第2節 農村における公租公課の負担

 

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 国家の官僚機構にとって税収の確保は重要な課題であり、中国の史料には税制に関する記述が豊富に存在する。そうした史料を利用することにより、これまでにも、国家財政についての研究は盛んに行われてきた。しかし、省や県レベルの財政となるとその研究は手薄であり、さらに、各在地における徴税の実態については良く分かっていない。中国では、県などの地方行政機関が実際の徴税を行っていたが、県は徴集した税金のうち、その一部の規定額を府・省などの上級機関に送付し、残りは自らの財源としていた。そのうち、かなりの部分が地方官吏の私的収入となったことは想像に難くない。各省も各地から送られてきた税金の一部を中央に上納し、残りは自己の財源としていた。そして、徴税の現場では、様々な手数料や付加税の徴集が行われていた。したがって、中央政府の手にした財源は各在地で徴集された税金のごく一部であり、中央や省のレベルでは実際にどれほどの税金が社会の末端で徴集されているのかを掌握できなかった。中国史研究のなかで、一方では、農村社会の荷重な税負担が強調され、他方で、そうした負担が一般に言われるほどのものではないとする議論が存在するのも、その背景には、税負担の実情を具体的に示す資料が少ないことによる。

 さて、ここで取り上げる『農村実態調査報告書』の集計表「第十一 公租公課表」は納税に関わる事項について、各農家に対して行った聞き取り調査の結果をまとめたものである。この表は徴税される側から、各農家の税負担の実情を説明したものとして注目できる。ここにある数字が一体どこまで正確に現実を反映していたかどうかは、最後まで問題となるが、とりあえず、本節はこの表の内容を中心に準備的な考察を行っていきたい。

 

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 満洲の農村における公租公課の問題を考える場合、まず、各村の歴史を簡単に確認しておく必要がある。表3は『農村実態調査報告書』にある各村(屯)に関する「屯の概況」と集計表「第二 農家略歴表」を用いて作成したものである。この表を見て分かるように、調査地点となった21の村(屯)はかつて清朝皇室が特権的に占有していた土地(6・16・17の囲場など)、盛京内務府などの皇室関係の官衙の管轄下におかれた官荘地(14の内務府官荘地)、八旗官兵のための職田(12の伍田地)、八旗官兵の土地(1・3・5・11・20の旗地)、清朝王公の荘園(13の范文正公荘園)、モンゴル王公の占有した土地(2・15・19・21の蒙地)などであった。その沿革は様々であったが、いずれの土地もかつては州県という民衙門ではなく、皇室・王公・八旗関係の「旗衙門」の管轄下に置かれていた。したがって、これらの土地を耕作した農民は国家に対する「税」ではなく、これらの土地を「所有」する清朝皇室・王公、八旗官兵などに「租(小作料)」を納めていたのである。これらの土地は後に「官地」と総称された。しかし、清末から民国の時代にかけて、清朝の崩壊に伴い、これらの土地は民間に丈放(払い下げ)され、州県の管轄下に置かれるようになった。その結果、その地の払い下げを受けた者は土地の「所有権」を獲得し、土地税を納めるようになったのである。こうした官荘地、荘園、職田、旗地、蒙地などの民有地化の動きは、『農村実態調査報告書』に取り上げられている村だけでなく、清末以降、東三省(満洲)各地で大規模に進められていた。

『農村実態調査〔綜合・戸別〕調査項目』も、農村実態調査の際には、こうした土地制度の変遷に十分注意を払うよう指示している。つまり、土地権利関係の確認に必要な作業として、かつての土地払い下げについて、農民に対しどのような質問を行うべきか、細かく説明している。(1) そうした聞き取りの結果が、集計表「第二 農家略歴表」である。この表には各農家の歴史が詳しく記されており、そこから、様々な沿革をもつ旧「官地」のうえに、現在の村がどのように形成されてきたか、その様子を具体的にとらえることができる。この表は歴史研究の材料としても興味深いものである。こうした村の歴史について論じることは別の機会に譲りたいが、この表を土地制度・税制の変遷という問題から見ると、次のような点が明らかになる。つまり、張作霖政権下の民国十(1921)年頃までには、調査屯の旧官地は概ね民有地として再編され、各州県が旧来の土地制度とは関係なく、一律の基準で土地に課税できる体制が確立されていた。但し、重要な例外も存在した。報告書にある寧城県和碩金営子屯では国税である田賦の代わりに、「租子」が徴集されていた。(2) これは、旧制度である「蒙地」が解体されておらず、モンゴル王公の土地占有が続いていたことを示している。つまり、この地域では、満洲国政府は国税を徴集できなかったのである。

 

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 表4は、満洲国時代の土地税、つまり、国税の「田賦」と県税の「畝捐」の税率をまとめたものである。この税率は張学良政権時代にまとめられた『東北年鑑』に記されている税率と全く同一であった。また、表5が示すように、土地税である「田賦」「畝捐」の他にも、国税である「禁烟特税」「出産粮石税」「牲畜税」、県税に分類される「学捐」「営業捐」「房捐」など、様々な税目が存在した。この表にあるように、課税は様々な方面にわたっていた。これらの税目も、基本的に、張学良政権時代のものと同一である。(3) つまり、満洲国時代の農村における税体系は、概ね、張学良政権時代のものをそのまま踏襲したものであった。したがって、満洲国時代の農村における税金の問題を分析することは、張学良政権時代の税問題を考察することにもつながる。

 満洲国時代、農民は上述の国税や県税、さらに、村費等に分類される各項の税金を負担していた。村費の項目は各村によってその内容を異にしていたが、大体、「村費」「屯費」「保甲費」「農会費」「学校建設費」「道路修繕費」「看青費」「自衛団費」「門牌費」「戸口費」「国旗費」などの項目から成っていた。問題はこうした税金を納める農民の負担がどの程度のものであったかということである。

 表6は各屯についての集計表「第十一 公租公課表」の内容をまとめたものであり、陰暦康徳二年一月一日(西暦1935年2月4日)から十二月末日(西暦1936年1月24日)までの間に、農民らが納めた税目とその額を示している。納付された税金は基本的に康徳二年度分の課税に対してのものであるが、一部には、滞納されていた康徳元年、大同二年度分のものも含まれている。したがって、この表にある数字は康徳二年(陰暦)に農民らが実際に負担した税額の合計を意味することになる。各村における徴税の実情を理解するため、表6では「公租公課表」の記述内容になるべく手を加えないようにしてある。この表から次のような点を指摘できるであろう。

多くの調査村(屯)において、農民が納めていた税金のうち、国税、並びに、県税の中心は土地所有者に課せられる「田賦」と「畝捐」であった。これらの土地税を除けば、国税の「出産粮石税」、県税の「粮捐」の負担が比較的大きかった。これらの税金は収穫した穀物を市場に売却した際に課せられたものであった。これらは、穀物の種類にもよるが、一般に従価の1−5パーセント程の税率であった。この他に、義倉制度を維持するための「義倉費」(県税)の徴集がみられた。「義倉費」も所有する土地面積に基づいて課税されていた。つまり、国税・県税については、土地所有者に対する課税を基本としていた。但し、熱河省の豊寧県選将営子屯、寧城県和金営子屯では事情が少々異なっていた。前者ではかなりの戸数の農家がケシの栽培を行っており、ケシの耕作者に課せられた禁烟特税がこの屯で納められる国税の中心となっていた。また、後者では醸造業の家が一戸あり、この家が納める酒税がこの村(屯)の負担した国税の大部分を占めていた。(4)

次に、国税、県税の額と比較して、村費等の額がかなり大きいことに気付く。多くの村(屯)の村費は狭義の「村費」「屯費」「自衛団費」「看青費」「保甲費」などの項目から構成されたが、村によっては「堤防修繕費」「道路修繕費」「学校建設費」「自動車購入費」「前甲長慰労費」などの負担が加わり、その内容は様々であった。また、「県公署トラック寄贈費」などの項目が存在したことから、村(屯)が県公署やその役人のために様々な経済的便宜を提供していたことも考えられる。

 国税や県税が政府の定めた画一的な制度のもとに置かれていたのに対し、村費の各項目は各村・屯が比較的自由に設けていたようである。そして、その「税率」も一定ではなかった。例えば、「村費」は概ね所有地1畝当たり20銭前後に設定されている村が多かったが、遼陽県の調査屯ではそれが62銭、また、豊寧県の調査屯では80銭から1円とかなりの高額になっていた。「看青費」なども村によって徴集の仕方は様々であった。また、村費の多くの項目は農民が所有する土地面積を基準として「課税」されていたが、「自衛団費」、「戸口費」、「門牌費」などは、各戸に均等に課せられていることが多かった。例えば、蓋平県の調査屯においては、各戸から「自衛団費」として2円、「門牌費」として8銭、「戸口費」として9銭が徴集されていた。また、磐石県の調査屯では、各戸が「戸口調査費」として10銭、「電話架設費」として4銭を負担していた。土地を持たない、そして、現金収入の少ない貧農にとって、各戸均等に課せられるこれらの「村税」はかなりの負担となったであろう。いずれにせよ、「村費等」の存在により、農民の負担する実質的な公租公課の額は、それぞれの村によってかなり事情を異にしていた。

 問題をさらに複雑にしていたのが、現物(穀物)による税の納入、また、「賦役」の存在である。県税の「義倉」や村費等の「看青費」などの項目は穀物で納められている例が少なくなかった。例えば、西豊県の調査屯における義倉費はその全てが、また、蓋平県の調査屯において徴集される村費の大部分も穀物による現物納入であった。同様に、賦役もまた農民の負担する税目のなかで重要な位置を占めていた。例えば、磐石県、楡樹県、盤山県、新民県、遼陽県の調査屯においては、農民の負担する賦役の合計が200日を越えていた。磐石県と楡樹県の調査屯では、県税として、それぞれ、各戸に一律20日、あるいは10日の賦役労働が課せられており、また、楡樹県の調査屯では、これに加えて、土地を有する農民には30日の自衛団賦役が課せられていた。盤山県の調査屯では堤防修築費と自衛団費が賦役によって徴集されていた。興味深いところでは、西豊県の調査屯における賦役の場合、各戸は修理を行う道路の距離を割り当てられていた。恐らく、こうした賦役労働を他の銭納の税負担とともに考察する場合、一日の労働を日当に換算し、その負担を金額で表示する必要があろう。『農村実態調査一般調査報告書』にある各地の雇用に関する記述によれば、地域にもよるが、当時の単純労働の日当は概ね20銭から40銭程度であった。しかし、そうした賦役負担を貨幣単位に換算する前に、まず、当時の農民の税負担のなかで、賦役の占めた位置が小さくなかったということを確認しておく必要がある。労働力が少なく、また、貧しい農家にとって、この賦役労働の負担は極めて大きかったであろう。

 表7は、各調査屯においてどれほどの公租公課の負担があったかをまとめたものである。各村(屯)の支出総計(A欄)と公租公課の合計(B欄)については、集計表「第十六 現金収支表」にある数字を用いた。後者は集計表「第十一 公租公課表」にある数字も使えるが、それと「現金収支表」との間に大きな乖離はない。また、賦役(F欄)と前述の現物納入(G欄)については、そのままの形で記してある。したがって、各村(屯)の農民が負担した公租公課はB欄(銭納の部分)、F欄(賦役)、G欄(現物納入の部分)の合計となる。

 まず、各村(屯)の農家が納めた公租公課を合算し、その銭納の部分がその村(屯)の農家全体の家計支出の総計に対してどれほどの割合になるか(B/A)を計算してみると、その結果は調査屯によって大分異なっていた。その割合が低いところでは、その割合は3から5パーセントほど(荐苺県、延吉県、鳳城県、蓋平県、梨樹県の調査屯)であったが、20パーセント以上の値(富錦県、黒山県、盤山県の調査屯)を示すところもあった。但し、この数値をもって、必ずしもそれぞれの地域の農民の税負担の軽重は単純には言えない。賦役や税の現物納入の部分が対象外になっているからである。前述のように、例えば、磐石県の調査屯などの農民にとっては、賦役や税の現物納入が大きな負担となっていた。今後、こうした賦役や税の現物納入については、貨幣単位への読み替えなどを行い、農民の税負担の実態を簡潔な形に数量化していく必要がある。また、同じ課税額であっても、それぞれの地域の農民の現金収入の多寡により、かれらの実質的な税負担の重みは違ったであろう。例えば、表8にあるように、樺川県の調査屯では1戸あたりの年間の現金収入は800円を越えていたが、豊寧県の調査屯における農家のその額はわずかに40円ほどであった。その意味で、今後、各集計表のうち「農産物売却表」「現金収支表」などを利用し、農家の家計自体も分析していく必要がある。

 表7を見て気付くことは、農民の納めた公租公課の合計のうち、「村費等」の占める割合(E/B)が相当大きいことである。磐石県、延吉県(B)、鳳城県、遼陽県、蓋平県、新民県、黒山県の調査屯では、その値が60パーセントを越え、なかには80パーセントを越える調査屯も2ヵ所存在した。この数字には、村費等として徴集された、賦役や現物納入は含まれていない。反対に、その値が20パーセント以下を示しているのは、国税である酒税の納入割合が高い寧城県の調査屯のみであった。つまり、この表を見る限り、当時、この地の農民にとっては「村費等」が最も荷重な「税負担」であったと言えよう。この点をこれまでの研究史のなかでとらえてみると興味深い。例えば、前述のワンの研究は、農民の負担する税の問題を「国税」のレベルで議論していた。(5) これは、かれの研究が政府編纂の史料を利用した結果であり、ワン自身もそうした研究の限界を指摘している。また、バックの研究も税金の問題については、県税レベルまでを調査の対象としていた。(6) こうした研究史を振り返っても、農家の負担した公租公課のなかで、「村費」等が重要な位置を占めしていたこを示す『農村実態調査報告書』の記述には大いに注目する必要がある。

 本節は『農村実態調査報告書 戸別調査之部』に記されている公租公課関係の資料について初歩的な考察を行った。今後、本節で示した各表についてはより精度を高める作業が必要であろう。また、『農村実態調査一般調査報告書』の記述などを参考にしながら、各村(屯)における徴税の実態をより具体的に探る必要がある。筆者は、今後、農民の税負担を考察するという作業を一つの手掛かりとして、さらに、『農村実態調査報告書』の各集計表を利用しながら、そこに描かれた農民の所得や消費行動の実際がどのようなものであったかを探っていきたい。それはミクロな世界を対象にしたものであるが、当時の中国農村経済の実情の一端を、具体的な姿で示そうとする試みになる。





 



(1) 前掲 『農村実態調査〔綜合・個別〕調査項目』74−77頁。なお、こうしたマニュアルの指示にもかかわらず、調査員が各村の歴史を十分に理解していたかと言うと、必ずしもそうではなかった。例えば、多くの報告は、「農家略歴表」のなかで、旧官地を耕作していた清代の農民の経営様式を「自作」と書いているが、これは制度史的にはおかしい記述であった。これら農民の経営様式は「官荘・荘園の小作」とならなくてはならない。もっとも、既に、清朝の時代から、こうした農民は旧官地に対して強い「耕作権」を確立しており、彼らは自らの存在を官荘や荘園の小作人、その子孫として意識していなかったのかも知れない。その意味では、これら農民の質問に対する答えはそうした意識を正確に反映していたとも考えられる。





 


(2) 『康徳三年度 農村実態調査報告書 戸別調査之部』第4冊、716、816頁





 


(3) 『民国二十年 東北年鑑』(東北文化社出版、1931年)、「財政」821-82、839-40、850-55頁





 


(4) 『康徳三年度 農村実態調査報告書 戸別調査之部』第4冊、721頁





 


(5) 前掲 Wang, Yeh-chien, Land Taxation in Imperial China, 1750-1911

-------, An Estimate of the Land Tax Collection in China, 1753 and 1908





 


(6) 前掲 John Lossing Buck, Land Utilization in China