惠氏のコメントについて

吉原直毅

              私の榎原氏へのコメントに対してなされて恵氏のメール・コメントを拝読した。[1]これは私のコメントに対して批判的立場からなされたものと思われる。しかし残念ながら、恵氏の私への反論のポイントがいずこにあるのか、私には文章を読む限りでは十分に正確に理解できなかった。以下、彼の直接的な批判的言及そのものにとりあえずリプライしておきたいと思う。彼の批判の第一は、

「いわゆる彼の「社会的必要労働時間」は古典派流の「直接・間接に投下された労働時間」に還元されると見なす事が出来る。」―との吉原さんの解釈が、でてくるのはなぜ?とこの文に問い続けていると疑問が出てくるのです

である。この点に関して、私の榎原氏へのコメントの論旨を繰り返せば、以下のように纏められる。

1. マルクスの「社会的必要労働時間」は、各商品の生産に投下された労働時間を共通の尺度・度量標準によって評価し直したものと解釈されうる。それは各商品ごとに投下される労働の質が異なっていたり、あるいは労働強度が異なっているケースがあるが故に、「複雑労働と単純労働との比較」や「手抜きをして過ごした労働時間と一生懸命働いた労働時間の比較」という問題が生じるが故に必要な作業である。マルクスはこの作業、すなわち各商品の生産に投下された労働時間を共通の尺度・度量標準に基づく社会的必要労働時間として評価するプロセスを価値形態論において展開している。すなわち交換過程における互いに異なる諸商品が互いに等価関係を結ぶその関係性を通じて、各商品は共通の尺度・度量標準に基づく社会的必要労働時間によってその価値量が既定されることになる。

2. 他方、置塩・森嶋の課題であった「マルクスの基本定理」の検証、すなわち利潤の唯一の源泉は労働搾取であるという命題の論証問題を考える際には、上記のようなマルクスの「価値形態論」は直接関わりない。すなわち、各商品の社会的必要労働時間がいかにして規定されるかについてのプロセスの分析は当面の課題には関係しないという事で、価値形態論的な分析抜きに商品の労働価値を定義している。それが以下の価値方程式


aijtj + ri = ti (= 1…、k、k+1、…、k+l)
j=1


として定式化されているものである。対して、これは生産過程で自動的に決定されるものであって、この式で決定された各商品の価値tiが、交換過程における互いに異なる諸商品が互いに等価関係を結ぶその関係性を通じて規定される社会的必要労働時間としての価値量と量的に一致する保証がないというのが榎原氏の批判であった。これに対して、異質労働の問題を捨象し、生きた労働riの度量単位がすでに一定のものとして共通に与えられていると仮定したもと[2]では、置塩の価値方程式の解として得られる価値量tiと、交換過程における互いに異なる諸商品が互いに等価関係を結ぶその関係性を通じて規定される社会的必要労働時間としての価値量とは量的に一致すると見なしてよいだろう、というのが私の見解である。なぜならば上記のような単純化された想定の下では、すでにすべての商品に投下される生きた労働は共通の単位で評価されていると見なされるので、各商品の生産に投下された労働時間を共通の尺度・度量標準に基づく「社会的必要労働時間」として評価し直す必要がないからである。私の「同質な単純労働だけからなる経済モデルを想定した下では、マルクスの価値形態論の主要な任務は『貨幣の生成』を原理的に説明する事に還元され、いわゆる彼の『社会的必要労働時間』は古典派流の『直接・間接に投下された労働時間』に還元されると見なす事が出来る。」という主張は、要するにこういう事である。「直接・間接に投下された労働時間」とは上記の置塩の価値方程式の左辺を言葉で言い換えた表現であって、この左辺はマルクス経済学的に言えば「過去労働+生きた労働」である。
3. 上記のように、価値形態論的プロセスの言及なしに労働価値を定義する置塩・森嶋の方法は、「利潤の唯一の源泉は労働搾取である」という命題の論証という彼らの主要な研究対象から鑑みて、正当化されうる「単純化」という科学的方法であり、また、彼らの想定する単純化された資本主義経済モデルの下では、彼らの労働価値の定義はマルクスの労働価値の定義と整合的であろうと言うのが私の見解である。そして、そのようなもっとも単純化された想定の下でさえ、マルクスの利潤の唯一の源泉は労働搾取であるという命題は論証できなかった、と言うのが「一般化された商品搾取定理」に基づく私の見解である。

       以上の私の見解に対して依然として尚、交換過程を通じた商品の価値の量的規定のプロセスの議論なしに「利潤の唯一の源泉は労働搾取である」という命題の論証問題を考えるのは間違っている、という批判を持つ方がいるかもしれない。しかしこの批判が有効である為には、同質な単純労働だけからなる経済モデルを想定した下であっても、交換過程を通じた商品の価値の量的規定のプロセスの分析を通じて導出される商品の価値量と置塩流の価値方程式に基づく商品価値の定義とが量的に一致し得ない事を論証するか、あるいは交換過程を通じた商品の価値の量的規定のプロセスの分析を付け加える事が、「利潤の唯一の源泉は労働搾取である」という命題の論証問題の結論を大きく変更しうる事を論証出来なければならないはずである。もしこれらの2点いずれに関しても論証できないとすれば、交換過程を通じた商品の価値の量的規定のプロセスに言及しようがしまいが、「利潤の唯一の源泉は労働搾取である」という命題の論証問題の結論には影響しないわけだから、その様な言及は当面の課題にとって本質的でない前提条件の措定であると見なすのが、科学的方法であるからである。

           次に、彼の第二の批判は

「人間の諸労働の同等性は、労働諸生産物の同等な価値対象性という物象的形態を受け取り」(D・K河出・P66)と、商品の物神性で、指摘している。此の点での榎原さんの、アナリティカルマルキシズムへの批判が不在なのではないでしょうか? 此の点を欠いているから、「榎原氏が論ずるように、マルクスの社会的必要労働概念は交換過程における互いに異なる諸商品が互いに等価関係を結ぶその関係性の中から抽出される。これは換言すれば、市場での商品交換を通じて事後的に各商品の社会的必要労働時間は決定される事を意味する。この事は、各商品の社会的必要労働時間とは市場の均衡における各商品の価格(抽象的人間労働を価値尺度として表現される)に他ならないと言ってよい。」(吉原さん)などとの自らの混乱を差し置いての居直りをさせていると思えるのです。

である。まず第一に、「自らの混乱を差し置いて居直りをさせている」と言われるが、具体的に私がどう混乱してどう居直っているか明らかにされていない。こういう言い方は特定の立場・解釈をア・プリオリに正統化し、そこから外れた見解には論拠を示すことなく断罪する言い方であろう。念のために言っておけば、「榎原氏が論ずるように、・・・」以下の議論が、マルクスの本来意図した価値形態論の位置づけと異なるだろう事は私も重々承知している。その上で、マルクスが意図する議論を整合的に展開する為には、既存の価値形態論のような議論では不十分ではないか、という観点からの議論である。つまり、マルクスの議論展開の論理に即していくとこういう含意も出てきますよ、可能ですよ、と言っているのである。その含意なり解釈が、マルクスないしマルクス主義の意図に反するならば、そういう解釈の余地を与えないように、マルクスの議論を再編成するなり新たなロジックを付け加えるなりするか、もしくはその「誤った」解釈がマルクスの議論からはそもそも論理的に導出し得ない事を論証するしかないのではないか?単にマルクスの意図に忠実に解釈を引き出していない事をもって、「混乱している」、「居直っておる」と指弾するだけならば、宗教の経典読みと何ら違いはないであろう。

           第二に、恵氏は物象化論的視点に基づいたアナリティカル・マルキシズム批判を展開すべし、と主張されているようには思えるが、その主張の具体的な展開はなされていない。マルクスの物象化論的視点がブルジョア社会批判として、重要な意義を持っている事は私も重々、承知している。しかし、上記の「1. 2. 3.」で展開したようなマルクスの搾取理論を検証する論脈では、物象化論的議論は当面の課題から外して考察されうる、というのが私の見解である。数式表現や数理的議論それ自体が、物象化されたものの見方に捉われているという類の批判がありうる事も承知しているが、その様な批判は、数理的手法の採用に基づくマルクス搾取理論の論証が論証方法として間違っている、という事を論証できたわけではない。

           恵氏が「商品の物神性で、指摘している。此の点での榎原さんの、アナリティカル・マルキシズムへの批判が不在なのではないでしょうかと論ずるならば、商品の物神性論的観点の導入が、マルクス搾取理論の論証問題にどう関わってくるのか、その結論をどう変えうるのかについて論証しなければならないであろう。もし仮にその批判が、「アナリティカル・マルキシズムの議論にはマルクスの物象化論的観点が欠如している」という類の批判であるならば、それは批判にはなっていない。なぜならば、これまでの高増−榎原−吉原のラインでの議論は、マルクス搾取理論の論証問題を巡ってのものであり、それはマルクスの物象化論を直接対象とする分野ではなかったからである。このラインでの議論に対して、「アナリティカル・マルキシズムの議論にはマルクスの物象化論的観点が欠如している」という批判が有効である為には、搾取理論の論証問題にとってマルクス物象化論的視点は不可欠であり本質的な要素である事、その視点の有る無しで論証問題の結論が大きく変わりうる事、これらを指摘できなければならないはずである。

           以上の私の議論は、形式論理的手法・分析的手法をベースにした科学的方法に立脚してなされている。ある種のマルクス主義の方々は、マルクスを論ずるのに形式論理的手法・分析的手法を屈指すること自体に批判的であるかもしれない。「マルクスの基本定理」や「転化問題」(総計一致二命題の論証問題)を議論する数理マルクス経済学に対してしばしばよせられた、「搾取の存在は論証すべき問題ではない」、「総計一致二命題の論証は数学的パズル解きにすぎず、価値の価格への転化問題の本質的課題ではない」という類の批判を今尚、お持ちの方はマルクス主義の中では多いであろうとも思われる。これらは方法論的問題に関わっており、ここでの当面の課題ではない。私はここでは社会科学であれ自然科学であれ現代において妥当と見なされている論証の方法、形式論理的分析的手法を採用し、マルクス命題に関わる論証問題を考察しているだけである。つまりこの方法に基づいて議論すれば、その議論の正誤の判断を各論者の主観的立場に関係なく確定できると約束されている方法である。マルクスの議論を論ずる際にこのような方法の採用は妥当でないと主張される方がいれば、ではどういう方法がより妥当であるかオールタナティブを提示して頂くしかないだろう。

           少なくとも榎原氏の議論は、形式論理に基づくマルクス命題の論証問題そのものを否定されているものではなく、それを認めた上で、交換過程の分析を前提せずに労働価値の定式や搾取の論証をするのは不適切であると主張するものである。対して私は、一定の単純化された条件の下では交換過程の分析は不必要であり、従ってそのような単純化された条件の下では置塩・森嶋の議論は適切であると主張した。さらに、マルクスの搾取命題の正誤の確定のためには、そのような単純化された条件の下での論証で十分である事――なぜなら結局、命題の論証は成功しなかったからである――も言及した。このように議論は非常にうまく噛合ってなされてきたと言える。