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オピニオン

●「ストックホルム便り(2)」2009年9月11日

 ストックホルムにある経済学の伝統校ストックホルム・スクール・オブ・エコノミクス(Stockholm School of Economics; SSE)は今年創立100周年で、9月9日から11日まで記念行事を行っています。9月10日には、同校の中で、世界中から有名な経済学者が集まり研究会が開催されました。参加者にはゲリー・ベッカー(シカゴ大学)、アビナッシュ・ディキシット(プリンストン大学)、ジャン・ティロール(トゥールーズ・スクール・オブ・エコノミックス)、アーンスト・ヘファー(チューリッヒ大学)、アーミン・フォルク(ボン大学)他多くの学者が一同に集まり、「Human Nature and Economic Incentives」(人間の本性と経済的インセンティブ)というテーマで6人の学者が議論を展開しました。私も旧知のティロール先生に誘われて参加しました。

 昨年9月の金融危機以後、経済学者は何故危機を予測できなかったのか、なぜ問題を指摘して、危機を阻止できなかったのか、これは地震や台風ではなく、全て人間のなせる業であり、それを予測したり、阻止することも可能だったのではないかという批判にさらされてきました。確かに、マクロ金融理論の分野では、理論的枠組み、分析手法、研究関心が分散しており、マクロ経済に対する見方も、立場が違えば全く別になるという状況が続いています。勿論、政策当局者は経済運営を続けていかざるを得ないので、現実的な政策運営をしていますし、何とか大恐慌に陥ることは防いだという点では、1930年代よりはましだといえます。しかし、研究者の意見の対立は終わることがなく、論争相手を批判する目的で極論を立てることも多く、それが極論だと理解できない若手研究者はさらに極端な立場をとるということが起こっているように思われます。

 経済学は大きくマクロ経済学とミクロ経済学に分かれますが、今回SSEで開催された研究会はミクロ経済学者、とりわけ、行動経済学、ゲーム理論、契約理論などに関心のある学者が集まって、人間行動のインセンティブがどのように働くのか、他人を信頼するということがどのような状況で生じるのか、各人が直面している状況に応じて、金銭的な報酬が同じであっても、行動が違ってくるのか、あるいは同じ労働内容に対して、同じ報酬が与えられない場合に、労働者はどう感じ、どう行動するのかなど、極めて具体的な問題について議論をしました。研究会を組織したのはSSEのTore Ellingsen教授です。

 このグループはマクロ経済学内の対立のようなことはなく、できるだけよく管理された実験を行うことで、より科学的に人間行動を理解したいという点では皆が合意に達しています。私が専門とするミクロ計量経済学も実際の統計データを実験データのように厳密に場合分け、あるいはマッチングして分析することが主流になっていますが、行動経済学の実験も最近ではかなり、実験計画法の手法を意識した実験デザインを行うようになってきていることが今回の報告でも明らかでした。私の理解する限りでは、実験経済学、行動経済学、ミクロ計量経済学が最も科学的な手法に依拠しながら、人間の経済的行動を解明しようとしており、この分野からの成果が、いまのところ、経済学の進歩という意味では、最も期待できるのではないかと思います。

 全部の議論を要約するのは難しいのですが、一番初めに発表したティロールの議論を紹介します。彼のテーマはBehavioral Incentive Theoryというタイトルで、人間のインセンティブは経済的報酬に比例しているだけではなく、自分自身の評判(reputation あるいはesteem)、他者への思いやり(altruism)にも依存しており、それらの要素を組み入れると、経済的報酬が上昇しても、インセンティブが低下するcrowding outが起こる可能性があることを、実例を挙げながら、しかし、彼一流の理論化を通して議論していました。

 インセンティブは2つのグループに分けることができます。(1)良い行いをすること、と(2)悪い行いをしないこと、です。この分類はティロールによるものではなく、私がアイザィア・バーリンの『自由論』で展開された、自由の2つの分類、「人が自分のする選択を他人から妨げられないことに存する消極的自由」(passive liberty; free from)と「人が自分自身の主人であることに存する積極的自由」(positive liberty; free to)からの類推で分類したものですが、ティロールの議論にも上手くフィットするのでここでも用いることにします。言うまでもなく、良い行いをするインセンティブは積極的インセンティブであり、悪いことをしないインセンティブは消極的インセンティブと解釈できます。

 社会的な規範や法律で規定されるのは(2)の分類に入ることです。(2)の規定と経済報酬だけで、社会はうまく回っていくでしょうか。高度な管理社会ではないので、全ての行動は把握できないとすれば(情報が非対称であれば)、(2)を破って、利益を得ようとする人が少なからず出てきます。また、(1)の行動に対して特に高い報酬が払われる訳ではなく、むしろ費用がかかる場合には、経済報酬によって(1)を説明することはできません。例えば、電車の中の荷物の忘れ物について考えてみましょう(これは私の例であって、ティロールの例ではありません)。(1)であれば、多少の時間をかけても、もよりの駅で降りて、忘れ物を駅員に届けて、状況を説明するでしょう。そうすれば、その荷物が落とし主に帰る可能性は高まります。(2)の場合とは、だれも自分の持ち物ではないということで、終着駅まで手をつけずに運ばれていくということです。これも終着駅で駅員が、その荷物を確保すれば、落とし主に戻る可能性があります。(2)が成立するためには、全ての人がその荷物を盗らないことが前提になりますが、誰も監視していない電車の中で、一人の人が盗んでも、その荷物は持ち主に戻ることはありません。ベッカー先生がシカゴ学派らしく罰則を強化すればそれは阻止できるのではないかというコメントをされていましたが、電車の中での行動を全てモニターして個人を特定化することは不可能だとすれば、昔言われていた日本の美徳とされた忘れ物は必ず見つかるというほどに社会的規範が機能するとは思えません。ましてや、多民族国家のアメリカや先進国の大都会では(2)のような制約が機能するとは考えられません。では(1)の行動を促進するにはどうすればいいのでしょうか。これは金銭的な問題ではなく、自分が忘れ物をした場合に、他の人にとって欲しい行動をとること、これは利他主義的でもありますし、自分は良い行いをする人間であるという自尊心の現れでもあります、あるいは人からそういう人間であると評価されたい願望も反映されているかもしれません。ただ、自ら自分の美徳を吹聴して、自分の評判を高めるような行為は、その先に何らかの意味での報酬を求めているようで、必ずしも純粋な利他的行動、自尊心の反映ではないと考えられるので、区別する必要がありますが、これを厳密に区別することは難しいと思います。社会ではそのような人間はあまり尊敬を集めないということは確実ですが。

例えば、朝の通勤時間帯に、忘れ物を見つけて駅員まで届けることのコストを、その行為によって助かる人のいることと比較すれば、たいした労ではないと判断する人が多くなれば、社会的な費用はむしろ低下し、信頼のおける社会を維持できるでしょう。ただ、この行為に金銭的な報酬をつけて落し物取得1点につき100円が払われるということになれば、自尊心や利他主義から行動してきた人は、何か報酬目当てでやっているかのような気持ちになって、むしろ拾得物を届けるというインセンティブがそがれる結果になるかもしれません。これがティロールのいうcrowding out効果です。

 落し物の例をとっても、人間のインセンティブは報酬だけに反応している訳ではなく、また、法律や社会的規範だけでも反社会的な行動を阻止することはできないことがわかります。インセンティブには自分が落とし主の立場であればどうかということをよく理解している利他的行為、あるいはアダム・スミスのいう拡張された同情(extended sympathy)も含まれています。この要素が如何にうまく機能するかが信頼社会の前提になっているといってもいいかもしれません。先の自由論からの類推で言えば、社会は消極的インセンティブだけでは不十分で、積極的インセンティブが必要であり、この積極的インセンティブは強制できるものではなく、自発的に機能する必要があるということでしょう。そのような積極的インセンティブを醸成するのは、経済ではなく、倫理や善行を評価すること、ということになるのだと思います。

 ミクロ経済学者たちが、いま議論していることはこんなことです。市場メカニズムに任せて、金銭的報酬と法と秩序が保たれれば経済取引はすべて上手くいくという単純な議論をする人はこのグループには皆無です。現時点では、これらの個人的なインセンティブの選択は複数の均衡点を持つことが理解されていますが、それが社会的にどのように集計されて社会的行動になるのか、どのような社会習慣の形成に結びつくのかということは解明されていません。いつかの時点で、このミクロ経済学の議論が集計されたマクロ経済学の議論とかみ合って、より的確な社会的予測に結びつくことができれば、経済学も、より信頼のおける学問になるでしょう。そのためにも、社会的存在としての人間行動の本質をより深く理解し、それを認識した行動モデルを考える必要があるのです。

 俗な話で恐縮ですが、ノーベル経済学賞の記念講演は、このストックホルム・スクール・オブ・エコノミックス(SSE)の講堂で行われます(他の分野の記念講演は写真にあるコンサートハウスで行われます)。ノーベル経済学賞選定委員会には、スウェーデン中央銀行であるリクス銀行の関係者に加えて(ノーベル経済学賞は、ノーベル財団が出す賞ではなく、このリクス銀行の記念賞という位置づけです。因みに、9日午前中にはティロール先生はリクス銀行でセミナーを行っていました)、この大学関係者が関わっており、世界中の有力経済学者がこのSSEに来てセミナーを開いたり、ウィクセル記念講義を行うことを喜んで引き受けてくれることは、この大学の隠れた特権であると、この大学に長く勤めた老教授が教えてくれました。確かに、今回の100周年記念にもそうそうたる経済学者が揃っており、今年の10月のノーベル経済学賞の発表には反映されないかもしれませんが、近い将来には必ずという人たちが機会を見つけては集まっていることは間違いないようです。

北村行伸@ストックホルム

 

SSEの正面入り口(左)とSSEのスウェーデン・アールヌーボーのインテリア・その1(右)  stockholm2-3  stockholm2-4
SSEのスウェーデン・アールヌーボーのインテリア・その2(左)とストックホルム・コンサートハウスの内部(右)  stockholm2-5  stockholm2-6