都留重人の戦争 2016アンコール展示

1931年に父の勧めで渡米した都留重人は、ハーバード大学で博士号を取得し、 講師を務めるまでになっていましたが、 1941年12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まると、 祖国の敗戦を予測して帰国を決意します。
今年度は、渡米から開戦そして第一次日米交換船で帰国するまでを、 好評を博した2015年「戦後70年記念展示」から関連資料を集めご紹介いたします。
開催期間
平成28年7月20日(水)~8月31日(水)9時から17時※土・日、8月11日(木)~16日(火)を除く
開催場所
経済研究所資料室
都留重人メモリアルコーナー
問合せ先
経済研究所資料室
Tel: 042-580-8320


展示概要
開戦のアメリカ
1930年、治安維持法違反容疑で検挙された都留重人は八高を除名となり、1931年に父の勧めで渡米しました。ハーバード大学で博士号を取得し、講師を勤めるまでになっていましたが、1941年12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まると、日米交換船で帰国せざるをえなくなりました。 都留は当時の心情を以下のように回想しています。
祖国の敗戦を予測して帰国を決意した私は、滞米十一年のあいだの体験の副産物でもあり伴侶でもあった物的蓄積の大部分を一転して失うことになった事態に未練の思いをするよりも、心暖かい友情に結ばれてお互いに励ましと刺激を交わし合った何人もの同僚との訣別の方が心残りであった。 (『都留重人自伝 いくつもの岐路を回顧して』より)
多くの友人たちとの刺激に富んだ交流、充実した研究活動のなかで、無念の帰国だったことがうかがわれます。 本展示では、戦後70年を記念して、開戦前後の国籍を超えた友情、空襲や出征とはまた異なる戦争体験を物語る貴重な資料をご紹介します。
敗戦の日本
日米交換船で日本に帰国した都留は、ボストンでのリベラルな生活から一転、陸軍入隊、外務省伝書使としてのソ連への出張と、日本の軍国主義の渦に巻き込まれていくこととなります。 やがて迎えた敗戦を振り返り、都留は以下のように述べています。
半世紀後の今日、この経緯を歴史的記述として読む戦後生まれの若い世代の人たちは、こんな感想をもつかもしれない。 「..."ポツダム宣言"が提示した条件で無条件降伏にふみ切る決断が、当時の日本国指導者にあってしかるべきではなかったか。...」と。 このような設問は、たしかにもっともである。しかし、現在では想像できないほど軍国主義的風潮が軍の下部組織にまで染み込んでいた当時の国情のもとでは、軍の指導者も柔軟な対応はとれなかったようである。 (『都留重人自伝 いくつもの岐路を回顧して』より)
滞米中は日本の軍国主義化に批判的であった都留でさえ、戦時下の日本にあっては国内の潮流に逆らって自分の意見を述べること、まして行動することは困難であったことが読み取れます。 戦後70年の今日、都留の残した戦時下の資料から―特に当時の都留と同じ若い世代の方々が―"戦争"について考える一助としていただければ幸いです。
展示資料
両親への手紙(大洋丸のディナーメニューに書かれたもの)1931.9.5
渡米時に乗船した大洋丸のディナーメニューに、両親への手紙をタイプして送ったもの。 1931年9月5日付消印(HONOLULU)。
両親への手紙(Varsity Jacket の解説) 1932.8.27
当時アメリカの大学生の間で流行していた Varsity Jacket (日本ではスタジアムジャンパーと呼ばれる上着)を図入りで解説したもの。 1932年8月27日付 両親への手紙。
両親への手紙(会計報告) 1936.9.19
渡米以降、都留は滞在中の会計報告を細かくまとめ、毎月必ず両親に送っていた。 1936年9月19日付 両親への手紙。
両親への手紙(ワシントンD.C.の解説) 1933.9.9
ローレンスカレッジからハーバード大学に転入した際に、ウィスコンシンからボストンへの道程で立ち寄ったワシントンD.C.の様子を両親に書き送ったもの。 図は、リンカーン記念堂、リフレクティングプール、ワシントン記念塔、議事堂の立体図および平面図。 1933年9月9日付 両親への手紙。
ハーバード大学卒業証明書(1935)
ハーバード大学経済学部を優等学位 "magna cum laude" で卒業した。
サミュエルソン夫妻の出会いを助ける
(1940年、結婚直後のサミュエルソン夫妻の写真、都留重人によるサミュエルソン一家のイラスト)
アメリカを代表する経済学者であるポール・サミュエルソンとは、ハーバード大学院の同級。彼の妻となったマリオンは都留がサミュエルソンに紹介し、二人は六人の子供を儲けた。
DAILY RECORD 号外(1941.12.8)
映画鑑賞の帰りに都留が購入した、日本軍による真珠湾への攻撃を報じるボストンの新聞。
1941年12月9日付 日記
真珠湾攻撃のあった翌日の日記。日米開戦を知ったときの様子が書かれている。 "街頭のニュース・スタンドに WAR! と黒地に白くぬき出したヘッドラインの ボストンのタブロイド・ペーパーが眼を射る。ホノルルが攻撃され三五○名死んだとある。 足をすくはれた様に感じたが夢の国にゐる様で信ぜられない。 本当だらうか本当だらうかと一足ごとに同じ言葉を反芻しながらシンフォニィ・ステーションから電車にのってしまふ。 パークへ来てからやっと新聞を買ひ眼を通す。報告は未だ不充分と云へ戦争にはちがひない。 サブエーの中の人々誰もが同じ新聞を拡げてむさぼるやうに黙々と読んでゐる。 指をさされとがめられてゐる様な気持で吾家までひきかへす。"
サミュエルソンからの電報
わずか5日の間に帰国の準備をしなければならなかった都留は、特に親しかったサミュエルソンに挨拶ができなかったことを残念に思っていたが、交換船に乗ると、この電報が届いていた。
サミュエルソン宛葉書
交換地ロレンソ・マルケスにて、都留夫妻からサミュエルソン夫妻へ出した葉書。
グリップスホルム号ディナーメニュー
"喜望峰を遠からざるところに望みつつ" のコメントは、都留夫人によるものと思われる。
引揚日記
交換船への乗船検査では、紙に類するものはほぼすべてが取り上げられ、日記をつける紙もない状態であった。この日記は、交換船に同乗した外務省の友人から手帳を譲り受け、つけ始めたもの。
引揚日記よりグリップスホルム号672番船室見取り図
アメリカからロレンソ・マルケスまでの交換船グリップスホルム号での都留夫妻の船室の様子。『引揚日記』より。
引揚日記よりポラナビーチスケッチ
ポルトガル領東アフリカのロレンソ・マルケスで日本側とアメリカ側の船が落ち合い、乗船者を交換したため、都留ら乗船者は一旦この地に上陸した。その際に『引揚日記』に描かれた海岸のスケッチ。
The Syonan Times 1942年8月9日号
野村吉三郎駐米大使、来栖三郎駐米大使を含む引揚者を乗せた交換船の昭南島(シンガポール)への到着を歓迎する内容を伝える新聞
昭南寄港時に於ける御注意
昭南島寄港時、下船に先立ち乗船者に配布されたもの。昭南島滞在中の注意事項が書かれている。 「二、大東亜共栄圏の確立はこんなに急転歩に進歩して居ります この昭南を御覧下さい ...皆さんも共に力をあわせて聖戦の完遂に努力致しませう」という箇所からは、特に当時の雰囲気が感じ取れる。
参考資料
・ 年表 ( pdf(267 KB) )
・ 展示リスト( pdf(44 KB) )
・ ポスター ( pdf(180 KB) )