2.東アジア経済の発展と現状:韓国とタイを中心として

 

均衡為替レートの算出に入る前に、今回の通貨危機の舞台となった東アジア経済について概観しておこう。ここで東アジア経済という場合、東は韓国、中国、台湾などの東アジア諸国から、西はタイ、マレーシア、シンガポール、ミャンマーなどのいわゆる東南アジア諸国を含む。

この東アジア地域の経済は、1980年代後半から各国とも高い経済成長率を持続させたことで、世界の成長センターとして、一躍脚光を浴びることとなった。何故この地域に関して各国とも目ざましい経済発展をとげることができたのか、という点について関心が集まり、93年に世界銀行が「東アジアの奇跡」という報告書を著したのは周知のことである。「東アジアの奇跡」では、東アジア各国の経済発展の要因として、自由放任主義的な市場経済にすべてを任せた結果ではなく、政府が巧妙に市場経済のメリットを利用し、成長政策をとってきた点をあげている。もっとも政府の民間経済に対する関与の仕方について、東アジア各国に共通の原則が見出されるわけではないという点も指摘している。その後、この世界銀行の報告書に触発され、東アジア経済の発展に関する多くの分献が公表されている。なかには、すでに紹介した Krugman (1996) のように、東アジアの経済発展を資本と労動の大量投入の結果とする見方も現れている。

いずれにしても、韓国、シンガポール、台湾、香港といったアジアNIESに続き、タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピンのいわゆるASEAN4が発展をとげ、さらには1990年代に入って、中国、ベトナムもこうした高成長経済圏に入ってきたことは紛れもない事実である。ここでは、こうした国々のなかで、今回のアジア通貨危機で特に注目され、かつ日本とも関係の深い韓国とタイの2カ国に焦点をあて、後に均衡為替レートを理解する上で必要な両国の経済情勢について解説することにしたい表2−1参照)。ここで、韓国とタイを取り上げるのは統計上の理由が最も大きいが、田近(1998)のように、東アジア諸国のマクロ経済指標を使った主成分分析において、積極的な成長政策と旺盛な政府投資の面で、両国が似通った経済構造をしているという指摘もある。

 

まず韓国については、1961年に朴正煕氏の軍事政権が誕生するとともに、政府主導の積極的な成長政策が展開されることになる。具体的には、公企業による積極的な投資、政府の金融面での優遇措置による民間投資の促進、輸出志向型の産業構造の推進などである。これにより、投資主導型の経済が形成されていったが、同じに膨大な資金需要を賄うために積極的な外資導入も行われた。

1970年代に入ってからは、重化学工業化を推進したが、石油危機はこうした方向性を一時的には噸座させることになった。特に第2次石油危機に伴うインフレと経常収支の悪化によって、80年の経済成長率はマイナスを記録するとともに、累積債務問題が顕在化した。これによって韓国は、IMFの指導の下、金融引締による経済安定化政策をとることになる。こうした安定化政策による物価の落ち着きとともに、再び韓国は順調な経済発展へと向かう。80年代後半は、年率9.5%の実質経済成長率を達成するとともに、経常収支も黒字化し、産業面でも鉄鋼、造船、電機、自動車といった重化学、機械工業の分野で飛躍的な発展を見せた。こうした長期にわたる韓国経済の発展は、「漢江の奇跡」と称された。

こうした経済発展を背景に、政治面での民主化が進むとともに、経済制度面でも民主化、自由化が進行していった。まず1987年に労動法が改正され、政府主導で労動争議や賃金上昇を抑制することができなくなり、以降労動争議の増加、賃金上昇が顕著となっていった。また、80年代前半の経済安定化政策と並行して進められていた金融の自由化も進展し、90年代前半に段階的に金利自由化が進められた。

国際金融面をみると、韓国の為替相場制度は、1980年までドルペッグ制であった。しかし80年以降ドル、円、マルクなど7大貿易国の複数通貨からなる通貨バスケット方式をとるようになった。80年代後半に経常収支が改善され、IMF8条国へと移行するとともに、金融・資本市場の一層の開放を進めることになった。これを受けて、90年には市場平均為替レート制度という管理フロート制に移行し、上下1.5%程度の為替変動が認められるようになり、さらにはOECD入りを目指して完全変動相場制も射程に入れるようになった。しかし、実際の為替レートは、ほぼドルにリンクした動きをしていた。

こうした一連の経済制度改革を進めながらも、1990年代前半は内需中心の経済成長を続け、平均成長率は7.6%を記録した。こうした良好な経済環境を背景に、韓国は96年念願のOECD加盟を果たした。しかしながら、このOECD加盟後すぐに韓国経済は困難に直面する。翌年97年に入ってすぐ労動関係4法の改正をめぐって、大規模な労動争議がおきるとともに、第14位(資産ベース)の財閥である韓宝グループの破綻によって韓国の金融システムの脆弱さが顕在化することによって、韓国経済の対外的信認が一気に急落した。このため、97年末には国際的な流動性危機が生じ、IMFの支援を仰ぐ結果となった。また96年末には804ウオン/ドルであった韓国通貨も急落し、97年末に予定を早めて完全変動相場制への以降を余儀なくされた。この結果、98年1−2月平均のウオンは、1720ウオン/ドルとなっている。

次にタイの経済について簡単に叙述しておこう。タイは、幾度かの軍事クーデターにもかかわらず、経済は順調な成長を示しており、実質経済成長率でみると、1960年代8.7%、70年代7.3%、80年代7.1%と高い経済成長率を維持してきた。特に80年代後半は、他の東アジア諸国と同様、外国からの直接投資が急増し、それとともに輸出が増加し、高成長率を記録するとともに、経常収支赤字も減少するという好循環に恵まれた。

しかしながら90年代半ばから、経常収支赤字が再び増加し始めた。タイではこの国際収支の赤字を海外からファイナンスするために、1993年に創設した内外分離型のオフショア市場を活用した。このオフショア市場の創設を含む、金融自由化は90年代から始まったが、国内金融機関の情報開示や審査体制などが十分に整備されていなかった。オフショア市場での借入は短期借入が中心で、長期の資産運用をする能力に欠けていたのである。

こうした金融システムの脆弱さに加え、経常収支の悪化、経済成長率の低下が生じ、97年7月についにIMFの緊急融資を要請する事態となったのである。

タイの為替制度は、1978年以来主要貿易相手国の通貨で構成される通貨バスケット制を採用しているが、実際にはドルの比重が高いため、ドルにリンクした動きをしていた。しかし、97年7月に経済危機が表面化すると同時に、管理フロート制へと移行し、以降バーツの通貨価値は急落している。