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オピニオン

●「ミラノ便り(3)」2007年10月27日

 ミラノに来てその歴史や文化に興味をもって、改めてルネッサンス期以後のミラノの歴史や中世におけるミラノの役割、さらに、ローマ帝国の中でのミラノの果たしてきた役割などについていくつかの文献に当たってみた。

 ミラノは歴史的に見ると、イタリアの辺境にあり、イタリアとは見なされていない時期も多く、むしろフランスやドイツなど西ヨーロッパや北ヨーロッパへの交通の要地あるいは繊維産業などの産業の中心地として、ある程度、独立した都市として公国あるいは共和国として繁栄してきたと考えられる。

 ルネッサンスを支えたパトロンとしては、フィレンツェのメディチ家、フェラーラのエステ家、ウルビーノのモンテフェルト家、マントヴァのゴンツァーガ家などが著名である。ミラノではヴィスコンティ家とスフォルツァ家がルネッサンス期の芸術家・学芸を支えてきたことが知られている。

 ルネッサンスの天才、レオナルド・ダ・ヴィンチもフィレンツェでの徒弟時代を経て、30歳の時にはミラノのスフォルツァ家に仕え、軍事的技術者、建築家、祝祭劇の芸術監督、ミラノ城の壕や治水、運河の設計を行い、そして画家としては「最後の晩餐」をサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に描いている。これらのレオナルドの画家以外の技術者としての仕事の一端はアンブロジアーナ絵画館に残されているレオナルドの大量のノートに見ることができる。

 レオナルドの仕事のうち、完成されたものとして後世に残っているのは「モナ・リザ」などの絵画であろうが、ミラノにおける仕事の大半は解剖学、物理学、幾何学、天文学、航空工学、治水学など現代科学の礎となるような研究に費やされていたようである。イタリア・ルネッサンスがこの天才を生んだことは間違いないが、多くの研究は時代を先取りしすぎており、当時、実用化されるまでには至らなかった。いずれにしても同時代の他の芸術家が相変わらず宗教絵画を描き続けていた時に、全く次元の違うことを考えていたことは間違いない。これはミラノがローマから離れ、比較的自由な環境で思索に耽ることが許されたことが幸いしたのかもしれないが、レオナルドがキリスト教画家から自然科学者・工学者へ飛躍していった背景、宗教のくびきから解放され、個人としての科学者へ変貌していった過程については、そのうちにさらに詳しく調べてみたい。

 ミラノといえば、やはり須賀敦子さんのことについてすこし触れておかなければならないだろう。須賀さんの著作は私たち夫婦の愛読書であり、須賀さんの訳を通してサバ、ウンガレッティ、ギンズブルグ、タブッキなどの詩や小説にも接してきた。慶應義塾の旧図書館から須賀さんの手書きの博士論文を借りてきて感慨深く読んだこともあった。なぜミラノに来たのかと言えば、大学教育のためではあるが、須賀さんが住んで、いろいろな思索を巡らしたその街の空気や、須賀さんの言うロンバルディアの青い空やドゥオーモの人混みを実感してみたかったということだろう。そして、ウンベルト・サバの詩「ミラノ」をドゥオーモ前の石段で口ずさんでみたかったということだろう。

石と霧のあいだで、ぼくは
休日を愉しむ。大聖堂の
広場に憩う。星の
かわりに
夜ごと、ことばに灯がともる

人生ほど、
生きる疲れを癒してくれるものは、ない。
          (訳 須加敦子)

 

北村行伸@ミラノ

 
ロンバルディアの青い空とドゥオモ                       アンブロジアーナ絵画館の中庭 sky garden