読書案内

日本語で読むアマルティア・セン

黒崎 卓

Last revision: October 1, 2004



この文章は、『インド通信』2000年8月号掲載記事に加筆したものである。


 『インド通信』1998年11月号で紹介したノーベル経済学賞受賞者アマルティア・セン(Amartya K. Sen)の著作が、2000年に相次いで4点邦訳された。名前からわかるようにセンはベンガル出身のインド人で、現在はイギリスのケンブリッジ大学トリニティー・カレッジの学寮長(学長のようなもの)である。センは経済学理論の革新に大きく貢献するとともに、アジアの開発問題へのユニークな研究アプローチで知られる。彼の経済学での貢献は、特に社会的選択の理論、厚生経済学、開発経済学の3つの分野で抜きんでていて、現在これらの分野の専門的研究は彼の業績抜きには語れない。インド、南アジアに関心を持つ読者向けに、センの幅広い業績の翻訳および日本人研究者による最新出版物に焦点を当てつつ紹介したい。



 センを初めて読む方にお勧めは、ノーベル賞受賞後に一般向けに書き下ろされた『自由と経済開発』[12]である。所得が増えること、餓えの脅威がなくなること、字が読めるようになること、政治プロセスに参加すること、男女差別が弱まること---これら様々な側面の「開発」ないし「発展」とは、結局のところ実質的な「自由」を広げるからこそ価値があるのだ。センの経済学のエッセンスというべきこのメッセージが、本書では分かりやすく説明されている。インドを直接扱ったものではないが、具体例の多くがインドや南アジアであるから、インド社会を理解する上で示唆に富む。訳者が学者でないためか読みやすい平易な日本語になっているのはよいが、注の説明に首を傾げるところや既存研究をきちんと参照していない点が多少見られる。邦訳タイトルも、センのいう「開発」の意味の広さを考えるとミスリーディングな気がする。

 この本を読んでセンの「開発と自由」についてさらに深めたいと思った場合、[3]や[10]の翻訳に進むとよい。純粋な理論書が多いセンの著作の中で例外的に実証研究を中心にしたのが、貧困と飢えの問題をあつかった『貧困と飢饉』[3]である(より詳しい紹介はこちら)。旱魃などの天災と被災者を結ぶ本当の理由が貧困問題にあることを、1943年のベンガル大飢饉や74年バングラデシュ飢饉、アフリカの飢饉などの詳細な検討から明らかにした。センの経済学に彼自身が幼少時に経験したベンガル大飢饉が強い影響を与えていることはよく知られている。その意味でもインドに関心を持つ読者に特にお勧めである。この本のオリジナルは81年の出版と古いため、翻訳[3]ではその後の彼の業績をカバーする講演[8]も収められ、訳者解説も充実している。

 途上国を主に対象とした貧困研究と、先進国を意識した公共経済学での彼の業績とをつなぐのが、センによって画期的進展を遂げた不平等の理論である。この分野の古典的研究[2]は長らく絶版になっていたから、改訂英語版の翻訳『不平等の経済学』[11]がこのたび書店に並んだのは画期的である。ただしこの本は数式が次々と出てくる専門書なので、一般向けのお勧めという点では『不平等の再検討』[10]である。センの「潜在能力」(capability)アプローチによって、不平等と自由との関連がいかに分析できるのかが平易な言葉で説明されている。潜在能力に関しては[6]もあるが、数式が多くてとっつきにくいかもしれない。

 センの潜在能力アプローチはジェンダー分析にも応用されている。南アジアの女性人口が男性に比べて著しく少なく、その差が性差別に帰せられるというセンによる「喪われた女性たち」(Missing Women)の問題提起は、国際的に大反響を呼んだ。この議論は[9]に詳しく展開され、抜粋が[12]にも収録されている。[6]の補論にもインドの性差別の分析が収められているので、関心ある読者は目を通しておくとよいかもしれない。

 センは、独自の社会的選択理論とそれにもとづいて厚生経済学を刷新したことでも知られる。この分野でのセンの古典的著作[1]がこのたび翻訳された。この本では、経済学はじめ政治学や社会学などでも近年関心を集めている社会的選択理論のほぼすべての話題、例えば社会的厚生関数、多数決、リベラル・バラドックスなどがカバーされているが、専門的・数学的な理論書なので一般の読者にはあまり薦められない。倫理と自由にもとづくセンの社会的選択理論についての邦訳としてはむしろ、[4]と[7]を合わせて読むことを薦める。『合理的な愚か者』[4]の訳者解説は詳細で、センの業績の幅広さを知るのに有益である。

 なお、あまり知られていないが、センの経済学者としての出発点は過剰労働経済における技術採択やプロジェクトの経済評価にあった。この分野の業績の数少ない翻訳に[5]がある。



 以上、私の独断でセンの邦訳を紹介した。個人的好みでは、これまでの開発経済学や貧困分析が物的な不足にばかり着目していたのに対し、センは生活の「質」とそれを保障するさまざまな制度に着目したところが最も注目される。ドレーズ(Jean Dreze)との共著によりインド社会の分析にもセンは数多くの業績を残しているが(例えば1995年発表のIndia: Economic Development and Social Opportunity)、残念ながらこの分野の邦訳はまだない。

21世紀に入り、センの邦訳とは別に、日本人研究者による充実したアマルティア・セン論が各種刊行されている。特にお勧めは、絵所・山崎編[18]である。開発、政治、倫理など分野を越えたセンの世界を幅広く取り上げていること、専門家以外にも分かりやすいよう平易な言葉で説明した入門書であること、センのインド経済論、社会論についても詳しいことなどが特徴である。センのノーベル賞受賞の核心部とも言うべき厚生経済学と社会的選択の理論における彼の貢献をまとめた専門書に鈴村・後藤[16]、倫理学におけるセンの貢献をまとめた専門書に若松[17]がある。

<邦訳リスト抜粋>

(おおむねオリジナルの発表順。新聞評論等は省略)
[1] Collective Choice and Social Welfare (1970)[志田基与師・富山慶典他訳『集合的選択と社会的厚生』勁草書房, 2000年].

[2] On Economic Inequality (1973)[杉山武彦訳『不平等の経済理論』日本経済新聞社, 1977年].

[3] Poverty and Famines: An Essay on Entitlement and Deprivation (1981)[黒崎卓・山崎幸治訳『貧困と飢饉』岩波書店, 2000年].

[4] Choice, Welfare and Measurement (1982)[大庭健・川本隆史訳(抄訳)『合理的な愚か者』勁草書房, 1989年].

[5] 高瀬千賀子・田近栄治訳「消費と投資の評価について」『アジア経済』1983年7月号.

[6] Commodities and Capabilities (1985) [鈴村興太郎訳『福祉の経済学:財と潜在能力』岩波書店, 1988年].

[7] "Individual Freedom as a Social Commitment," New York Review of Books, June 16, 1990[川本隆史訳「社会的コミットメントとしての個人の自由」『みすず』1991年1月号].

[8] "Public Action to Remedy Hunger," Tanco Lecture, August 2, 1990[黒崎卓・山崎幸治訳「飢餓撲滅のための公共行動」[3]『貧困と飢饉』に所収].

[9] "More than 100 Million Women are Missing," New York Review of Books, December 20, 1990[川本隆史訳「一億人以上の女たちの生命が喪われている」『みすず』1991年10月号].

[10] Inequality Reexamined (1992)[池本幸生・野上裕生・佐藤仁訳『不平等の再検討:潜在能力と自由』岩波書店, 1999年].

[11] On Economic Inequality, Enlarged edition with a substantial annexe "On Economic Inequliaty after a Quarter Century" by James Foster and Amartya Sen (1997)[鈴村興太郎・須賀晃一訳『不平等の経済学』東洋経済新報社, 2000年].

[12] Development as Freedom (1999)[石塚雅彦訳『自由と経済開発』日本経済新聞社, 2000年].

[13] Reason Before Identity (1998)[細見和志訳『アイデンティティに先行する理性』関西学院大学出版会, 2003年]

[14] 大石りら訳『貧困の克服:アジア発展の鍵は何か』集英社新書, 2002年(この本に相当するオリジナルの英書は存在しない。1997年から2000年にかけて発表された論文4本をまとめて訳出したもの)

[15] On Ethics and Economics (1987)[徳永澄憲・松本保美・青山治城訳『経済学の再生:道徳哲学への回帰』麗澤大学出版会, 2002年]

<日本人研究者によるセン論リスト抜粋>

[16]鈴村興太郎・後藤玲子『アマルティア・セン:経済学と倫理学』実教出版, 2001年.

[17]若松良樹『センの正義論:効用と権利の間で』勁草書房, 2003年.

[18]絵所秀紀・山崎幸治編『アマルティア・センの世界:経済学と開発研究との架橋』晃洋書房, 2004年.


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