、物的資本財を全く所有していない個人は市場を通じて自分の労働力を他人に売る、つまりある物的資本財所有者に雇用されて賃金収入を得るか、市場に参加せず生存ぎりぎりの自給自足の生活を送るかしかありません。前者の方が収入最大化という観点で望ましいので、物的資本財無所有の個人は雇用労働者になろうと行動します。他方、非常に大きい物的資本財を所有している個人は自力だけではその資本全てを有効活用できませんから他者を雇用して生産活動を行う事になります。それによって得る利潤収入を最大化すべく行動するわけです。この個人は自分でも働いて賃金収入に等しいものを、利潤とは別に受け取ろうとするかもしれませんが、資本所有が非常に大きくてその結果多数の他者の雇用から得られる利潤収入だけでかなりの額になっている個人は、わざわざ自分で労働してさらに賃金収入を受け取るよりも余暇の方を選好する結果、もっぱら他者を雇用して資本を稼動し利潤収入を得る形で生産活動に参加するかもしれません。他方、物的資本財所有量があまり大きくなく、自分の労働力だけでその資本を全て稼動できるような個人は自営業者的スタイルで生産活動に参加する事で収入最大化を実現できます。こうして各人の合理的な経済活動への参加の結果、物的資本財所有の非常に大きい個々人は、他者を雇用して資本を稼動し利潤収入を得るという形で生産活動に関わるという意味で資本家階級を構成する事になります。他方、物的資本財所有があまり大きくなく、自分の労働で資本を稼動するだけで十分な個々人は自営業者として生産活動に関わる事になり、これはいわゆる中産階級を構成することになります。他方、物的資本財が無所有の個々人は他人に雇用されて賃金収入を得るという形で生産活動に従事するか、あるいは雇用先を見つけられず産業予備軍になるしかないという事で、労働者階級を構成することになります。

        さてこうして人々の資本所有量のランキングに対応する形で、資本家階級、中産階級、労働者階級というランキングへの分類が内生的に生成したわけですが、さらにローマーは、正の平均利潤率が均衡において生じているときに、貧しい労働者階級の人々は労働被搾取者であり、豊かな資本家階級の人々は労働搾取者であるという搾取関係と階級関係の対応関係が内生的に得られる事を証明しています。簡単に言えば経済の純生産物の総労働価値量と総供給労働量とは一致する事が言えますので、誰かが自分の受け取る収入で購入可能な財の総労働価値よりも自分の供給した労働量の方が多ければ、他方で自分の受け取る収入で購入可能な財の総労働価値量の方が自分の供給した労働量の方より多い個人

がいなければならないわけです。前者は被搾取者であり後者は搾取者と定義されます。労働者階級に属する個人は労働力価値に等しいだけの財の総労働価値量しか受け取れないわけで、それが彼の供給労働量よりも少ないのは、正の利潤率とマルクスの基本定理を適用する事より解ると思います。かくして労働者階級の個々人は被搾取者である事になります。他方、今全ての個人の労働賦存量が一定と仮定しているので、資本家階級の個々人が仮に労働者階級の雇用された個々人の労働供給量と同じだけの労働を供給している場合でも、彼らの利潤収入の高さから、彼らが搾取者である事も理解できると思います。なぜならば、中産階級の個々人は、彼らの労働供給量(これは全ての個人の労働賦存量が一定の仮定及び、収入最大化の仮定より労働者階級の個々人のそれと同じ量になっています)と彼らの収入を通じて受け取れる財の総労働価値量とが一致している事が確認できるからです。従って、中産階級の人々と同じ労働供給量を提供し、かつ中産階級の人々よりもより多くの資本財を所有している資本家たちは、その利潤収入の大きさより、その収入を通じて受け取れる財の総労働価値量は労働供給量よりはるかに大きくなるわけです。かくして資本家たちは搾取者となります。

        最後に、では上記の資本主義経済における均衡において正の利潤率が生じる状況はどうやって説明されるでしょうか?労働搾取があるから、という説明では説明にならない事はすでに「一般化された商品搾取定理」で明らかにされています。今、経済の生産技術体系は収穫一定と仮定されていますから、この想定の下では新古典派経済学では生産における時間構造の存在しない場合、均衡において利潤率ゼロと説明されるか、ないしは生産における時間構造が存在する場合には、個々人の時間選好という追加的な概念の導入によって利潤を説明します。他方、ローマーは生産における時間構造が存在する経済モデルを考えますが、個々人の時間選好という追加的な概念は導入しません。代わりに物的資本財の総賦存量の総労働賦存量に比しての相対的希少性(つまり産業予備軍の存在)と物的資本財の私的所有制度によって正の利潤の存在並びにそれの資本財所有者への帰属を説明します。資本財を所有しない個人は自給自足の生活では生存ぎりぎりの財を得るに過ぎません。他方、資本財を活用する生産活動に従事すれば、資本財稼動による生産性の高さの為に、労働力の再生産に必要な財以上の余剰生産物の生産も可能です。このとき労働者階級に属している人々全員を一生産期間において雇えるほどに豊富な資本財量が社会全体として賦存してはいない状況を想定しています。[8]さらに、生産に時間構造があり産出物は一生産期間

の期末にようやく得られるとすれば、生産の時間構造がないモデルのように、同一期間中に産出された資本財を同時に生産要素として利用する事は不可能です。すなわち、一生産期間に利用可能な生産要素としての資本財の大きさはこの期間の期首において社会全体に存在する有限の資本賦存量に制約されるという構造が存在するわけです。その結果、労働者階級の中に、生産の期首において雇ってもらえない個々人が存在する事になり、これが賃金を労働力の再生産に必要な水準に貶める誘引となり、正の利潤が生成します。より高い賃金収入を要求する個人は雇用される機会を少なくするだけであり、労働力の再生産に必要な水準以上である限り、彼らにとっては雇用された方が失業するよりましなわけですから自分の条件を下げてでも雇用される機会を増やそうと行動するわけです。逆に資本財所有者からすれば、利潤に相当する額をも含むより高い賃金を要求する個人には雇用の機会を提供しないと宣言すれば、労働における買い手市場の結果、利潤を懐に入れられるわけです。

       以上の帰結は、資本主義経済における搾取関係・階級関係は正当化されるという事を意味するわけではありません。不均等な資本財の私的所有関係自体が批判の対象にされうるからです。マルクスの本源的蓄積論は、再生産プロセスの分析において前提条件とされてきた不均等な資本財の私的所有関係の成立自体が正当化されうる歴史的プロセスではなかった事を明らかにしています。さらにローマーの分析は、上記のような正の利潤率が生じうる経済環境を前提にする限り、資本主義経済における搾取関係・階級関係の成立の必要十分条件が不均等な資本財の私的所有関係の存在である事を示しています。このように、資本主義社会における人と人との生産関係の分析において労働価値概念並びに労働搾取概念が一定有効な説明装置である事を、ローマーは身をもって示していると言えます。

        実際、上述の搾取・階級対応原理の議論を、労働価値でなくバナナ価値でやったとしたらいかなる話になるでしょうか。資本所有量の大小関係と階級関係の対応性は価値概念が関係していないので、上記の議論がそのまま繰り返されます。他方、搾取関係はバナナ労働価値を用いて定義され、自分の所有するバナナを生産要素として供給した量よりも

自分が受け取った収入のバナナ価値の方が少ない個人が被搾取者、逆に多い個人が搾取者と定義される事になります。明らかに労働者階級は無所有ですから供給バナナ量はゼロに対して、雇用された場合賃金収入を得ますので、そのバナナ価値は正の値をとります。かくして彼らはバナナ搾取者階級になるという話になります。他方、資本家階級の中で、大量のバナナのみを資本財として所有している個人は、被搾取者になりうるわけです。逆に貨幣評価額としては同じ額に相当する資本財を持っている資本家であっても、その所有資本財にはバナナが一切含まれていなければ搾取者になるわけです。これは明らかに資本主義社会に対して我々が抱いている直観に反すると言うか、ないしは資本主義経済の分配機能に関して全く意義ある洞察を与えないものであると言うしかないでしょう。

       以上の議論より、ローマーに代表されるアナリティカル・マルキシズムにおける数理マルクス経済学研究が、決して労働搾取の存在自体を否定しようとするものではない事、並びに労働搾取概念の採用を通じて社会における人と人との生産関係を分析する試みをしてきているという点で、「マルクスの人間主義的前提を共有していない」という批判は間違っている事は十分に了解いただけるのでは、と思います。正の利潤の唯一の源泉としての労働搾取というマルクスの議論は却下したわけですが、階級関係が労働搾取関係を含意するというマルクスの歴史的社会構成体に関するものの見方が資本主義経済に関しても説得力を持ちうる事を論証して見せたわけですから。前者はマルクスのスミス流価値構成説批判、三位一体論批判の説得性に対する批判を投げかけましたが、後者はマルクスの階級社会批判を、限定条件つきではあれ、ある意味サポートする議論であるという位置づけも可能なわけです。

謝辞:この論稿を纏めるにあたって、佐藤良一さんの頭川批判論文(佐藤(1997))がたいへん参考になった。この論文の存在に関する情報、並びにコピーを送付して頂いた松井暁さん(立命館大学)に感謝いたします。2002629