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オピニオン

●「ヘルシンキ便り(4)」2009年7月21日

 いま研究で少子高齢化や人口減少の論文を読んでいる。日本の論点は人口減少が経済活力を失わせ、経済大国の立場が危うくなるというものや、何とかして全要素生産性(TFP)を上げて人口減少をカバーするような施策を導入すべきだといったものなど、基本的には人口減少や経済成長の低下をくい止めたいという主張が多く、現在の政府の少子化対策もこの発想の上に成り立っている。しかし、地球規模での最大の懸念は人口爆発であり、これらの人口のかなりの部分が現代的な生活スタイルを享受すると、莫大な資源・エネルギーを消費することになり、これが資源の枯渇と環境破壊に結びつく可能性があるということで、日本の状況とは対極にある議論がなされている。

 日本と国土面積がそれほど違わないフィンランド(33.8万平方キロ)で人口530万人、スウェーデン(45万平方キロ)で人口923万人しかいない。彼らの生活水準は日本よりも高いし、ライフスタイルもはるかにゆったりしている。少子化問題を議論していると、スウェーデンでは出生率(TFR)が一時の低落から回復して2008年で1.88あたりにあり、フィンランドも同じく2007年で1.83あたりにある。日本は2008年で1.22あたりだと言われ、なんとかスカンジナビア諸国から少子化対策を学べないかという話になる。絶対数で見るとフィンランドの年間出生児数は2006年末の統計で6万人弱、スウェーデンでは10万人強ということで、これらの国でTFRを0.1引き上げるのに出生児数が何人増えればいいのかは計算しなければならないが、500人の増加でもかなりのインパクトはあると思う。少子化対策として500人の女性に追加的に出産してもらうために具体的な出産補助や産休の手当をするのは、顔の見える政策となるが、日本のように年間出生児数が80万人いて、追加的にさらに1万人の女性に出産してもらおうと思えば、これはかなりの規模の政策になる。TFRの数字を比較してスカンジナビアの少子化対策に学ぼうという議論に対しては、学べることを学ぶのは良いが、具体的な規模でものを見ないと少子化政策が有効だとか無駄だとかいっても話にならないというのが感想である。

 そもそも経済理論には最適成長、最適都市規模、最適人口、最適消費など最適化理論に基づくものが沢山あるが、それらを総合したような最適生活水準のような指標を求める理論はまだ無いように思う。思いつきの域を出ないが、2008年度のIMF統計によると、中国、ロシアなどの旧社会主義国を除いて、人口密度と一人当たりGDPの関係を図示してみると、明らかに負の関係が見られる。すなわち、人口密度が低いフィンランドやスウェーデンの一人当たりGDPは5万ドルを超えており、人口密度が高い日本やイギリスでは4万ドル程度に止まっている。経済成長が収束するかどうかということは議論になったことがあるが、人口密度と一人当たりGDPは収束するかどうかという議論は見たことがない。むしろ、都市規模はジップ法則によってベキ乗分布をするので、一様分布になるという考え方は否定されるだろう。しかし、図を見る限り、最適人口密度がどこか中間にあって、そこに収斂するという感じではなく、むしろ人口密度は低いほど生活水準は高いという線形関係にあると言えそうである。つまり、都市規模ではベキ乗分布に従っているとしても、国家レベルの規模と所得の関係で言えば、先進国に限れば、人口の少ない国ほど生活水準が高いと言えそうである。もちろん、この図からは因果関係について、すなわち人口が減少すれば一人当たりGDPが自動的に高くなるとは必ずしも言えない。もともと、それほど人口が多くない小国が、知恵を絞って一人当たり総生産を高めている結果だと考えた方が自然かもしれない。恐らく、スカンジナビア諸国の人口密度は始めから低く、産業革命後の19世紀に増えたというのが実情であろう。パネルデータとして考えると、全ての国は19世紀以後人口増加をしてきたが、初期人口の少ない国、人口密度の低い国の方が一人当たりの経済成長率が高かったということだろうか。

 今回、スカンジナビア諸国に来ている理由の一つに、人口問題に関して何らかの解決の鍵はないかということを調べたいということがある。具体的にはスウェーデンの経済学者ウィクセルが19世紀末から20世紀に始めにかけてスウェーデンの人口問題に関して議論しており、その背景を確認したいと思っている。スウェーデンやフィンランドのような少ない人口でどのように経済活動を行い、かつ、国際社会でそれなりの存在感を維持しているのか、小国にとっての最適人口はどのようにして求めてきたのであろうか。ウィクセルの議論はマルサス主義的なものであり、人口をいかにコントロールするかというものであった。19世紀の末に小国スウェーデンですでに人口抑制的な政策と経済成長の組み合わせを考えていたということが驚きだが、これによって現在の高福祉、高生活水準の礎石が築かれたように思われる。ウィクセルは第一次世界大戦の概観をした論文では、戦争の原因は究極的には人口増加にあり、増加した人口を賄うために国家が他国に侵略して国土や資源を略奪するということだと結論づけた後で、人口減少は賃金を引き上げるし、天燃資源分配問も解決できると言う。そして、人口が適切な規模に収まることで高い生活水準と平和な暮らしができると結んでいる。ウィクセルと言えば、今や自然利子率と市場利子率の関係からインフレやデフレへの累積過程を分析するモデルを提示した金融学者としての評価が高いが、人口学における彼の議論にも耳を傾けるべきではないかと思っている。

 最近は便利になって、フィンランド中央銀行の私のパソコンでも日本の新聞が読める。毎日新聞のコラムを読んでいたら、昭和31年7月17日に発表された『経済白書』の結語の部分の「回復を通じての成長は終わった。もはや戦後ではない。今後の成長は近代化によって支えられる。それは経済成長率の闘い、生産性向上のせり合いである。幸運のめぐり合わせによる数量景気の成果に酔うことなく、世界の技術革新の波に乗って新しい国造りに出発しなければならない。」という有名なくだりが紹介されていた。実際に私の誕生日は昭和31年7月13日で、この白書の発表されるわずか4日前に生まれている。私の成長は高度成長経済期と丁度重なっており、ずいぶんと多くの恩恵を受けてきたものだとしみじみ思う。政治的に見ても、昭和30年に鳩山一郎民主党と緒方竹虎自由党が保守合同して自由民主党を立ち上げ、以来、現在に至るまで延々と政権の座についており、異常といっていいほど安定していた。

 日本人全てが感じていることは、そろそろ歴史の潮目が変わり始めているということである。実際、日本の人口は2006年から減少を始めている。政権交代もほぼ確実に起こるだろう。『経済白書』に倣って、何かこの時期に指針を出すとすれば、「キャッチアップを通じての成長は終わった。もはや総生産で一等国を決める時代ではない。」ということではないだろうか。戦後日本のGDPは相当無理して達成してきた水準であり、もうそろそろ頑張りすぎの生活から、好きなことをやって楽しく暮らせる水準で達成できるGDPを受け入れる時期に来ているのではないだろうか。スカンジナビアの経験は、かなりリラックスして暮らしても、あるいはそれ故に、適度の経済成長と高い生活水準を享受できるという見本を示してくれているように思う。


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データ出典:IMF統計


北村行伸@ヘルシンキ