第3章 国民所得統計






1 国家経済会議と経済計画の策定


 タイにおける国民所得統計の作成は、経済開発計画の策定の試みと密接に関係している。第1章で述べたように、国民所得推計は、1950年9月締結の「タイ・アメリカ技術経済援助協定」にもとづいて、多数の専門家がタイに派遣されたことから始まった(表3-1の年表参照)。 つまり、同協定に先だって1950年2月に、まず国家経済会議(NEC)が設置され、同会議の統計専門家・経済顧問(economic adviser)としてアメリカ人のグールド(Joseph Gould)が任命された。グールドは、1952年7月に統計作成事業について提言を行ない、そのなかで「国民所得調査課」の新たな設置を提案した。それとと同時に、彼は1938/39年、1946〜50年の国民所得会計について、タイ最初の推計を試みた人物でもある(後述)1)

 より具体的にみると、グールドは報告書の中で次のように提言している。すなわち、

 「すでに我々が開始している統計分野の仕事を適切に遂行するために、国民所得調査課(a National Income Research Division)を政府自身が設置し、かつ3つの仕事を実施するよう訓練した人員を配置することが緊急の要件であると考える。3つの仕事とは、@国民所得推計や国民所得会計に関連する数字を作成するために、適切にデータを確保すること、A収集したデータを適当な形式に整備すること、Bその数字を定期的な刊行物、少なくとも年次報告の形で刊行し、国民所得会計や関連する指標の経済分析を提供すること、以上の3点である」2)

 その結果、政府は1954年に、国家経済会議委員会事務所のなかに、「国民所得課」(National Accounts Division)を設置し、外国人専門家の指導と協力を仰ぎながら、データの収集と国民所得、総支出の推計作業を開始した。

 一方、国家経済会議は、もともとタイ経済が直面する問題を協議する首相直轄の委員会であった。いわば現在の「経済閣僚会議」に相当し、会議は
(1) 金融財政部門(大蔵省、中央銀行)、
(2) 農業部門(農業省、協同組合省)、
(3) 商業経済部門(経済省)、
(4) 工業経済部門(工業省)、
(5) 運輸通信部門(運輸省)
以上5つの部門から構成された3)。  そして、20名の委員は、当該部門の現職大臣、副大臣、局長か、もしくは元閣僚経験者で占められている(表3-2参照)。

 その後、アメリカとの技術経済援助協定の締結、ECA(Economic Cooperation Administration)やMSA(Mutual Security Agency)、USOM(United States Operation Mission)を通じたアメリカの援助の開始、特別技術経済訪問団を通じた外国人専門家の受け入れなどを経て、国家経済会議は、(1)経済問題の協議、(2)援助受け入れの前提としての経済計画の策定、(3)経済計画策定のためのデータの収集と整備、(4)対外経済援助受け入れのための調整といった計4つを、基本的な任務とするに至った。

 このうち、第3の目的として「中央統計事務所」が、また第4の目的として「対外技術経済協力委員会」(Khana Kamakan Ruwam-moe thang Setthakit lae Wichakan kap Tang Prathet: Ko. So. Wo.)がそれぞれ設置された4)。  

 そして、1953年には、第2の目的を遂行するために、「経済計画策定運営委員会」(Khana Kamakan Kan Damnoen Kan Wangphang Setthakit khong Prathet)が発足し、最初の経済4カ年計画(1953〜56年)を立案する5)。  この「経済4カ年計画」の詳細は不明であるが、タイ政府が国連に提出した報告書(1953年7月)によると、道路建設、農業灌漑、鉄道、電力などインフラを中心に計30件のプロジェクトの推進と、合計128億2400万バーツの投資を予定していた。このうち、約50億バーツが道路建設に、19億バーツが鉄道事業に、18億バーツが灌漑事業に、それぞれ向けられている6)。  しかし、1952〜54年の3カ年の政府支出実績を見ると、年平均で12億4600万バーツにすぎず、とても予定期間内での実行は無理であった。この資金不足と官僚・政治家の腐敗のために、「経済4カ年計画」は、ほとんど見るべき成果を挙げなかったようである。

 次いで、1957年7月、エルウォース(Paul T. Ellworth)が率いる世界銀行経済調査団がタイを訪れ、1年間に及ぶ調査を開始した。調査団は、財政金融、運輸通信、技術分野の専門家7名で構成し、国籍はアメリカ、ドイツ、フランス、イタリア、ノルウェーなどにまたがっていた7)。  

 一方タイ側は、これに先だって「世界銀行経済調査団協力委員会」(Khana Kammakan Ruam-mue kap Khana Samruwat Setthakit khong Thanakhan Lok: Kho. So. Tho.)を同年2月に設置し、毎週、定期的に世銀調査団と協議を繰り返した。この協力委員会の事務局メンバーを務めたのは、もと中央銀行総裁で、国家経済会議委員会副委員長でもあったデート・サニットウォン(同協力委員会委員長)、ブンマー・ウォンサウォン(当時、大蔵省中央会計局長)、チャローング・プントゥラグン(1956年から国家経済会議委員会事務局長)、ジョン・ロフタス(大蔵省外国人顧問)、スパープ・ヨットスントン(ロフタスの元秘書、デートが中央銀行総裁時代、調査部長を務めた。のち国家経済社会開発庁に移籍する。同協力委員会事務局長)の5名である8)

 このタイ側と世銀側双方の協力のもとで進んだ経済調査は、国民所得会計の作成を準備する重要な契機にもなった。というのも、世銀は経済開発計画の策定とその実施を念頭に置き、その前提として政府の予算配分と支出計画を試算したからである。この試算には、当然ながら過去の政府投資と民間投資(いわゆる総資本形成)、政府と民間の消費支出(国民総支出)のデータ把握が不可欠であった。その結果、世銀は1957年現在について、おおざっぱな国民総生産、資本形成の推計を行なうに至った9)。  なお、世銀が行なった国民所得推計に先立つグールドの初期の推計や、タイ人自身による推計については、節を改めて紹介することにしたい。


2 国家経済開発庁(NEDB)の設立と国民所得統計の作成


 世銀は調査を終えたあと報告書をとりまとめ、その中で「国家開発局」(National Development Board)と、「専門的な事務局」(professional Secretariat)の設置を強く提言した。そして、この提言にもとづいて新たに設置されたのが、国家経済開発会議委員会とその事務局である同委員会事務所(以下、国家経済開発庁NEDBと呼ぶ)であった。

 この国家経済開発庁は、当初は4つの部局から成り立っていた。すなわち、
(1) 経済開発計画部局、
(2) 国民所得作成部局、
(3) 中央統計部局、
(4) 対外経済協力部局
がそれである10)。  この4部局構成は、先の「国家経済会議」の組織をそのまま引き継いでいる。ただし、国家経済会議の委員が、1950年代半ばから軍人たちで占められたのに対し(表3-2参照)、新しい委員会は経済官僚を主体とする政府機関に生まれ変わった。

 国家経済開発庁の初代長官に就任したのは、先に世銀経済調査団協力委員会委員長を務めたデート・サニットウォンである。サニットウォン一族は、タイでは屈指の名門王族であり、父であるチャオプラヤー・ウォンサーヌプラパットは農業大臣、土木大臣を歴任し、兄弟のタンは工業大臣、チャランは工業局長、工業次官、チャルーンはマッガサン鉄道工場長、ウドムは道路局長、運輸大臣をそれぞれ務めるなど、多数の閣僚、そして優れたエンジニアを輩出している。また、デートの妹にあたるバンチョンジットは、現国王(ラーマ9世王)の王妃シリキットの祖母にあたる。

 デート本人は、ドイツのボン大学で政治経済学を学んだあと、帰国して農務省に入り、協同組合局長、鉱山局長を歴任した。戦後も、商務大臣、農業銀行総裁、中央銀行総裁(1949〜52年)に任命され、生粋の経済テクノクラートであった(表3-3参照)。1958年10月に、サリット陸軍司令官が率いる「革命団」がクーデタを断行したときには、「革命団」の経済顧問団の委員長も務めている。国家経済開発庁の長官に就任したデートは、1972年に同庁が国家経済社会開発庁(NESDB)に改組されるまで、じつに13年の長期間にわたって、タイの経済開発計画を指導した。第1章で見たモームチャオ・アティポンポングを「タイ統計の父」とするならば、デートはまさに「タイ経済開発計画の父」と呼ぶことができるだろう。

 さて、国家経済開発庁は、1960年10月に「第一次6カ年計画」(前期3年、後期3年)を発表し、翌61年1月1日から実施した(ただし5年で打ち切り。以後5カ年計画に切り替える)11)。  一方、同庁の中に設置された国民会計課(National Accounts Division)は、1963年にまず「国民総支出1961年版」を発表し、ついで翌64年には、最初の『タイ国民所得統計』(64年版)を刊行した。そして、1966年には1956年固定価格を基準に『タイ国民所得1957〜63年』(66年改訂版)の時系列データも発表している(前掲表1-1参照)。

 もっとも初期の時代は、統計数字は不備であり、しばしば改訂作業がなされている。国民総支出推計は、国家統計局が実施した『家計調査1962〜63年』にもとづいているため、数字はある程度信頼性を帯びている。しかし、総資本形成の方は、もっぱら輸入資本財と、国内資本財(輸入)に使用されている輸入原材料から推計したため、輸入品のダブルカウントの問題が発生し、しばしば過大評価となった。実際、1961年の総資本形成額は、最初の「64年版」では31.3億バーツ、「66年改訂版」では26億バーツに下方修正されている。さらに、1963年にタイを訪れたアブラハム(フィリピンの国民所得会計の整備を指導)は、独自に推計を行ない、19億バーツというより低い数字を出した12)

 他方、セクター別の付加価値額の方は、農業がバンコクの主要農産物の卸売り物価から、製造業、鉱業や商業は、大蔵省歳入局の法人税から推計したため、農業はやや過大評価、製造業等は税の申告漏れによる過小評価に陥った。また、1966年に国民所得全体の推計方法を検討したプロットは、それほど重要でない農産物や農村地域における生産活動が計算から漏れているため、GDP自体が過小評価になっていると指摘している13)。  その結果、1969年には、1960年代の統計数字を全面的に改訂し、同時に「1962年価格」を基準年価格に設定し直した(後述)。通常、「旧シリーズ」と呼ばれる時系列データは、1969年以降作成された「1962年価格」による一連の統計データを指している。


3 グールドの国民所得推計:1938/39年、1946〜50年


 さて少し時代が遡るが、先に取り上げた国家経済会議・経済顧問であるグールドによる国民所得会計の推計を、ここで簡単に紹介しておこう。彼が1952年に実施し、翌53年に発表した推計値は、現在ではほとんど忘れさられ、その推計結果が参照されることもまずない14)。  しかし、当時国民所得を推計するにあたって、彼がどのような資料やデータに依拠したのか、その点を検討することは、タイ統計制度の発達を知る上できわめて興味深いといえよう。それだけでなく、彼が担当した時期は、タイ経済史ではまったくの「研究空白期」に相当し、当時の実物経済の実態を理解する上でも、彼のデータは貴重であると私は考える15)

 それはともかく、グールドが国家経済会議やタイ人を相手に紹介しようとしたのは、まず「国民所得」という概念そのものであり、次いで国民所得の簡単な計算方法(例えば、製材業の場合には、原材料となる丸太の購入額を製材業の付加価値計算から排除するといった、「二重計算」の防止の注意など)、そしてその計算に必要なデータの整備の3点であった。そして、グールドの緊密な協力者となったのが、デート(当時、タイ技術経済協力委員会委員長)、スントン・ホンラダーロム(国家経済会議事務局長)、アティポンポング(中央統計局長)の3名であり、彼らはのちに例外なくタイにおける経済計画や統計整備の近代化に貢献していった16)。  それだけに限ってみても、グールドの役割は高く評価してしかるべきであろう。

 グールドはその報告書のなかで、国民経済の発展にとって国民所得会計の推計がきわめて重要であることを強調したあと、その推計方法には、@生産ベース、A所得ベース、B支出ベースの3つの方法がある点を指摘する。しかし、タイでは民間企業の給与や賃金支払いの統計がきわめて不備であり、Aによるアプローチは当面困難なこと、また、家計支出調査もなされていないため、Bによるアプローチも不可能であることを指摘した上で、@の生産ベースによるアプローチから推計を始めるしかないと説く17)。  この点は、次に述べるバンディットたちの推計も同様であった。

 その上で、既存の各省庁(とくに農業省農業局と経済省商業情報局)が作成している品目別時系列の生産量データと価格データ、大蔵省歳入局の租税徴収実績、貿易データなどを利用して、セクター別、品目別の生産量と生産価額の推計を積み上げている。農産物では計18品目、林産物では26品目、畜産物では8品目、鉱産物では7品目を、それぞれカバーしており、当時としては可能な限りのデータを、第一次産業については収集したといえるだろう。

 セクター別の推計のなかでとくに注目すべきは、「製造業」のデータとその推計根拠である。グールドがとりあげたのは合計45業種もしくは品目であり、そのデータ源泉は表3-4に示したとおりであった。表から分るように、精米、製材、製糖、タバコなどを除く多くの業種もしくは品目が、1949年に工業省工業活動局(Department of Industrial Works, Ministry of Industry)がスポットで実施した「工場サンプル調査」によっていた18)。  このことは、製造業に関する年次別生産データが、当時はまだまったく欠如していたことを示している。また、商業や輸送業、サービス業は、大蔵省歳入局の租税徴収実績によっていた(表3-4参照)。したがって、製造業についていえば、1949年のスポットデータを基礎とする一定の生産量の推計を、グールドのデータから得ることができるのである。

 興味深いのは、こうした国民所得推計のデータの源泉が、じつは1970年代まではそれほど大きく変わっていない点であろう。当時、労働人口の80%以上が農林水産業に従事していたタイでは、農林水産物や精米業の把握がもっとも重要であり、グールドもこの点については、可能な限りのデータの収集に努めている。逆に把握が難しかったのは、コメ以外の穀物、野菜、果実であり、これは1960年代に改善すべき重要な課題になっていく。


4 バンディットの国民所得推計:1951−56年


 すでに見たように、グールドの推計のあと、世銀が経済調査団を派遣し、同調査団は支出ベースをもとに1957年現在の国民総生産の推計を行なった。そして、同調査団の提言のもと設置された国家経済開発会議委員会事務所(国家経済開発庁)を中心に、タイ人が初めて取り組んだ国民所得統計の作成が、1959年に公表されたバンディット・ガーンタブットの「国民所得1951〜56年版」であった19)

 バンディットは、国連統計事務所のエイデノフ(Abraham Aidenof, UN Statistical Office)の指導や、エカフェ調査局、そして編集局のケインクロス(Jphn Caincross, Chief of the ECAFE Editorial Services)の協力をへて、タイ人最初の「国民所得統計1954年版」の編集作業に従事する。その際、バンディットは、@農業・鉱業・採掘業(Ampon Arunrangsi & Chatchawarin Thawiphok)、A製造業(Wongduwan Thewahasathin & SuphanratDulayachinda)、B卸売り・小売業、畜産業(Kanya Singcharoen)、C輸送通信業、電気、水道(Chittra Wongphanit)、D建設業(Amphon Arunrangsi & Anni Limpamara)、E金融・サービス業(Prakop Chuangphanit & Pakni Amatayakun)の6つの班に分けて、作業を進めていった20)

 表3-5は、製造業について、グールド版とバンディット版がそれぞれ対象とした業種もしくは品目を一覧に示したものである。数から言えば、グールド版が45業種・品目、バンディット版が35業種・品目であり、バンディット版の方が対象をより広く再分類しなおしている。ただし、データの源泉については、グールドの時代と比べてそれほど進展があったわけではなく、事実、「砂糖、タバコ、ジュートといった政府が経営するいくつかの工業活動と、少数の民間企業〔セメント、蒸留水など〕を除くと、製造業に関する統計はきわめて少ない」という状況であった21)。  その結果、大蔵省歳入局の租税実績のほか、バンディットたちは工業省と連絡をとり、質問票などによるデータを一部利用している。また、『1954年タイ人口動態、経済事業調査報告』の結果を取り込んだ点が、グールド版との重要な違いである。

 バンディットたちによる国民所得推計は、いくつかの点で大きな特徴がある。

 第一にバンディット版は、不充分ながら生産ベースと支出ベース、要素価格表示の国民総生産の推計を初めて行なった。

 第二にバンディット版は、市場価格による推計とは別に、初めて「1952年価格」による実質国民総生産の時系列データを作成した。

 第三にバンディット版は、先の『1954年タイ人口動態、経済事業調査報告』や『1947年人口センサス』にもとづき、一人あたり国民総生産の時系列データを作成した。

 以上の推計結果については、表3-6に掲げてある。なお、表の左欄には、国家経済社会開発庁(NESDB)が1999年に刊行した『タイ国民所得時系列データ 1951〜1996年版』の数字を、参考のために併記してある。表を見る限り、最新版の方が市場価格では低めに、また、1952年固定価格では高めになっている。しかし、数字やトレンドについてはそれほど大きな食い違いはない。したがって、1950年代の国民所得統計の時系列推計は、ほぼこの時期に固まったとみなすことができる。逆に言えば、1950年代の国民所得について言えば、資料やデータの制約もあって、国家経済社会開発庁はその後とくに目だった改訂は行なってこなかったのである22)


5 国民所得統計の見直しと国際基準への対応:1960−69年


 バンディットたちの作業のあと、1961年から国家経済開発庁は経済開発計画の実施に乗り出し、国民会計課は65年に、最初の本格的な『タイ国民所得統計』(1964年版)を作成・公表した。その後、何度か数字の訂正や改訂作業がなされているが、最も重要な改訂作業は69年になされている。この「1969年改訂作業」は、以後、88年に全面的な見直しがなされるまで、時系列データの基礎となった。そこで、このときに刊行された時系列データを、88年の新シリーズと区別するために、以下では「旧シリーズ」と呼ぶことにしたい23)

 さて、「旧シリーズ」の大きな特徴は次の三点に要約することができる。

 第一に、この「旧シリーズ」で、市場価格、要素価格表示、所得ベース、支出ベースによる1960年代の国民会計の数字が全面的に改訂され、70年代以降の推計の基礎データになった。

 第二に、この旧シリーズは、アメリカのUSOM 経済分析官ガジェワスキー(Peter Gajewski, Chief of USOM’s Economic Analysis Section)と国家経済開発庁外国人顧問ヴィックスニン(George Viksnin)の協力を得て、タイ側が国際基準(国連)にそって編集した、最初の国民所得時系列データになった24)

 第三に、「1962年固定価格」が実質国民所得推計の基礎になった。それまでは「1952年価格」「1956年価格」と変更がなされていったが、この「旧シリーズ」で1962年が基準年となり、88年に変更がなされるまで、実質経済成長率を計算する場合の基礎にすえられた。

 第四に、「旧シリーズ」を刊行するにあたって、国民所得統計の推計を行なう手法とデータ源泉が、タイ語と英語で詳細に明らかにされた。グールド版やバンディット版といった「試算」を別にすると、国民会計課が推計方法を公開したのは、このときが初めてである。より具体的には、次のとおりであった(括弧内は付録のページ数を示す)。

@ 国民租生産推計 11セクター別。製造業は20業種分類(pp. 162-177)
A 消費支出推計 民間消費支出、消費財の輸入、中央政府消費支出(pp. 178-182)
B 資本形成推計 建設投資、資本財の輸入、国内資本形成、在庫変動(pp.183-186)
C 所得源泉別国民所得推計 従業員所得、非企業からの所得、資産からの所得、政府の所得(pp. 187‐190)
D コメの生産推計方法 1951−1965年(pp. 191‐195)
E 要素価格表示の国内租生産推計(pp. 196‐197)

 いずれにせよ、この「旧シリーズ」の刊行によって、タイの国民所得統計はようやく国際比較が可能な数値を、1960年に遡って入手することができるようになったのである。


6 時系列データの問題:「旧シリーズ」と「新シリーズ」の比較


 以上のように、国民所得統計の国際基準に合致した作成は、1970年代以降タイで定着した。ところが、国民会計課と国家統計局が、「1980年投入産出表(I‐O表)」を作成したあたりから、国民所得統計の従来の数字と投入産出表から得られる経済実績との間の乖離が、国民会計課では強く意識されるようになった25)

 例えば、表3-7を見ると、1980年現在(市場価格)、国民所得統計では農業の付加価値総額が1738億バーツでGDPの25%、製造業のそれが1345億バーツで全体の20%を、それぞれ占めていた。これに対して、「1980年投入産出表」の方では、農業が1410億バーツ(対GDP比20%)、製造業が1787億バーツ(同25%)であった。両者の数字に大きな乖離が生じただけではなく、対GDP比率がまったく逆転してしまったのである。

 国民所得統計の時系列データは、主として輸入動向、生産指数、物価指数などにもとづいて推計するので、どうしても過去の数字が土台もしくは制約要因となる。他方、投入産出表の方は、調査年のさまざまの関連統計と、企業のサンプル調査にもとづく、各業種別、各セクター別の付加価値額推計(原材料費、労賃、減価償却費、租税、利益)の積み上げで作成していくから(スポット調査)、投入産出表の数字の方が、特定年の経済実績をより正確に反映しているとみなすことができる。

 したがって、国民会計課にとっては、投入産出表から得られた付加価値総額に少しでも近づける調整作業が要請される。とりわけ、両者の数字の乖離が明らかとなった1980年代半ば以降は、その改訂作業は避けられないものとなった。その結果、1988年に国民会計課は、それまでの時系列データ(旧シリーズ)をすべて放棄し、同じに新しい推計方法にもとづく「新シリーズ」を発表するに至ったのである26)

 そこで、この新シリーズと旧シリーズを比較検討すると、数字には相当の開きが存在した。例えば、表3-8が示すように、名目の製造業の付加価値額が農業を追い抜くのは、旧シリーズが1983年、新シリーズが1981年であった。「1972年価格」の実質付加価値額で測ると、その年はさらに遡って、1979年となる。タイの工業化の進展度合いを判定する場合、この4年間の差はきわめて大きい。

 ところで、問題はこうした数字の食い違いにとどまらない。というのも、現在国民会計課が発表している最新の時系列データは、10年毎に区切られ、それぞれが連続しないという別の問題があるからである。1997年に入手しえた最新の国民所得統計シリーズは、次の4つである(非公開)。

(イ)タイ国民所得1960〜70年(1962年価格シリーズ)
(ロ)タイ国民所得1970〜80年(1972年価格シリーズ)
(ハ)タイ国民所得1980〜90年(1988年価格シリーズ)
(ニ)タイ国民所得1990〜95年(1988年価格シリーズ、1980年から連続する)

 まず、上記3つは基準年価格が異なるので、当然ながら実質成長率や消費支出、投資率、貯蓄率に関する、1960年以降の30年間の連続統計は計算できない。1988年に発表された「新シリーズ」では、「1972年価格」の推計を1960年まで遡って発表していたが、1997年に公表されたデータでは、推計方法や依拠するデータが異なるという理由で、対象を1970年から80年に短縮した。しかも、各10年毎の国民所得統計の推計方法や調査対象項目も異なるので、市場価格による名目金額自体も連続しない27)。  (イ)から(ハ)は、それぞれ独立した統計なのである。

 もっとも(イ)の統計は、過去、国民会計課が公表してきた「1969年改訂版国民所得統計」以降の「旧シリーズ」にそのまま依拠しており、とくに数字の改訂はなされていない。しかし、(ロ)と(ハ)の統計は、該当時期に国民会計課が発表し、あるいは中央銀行が『経済季報』に転載した数字を、大幅に改訂している。したがって、過去の国民会計課や中央銀行のデータをいかに収集しても、あるいはそれに依拠しているIMFや世銀の独自の長期データを利用して経済成長率を計算しても、その数字自体が無意味であった。すでに当事者である国民会計課が、そのデータそのものを棄却しているからである。こうした問題を認識している研究者は、じつは日本はもちろんのこと、欧米諸国でもタイ国内でもきわめて少数である。

 したがって、タイ国民所得統計の時系列的データの作成は、今後の統計作業において、もっとも基本的な課題となる。もちろん、この点については国民会計課も十分認識しており、1999年3月に、『タイ国民所得 1951‐1996年版』(National Income of Thailand 1951-1996 Edition)を刊行した。これは、1950年代以降のタイ国民所得を国際基準にそって整理しなおした最初の画期的な作業であり、現在ではハードコピーだけでなく、インターネット上(www.nesdb.go.th)でも閲覧が可能となっている。

 ただし、この新シリーズでも「基準年」は、対象とする期間によって4つに区分されており、実質成長率を長期にわたって利用することはできない。

(イ)タイ国民所得1951‐1963年  基準年1956年価格
(ロ)タイ国民所得1960‐1975年  基準年1962年価格
(ハ)タイ国民所得1970‐1990年  基準年1972年価格
(ニ)タイ国民所得1980‐1996年  基準年1988年価格



7 国民所得統計の作成とその問題点


 

 国家経済社会開発庁(NESDB)の組織は、図3-1に示したとおりである。もともと、経済開発計画策定、統計整備、対外援助の3つを柱に発足したが、1963年の機構改革で、統計整備は国家統計局に、対外援助の窓口は対外経済協力局に、それぞれ分離独立した。現在の国家経済社会開発庁は、5つのグループからなる。すなわち、(1)総合政策・企画担当、(2)経済政策・インフラ部門担当、(3)地方・農村開発担当、(4)人的資源開発、生活の質の向上、環境問題への取り組み、(5)研究分析と開発政策の成果の普及、の5つがそれである。このうち、「国民会計課」は、(1)総合政策・企画担当に所属し、国家経済社会開発庁の中では、もっとも重要な地位のひとつを占めた。ちなみに、1999年まで長官を務めたウィラット氏は国民会計課長からの生え抜きの昇進である。  

 さて、国民所得会計の作成(1988年以降)を、そのデータ源泉別に整理したのが、表3-9であった。これによると、1988年以降の「新シリーズ」の国民所得統計作成のデータ源泉は、「国民生産」「国民所得」「国民支出」「資本形成」の4分野で328種(ダブルカウントを含む)に達している。

 依拠する資料は、国家経済社会開発庁自体が作成するデータ(21種)、国家統計局(36種)、中央銀行(20種)、大蔵省(30種)、大蔵省関税局の通関統計データ、農業・協同組合省(24種)、商務省(24種)、内務省(27種)、工業省(16種)、運輸通信省(14種)、国営・公企業(34種)、政府金融機関(9種)など多数に及ぶ。このうち、国民所得統計を推計する上で重要な比重を占めるのは、次の6つであろう。

(イ)大蔵省関税局の貿易統計、とりわけ輸入統計。
(ロ)大蔵省歳入局のセクター別・業種別の法人税の推移。
(ハ)中央銀行の「製造業生産指数」の推移。
(ニ)商務省商業経済局の「消費者価格・卸売り価格指数」の推移。
(ホ)国営・公企業の生データ。
(ヘ)5年毎の投入産出表の調査の結果。
(ト)国家統計局の経済社会調査(家計支出計調査)の結果。

 国民総支出は、もっぱら(ト)に依存する。一方、製造業その他の付加価値額の推定は、(イ)から(ヘ)のデータが基本であった。そこで、製造業を例にとると、次のような問題が生じた。

 タイの「工業センサス調査」はまだ信頼性が低い。したがって、付加価値額の推計に企業ベースのデータを利用することは、政府独占業種(タバコ)もしくは寡占業種(酒、セメント、板ガラスなど)を除くと、ほとんどできない。多くは輸入原材料金額(鉄鋼、化学など)を基本とし、さらに生産指数と物価指数の推移を加味して推計するのが一般的である。その結果、分野や製品が多岐にわたる鉄鋼や化学の分野の推計は、どうしても過小評価となる。5年毎の「投入産出表」で補正をするとはいえ、製造業の正確な付加価値額はまだ得られていないのが、実情であった。くわえて、業種毎の雇用統計も各年毎は得られないから、一人当たりの労働生産性の推移を算出することもできない。これは、タイのマクロ経済の分析にとって、大きな制約となる28)

 もうひとつの大きな問題は、投資と貯蓄に関するデータである。最近のタイでは、投資・貯蓄ギャップの拡大が大きな問題となった。つまり、家計貯蓄の低さが、10%を超える投資・貯蓄ギャップを引き起こし、これをファイナンスするために、中央銀行は高金利政策とバーツの対ドル・ペッグを維持した。その結果、短期の資金が海外から大量に流入し、これが過剰流動性を招いて、経済危機のひとつの要因となったという議論がそれである。

 この場合、立論の根拠になっているのは、当然ながら国民所得統計の中の「貯蓄」の項目である。しかし、貯蓄の推計は、下からデータを積み上げるのではなく、先にGDP推計値があり、把握しやすい政府貯蓄、ついで民間企業貯蓄や減価償却費を控除し、他方では政府と企業の固定資本形成を推計して、残った部分を「家計貯蓄」とみなすのが普通である。そのため、家計貯蓄の推計値が実態と整合しているかどうか確認することは、きわめて困難である。国民会計課もある程度認めているように、家計貯蓄の推計が過小評価になっている可能性は高い。

 最後に、1997年の経済危機にともなう新たな問題も生じている。すなわち、国民会計課は、これまで年次報告を中心に作業を行ない、これと並行して地域別県別生産の時系列データと、「四半期ベース」(1993年第4四半期より利用可能)の国民所得統計をそれぞれ必要に応じて刊行してきた。ところが、経済危機以降、IMFの指示により、国民会計課の主たる仕事は「四半期別データ」の作成とより迅速な発表に移行した。その結果、現在では市場価格にしろ固定価格にしろ、過去6年間の成長率の推移は、この「四半期別データ」に依存せざるを得なくなっている。「四半期別データ」は速報性には優れているが、データのカバリッジに限界があり、同時に数値の変更も頻繁になされる。その分、中長期の経済分析にとっては、制約条件が大きいのである。

 以上のように、タイの国民所得統計には、検討すべき問題がまだ多く残されている。もっとも、問題はタイの統計技術の未発達や未熟さにあるのではない。むしろ、関連するデータの未整備(工業センサス、商業センサス、雇用統計など)、予算と人材の不足、政府の時系列データの重要性に対する認識の低さなどに起因している。国民所得統計がマクロ経済分析のもっとも基本になる以上、上記の問題が近い克服されることが望まれる。












脚注


  1. Gould, Joseph, "Prelimiary Estimates of the Gross Geographical Product and Domestic National Income of Thailand, 1938/39, 1946-50," (mimeo, Bangkok: National Economic Council, July 1952; do. Thailand`s National Income and Its Meaning , Bangkok: National Economic Council, January 1953. なお、初期の国民所得作成の試みは、次の文献に詳しい。Prot Panitpakdi, "National Accounts Estimates of Thailand," in T.H. Silcock (ed.), Thailand: Social and Economic Studies in Development, Canberra: Australian National University, 1967, pp.105-127; Ingram, James, Economic Change in Thailand 1850-1970, Stanford University Press, 1971, pp.221-222.

  2. 同上報告書、”Preliminary Estimates of ……,” p.12.

  3. モームルワング・デート・サニットウォンの『葬式本(国家経済社会開発庁版)(1975年12月17日、バンコク)、20〜21ページ。

  4. 「国家経済社会開発庁42周年記念特集号」Warasan Setthakit lae Sangkhom, Vol.29, No.1, January-February, 1992, p.25.

  5. Ibid., p.26.

  6. U.N. Document E/2408/Add. 5 (Replies of Government s on Full Employment, Thailand), July 1953. この報告書の内容は、丸茂明則「転機に立つタイの経済開発計画の推進方策ー米国従属かコロンボ計画の続行か」(『アジア問題』第1巻第4号、1954年12月、「特集 アジア開発計画の構想と現実」に所収)、90〜94ページ。

  7. この世銀調査団の構成メンバーは次のとおりである。Prof. Paul T. Ellsworth (head); G.H. Bacon (agriculture); Romeo dalla Chiesa (economics); Jean R. de Fargues (irrigation); Andrew Earley (transportation); William M. Gilmartin (economics, chief economist); Norman D. Lees (industry, mining, power); Fritz Neumark (public finance); K. J. Oksnes (social services). Muscat, Robert J., The Fifth Tiger: A Study of Thai Development Policy, Helsinki: The United Nations University Press, 1994, p.304. note 12.

  8. 前掲、デートの『葬式本』、32〜33ページ。

  9. 世界銀行が行なった1952年、54年、56年、57年の消費支出と固定資本形成、GDPの推計は、次の文献に掲載されている。"Resource Allocation Between The Public and Private Sectors," in IBRD, A Public Development Program for Thailand, Baltimore: The Johns Hopkins University Press, 1958, p.252.

  10. 前掲、Warasan Setthakit......, p.28.

  11. 前掲、デートの『葬式本』45〜140ページに、第一次経済開発計画の目的、要旨、活動は詳しく掲載されている。また、次の文献も重要である。Silcock, T.H., "Promotion of Industry and the Planning Process," in Silcock, op.cit., pp.258-288.

  12. 数字の食い違いについては、前掲論文.(注1)、Prot, "National Accounts.....," pp.113,117,119。

  13. Ibid., p.121.

  14. 実際、ここで紹介するグールドの報告書2点(ただし、イングラムやシルコックは紹介している)は、筆者たちの調査ではタイ公文書館では見出せず、一橋大学経済研究所の西澤保氏がロンドン・スクール・オブ・エコノミックスの図書館で「発見」したものを、利用させていただいている。

  15. 空白期のタイ経済の報告については、次の文献がグールドの報告書とは別に存在する。京都大学東南アジア研究センターの玉田芳史氏のご教示による。Samnak-ngan Lekhathikan Sapha Setthakit haeng Chat, Sathanakan Setthakit khong Prathet Thai Tangtae Sin Songkhram thung Pho.So. 2493, Bangkok, February 1952 (国家経済会議事務局編『タイ国の経済状況:戦争末期から1950年まで』)。

  16. 前掲報告書(注1)、Gould, “Preliminary Estimates of …..,” Acknowledgement.

  17. Ibid. pp.6-7.

  18. この工業省工業活動局による1949年工場サンプル調査の結果については、筆者は未見である。また、これを利用した論文、研究もいまだ確認していない。

  19. Bundhit Kantabutra with the collaboration of the National Income Office, “The Economy and National Income of Thailand,” Bangkok: Office of The National Economic Development Board, September 1959.

  20. Ibid., “Acknowledgement”.

  21. Ibid., p.58.

  22. 国家経済社会開発庁国民会計課での筆者の聞き取り調査(1998年10月、バンコク)。

  23. 1969年の改訂作業の結果は、次の文献に収録されている。National Accounts Division, NESDB, Raidai Prachachat khong Prathet Thai Chabap Pho.So. 2511-12, Bangkok, 1969, Appendix A: Summary of the National Income Statistics Revision of 1960-1968, pp.161-197 and Statistical Table (139 pp.).

  24. Ibid. “Introduction”.

  25. 筆者の国家経済社会開発庁での聞き取り調査による(1984年8月)。これは、国連産業開発機構(UNIDO)とアジア経済研究所統計部との共同事業「タイ製造業の時系列統計の整備」の一環として実施したもので、当時の製造業統計や国民所得統計の作成と推計方法について、各政府機関でインテンシブな聞き取り調査を実施した。その調査結果の一端については、次の文献を参照。末廣昭「タイ工業ー統計数字と実感」(『アジ研ニュース』1986年7月)。

  26. NESDB, National Income of Thailand 1960-1980 New Series, 1988.

  27. 国民会計課での聞き取り調査による(1997年11月、バンコク)。

  28. 業種別の雇用統計については、工業省工場登録課と労働福祉省が、それぞれ別個にデータを作成している。また、これとは別に国家経済社会開発庁自身も、独自の推計を「5カ年計画」毎に行なっている。