一、「近世的統計」事情


(1)エジプトにおける「近代統計」作成の画期


第一の点である、エジプトにおける国民所得統計形成の画期、つまりは、いつをもって「近世的統計」の時代と「近代統計」の時代の区切りとするかについては、その実質的な内容は後に詳しく言及するが、とりあえずここでは、それを1876年のエジプト財政破産から1882年のイギリスによるエジプト単独軍事占領までの時期としておく。

この時期は、エジプト側からみて、財政破産に端を発した政情不安のなか発生した、近代エジプト最初の民族主義運動であるオラ−ビ−革命(1881-82)を挟んで、エジプトがヨ−ロッパ列強、とりわけイギリスの実質的な植民地へと転落する時期であった。しかし、こと統計に関する限り、この時期において、「近代統計」作成への重要な一歩が踏み出された。つまり、それまで未分化であった王室財政と国家財政が切り離され、計算上、合理的な国民経済への道が開かれたのである。

その直接の転機は、エジプト財政破産後、債務を清算しヨ−ロッパ人債権者の利益を守るため、「エジプト債務委員会」が設立されたことである。この委員会は毎年、会計報告書 を発行したが、そこには、債務を清算するために担保とされた土地税を含むエジプト財源に関する情報が掲載された。

1882年、イギリスはオラ−ビ−革命の最中、ヨ−ロッパ人の債権者の権益を守ることを口実に、アレクサンドリアに軍隊を上陸させ、以後、イギリスによるエジプト軍事占領が続く。かくして、エジプトはイギリスの実質的な植民地となっていく。しかし、国際法上において、エジプトがイギリスの植民地になったわけではなかった。

イギリスの軍事占領は、あくまでヨ−ロッパ列強全体のエジプトに対する権益を守るという名目でなされた。そのため、イギリスの軍事占領下にあっても、イギリス以外のヨ−ロッパ列強はそれまでと同じく、エジプトに投資し、そこで自由に経済活動をすることができた。それは、エジプト行政当局、当時のエジプトの宗主国オスマン帝国、イギリス、そしてそのほかのヨ−ロッパ列強の権益、思惑が複雑に絡まり合う、奇妙な統治形態であった。(2)



 

(2)歴史資料としての「近世的統計」


第二の点である、「近世的統計」と「近代統計」との継続如何の問題は、統計を歴史資料として利用しようとする限り、避けて通れない大きな問題である。というのも、そこには、そもそも何で統計なるものが作成されるかという、統計作成に係わる根本的な問題が横たわっているからである。

実際、統計を作成するのは国民国家だけではない。近代以前のいかなる形態の政治権力もまた、統計を作成した。それらは、「近代統計」の基準からみたとき、いかにも稚拙なものと映るかも知れない。しかし、そのことをもって、その政治権力による国家運営が非効率的なものであった、と結論づけることはできない。

というのも、その時の行政機構の整備状況と統計技術を前提にするならば、政治権力の目的達成にとって、コスト面からみて、「近代統計」は「近世的統計」と比べて高くついたであろうからである。というよりも、より根本的には、そのコスト面を考慮する以前に、「近代統計」に類する統計はそもそも近代以前の政治権力の統治にとって必要であったのか、という問題がある。

われわれは、統計を統治のための手段である、との出発点から議論を展開している。そして、もしこの出発点が正しいとするならば、政治権力はその統治にとって必要な限りにおいて統計を整備する、ということになろう。ということは、見方をかえれば、われわれが残された「近世的統計」を前にして先ずなすべきは、「近代統計」を基準に、時の行政機構の不備と統計技術の稚拙さを指弾することではなく、その統計のみでよしとした、時の政治権力の統治理念を読み解くべきなのではなかろうか。

つまり、「近世的統計」に対しては、統計技術というテクニカルな問題を含む、統計の「量」的分析以上に、どのような種類の統計が、どのようなコンセプトのもとで取られているかという、統計の「質」的な分析が重視されねばならない、ということである。それは、「近世的統計」に「量」的欠陥をみるのではなく、「質」的含意を読み取ろうとする態度である。そこに反映しているのは、統計技術の問題を別にすれば、結局のところ、行政当局の統治観だからである。

この点において、エジプトの「近世的統計」は興味ある研究対象である。エジプトについて、まずなによりも指摘せねばならないこと、それは、この国が古来、典型的な水利社会であり、前近代の非ヨ−ロッパ世界において最も中央集権的な国家の一つであったことである。そのため、19世紀の近代の早い時期に、「国民国家」への道を歩み始めた〔参考文献 (2)〕。そして、この事実は当時の統計事情において顕著に現れている。ここでは、その例として、農民支配のための統計整備を取り上げてみよう。



 

(3)エジプトにおける「近世的統計」


さて、エジプトでは、すでに19世紀の前半、啓蒙的専制君主ムハンマド・アリ−(治世 1805-48年)のもとで、近代国家の体裁を整える目的の諸改革が実施された。そのなかには、その後の農民の生活に決定的な影響を与えた、1822年に施行された徴兵制と、村長制の導入を中心に、1830年代に実施された、村を行政の末端単位とする地方行政改革が含まれた。かくて、19世紀の中葉には、村単位での中央集権的な農民管理体制が確立することになる。

ところで、この農民管理体制を担っていたのは、村単位で作成された、次の三つの台帳である。第一は、世帯ごとの家族構成を示す「住民簿」、第二は、死亡者の報告台帳である「死亡登録簿」、そして第三は、徴兵された農民の名前と徴発日を記した「徴兵登録簿」である。

この三つの台帳がどのように関連づけられて農民に対する支配がなされたか、を具体的に示す一例が、「徴兵免除」嘆願文書である。「徴兵免除」嘆願文書とは、農民の御上への直訴に応えて実施された、当局による嘆願内容の真偽に関する調査報告書である。

次頁にとして掲載した「徴兵免除」嘆願文書の文面を解説すると、@が農民による「徴兵免除」嘆願文、Aが当局による嘆願書受理の確認、そして、BCDが当局による嘆願内容の真偽調査の結果報告である。

調査結果報告のうち、Bは「住民簿」によって嘆願人の家族構成を、Cは「徴兵登録簿」によって兵士の徴発日を、Dは「死亡登録簿」によって世帯主死亡を確認したものである。こうして、エジプト政府は、三つの台帳を使って農民からの訴えの真偽を確かめたうえで、しかるべき措置を取った〔参考文献 (1) pp.426-28, 433-35〕。

さて、この農民管理の実態からただちに気づくのは、この管理が「統計」に基づいたものだったということである。そして、この統計を提供したのが、これまでの研究では余り注目されてこなかった、1847年に実施された人口センサス( ta‘dad al-nufus)であったことは明らかである〔参考文献 (5)〕

この人口センサスが、詳細なものであったことは、先の三つの台帳を使った「徴兵免除」嘆願の真偽調査の内容だけからでもうかがい知ることができる。現在、カイロにあるフランス研究所がこの人口センサスにもられた統計のデ−タ・ベ−ス化を計っている。しかし、聞くところによると、その作業はサンプル調査結果の集計にあるようである(3)。ということは、この人口センサスについて、当時の政策当局は全国レベルの集計値を作成しなかったのであろう。

われわれはこうした統計を、「近世的」な統計と呼ぶべきなのか、あるいは「近代統計」と呼ぶべきなのか。統計収集の技術的な側面を取り上げて、その「近世的」性格を指摘することは容易である(4)。しかし、農民管理という実務的な側面からこの統計を取り上げるならば、そこでは村単位はもちろんのこと、世帯単位で統計が集計されており、その内容は、1880年代以降に整備された「近代統計」以上に「質」の高い側面をもっている。