3 貯蓄動員機構としての国内銀行部門

(1)国内銀行の育成と全国展開の支援

 マレーシアの金融制度構築でもっとも注目される点は、広く貯蓄習慣を植え付けて貯蓄基盤を拡充するために、少額貯蓄動員ネットワークを整備したことである。中央銀行が設立されて以来、健全で強い国内銀行を育成すること、また、全国規模の貯蓄動員網を整備し預金ベースを拡充することが、安定かつバランスのとれた経済社会的成長に不可欠な前提条件と認識されてきた。(6)以下で述べる特徴的な銀行政策は、民間部門の自発的貯蓄の吸収に大きな役割を果たした点で注目される。(以下、付表参照)

 第1に、初期時点における「大規模商業銀行の創設」である。中央銀行設立当時1959年には、銀行総数26行のうち国内銀行は8行にすぎなかったが、1960年−66年に10行が創設された。1960年に創設されたMalayan Banking(メイバンク)とUnited Malayan Bankは政府出資比率が高く、とくに66年にマレー人の利益増大を目標として1966年に設立されたBank Bumiputraは100%政府所有であった。(7)1995年末現在、上位6大銀行のうち、資産総額シェアによる上位5行はすべて国内銀行であり、Bank of Commerce Malaysia(1956年創設)を除く5行はすべて1960年代に集中的に設立されたものである。しかも、表5で示されるように、政府出資によって設立されたMalayan Banking とBank Bumiputraは、1995年末現在も預金と貸付の3分の1をしめる上位2行としての地位にある。いずれも、依然として政府系機関(国営投資信託会社および国営企業)が大株主であり、実質的には政府系銀行と見るべきである。

 第2に、国内銀行による支店ネットワークの「地方展開」に対する政策的支援である。農村地域への出店する銀行には都市部での支店新設を認可し、農村地域の免許料を都市部の支店より割安とするなど各種優遇措置を与え、地方進出を積極的に支援した。

 第3に、中央銀行の店舗行政による「地域市場の競争制限」である。支店の地域集中を防いで全国的な銀行サービスの展開を行わせるために、中央銀行が店舗の地域配分を行って競争をコントロールしてきた。

 第4に、厳格な「外国銀行規制」により、国内銀行保護を徹底してきたことである。健全で強い国内銀行を育成するためには、外国銀行主導の金融システムから脱却することが必要であった。1966年に外国銀行の支店新設は禁止され、1974年以来、外国銀行に対する新規免許交付は皆無である。国内銀行の新設が支援される一方、外国銀行による新規参入は禁止され、外国銀行による国内業務は制限された。

 第5に、個人少額貯蓄動員の手段として、「ファイナンス・カンパニー」に商業銀行を補完する機能をもたせたことである。ファイナンス・カンパニーは、主として定期預金で調達し住宅金融や消費者金融を行うリテール専門機関である。商業銀行に次ぐ民間貯蓄動員機能を担う銀行部門として位置づけられてきた。1960年代に設立が始まったが、1969年Finance Companies Actにより免許制が導入され正式に中央銀行の監視下に置かれてから、商業銀行に次ぐ第2の民間金融仲介機関として成長を続けた。ファイナンス・カンパニーの多くは銀行の関連会社として設立されたものである。

 これらの銀行政策によって、国内銀行部門は急速に成長した。表6および表7を参照されたい。1970年代半ばから支店数、預金残高とも国内銀行が外国銀行を抜いて成長を続け、1995年末現在、国内銀行22行1209店舗に対し、外国銀行は15行144店舗、預金残高シェアはわずか5分の1以下となっている。同じく、ファイナンス・カンパニーの支店数は国内商業銀行の8割程度、預金残高規模は約半分に達する規模となった。

 1965−80年に国内銀行の預金総額は約15倍に増加し、貯蓄動員機構として多大な貢献をしてきた。とくに注目すべき点は、商業銀行が固有の商品である当座性預金のみならず、長期性預金(定期預金や貯蓄預金)に関しても絶大な力を発揮してきたことである。表8は、銀行部門の預金構成と機関別シェアの変化を要約している。全体の預金構成を見ると、1980年代に入って利子率の低い貯蓄性預金は激減し、定期預金がのびている。

 「貯蓄性預金」は利子は定期性預金に比べて低いけれども、必要に応じて引き出せる個人に限定された預金である。経済発展の初期段階である1960年代後半には、貯蓄性預金は農村地域の少額貯蓄動員に大きな役割を果たしていた。その中心となったのが郵便貯金(1974年に国営貯蓄銀行に改組)であり、全体の3分の1超えるシェアを有していた。しかし、国営貯蓄銀行のシェアは1990年代前半は、貯蓄性預金の7.7%に、総預金残高の1.5%にまで低下した。商業銀行の地方展開により、国営貯蓄銀行はその役割を完全に終えたといえよう。

 商業銀行の「定期預金」のシェアは、ファイナンス・カンパニーの登場により低下傾向にある。とはいえ、1990年代前半にいたっても60%を占める。ファイナンス・カンパニーの多くが国内商業銀行の関連会社であることを考えれば、預金市場はほぼ国内商業銀行の支配下にあるといえよう。

 すでに指摘したが、国内商業銀行の市場集中度は高く、少数の大銀行とその他との規模格差はきわめて大きい。表5で示されているように、1995年現在、預金残高では上位1行シェアは23.1%、上位5位で48.1%を占める寡占構造である。

しかも上位2行の主要株主は1965年末現在も政府系機関であり、実質的には政府所有銀行といっても差し支えない。1960年代から進められた国内銀行育成政策によって、政府系銀行を中核とする銀行優位の金融システムが構築されてきたのである。



 


(2)フランチャイズ効果とレントの保証

 上で述べた国内銀行育成のための競争制限的措置は、銀行部門に「レント」を保証し、それを支店網整備や業務拡大に再投資させる銀行部門育成政策と理解すべきである。全国的な金融サービスの提供を目指して、銀行が全国規模での支店ネットワークを拡大するには、大きなコストと不確実性を覚悟しなくてはならない。支店設置に際しての税制上の優遇措置や支店認可の容易さといった条件のみでは不十分であり、支店設置後の利潤確保が決定的となる。

 支店網拡大のインセンティブとして、出店時の支援に加えて、競争制限措置−−@外国銀行の参入規制、A店舗行政による地域独占、B裁量的な金利の誘導による価格競争の回避−−により、支店ネットワークに一定のレントを保障して「フランチャイズ価値」を高めることが必要である。(8)

 ところがマレーシアでは、銀行業務への新規参入の制限する一方で、1970年代の比較的早い時期に、預金インセンティブを与えるために「預金金利の自由化」が実施された。1973年に商業銀行定期預金(1年以上)とファイナンス・カンパニーの預金金利が完全に自由化された。1978年10月に銀行部門の預貸金利が完全に自由化されると、金利は急速に実勢化していった。(9)1980年代前半には重工業化政策が始まったに加えて民間投資が増加したことから、資金需給が逼迫し預金獲得競争が激化した。預金金利は急騰し、一時的に預貸金利の逆ざやが発生して銀行経営を圧迫した。

 厳しい参入規制を行う一方で銀行監視システムが整備されないままに預金金利を自由化したことから、預金獲得競争とリスク投資への放漫な融資が行われ、70年代末には多く金融機関が経営危機に陥った。金利自由化は一時凍結され、1981年に商業銀行とファイナンス・カンパニーの貸出はプライム・レートから基準レート制へ移行した。基準レートは、中央銀行の認可を必要として、実際には中央銀行と銀行協会の協議で決定された。1980年代後半には銀行経営の健全化を求めて規制が強化され、金利自由化は凍結された。1986年1月の銀行法改正により銀行の所有と経営が分離され、1988年には中央銀行は銀行の資産運用に関する監視委員会(Audit and Examination Committee of the Board)が設けられ、自己資本比率を引き上げるなど健全性規制が導入されたのである。その後、1987年から再び国債金利自由化を含む金利自由化が開始され、1988年にはインターバンク市場で変動金利(KLIBOR)導入された。

 ここで注目したいのは、固定金利から自由化そして自由化の凍結と再自由化といった政策の変更にもかかわらず、商業銀行の預貸スプレッドは、1980年代初頭の一時期を除いて長期的に見ればかなり高い水準に維持されてきたことである。図3は、1966−96年について、商業銀行の預貸スプレッドを12ヶ月もの定期金利とプライム・レート(81年から基準貸出レート)から計算して図示したものである。

 金利規制下にあった1960年代後半には2%のスプレッドが維持された。預金金利自由化が始まった1971年以降も、相対的に縮小したとはいえ74年から77年までスプレッドは1%で一定している。さらに、金利自由化が凍結されて以降、1983年からスプレッドは拡大し1988年まで3%をこえるきわめて高い水準となり、銀行経営健全化のための利潤確保が優先されたことが分かる。金利自由化政策も、国内銀行の経営の安定化を重視して、中央銀行によってたくみにコントロールされてきたといえよう。

 1960年代から、銀行部門は競争制限措置と支店網拡大のための優遇措置により、安定したレントを享受しつつ、自発的貯蓄の動員機構として民間貯蓄を吸収してきたといえる。しかしながら、そうした銀行の拡張戦略が、「金融仲介機能」の効率化を阻み、銀行部門の自由化と対外開放を遅らせる要因となったのである。