四、エジプト「近代統計」事情

 

以下、エジプト「近代統計」事情を、1940年代以前と1950年代以後の二つの時期区分をしたうえで、整理してみたい。時期区分における決定的画期は、1952年のエジプト革命である。(5)

 

(1)1940年代以前

エジプトでは、公式な「近代統計」の刊行を1870年代にまで遡らせることができる。以下、この「近代統計」をいくつかのジャンルに分類して、整理してみよう。

 

  • 人 口 統 計 近代的な人口センサス事業は1882年に始まる。この年、最初の人口センサスが財務省統計局の監督下に実施された。これは、いわば準備段階での人口調査であり、事実上の第一回人口センサスとなる本格的な人口調査は、1897年になされた。以後、1907年、1917年、1927年、1937年、1947年と10年ごとに人口センサスが実施された。

     

  • 経 済 統 計 体系的に集計されたもっとも早い時期の農業、貿易年次統計はそれぞれ、

    であろう。その後、1880年代に入って、農業、貿易統計は整備されていく。1929年以降には、農業センサスも実施されるようになる。

    これに対して、工業関係の統計整備は大きく遅れ、20世紀に入って始めて、工業関係統計が刊行されるようになった。その原因の一つは、エジプトが、19世紀の後半以降、綿花栽培に特化したモノカルチャ−型農業経済をもつようになり、工業化については、大きく立ち遅れたからである。こうして、企業年鑑が刊行されるようになったのは1907年以降であり、工業センサスが実施されるようになったのは1947年以降であった。

     

  • 社 会 統 計 社会統計についても、人口統計の整備に伴い、19世紀の末以降、各種統計が整備されるようになる。1897年の人口センサス時には、人口調査に合わせて、人口以外の統計が収集された。

    は、その成果の一部である。

    そこには、村単位で、村民の生活に係わるさまざまなデ−タが記載されている。ただし、この著作は下エジプト・デルタ地方の3県だけを対象としており、続巻が予告されているにもかかわらず、ほかの県については、同様な著作が刊行されることはなかった。

    さらに、1907年の人口センサス時においても、それに合わせて、村単位での村民の生活に係わる経済、社会統計が収集された。財務省から刊行された、

    は、その成果である。

    また、1907年は、その後の時系列分析の起点となるような、詳細な教育統計が取られた年でもあった。

    以上でみたように、エジプトには、比較的豊富な「近代統計」がある。今世紀に入ってからは、時系列統計も入手できるようになる。その典型が、1909年以降刊行されている、

    である。

    そこには、次のような時系列統計が収められている。「人口」「公衆衛生」「教育」「司法」「裁判」「鉄道」「通信」「郵便」「海上運輸・貿易」「スエズ運河」「外国貿易」「農業」「財政」「公的債務」「貨幣・度量衡」。

    とはいえ、戦前におけるエジプト統計事情の最大の問題点、それは、「近代統計」が経済の重要な領域で欠落していることである。そして、それがどの領域であるかは、先に、マフム−ド・アニ−スによる国民所得分析を紹介したときに、指摘した通りである。

     

    (2)1950年代以後

    戦後、エジプトにおける統計事情は、量的に格段に向上する。しかし、このことは同時に、氾濫する統計データの処理をめぐって多くの問題点を抱え込むことでもあった。このことを、以下、主要な統計機関の変遷のなかで、後づけてみよう。

     

  • 50 年 代( 自 由 主 義 経 済 時 代 ) この時期の主要な統計機関は、1946年に設置された統計・センサス局( DSC )であった。統計・センサス局は多くの統計を提供したが、当時、提供された統計デ−タは質の高いものであった。それは、統計・センサス局が統計作成において、時系列の連続性に大いに注意を払ったからである。

    1952年のエジプト革命後、国家経済の計画化が計られた。こうして、1957年には、第1次五カ年計画(1960-65年)の準備を目的とした国家計画委員会( NPC )が設置された。この委員会には、有能な経済学者と統計学者が集められ、フリッシュ、ティンバ−ゲン、ハンセンなどの国際的に著名な学者の諮問を受けた。かくして、1945-54 年に関する一群の国家統計が整備されることになった。1959/60 年には、この年を第1次五カ年計画の基準年とするために、input-output matrix と commodity flow tablesが作成された。

     

  • 60 年 代( 社 会 主 義 計 画 経 済 時 代 ) この時期、統計・センサス局( DSC )が中央統計庁( CAPMAS )に、国家計画委員会( NPC )が計画省に、改組された。中央統計庁は統計デ−タを集中的に管理する機関として、軍事的な人員管理と民事的な統計管理の二つの任務を持つことになった。その結果、統計業務の中央集権化は格段に進展したが、同時に、統計管理の秘密化が生じ、統計デ−タへのアクセスが困難になるという弊害も生じることになった。

    かくして、戦前と比べて、統計資料の量とカバ−する範囲は拡大した。ところが、不幸なことに、中央統計庁は先行機関である統計・センサス局の統計刊行物において採用されていたコンセプト、項目分類、フォ−マットを変更してしまう。

    さらに、中央統計庁は統計管理の集中化を計るなかで、ほかの機関による統計編纂を制限した。そのため、政府省庁こそかろうじて独立性を保ったものの、小さな機関、たとえば、 Research Department of the National Bank、Federation Egyptienne des Industries などは、その活動を縮小した。

    こうして、この中央統計庁への統計業務の集中化は、統計デ−タの量的拡大とは裏腹に、統計デ−タに対する検証手続きの不足をもたらした。その結果、統計デ−タの整合性、連続性が著しく弱まり、経済分析における、質的低下が生じることになった。

    その一方で、国家計画委員会( NPC )を継いだ計画省も、エジプト経済の指南役の座が中央統計庁へ移ったことにともなう、スタッフの頭脳流出によって、かつての統計業務に関する高い専門性を失っていった。

    以上、戦後のエジプト統計事情を要約すれば、次のようになる。確かに、この時期において、統計デ−タの量は格段に増えた。その質も改善された。しかし、統計デ−タの整合性、連続性に関しては、深刻な問題点を抱え込むことになった。

    その理由は、第一に、統計を編纂したいくつもの政府機関、官庁が、それぞれ突き合わせの困難な統計を提供したことである。そして、第二に、ひとつひとつの政府機関、官庁を取り上げてみても、国民経済計算、人口センサス、貿易統計、工業センサスなどの重要な統計に関して、コンセプト、期間カバレッジ、フォ−マットを、詳細な説明、理由の指示なしにたびたび変更したことである。

    とりわけ深刻な問題は,長期の系列統計において、1950年代と1960年代の統計デ−タの間に大きな性格の違いがあることである。このことは、統計資料の性格や質が、経済体制、さらには政治体制に大きく依存していることを示している。エジプトは70年代になって、それまでの社会主義的な計画経済を放棄し、開放経済・構造調整の時代を迎えたが、この70年代の前後におけるエジプト統計事情も、同じ理由による、統計デ−タ間の整合性、連続性の欠如に直面した。