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オピニオン

●「大学入試センター試験は高校卒業認定試験に」2002年1月21日

 今年も1月19日、20日の両日にわたって、全国一斉に大学入試センター試験が実施された。大学進学率の上昇とベビーブーマーJr世代が受験生であるということもあって、今年は60万2089人とこれまでで最高の受験者数となった。このことは、センター入試が国立大学のみならず、私立大学にも広く受け入れられてきたことを物語っており、制度としては定着し、拡大してきたことを意味している。

 ここで一つの提案として、この試験を毎年の「大学入試」に結びつけるのではなく、「高校卒業認定」資格として扱うべきではないかということを論じてみたい。その理由は以下に述べる通りである。

(1)現行のセンター試験には相当のコストがかかっている(受験手続、問題作成、印刷、配布、人員確保、応急処置のための医務待機、等々)。これを一回限りの大学受験の資料として扱うだけというのはいかにもコストを無視した発想である。今議論されているように、この結果を複数年大学入試の資格として使うということは当然認められてしかるべきであろう。しかし、それでもコストは十分に回収されたことにはならない。この試験の結果をもって、高校で受講した科目の修了資格として用いる、すなわち、高卒の資格と同様に高校程度の科目を修了したという科目別の証拠として、大学入学の条件のみならず、将来の資格取得の条件としたり、就職の際の考慮対象とするなど様々な使い方をすればいいのではないだろうか。そうすることによって、高校別の成績とは別の全国一律の評価基準に基づく卒業資格となるし、また高校の卒業認定試験とすることで、高校での教育自体の完結も促すことになる、さらに一生その結果がついてまわるようになれば、受験生も一層熱心に受験することになるだろう。それぐらいの位置付けを与えて初めてコストに見合った利用と言えるのではないだろうか。

(2)現行のセンター試験は受験希望大学の要請科目のみを受験すればいいということになっており、受験者数が科目によってかなり変動する。考えてみれば、この受験大学の要請科目のみ勉強すればよいという態度は、高校、中学以下の教育体制を大きく歪めているようである。そもそも、学校教育では、それぞれの年代に必要な知識、教養に応じてカリキュラムが組まれているはずであって、それを大学入試という、人生の一通過点にすぎない制度に合わせて(すなわち、入試にないから勉強しないということを放任して)、本来、長い人生において極めて重要な知識、教養をないがしろにする言い訳になってしまっているようである(大学の文科系学部を卒業して社会人になってから、急に金融工学や暗号論を理解する必要に迫られても数学がまるでわからない、あるいは医師や生命科学者が倫理的な判断をしなければならなくなった時に、文学や哲学の素養が一切ない、ということは現実に起こっている)。むしろ、高校生として最低身につけておくべき知識、教養を広く認定するという位置付けで、この試験を高校卒業認定試験とすれば、大学入試の科目とは別の基準での勉強が必要になり、それは、高校教育、あるいは中学教育のレベルを上げることにもなるだろう。実際に15−18歳の人間が吸収できる知識教養の水準はかなりなものである。これを、実際には先延ばしして、小学校の内容を理解していない中学生、中学校の内容を理解していない高校生、高校の内容を理解していない大学生、大学の内容を理解していない大学院生と玉突き的に教育内容が劣化してきている。この悪循環を阻止するには、それぞれの出口でクオリティーコントロールを確実にするというのが最も正統なやりかたであると思う(入学を易しくして、卒業を厳しくするという発想と近い)。高校の卒業認定試験の話に戻るが、イギリスのAレベル試験というのはまさにそのような資格認定試験の性格を持っているが、そこで出題される内容は、日本の受験問題のレベルをはるかに超えた高度なものである。このようなクオリティーコントロールを経て、初めて学部の初めからかなり高度な大学教育を始められるといえよう。

(3)高校卒業認定資格は、何歳の人でも1年に何回か受験できるようにしておけば(運転免許のように)、年配の人が勉強して後で追加的にある科目を受験することも出来るし、また、小学生や中学生、高校低学年の生徒でも受験することが出来るようにしておけば、飛び級の認定や特定の大学科目の受講に対する特例措置の理由にもなる。

(4)個別高校の成績は相対的なものにならざるを得ず、厳しくもなれば、甘くもなる。現在では高校へはほぼ100%の進学率になっており、高校卒業程度の教育レベルをもって我が国の基本的教育水準とするのが適切であろう。とすれば高校卒業の基準を個別校の判断にまかせるのではなく、全国的な基準で判断すべきであろう。それは大学へ行く行かないに拘わらず、高校を卒業したという事の意味をより公なものにする意味もある(高校に在籍していたということと、高校で勉強したということに違いを持たせる)。

(5)これらの提案は主としてこの試験の利用方法や社会の受け止め方に関するものであって、その点では追加的なコストはかからない。むしろ繰り返しになるが、この試験をさらに利用することによって、膨大なコストを回収しようというのが第一の主旨である。しかし、年間何度か試験を実施し、各回の試験の難易度に大きなばらつきがないような管理、実施機構はかなり大規模なものになるだろう。そのコストは追加的なものであるが、それに対してはアメリカの大学受験資格テスト(SAT)や大学院受験資格テスト(GRE、GMAT)などのように民営化して民間業者が、予備校や大学のキャンパスを借りて実施する形式にすれば、かなりのコストダウンになるはずである。

 経済学的に考えると、この大学入試センター試験はその費用、利用方法、実施手段など多方面から改善の余地をの残した制度である。また、現在進行中の大学院大学化や高度プロフェッショナル教育の成功は、義務教育、高校教育、大学学部教育の充実と、各レベルでの確実なクオリティーコントロールがいかに厳格に行なわれるかにかかっているように思われる。