民国人口:研究史の整理と展望(1



南 亮進:監修

羅 歓 鎮






1. は じ め に

2. 民 国 に お け る 人 口 調 査

    2-1 民国までの中国人口統計調査

    2-2 1912年人口調査及びその整理

    2-3 1928年人口調査

    2-4 1936年人口調査

    2-5 1947年人口調査

    2-6 地域的人口調査

3. 解 放 後 の 民 国 人 口 研 究

    3-1 解放後の人口推計

    3-2 直接推計

    3-3 人口成長率で推計

    3-4 高位グループ推計の問題点

4. 民 国 人 口 推 計 の 展 望

    4-1 調査・統計方法に対する評価

    4-2 人口データに対するチェック

5. む す び

参 考 文 献

















1.はじめに

70年代末以降の中国の急速な経済成長は内外から注目されている。この経済成長の源流を探る試みは多く行われているが、解放前と解放後にわたる経済成長の連続性に注目する説がある( Rawski[1989]、原[1996]pp.195-202 )。それと平行して、中華民国史研究の分野にも、北京政府を含む中華民国政府の政策やその経済実績を新しく評価する動きもある(野澤[1995])。解放前の中国、特に中華民国における経済成長に対する評価を厳密に行うために、統計資料の整備は不可欠である。その中で、人口データの整備はもっとも重要な一つであることは言うまでもあるまい。

しかし、周知のように、統計資料の整備に立ち遅れた解放前中国は、近代的人口センサスを行うことができなかった。現在利用されている民国人口データはすべて推測・推計に過ぎないし、それらの間には大きなギャップが存在している。

本稿の課題は今までの研究を整理し、その問題点及び既存資料の利用可能性を検討し、これからの民国人口研究を展望することにある。















2. 民 国 に お け る 人 口 調 査

    2-1 民国までの中国人口統計調査

    2-2 1912年人口調査及びその整理

    2-3 1928年人口調査

    2-4 1936年人口調査

    2-5 1947年人口調査

    2-6 地域的人口調査












2.民国における人口調査


2.1 民国までの中国人口統計調査

中国は世界で最も早めに人口調査を行った国の一つである。秦(紀元前221〜前206)は中国歴史上初めて全国人口調査を実施した(2。しかし、その調査の結果は保存されていない。現在、保存されている最も早い時期の人口データは紀元後2年における西漢の人口(12,233,062戸、59,594,978口)である。これは世界上最も早く、正確な人口調査記録であるといわれている(3。以来、中国の歴代統治者は全国の戸籍や人口を調査してきた。しかし、18世紀初め頃までほとんどの人口調査は賦役徴税のためで、調査の範囲はほとんど賦役の当事者(いわゆる「丁」)に限られた。また、人口調査と賦役徴税(特に人頭税)が直接に繋がっていたので、人口調査には、被調査者が協力どころが、抵抗しがちであるという制度的欠陥が内包していた。1712年(康煕51年)、清政府は「盛世添丁、永不加賦」政策を実施した。つまり、新しく増加した人口に人頭税を徴収しないようになった。これによってこれまでの戸籍登録と賦役徴税とが繋がった制度が改革され、中国人口史上の革命となった。1741年清政府の人口統計対象が「丁」から全人口に拡大した。しかし、多くの原因で、十分に信頼性のある人口調査が行われなかった。1776年乾隆帝の厳命で、人口統計を正確に行うために、保甲制度および回転簿(循環冊)(4制度が整備され、統計調査の信頼性が高まった。このような信頼できる人口調査は1850年まで続いた。

1851年に太平天国蜂起が起きて、清政府の統治が多くの地域で崩壊した。また、太平天国に制圧されていなかった地域でも、太平天国蜂起を鎮圧するために、民団など地方軍隊の組織に急ぎ、軍人になれるような成人男子に人口調査の重点がおかれた。このようにして、従来の保甲制度が機能しなくなり、人口の調査・報告制度が中断された。1870年代になると、清政府は、太平天国を鎮圧し、形式上全国を統一し、保甲制度による人口調査を再開したが、実はすでに本格的な調査ができなくなった(5。このような経緯で、毎年末に全国人口を登録し続けた『清実録』は1874年(同治13年)から全国人口登録を中断した。これは1741年(乾隆6年)からの保甲制度を基礎とする人口調査統計制度の終結を意味している。また、戸部の『清冊』の人口統計は1899年に中断した。

1900年前後、清政府は内外情勢に適応するために、「新政」を実行しようとした。すでに崩壊した保甲制度の代わりに、警察制度が導入され始めた。1905年警察部(巡警部)が設立された。それは翌年に民政部に改名され、人口調査がその業務の一つとなった。1908年、清政府は立憲体制を準備するために、内務部統計司を設立し、「人口調査6カ年計画」を策定した。すなわち、1年目は「調査戸口章程」を公布する(11章40条、表式5)(6。2年目は各省の戸数を調査する。3年目は各省の戸数をまとめ、『戸籍法』を制定する。4年目は各省の人口を調査する。5年目は各省の人口をまとめ、『戸籍法』を頒布する。6年目は『戸籍法』を実行する。その後、政治形勢の変化によって、その6カ年計画は4年間の内に実行するようになった。

清末の人口調査は次の調査方法を採っていた。調査員は、民政部が指定した方式で、指定された地域の各世帯に番号をつける。一つの世帯に一つの番号を付ける。同じ場所に2つ以上の世帯が住んでいたら、一つは正式の世帯(正戸)で、その他は付属の世帯(附戸)とする。世帯数を調査すると同時に、世帯主の名前も調査する。人口を調査するに際して、調査員は編制された世帯数にしたがって、世帯主に民政部の調査票を手渡し、世帯主に記入してもらう。調査票には氏名、性別、年齢、籍貫、職業、住所など項目が設けられていた。

1909年に調査票が公布され、1910年に調査が始まった。まず、世帯数調査が行われた(同時に、いくつかの省は人口調査も行った)。1911年各省は人口を調査した。同年、辛亥革命が起きたため、この人口調査が中断した。その故に、いくつかの省は調査結果を報告することができなかった。多くの省は世帯数を報告したが、人口は世帯規模から推計した。清政府は満族人口の選挙票を増やすために、関内18カ省は1世帯当たり5.5人で、関外は一世帯当たり8.38人で計算するようと規定した。調査の結果は正式世帯が54,668,004、付属世帯が14,578,370、合わせて69,246,374であった。人口は男が139,662,411、女が99,932,208、全部で239,594,668人であった(7

1911年に陳長衡氏はこれらの数字を収集し、修正した。全国18省の世帯人口は66,880,591世帯、341,826,088人と計算した。それに、東北三省、新彊、満州軍旗各部落及びチベット人口を加えると、全国は71,264,000世帯、368,245,000人となった(8(付表1)

清末人口調査に対して、否定的評価と肯定的評価がすでに下されている。何や葛はこの調査が完全に失敗したと断定しているが(9、王[1933]や米など[1997]は高く評価している。確かに、近代的な人口センサスの規範から評価すると、清末の人口調査は多くの問題を抱え、正確でなかった。しかし、調査員を派遣し、一定時期における人口やその構成を調査することは中国で初めてのことで、多くの人口調査の出発点になった。また、清末人口調査は、多くの人口資料を残し、中国近代人口に対する推計・研究の出発点として、評価すべきであろう(10










2.民国における人口調査


2.2 1912年人口調査及びその整理

1912年に、中華民国が成立した。それから1949年国民政府崩壊までの38年間において、民国政府は人口統計を重視し、全国規模の調査を3回行った。また、多くの省が中央政府の調査条例にしたがって、それぞれ人口調査を行っていた。その上に、多くの学者や民間の調査機関も中国人口を調査・推計していた。それゆえに、民国人口データはもっとも多く残っている(11。しかし、様々な原因で何度も計画された人口センサスは結局実行しなかった。

新しく成立した民国政府(北京政府)は議会選挙を実施するために、清末の人口調査結果を整理しながら、もう一度人口調査を実施しようとした。人口調査は原則として警察が担当し、警察がないところでは、地方の民団(保衛団)が担当した。警察も民団もないところでは、地方官僚が当該地の「紳士」の協力を得て行うと規定されていた。調査方法は世帯調査である。調査項目には現住戸数、現住人口の氏名、性別、年齢、婚姻、職業、出生率と死亡率等がある。しかし、調査時点は明確に規定されていなかった。1912年調査は実際清末人口調査の継続といえる。

1912年調査は全国調査であったが、実際に調査したのは江蘇、浙江、江西、湖北、湖南、四川、直隷、山東、山西、河南、陝西、甘粛、福建、雲南、貴州、遼寧、吉林、黒龍江、新彊19省と綏遠と京兆という二つの特別区であった。安徽、広東、広西などは調査しなかった。また、調査されても、結果にはミスがみられた。もっともひどかったのが河南省である。陳の研究によると、河南省の一つの県では男女人数は全く同じで、その他の県では男子人口は女子人口の3〜5倍ないし64倍になっていた。1934年『中国経済年鑑』は陳が修正した結果を発表した。陳は明らかに過大である河南省と湖北省及び調査しなかった省の人口を清末調査の結果で置き換え、1912年全国人口を推計した。それによると、全国は76,638,000世帯、411,643,000人であった(付表2)

1915年、北洋政府は『県治戸口編査規則』と『警察庁戸口調査規則』を公布し、「調査は現住人口を準とする」ことを強調し、もう一度人口調査をしようとした。しかし、1916年の人口調査を行った省は1912年より減少した。

1916年に坎世凱が死去した。それによって、北洋政府は人口調査能力がなくなった。その代わりに税関や郵便局などによる人口調査や推計がいくつか行われた。

1912年人口調査に対する評価も清末人口調査に対する評価と同じように、学者によって異なる。1912年の結果と清末の結果を比べれば、世帯数や人口はすべて増えてきた。これは1912年調査の漏れが少なくなったのではないかと考えられる。










2.民国における人口調査


2.3 1928年人口調査

1927年に、南京で国民政府が成立した。それによって北洋政府時期の軍閥戦争が終結し、形式的には全国が統一された。

国家統一は軍事行動が終結し「訓政」が始まることを意味する。正しい人口資料はすべての政策の出発点であると認識され、国民政府は全国人口調査を実行しようとした(12。1928年、内政部は「戸口調査統計報告規則」を制定し、各省市政府に通告し、調査するよう依頼した。その「戸口調査統計報告規則」には、調査統計表式がつけてある。調査案は次の通りである。
@調査表は住戸、船戸、寺廟と公共住所に分け、常住人口を調査する。
A調査項目としては、住戸、船戸調査表には氏名、性別、世帯主との関係、婚姻状況、子供の有無、年齢と生年月日、籍貫、国民党に加入したか否か、住居年数、職業、教育程度、宗教、体の不自由さ、とその他で14項目が設けられた。公共住所と寺廟の調査表の項目はそれより簡略であった。
B調査は区画によって行う。自治章程が実施された省は自治区によって行う。その他の省市はすべて警察管轄区によって調査する。警察管轄区がまだ設立されていないところでは、地方官署や保衛団や民間の慣習によって区画し、調査する。
C調査の標準時間が規定されず、調査結果は1928年の12月末に報告するようと明記していた。

この調査では、調査の標準時間を規定されていないだけでなく、具体的な調査方法も規定されていない。そのために、各省市の民政庁は各地の実状に応じて自分なりの調査表を作成し調査した。この調査表は必ずしも内政部の表式とは一致していない。従って、得た数字も確実でないものもある。

1929年までに江蘇、浙江、安徽、河北、遼寧、湖南、陜西、山西、湖北、黒竜江、新彊、綏遠、察哈爾の13省及び南京、上海、北平、天津、漢口の5特別市は調査し、報告した。ただし、調査項目は戸数と男女別人数に限られ、その他の項目は完全でなかった。報告された総人口は211,930,000であった。陳は清末及び1912年人口を基礎にし、それからの調査した省の人口平均成長率(7.3‰)を計算し、その平均成長率を調査しなかった各省に適用して、全国人口を推計している。それによると、全国総人口は441,849,148人である。内政部は陳の推計方法と異なって、調査しなかった省の人口に対しては、当該省の最近の調査数字をベースとして、その土地面積と人口密度を隣の省のデータを利用して推計した。その結果、全国人口数は474,786,000であったと推定されている(付表3)

1928年の内政部調査に対して、ミスが多く、正しくないという批判がある(13。しかし、これはいくら問題があっても、国民政府が全国を統一してからの調査であるため、民国人口研究に重要な位置を占め、後述するようにいくつかの重要な推計の出発点となっている。

1932年に、国民政府は従来の警察の調査能力を補足するために、保甲制度を回復させた。それから保甲制度を通じて、多くの人口数字が収集された。










2.民国における人口調査


2.4 1936年人口調査

1936年に国民大会の代表を選出するために、内政部は各省市政府に人口を報告するよう求めた。断片的でありながら、30の省市は内政部に人口を報告した。その人口の多くは保甲制度を通じて収集した人口(以下「保甲人口」という)である。内政部は報告された人口を整理し、その結果を『戸口統計』(1938)に公表した。それによると、全国総人口は、台湾を除くと、479,085,000人である(海外在住の華僑7,838,888人を除くと、大陸総人口は471,246,000人である、(付表4))。これは日中戦争までの民国政府の最後の人口調査である。

1936年人口調査は主に保甲制度によって行われた調査であるので、調査漏れがより多くなったことは想像しやすい。学者はそれほど評価していないが、章は1928年の人口調査資料とともに1936年の調査資料を利用している。










2.民国における人口調査


2.5 1947年人口調査

1946年抗日戦争の終結によって、復員のために、内政部は各省市に人口調査と戸籍登録整理をするようと求めると同時に、別式の「郷鎮保甲統計表」を用意し、各省市がそれぞれの人口調査と戸籍整理に基づいて、毎年の1月と7月に内政部に報告するよう命じた。それにしたがって、多くの省市は人口資料を報告した。1947年7月と1948年1月にそれぞれ1947年上半期と下半期の人口データを公表した。それによると、台湾を除くと、全国人口は457,111,000人である(付表5)

1947年の人口は各省市の保甲人口である。当時、多くの地域はすでに中国共産党によって解放され、解放区になっていた。ある推計によると、1946年1月に、解放区人口は1億4900万人、全国の1/3を占めるに至った。1947年は解放区人口は少し減少したが、まだ1億3100万人を抱えていた(14。国民党政権はすでに崩壊中であった。そのため、1947年には、多くの地域では保甲人口に対して、調査統計が実施できなかったはずで、民国政府が発表した数字が全くのでっち上げであることは容易に想像できる。したがって、40年代後半の政府統計については学者はあまり評価せず、利用していない。しかし、民国における全国的人口統計はそれが最後であるので、ここでとにかく紹介する。

1947年、主計処人口局が設立され、人口センサスを準備し、『戸口普査法』を公布した。しかし、国民政府崩壊に伴って、民国政府による大陸での人口センサスは永遠の夢になってしまった。










2.民国における人口調査


2.6 地域的人口調査

以上のような中央政府による全国人口調査は必ずバイアスが存在するとした上で、民国の初め頃、多くの学者は近代的な人口センサスを実行しようと提案した。しかし、政治、社会、経済など様々な要因で全国規模の人口センサスは実現できなかった。そこで、社会学者や人口学者及び中国農村研究家などによって多くの地域的人口調査が行われた。それは正確な人口データが不足である中国にとって大変貴重な資料であり、現在でも我々が民国人口を理解するに当たって貴重な手がかりである。中国で初めて地域的人口調査を試みたのは金陵大学のアメリカ人教授のバックである。その調査を通じて、バックは農村人口資料を多く収集した。初めての本格的人口センサスは1932年の金陵大学とScripps Foundation For Research In Population Problem(Oxford、Ohio)との共同で江蘇省江陰県峭岐鎮で行った人口調査である。それから、多くの人口センサスが行われた。詳しくは表1にまとめられている。

それらの人口調査や人口センサスは主に静態人口に重点を置いたが、人口動態に関するデータも多く残してある。それらによって、我々は初めて民国人口の真実に接近できるようになった。しかし、それらはあくまでも地域的なもので、また民国のような政治的・社会的不安定的環境の下で、本当に調査できたのはほとんどが経済的に進んで、政治的・社会的に安定した地域に偏っていると考えられる。したがって、それらのデータにはある程度のバイアスがあることに注意しなければならない。


すでに述べてきたように、近代的人口センサスの標準で測ると、上述した4回にわたる民国人口調査はすべて合格でなかったことは明らかである。調査対象が常住人口(de jure population)か現在人口(de facto population)かは明確でなかったし、調査時点も一律に規定していなかった。しかも、1936年と1947年の調査は調査員による調査でなく、一種の報告統計にすぎなかった。報告統計のバイアスは現在でも大きいが(15、戦前の政治的不安定の中国ではより大きかったことも想像しやすい。また、4回にわたる人口調査結果は、原データそのものではなく、学者及び政府の関係部門によって再加工・再整理されたものである。その再加工・再整理のプロセスにおいて、ある程度のバイアスが加えられたことも考えられる。この意味では、調査結果、あるいは再整理された結果を利用することは危険が伴うことは確かである(16

学者や地方政府が行った地域的人口調査は多くの人口データを残していた。しかし、それらの調査は全国規模の人口調査でないため、如何にしてそれを用いて全国人口を推計するかが大きな問題である。















3. 解 放 後 の 民 国 人 口 研 究

    3-1 解放後の人口推計

    3-2 直接推計

    3-3 人口成長率で推計

    3-4 高位グループ推計の問題点












3. 解 放 後 の 民 国 人 口 研 究


3.1 解放後の人口推計

解放後、民国人口研究は、人口の規模のみならず、人口の構成(性、年齢、職業)や人口の動態(出生率、死亡率、社会移動)を対象として、幅広く検討されている(17。ここでわれわれは、主に人口規模の研究に重点をおいて整理する。

近代中国社会経済発展を研究するに際して、人口データが不可欠である。しかし、上述したように、解放前の人口データは多くの問題が抱え、そのまま利用できないために、50年代の国連人口推計を始め、内外の研究者によっていくつかの人口推計が行われている。それらの統計・推計のうち、次の8の研究は特に重要であると考えられる。

表2に列挙された民国人口に関する統計・推計は、二つのグループに分けることができる。第1グループは趙・謝の推計であり、1910年代の人口が約4.1億、30年代の人口が約4.5億であったと推定されている(19。第2グループは残りの推計で、1910年代は約4.5億で、30年代の人口は約5億であったと推定されている。つまり、二つのグループの間に約5,000万人の差が存在している。ここで、われわれは前者を低位グループ、後者を高位グループと呼ぶことにする。趙・謝推計は解放後に行われているが、解放前の諸推計と同じように1953年の人口センサスの結果を利用していない。全体からみると、章推計をのぞけば、1953年のセンサス結果を利用しなかった推計は低位グループとなり、利用した推計は高位グループとなっている。

1953年人口センサスによると、1953年の大陸人口は5.83億人であった(20。1953年センサス結果の信憑性に対して多くの議論があったが、これは中国歴史上初めての本格的人口センサスで、その結果がもっとも正確であると考えられる。中国歴史人口を推計するに際しては、1953年の結果がベンチマークとして広く利用されている(21。1953年の人口が5.83億人であることを考慮に入れて、それまでの中国人口推計を展望すると、低位グループはすべて過小推計であると判断される。すなわち、もし、1910年代初め頃中国人口が本当に約4.1億ならば、1912-1949年の人口増加率は7.8‰になる(22。この成長率はこの間の戦争や自然災害など様々な歴史的出来事と照らしてみると、あまり高すぎる(23

ここで我々は、上の結論に基づいて、低位グループ推計における方法論に対する検討を省略し、高位グループの諸推計を具体的に検討していきたい。










3. 解 放 後 の 民 国 人 口 研 究


3.2 直接推計

高位グループに分類されたのに国連推計、Liu・Yeh推計、Perkins推計、 劉・黄推計、葛推計、章推計および尾上推計がある。これらの推計は資料の利用方法によってさらに二つのサブ・グループに分けることができる。すなわち、解放前の中国人口に関する統計や推計を利用するサブ・グループと利用しないサブ・グループである。解放前の中国人口に関する統計や推計を利用するサブ・グループは、1953年のセンサス結果を利用しても、主として過去の人口資料を利用して、何らかの形で修正したり、補足したりして人口を推計していた。この方法を直接推計と呼ぶ。これにはLiu・Yeh、Perkins、劉・黄、葛と章推計がある。それに対して、過去の統計や推計を全然利用しないサブ・グループは1953年のセンサス結果をベースにして、近代以来の人口増加率を推定あるいは仮定して、中国人口を推計している。この方法を人口増加率での推計と呼ぶ。これには国連と尾上推計がある。

直接推計においては、解放後初めて中国人口を推計したのがLiu・Yeh〔1965〕である。 Liu・Yehは1933〜1959年の中国における経済発展と国民所得を研究するに際して、1933年の中国人口を推計している。 Liu・Yehは王推計〔1935〕(24を基礎にして、いくつかの省(福建、貴州、寧夏、西康、四川)のデータを調整した上で、有名なSimon Kuznetsの指導下で行われた戦前人口調査における性比(112)及び乳幼児の報告漏れ率(約5%)を利用し、各省の人口を推計している(25

Perkins〔1969〕は1368〜1968の中国農業発展を研究するに際して、その期間における中国人口を推計している。ここで、我々が関心のある民国人口については、 Perkinsは次の方法で推計している。すなわち、国民政府中央農業実験所と金陵大学農業経済学部が全国22省の1,622の農情報告員の報告によって推計された1893〜1933(1873=100)年の人口変化指数(26と、Liu・Yehが推計した1933年の人口をリンクして、1912〜1933年の人口を推計する。また、推計された結果を各省の歴史事件と照合しチェックしている。

劉・黄〔1977〕は人口・経済モデル(demographic-economic model)を作成して、長期にわたる人口動態を推計している。しかし、中国歴史人口は基本的にPerkins推計を利用して、内挿法で計算したもので(1910、1920、1930年)、著者自身は人口推計をしてはいない。

葛〔1991〕は中国大陸でのはじめの人口通史である。そこで、民国期人口については葛は当時の人口調査統計制度を批判的に考察し、発表された多くの統計や推計がすべて信用できないと結論している。葛は1953年のセンサス結果(5.83億)を基礎として、民国人口の成長率が高くとも5〜6‰であると想定し、1912年の人口は少なくとも4.3〜4.5億であったと判断している。しかし、それはあくまでも想定であるため、具体的な推計ではない。

上述した諸推計と異なって、章〔1991〕は1953年センサス結果を利用せず、主に民国政府の人口調査資料を利用して、もとのデータが明らかに不合理な省、統計・報告していなかった省については、他の資料で補足する。すなわち、1912年の省別推計は主に『内政年鑑』を利用する。しかし、直隷、安徽、雲南、湖北、広東の人口は低すぎて、『中国形勢一覧図』のデータを利用する。また、甘粛の人口は『内政年鑑』が低すぎて、『中国形勢一覧図』は高すぎるため、その両者の平均を使う。また、山東、四川の人口は宣統3年(1911)のデータ(『清史稿・地理誌』による)を利用する。貴州、広西は1919年の郵便局の推計を利用する。チベットは二つの数字があるが、166万の数字を用いる。1928〜36年の推計は国民政府内政部の1928と1936年の人口調査に主に依存し、『中華民国省県地名三彙』を参考にして、推計する。1949年の推計は中央人民政府農業部が修正した統計『全国総人口農業人口統計表』(内部資料)を利用している。

以上から分かるように、この五つの推計の中ではLiu・Yeh 推計と章推計が特に重要である。










3. 解 放 後 の 民 国 人 口 研 究


3.3 人口成長率での推計

人口成長率を用いて、推計したものに国連と尾上がある。国連〔1959〕は1960年代以降の中国人口成長を予測するために、1953年のセンサス結果を基礎として1910年までの中国歴史人口を逆遡及している。解放前及び解放直後に行われたいくつかの出生率・死亡率調査を用いて、1910〜49年における出生率を37‰で、死亡率を34.6‰と仮定して(すなわち、人口の自然増加率を2.4‰と仮定する)、解放前中国人口を推計している。

それに対して、尾上〔1977〕はまず東北三省及び近代部門(主に都市部)人口を直接推計してから、中国人口の大部分を占める伝統的農村部の人口については、その自然増加率を解放前の調査による出生率と死亡率に基づいて、次のように仮定する。


                 モデル1     モデル2

  1890〜1937年 年間増加率    3‰        5‰
  1937〜1945年 年間増加率    1‰        3‰
  1945〜1950年 年間増加率    3‰        5‰











3. 解 放 後 の 民 国 人 口 研 究


3.4 高位グループ推計の問題点

上述した諸推計はいくつかの問題を抱えていると考えられる。直接推計は、政府機関が調査・発表した統計(以下「政府系統計」と呼ぶ)を利用して、それを修正しているが、その修正の根拠は必ずしも明らかになっていない。この問題は章推計においてより深刻である。すなわち、政府系統計に対する修正は相当恣意的といわざる得ないのである。自然増加率での推計が抱える問題はさらに深刻であろう。まず、国連の場合、本世紀10年代から50年代まで中国の人口増加率を2.4‰と一律に仮定することは無理であろう。表3からわかるように、解放前の中国において、人口増加率の変動が相当に激しいのである(27。尾上推計は期間ごとの人口変動を仮定しているが、その仮定の根拠を十分に示していない。また、成長率での推計は全国人口を推計しているが、省別人口を推計していない。しかし、中国のような広大な国の社会経済を分析するに際して、地域分析は不可欠である。したがって、省別人口を推計することが望ましいのである。それに、増加率での推計方法は簡潔とはいえるが、多くの資料が利用されていない。たとえば、性比や乳幼児率に関する資料、地域的調査による推計された生命表は、中国人口推計に際して大変参考になると考えられる。















4. 民 国 人 口 推 計 の 展 望

    4-1 調査・統計方法に対する評価

    4-2 人口データに対するチェック






上述したように、今までの民国人口研究はさまざまな問題を抱えているものの、民国人口を推計することは不可能ではない(28。民国人口を推計するに当たっては、直接推計と成長率での推計という二つの推計方法があるが、民国時期の関係資料を用いての直接推計の方がより有効であろう。民国人口資料には、全国及び省別の人口統計(推計)のほかに、「族譜」や「県誌」などの資料がある。それらの資料はミクロ的人口研究に大変有効であるが、如何にしてこれらの資料を用いて全国人口を推計するかは大問題である(29。そのために、民国人口を推計するに際して、主に民国人口統計(推計)資料を利用せざるを得ないのである。

そのために、上述4回にわたる民国人口調査データが利用できるか否かを評価する必要がある。










4. 民 国 人 口 推 計 の 展 望


4.1 調査・統計方法に対する評価

歴史人口資料を評価する方法が二つ考えられる。一つは人口データの統計収集方法を考察すること、もう一つは歴史人口データそのものに対するチェックである。人口データが適当な方法で収集されたならば、一般的にその資料は信頼度が高いと考えられる。

すでに述べたように、4回の統計調査は二つの種類に分けられる。1912と1928年は人口調査であるが、1936と1947年は人口報告である。

まず、人口調査を分析する。人口調査はその調査項目は異なっているが、人口の規模を推計することに必要な諸項目はすべて含まれている。多くの学者はそれらの資料を利用できないと断言する理由は調査方法の不完全さにある。確かに、調査員を派遣しなかったり、でたらめに調査票に記入する事例がある。しかし、全体として、地域間のバイアスがありながらも、ある程度行われていたのではないかと思われる。たとえば、1928年の調査で、南京市は次のような調査方法をとっていた。1928年7月市政会議は人口調査を社会局が行うと定めた。調査員は市政府各部門及び各種の学校から選任し、併せて8000人を動員した。南京を東南西北中と下関という六つの調査区に分けて調査した。調査日は9月30日の午前中9時から12時までとした。南京は当時民国の首都であったから、民国政府の人口調査である以上、調査経費及び調査人材が保証され、調査がきちんと行われたと考えられる(30

それに対して、浙江省は調査期間が6月から8月末までおよび、調査は主に地方の実力者・紳士(牌甲、村耆)の協力を得て、主に警察が担当した。具体的には、地方の実力者・紳士は警察から調査票をもらって、規定された期限内に、自分が管轄する地方の人口各項目を記入する。警察はそれをチェックする。安徽、河北など各省の調査方法もだいたい同じである。しかし、山東省、江西省と福建省では約半分の県は共産党の根拠地になって、調査できなかった。

他方、保甲制度を通じて人口を報告することは、報告バイアスが避さけられない。30年代には保甲制度が回復された直後にあったからでろうか、各地はある程度組織を整備したものの、40年代ほどの保甲制度として機能していなかったようである。したがって、人口調査より保甲制度を通じての人口報告はそのバイアスがより大きいであろう。また、1947年の保甲制度は共産党の解放区の拡大によって、すでに機能できなくなったと考えられる。総じて言えば、1912と1928年の人口調査はより参考になる。1936年の調査結果は利用できるが、その中の報告漏れがより大きいであることに注意しなければならない。1947年の報告はそれほど信頼性がないと考えても差し支えないであろう。










4. 民 国 人 口 推 計 の 展 望


4.2 人口データに対するチェック

人口データの内部構造には、たとえば世帯規模、男女性比、乳幼児比率などいくつかの指標がある。それらの諸指標は互いに関連している。ここでは、データの制約上、性比を取り出し、この4回の人口調査の整合性をチェックする。

表4は各省の性比を示している。ちなみに、参考のために、バック調査による性比と1953年センサスによる性比も列挙している。

もし、それぞれの調査はある程度行われたら、真実から離れてもその離れたバイアスが同じぐらいであろう。すなわち、ある省は1912年の調査ではその性比が全国平均より高いとならば、調査がある程度行われたら、1928年の調査ではその性比がまた全国平均より高いはずである。というのは、よほどの事件がなければ、省(それは大きな単位であるが)平均の性比はそれほど大きく変わりがないはずである。もし、調査は本当にでたらめに行われたら、その中身もバラバラになるはずであろう。換言すれば、多くの省においては、性比に一致性がみられたら、それらの結果がある程度受け入れられると考えられる。

表4から分かるように、性比が高い省はほとんどこの半世紀にわたって高く、低い省は低いのである。これはその調査の正確性も反映しているとも考えられる。















5.むすび

本稿は今までの民国人口に対する研究をサーべイし、民国政府が行った4回の人口調査(統計)を詳しく考察した。中華民国期においては、1912、1928年の人口調査があれば、1936、1947年の保甲人口統計がある。そして、多くの地域的人口調査が行われていた。これらの調査・統計は多くの問題を抱えているが、民国人口を理解する上に大変貴重な資料である。

解放後、国連やLiu・Yehを始め、多くの人口推計が行われたが、さまざまな問題が残っている。そこで、民国人口を推計するために、1953年の人口センサスをベンチマークとし、主に民国政府の人口調査に依拠しつつ、地域的人口調査を参考とし、民国時期の歴史事実と照合するという統合的研究方法が必要であろう。この統合的研究方法によって、民国人口を再推計することはこれからの課題としたい。















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脚注 1




(1. 研究過程で、筆者が所属している中国部会長南 亮進氏(東京経済大学教授、一橋大学名誉教授)を始め多くの方々に助言をいただいた。特に、東京学芸大学教授の牧野文夫氏、一橋大学経済研究所教授の尾高煌之助氏、同研究所教授の斉藤 修氏、大分大学教授の薛 進軍氏にお世話になっている。記して感謝の意を表したい。いうまでもないが、あり得べき誤りについてはすべて筆者の責任である。ちなみに、ここでの中華民国は1912〜49年間の中国大陸にあった民国政府を指している。










脚注 2




(2. 葛〔1991〕p.30。










脚注 3




(3. 同上pp.32〜34。










脚注 4




(4. 乾隆帝は人口を正確に調査する目的で、保甲制度を補強するための循環冊制度を採用した。すなわち、保甲制度による人口登録簿を二つ作って、一つは保甲担当者が保管し、もう一つは県知事が保管する。保甲担当者は人口変化を随時に人口登録簿に記入する。一定期間を経てから、それを県知事が保管する登録簿と交換する。このように循環往復で、県知事が保甲担当者が正確に人口変動を登録したかをチェックする(葛〔1991〕p.63)。










脚注 5




(5. 姜〔1993〕pp.62〜72。










脚注 6




(6. 張〔1986〕pp.91〜97。










脚注 7




(7. 李・莫〔1993〕pp.220-221を参照されたい。










脚注 8




(8. 陳長衡のほかに王士達〔1933〕も推計を試みた。王推計によると、全国は70,430,432戸、372,563,555人であった。










脚注 9




(9.  何〔1957〕pp.76-77。葛〔1991〕pp.64〜66。失敗の理由はいくつか考えられるが、主な理由は次のようである。

@人口調査の目的は国会選挙のためであったが、中央政府から地方長官まで本当に憲政体制を実施するつもりがなかったし、国民も人口調査を信用していなかったため、協力どころか、抵抗が強かった。

A実行能力の不足。調査を担当したのが警察であったが、その警察は数が少なく、質が低かった。

B人口は直接調査でなく、世帯数による推計が多かった。

C人口調査の標準時点が規定されていなかった。最後に、世帯主に記入してもらったため、重複や記入漏れが多かった。










脚注 10




(10. 姜〔1993〕はこの調査における世帯数データに対して高く評価している。










脚注 11




(11. 張によると、民国期の38年間において、1915、16、17年と1939年を除けば、すべての年次は一つか一つ以上の総人口データがある。例えば、1912年(民国元年)の人口データは次のような六つある。419,640,299(内政部統計処『内政年鑑』(1936))、405,810,967(主計処統計局『中国人口問題之統計分析』)、405,470,710(『中国経済年鑑』(1934))、374,223,088(『申報年鑑』(1935)p.86)、357,430,879(『申報年鑑』(1935)p.165)、377,673,423(許仕廉『中国人口問題』)。このような人口統計・推計は全部で104に達している(張〔1996〕p.1284〜85)。










脚注 12




(12. 内政部〔1931〕p.1。










脚注 13




(13. 陳達〔1981〕p.11、厳中平〔1986〕pp.92〜93。










脚注 14




(14. 『抗日戦争時期解放区概況』人民出版社1953年。また、姜〔1993〕p.109をみよ。










脚注 15




(15. 中国での統計報告調査におけるバイアスに対する検討については、清川〔1995〕を参照されたい。










脚注 16




(16. 尾上はそれらをすべて「当てずっぽう」と位置づけ、歴史調査・推計資料を利用することを拒否している(尾上〔1977a〕p.103)。










脚注 17




(17. 中国歴史人口研究の優れたサーベイには、たとえば劉〔1996〕、斉藤〔1997〕及びLee et al〔1997〕がある。










脚注 18




(18. 尾上〔1977b〕はモデル1を「もっとも現実的」としている。










脚注 19




(19. 解放前の諸推計はそのグループに分類することができる。










脚注 20




(20. この数字には台湾が含まれていないが、香港とマカオ人口(200万人)が含まれている。台湾人口が含まれると、1953年全中国人口は5.9億になる。










脚注 21




(21. 1953年センサスの結果については、例えば、王維志〔1996〕、早瀬・川俣〔1990〕、川俣〔1992〕を参照されたい。また、それにに対する評価は、例えば、Perkins〔1969〕pp.263-265、尾上〔1977a〕及びその参考文献を参照されたい。










脚注 22




(22. 1949年の人口は約5.4億とされている。これは1953年人口センサス結果を利用して推計されたものである。










脚注 23




(23. 葛〔1991〕 p.259。また、これは多くの学者によって主張されている。










脚注 24




(24. 王は民国政府の1928年人口調査結果を利用し、主として、政府登録データから重複計算を取り除いて、全国人口が4.29億であると推計していた。










脚注 25




(25. Liu・Yeh〔1965〕pp.172〜173。










脚注 26




(26. 『農場報告』第2巻第5期、第12期。また、そのデータは『中国近代農業史資料』(第3輯、pp.907〜908)にも載っている。










脚注 27




(27. 劉・黄〔1977〕も中国人口長期発展に関する研究で中国人口増加の波動を指摘している。










脚注 28




(28. 何〔1959〕、葛〔1991〕、姜〔1993〕が民国人口の推計不可能性を示唆していると考えられる。。










脚注 29




(29. 近年、中国のいくつかの省で「省誌」が編集され、その中に「人口誌」という巻が設けられている。その中に、清末や民国期の人口も掲載されている。しかし、それはほとんど清末・民国人口統計の無修正・無批判的な引用である(例として、吉林省地方誌編纂委員会〔1992〕、河北省地方誌編纂委員会〔1991〕を参照されたい)。したがって、我々の作業にとって、特に参考にならないと考えられる。










脚注 30




(30. 内政部統計司〔1931〕p.7.