南アジア農村と開発経済学

黒崎 卓

Last revision: June 8, 2001

新刊紹介

黒崎 卓『開発のミクロ経済学:理論と応用』(岩波書店、2001年、5000円+税).

 私の初の和文単著が刊行されました。途上国における伝統的な制度・組織や価値観と冷徹な市場原理との共存を説明する新しい開発経済学の理論枠組みを示し、パキスタンとインド農村の現地調査やミクロデータに基づいて詳細な実証分析を行った試みです。詳しい解説は、こちらの頁をご覧ください。同じページで、『経済セミナー』での連載「開発経済学:ミクロ的アプローチ」についても紹介しています。

Sen's Translation アマルティア・セン著、黒崎卓・山崎幸治訳『貧困と飢饉』(岩波書店、2000年、2600円+税).

 1998年のノーベル経済学賞受賞者、アマルティア・センの古典的著作、Poverty and Famines: An Essay on Entitlement and Deprivationの翻訳を共訳で出版しました。この本の出版は1981年ですから、世に出されて、およそ20年近くが経過しています。そこで、この翻訳では、ドレーズ=センの共同研究の成果などを簡潔にまとめたセンの講演、「飢餓撲滅のための公共行動」(1990年)を特別に付け加え、さらに訳者による詳細な解説「『貧困と飢饉』---その後の二〇年」を書き下ろしました。

 本文とこれらを併せて読むことで、開発経済学におけるセンの貢献と、彼によって刺激されたその後の研究がどのように進展しているかが分かるようになっています。つまり、本書は単なる翻訳ではない、オリジナルな研究成果なのです。ちなみに、1990年の講演を付け加えたのは、99年に来日した時にセンから直接もらったアドバイスによるものですし、訳者解説の骨子にもセン本人からのコメントが多いに活かされています。

本の構成は
第1章 貧困と権原
第2章 貧困の概念
第3章 貧困--特定と集計
第4章 飢餓と飢饉
第5章 権原アプローチ
第6章 ベンガル大飢饉
第7章 エチオピア飢饉
第8章 サヘル地域の旱魃と飢餓
第9章 バングラデシュ飢饉
第10章 権原と剥奪
講演 飢餓撲滅のための公共行動
訳者解説 『貧困と飢饉』--その後の二十年
となっています。南アジアやアフリカの地域研究に関心ある人にとっては、本書に収められた事例研究は必読です。講演「飢餓撲滅のための公共行動」では、インドのケーララ州やマハーラーシュトラ州の事例も紹介されています。また、世界の食糧問題や途上国の貧困問題全般に関心ある人にとっては、本書の分析フレームワークが多いに役に立つでしょう。

 翻訳では、経済学の専門知識がなくても読めるよう、できるだけ分かりやすい意訳を心がけました。これまでのセンの翻訳がかなり堅苦しい日本語だったのに比べると、ずいぶん雰囲気が違うのに驚く読者もいるかもしれません。どうぞよろしくご愛読下さい。(センの業績を日本語で紹介したものとして、このホームページでも、絵所・山崎編『開発と貧困--貧困の経済分析』、『アジア経済』貧困特集号、絵所秀紀『開発の政治経済学』などを紹介していますので、そちらもご覧ください。)

Villagers

南アジア農村研究への道


 大学生の時の関心は南アジアの貧困と農村の開発にありました。学部は東京大学教養学科第二「アジアの文化と社会」といういまだもって何をやっているところなのかよく分からないところを卒業。卒論のテーマは「西ベンガルの土地改革」でした。全く分析的なことは何もできませんでしたが、緑の革命という技術変革が持ち得るインパクトと、土地改革というまさに政治的なプロセスとの相関の問題は現在まで私の頭の中にくすぶりつづけています。最近、もう一度、きちんとした経済学のツールを使ってこの問題に戻ってみたいな、とアイデアを練りはじめているところです。

 学部生時代の憧れであったのが、日本の途上国研究の中心として活躍しつづけてきたアジア経済研究所。当時お世話になったアジ研の先生方の深い南アジアへの造詣に、自分など全く手の届かないものを感じていたのですが、物事はどう転ぶか分からないもので、気づいたら研究職の職員としてパキスタン経済を担当することになっていました。
 仕事を続けるうちに、研究をまとめる上で単なる関心のみが先だってやたらに現地のことだけを調べていても、本質的なことはわからないように感じ、経済学のディシプリンをきちんと勉強する必要を感じました。スタンフォード大学に留学し、食糧研究所(Food Research Institute)という大学院で開発経済学と農業経済学を勉強したのが現在の自分の研究の出発点となっています。
 今でも一番楽しいのは、フィールドで新しい事実の発見がないか探る時。右上の写真は、そんな私のパキスタン・パンジャーブ州の調査村で撮った一枚です。郷に入れば郷に従えで、やはりローカルなドレスが一番!

著作紹介

 細かい論文は、「日本語による研究業績」を見てもらうとして、ここでは思い出深い本3点を紹介しましょう。まずは、私の最初の単著から。

Takashi Kurosaki, Risk and Household Behavior in Pakistan's Agriculture

(Tokyo: Institute of Developing Economies. I.D.E. Occasional Papers Series No. 34., 1998, ISBN 4-258-52034-9 C3033, \3675).
Tak's OPS  天候次第でどうにでもなる不確実性のもとに、無数の農民がインダス河の水を利用して作物を植え牛を飼ってきたのがパンジャーブの大地です。この一見何百年も変わらないかに見えるのんびりとした風景を、リスクに対応する農家行動という観点からミクロ経済学で解き明かすのがこの本です。
 上の写真にもあるパキスタン・パンジャーブ州シェフプーラー県のファルーカバード地区での農家家計調査データを利用して、農家行動に関する理論モデルを実証的に検定しました。その結果、この地域の農家は作付けパターンの調整や家畜の売り買いなどを通じて個人的にリスクに対応していることがわかりました。言い換えれば牛を飼う有畜混合農業によって市場の不完全性に農家が対応しているのです。

絵所秀紀・山崎幸治編『開発と貧困--貧困の経済分析に向けて--』

アジア経済研究所、研究双書、No.487、1998年、3000円).
Hinkon  これは途上国の貧困問題を経済学的に分析した総合的研究書で、南アジアの例も多く取り上げられています。各章の構成と著者は
第1章 開発経済学と貧困問題 絵所秀紀
第2章 開発経済学のパラダイム転換と貧困問題 絵所秀紀
第3章 貧困の計測と貧困解消政策 山崎幸治
第4章 公共支出と貧困層へのターゲッティング 井伊雅子
第5章 貧困とリスク--ミクロ経済学的視点-- 黒崎卓
第6章 貧困と慣習経済--マニラにおける1990年代の変容-- 中西徹
となっています。貧困問題に関する専門書は日本語ではこれまであまりなく、その意味で役に立つ本となることを目指して作りました。アマルティヤ・センの貧困と開発経済学への貢献については、第1章、第2章で詳しく取り上げられています。
 この第2弾としての事例研究を中心にした次の論文集も刊行されています。

『アジア経済』第40巻9/10号(1999年9/10合併特集号「特集 発展途上国の貧困と公共政策の役割:「人間開発アプローチ」考」)

内容は、
特集にあたって(絵所秀紀・山崎幸治)
経済成長、生活水準と公共政策(山崎幸治)
「スリランカ・モデル」の再検討(絵所秀紀)
パラドックスのなかの貧困:ジンバブウェにおける農地改革を展望する(平野克己)
パキスタン・北西辺境州における貧困・リスク・人的資本(黒崎卓)
韓国の貧困緩和と職業教育(野上裕生)
バングラデシュにおけるマイクロクレジット政策の理念と現実(中村まり)
家計データからみた南アフリカ共和国の貧困分析:特に家族内送金と移住行動について(赤林英夫・井伊雅子)
となっています。両方まとめて読んでいただければ幸いです。

山形辰史編『やさしい開発経済学』

アジア経済研究所、アジアを見る眼96、1998年、1400円).
Mirume  途上国の開発問題に関心があるが、開発経済学の教科書には難しい数式やら何やらがいっぱいで、とても歯が立たない、この本はそんなあなたに開発経済学の重要な考え方をやさしく説明した入門書です。一つ一つの話はどれも短くまとめられ、例えば電車の中で読むのにも大変便利。サイズもそれに合った新書版です(それなのにハードカバー並みの値段ですみません)。
 もともとアジア経済研究所の広報誌『アジ研ワールドトレンド』に連載されたものを、さらに初学者向けに書き足してこの本ができました。内容は、
第1章 開発はなんのため(2話)
第2章 発展プロセスと構造(5話)
第3章 開発戦略(5話)
第4章 マクロ経済管理(6話)
第5章 開発の恵み(4話)
となっていて、一見硬そうですが、例えば第4章の「インフレ」の話の副題は「やめられない、とまらない」など、とにかくわかりやすく書くことが徹底しています。私も「備えあれば憂いなし」という題で貯蓄のことを説明しました。この本を読んで開発経済学に関心を持った方のために、以下の2冊を紹介しておきましょう。

アジア経済研究所・朽木昭文・野上裕生・山形辰史編『テキストブック開発経済学』

(有斐閣、1997年、2415円).
 最低限(高校程度)の統計と数式で十分理解可能な言葉を使いつつも、最先端への橋渡しという専門書の役割を保ったような開発経済学の入門テキストブックを作りたい、このような問題意識を共有した共同作業のもとに生まれたのが、本書です。この本は、編者名にあるアジア経済研究所(アジ研)と深く関わりを持った、21人の途上国研究者の共著です。アジ研は、日本の途上国研究の中心として活躍しつづけてきた特殊法人機関で、国内で最大規模なのはもちろん世界でも有数規模の社会科学系研究所です。私もそのOBであることを誇りにしています。
 さて、この本ですが、常識的に言って、中級以上の参考書ならともかく、入門テキストブックをこれだけ多数の著者の共著で書くというのは聞いた事がありません。にもかかわらずこのようなアプローチを採ったのは、開発という現象が多岐にわたりそれを分析するツールが開発経済学の中でも分化が進んでおり、その見取り図をうまく示すには、むしろそれぞれの分野の専門家に得意なテーマを書いてもらった方がよいという理由によります。いわば、開発経済学の最新の論点を百貨店的に網羅し、学部学生や社会人などを読者層に設定した平易な内容でそれを伝えること、それが本書の第一の特徴です。
 第二の特徴は、アジ研の強みを生かして、途上国での豊富な現地経験を生かすこと、具体的には息抜き的なコラムを必ず各章に設け、理論と途上国現実とをわかりやすくつなぐことを目指しました。私の農業・農村の章ではパキスタン北西辺境州での村の小作制度の逸話を入れてあります。もう一つの特徴は、開発政策との関連をすべての章で強く意識して執筆したことです。
内容の簡単な紹介: 第1部「開発と人間」で貧困と不平等、二重構造と失業という低開発の病理に焦点を当て、開発の課題を明らかにする。第2部「開発のメカニズム」では経済成長、人的資源、企業家など、低開発から抜け出すためのメカニズムを解き明かす。黒崎の章はここに入り、「農業」というタイトルで、途上国農村でどのように人々が暮らし、そこにどのような経済的論理が貫徹しているかを、平易に語っている。第3部「開発への取り組み」では開発を促進するための政策の役割、望ましい政策体系といったことを共通のテーマとし、開発戦略、技術移転、資本移動、金融開発、構造調整とマクロ安定化、環境問題などを取り上げる。
 さて、この本は開発経済学の現時点の横断面分析としての概観を提供するのには打ってつけの本だと思います。と同時に、経済学あるいは政策と深く結びついた政治経済学のテーマとしての経済開発について、現時点にいたるまでの長期的な局面(時系列分析)を理解することも開発経済学の入門には欠かせません。このような観点からの最大のお勧めは、

絵所秀紀『開発の政治経済学』

(日本評論社、1997年、268p.定価:2800円+税)です。
 この本は、開発経済学の誕生と現在までの変遷を、非常にわかりやすく解説しています。加えて、取り扱っている範囲が非常に広範でバランスが取れていること、私たちの本(上記)ではあまり深く取り上げられなかった生活の質そのものへの問いかけなどの重要なテーマにも目が行き届いていること、など、他書にはない強みがたくさんあります。さらには、私のように長年開発経済学を研究してきても見落としてしまいがちな古典的研究の再評価なども多く見られ、重宝します。


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