一、 「近世的統計」事情
二、 「近代統計」と「国民国家」エジプト
三、 国民所得計算の導入
四、 エジプト「近代統計」事情
本稿は、政府統計と統計機構を中心に、エジプトにおける統計制度と統計事情の歴史的推移を整理したものである。したがって、たとえそれがよく完備されたエジプトに関する統計であっても、外国や国際機関が作成した統計は考察の対象から外される。また、対象とする時期は、19世紀初頭から今世紀の70年代における開放経済、構造調整の開始までである。
ところで、「政府統計と統計機構を中心に」という文言の意味するところは、ここでいう政府とは国民国家あるいは主権国家の政策担当者を指し、そのため、本稿は、統計の作成主体が国民国家であることを前提に、統計制度と統計事情を国民国家との関係のなかで問題にする、との謂である。ここではとりあえず、この国民国家が作成した統計を「近代統計」、それ以前の統計を「近世的統計」と呼んでおこう。(1)
そして、このように国民国家が作成した統計を「近代統計」と呼ぶならば、「近代統計」の到達点は、国民所得統計の整備ということになろう。というのも、国民所得統計こそ、国民国家が独立した経済主体として、自らの経済運営のために作成した統計だからである。
もっとも、国民国家をどう定義し、どのような指標をもって国民国家とするかは、それ自体多くの論争を引き起こす問題である。このことは、近代を自ら生み出しえなかった非ヨ−ロッパ世界について、とりわけ言えることである。そこでは、近代をいつ開始させ、その時代をどう評価し、それを現代とどう結びつけるかの、いわゆる近代論争は、いまもって熱く議論されている。
そこで、本稿では、その定義を含む、国民国家一般についての議論は避け、国民国家をあくまでも国民所得統計との関連から考察することとする。つまり、ここでは、国家統計の整備状況が、国民国家の成熟度をはかるバロメ−タ−として想定されている。その結果、国民所得統計が完備されたときが、すなわち、国民国家が完成したときである。
したがって、たとえばその国家が政治的に独立しているか植民地行政下に置かれているかなど、統計事情と深く関係するものの、その射程が統計事情をはるかに越える、その他の国政にまつわる指標は不問に付される。かくして、本稿の目的は、近代エジプトにおける「国民国家」エジプトの形成を、統計制度と統計事情の歴史的推移のなかで、国民所得統計の整備の過程として展望することである。
さて、本稿の目的が以上のようなものであるならば、本題に入る前にはっきりさせておかねばならないこととして、次の二点がある。第一は、いつからエジプトを「国民国家」として論じることができるのか、別の言葉を使えば、いつからエジプトの統計を「近代統計」として呼びうるのかという点である。そして、第二は、もし国民国家エジプトの形成以前に「近世的統計」があるとするならば、それらが「近代統計」とどうつながるのか、あるいはつながらないのか、という点である。
(1) 加藤博『私的土地所有権とエジプト社会』創文社、1993年.
(2) 加藤博「エジプト統計事情余話」ニュ−スレタ−『アジア長期経済統計デ−タベ−スプロジェクト』No.2, July 1996.
(3) 『農業統計整備技術協力マニュアル(エジプト・アラブ共和国)』農林統計協会、1995年.
(4) 宮嶋博史「比較史的視点から見た朝鮮土地調査事業−エジプトとの比較」中村哲ほか 編『朝鮮近代の経済構造』日本評論社、1990年.
(9) Kato, Hiroshi, “The Data on Periodical (Weekly) Market at the End of the 19th Century in Egypt−The cases of Qaliubiya, Sharqiya and Daqahliya Prov-inces−”Mediterranean World XIII,the Mediterranean Studies Group, Hitotsu-bashi University, 1992.
(10) Lyons, H.G., The Cadastral Survey of Egypt, 1892-1907, Cairo, 1908.
(11) Mabro,R. & Radwan,S., The Industrialization of Egypt 1939-1973, Clarendon Press, Oxford, 1976.
(12) Mansour, Fawzy, Development of the Egyptian Financial System up to 1967, Cairo, 1970.
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(1) この呼称は、本稿のもとになった参考文献(2) に対するコメントのなかで、尾高煌 之助氏によって使われたものである。そこでの氏のコメントは、本稿の執筆において 貴重なアドバイスとなった。ここに、改めて氏に感謝する次第である。
(2) それを示す一つの事例が、当時における使用言語の問題である。1882年の単独軍事 占領以後、イギリス植民当局は、公式言語として、アラビア語と並んで、英語を使わ せようとした。それまでは、フランス語がアラビア語と並ぶ公式言語であった。フラ ンス語、フランス文化がエジプト知識人に与えた影響は、決定的に大きかった。そこ で、イギリス植民当局のもくろみは、一部しか実現しなかった。また、1875年に、外 国人とエジプト現地人との間の、あるいは外国人同士の間の訴訟を扱うために設置さ れた混合裁判所の年次報告書は、フランス語とイタリア語で書かれた。
(3) 店田廣文氏、長沢栄治氏の御教授による。
(4) 日本植民地期に朝鮮で実施された土地調査事業は、19世紀末にエジプトで実施され た検地事業をモデルとしたものであった。参考文献(10)は、事業責任者の筆になるエ ジプト検地事業の報告書である。宮嶋博史氏〔参考文献(4) 〕は、この文献に依拠し つつ、エジプトと朝鮮の土地調査事業の比較を試みているが、氏によれば、19世紀末 のエジプト検地でさえ「近代的」ではなかった。
(5) 以下、この節は、主として参考文献(11)〔pp. 242-65〕に基づいている。