第1章 統計事業の発達と国家統計局の設立



 本章ではタイにおける統計作成事業が、タイ人自身の手でどのように発達してきたのか、またいつどのような経緯で「国際基準」を採用するようになったのか、さらには1963年5月の「国家統計局(国家統計事務所、National Statistical Office)」の設立に至るまでの組織・機構はどのように変遷したのか、その歴史的経緯と背景を紹介することにしたい。また、1997年現在の「国家統計局」の活動も簡単に紹介する。


1 ラーマ5世王期の統計整備―1910年以前


 国家による経済統計の作成は、すでにラーマ5世王期(1868〜1910年)に始まっている。もっとも重要な年次統計の整備は、(1)貿易・海運統計(通関統計)と、(2)中央財政統計の2つであった。なお、「人口センサス調査」の試みは、1852年のラーマ4世王期から始まっているが、この点については本書第2章を参照されたい。

 一方、貿易統計の整備については、天理大学の宮田敏之氏が詳細にまとめているので、別途そちらを参照いていただき、ここでは簡単な紹介にのみとどめる1)

 貿易統計は、1892年の省庁の整備にもとづく「関税局」(Krom Sulakakon)の設置により、国家が輸出入統計を把握するようになった。なお、オリジナルの「通関統計」のうち、国立古文書館で確認できたもっとも古いものは、1899年版である2)。  おそらく、これよりもっと古い記録が残されている可能性は高いが、未確認である3)

 もっとも、大蔵省の関税担当部局(輸出・輸入税徴税所など、さまざまの名称で呼ばれた)が、貿易統計をとりまとめたのはずっと早い時期からであった。とくに、1888年にイギリス人ウィリアム(David William)が、関税所(Custom House)に雇用され、1890年から1901年まで12年間、「顧問」として働くようになってから、貿易統計の整備は進んだものと思われる4)

 その後、1901年から1908年まではアンブロース(Edward Ambrose)、1908年から23年まではナン(William Nunn)が、それぞれ関税局の外国人顧問を務めた。そのもとで、まず1908年には、関税局の中に「統計報告課(Kong Rai-ngan)」が設置され、これは1913年に「統計課」(Kong Sathiti; Statistical Office of the Customs and Excise Department)に改組された5)。  したがって、1910年前後辺りを、貿易統計の本格的な整備が始まった時期とみなして大過ないだろう。なお、関税局統計課の課長(代理)を1920年以降務めたのは、「タイの柳田国男」とも呼ぶべき民俗・歴史学者のルアング・アヌマーンラーチャトンであった6)

 一方、政府の公式統計ではなく、外国人が作成したタイの輸出入統計や為替相場については、1855年から時系列として利用することができる。いわゆる『イギリス領事報告』(The British Consular Report)と呼ばれるものがそうで、タイ在住のイギリス人公使、経済担当書記官などが、本国(植民地省や議会)の要請に応じて、毎年提出した報告書が基礎になっている。この『イギリス領事報告』は、時系列的統計数字だけではなく、当時の経済状況や品目別の市場調査結果なども紹介しており、タイ経済社会史の研究には不可欠の資料となっている。ただし領事官報告は、公式の「通関統計」ではなく、あくまで当時のイギリス公使や領事官の関心と力量でとりまとめたものであった。そのため、各報告書の間には著しい精粗の差が見られ、商品分類や数量単位も連続していない。なお、参考のために1855年から1913年まで利用できるイギリス領事報告のタイトル一覧を示すと、次のとおりである7)

@ 1855〜1859/60年:Siam, Abstract of Reports on the Trade of Various Countries and Places for the Year xxxx.
A 1863〜1885年:Commercial Report by Her Majesty’s Consul-General in Siam for the Year xxxx.
B 1886〜1913/14年:Diplomatic and Consular Reports, Siam; Reports for the Year xxxx on the Trade (and Finance) of Siam.

もうひとつの重要な年次統計は、大蔵省に所属する外国人財務顧問(Financial Adviser)が、国王に対して行なった『シャム王国の財政に関する財務顧問報告』(Report of the Financial Adviser, Upon the Budget of the Kingdom of Siam)であろう。こちらは1896年から刊行が始まり、1941年まで続いた(統計数字は1895年から)。毎年の歳入の内訳、省庁別の経常支出と資本支出のほか、当時の財政状況に関する財務顧問のコメントが付され、英語で刊行されている。こちらの統計データも、タイ経済社会史研究には不可欠の資料である。

 以上の『通関統計』、『イギリス領事報告』、『財務顧問報告』のほかに、じつは外国人が局長・顧問を務める各部局も、1890年代末もしくは1900年代初めから、『年次活動報告』(Annual Activity Report)を英文で作成し、毎年国王に提出した。現在までにその存在(もしくはその一部)をタイ公文書館、大英博物館、大英図書館、東洋文庫などで確認できたのは、次のような政府部局の年次活動報告である(欠落の年もある)8)

(イ)鉄道局「年次活動報告」(1897〜1935年)
(ロ)道路局「年次活動報告」(1918〜1926年)
(ハ)郵便電信局「年次活動報告」(1911〜1928年)
(ニ)灌漑局「年次活動報告」(1914〜1928年)
(ホ)地図測量局「年次活動報告」(1924〜1929年)
(ヘ)通貨紙幣局「年次活動報告」(1911〜1926年)
(ト)大蔵省中央会計局(Comptroller General’s Department)(1897〜1933年)
(チ)教育局「年次活動報告」(1912〜1922年)

例えば、鉄道局の場合には、1897年(第1回)から1935年までの年次活動報告が存在し、30〜40ページの部局毎の活動のほか、報告書の末尾には鉄道輸送に関連するさまざまな種類の、かつ詳細な統計類が添付されている9)

 さて、以上の各部局レベルの年次活動報告やそこに添付されている統計データを収集し、これをひとつの年鑑に編纂し刊行することを目的のひとつとしたのが、大蔵省の中に設置された「統計予測局」(Department of Statistics; Krom Sathiti Phayakon)であった(以下、表1−1の年表を参照)。なお、この統計予測局は、先に述べた関税局の中の「統計課」とは別の組織である。


2 大蔵省統計予測局と『タイ国統計年鑑』


 1914年4月21日に大蔵省に設置された「統計予測局」は、局長(chao krom)の格が正規の局長(athibodi krom)よりひとつ低い、準局扱いの組織である10)。 もともとこの「統計予測局」の新設は、タイではもっとも古い地場銀行である「中国サイアム銀行」(1908年設立、Chino-Siamese Bank)が1913年に破綻し、同行から融資を受けていた精米所・コメ輸出商(当時、タイからの輸出の40%をカバーする)が深刻な被害を受けたことに端を発している11)。 つまり、銀行やコメ輸出商の破綻を目のあたりにしたラーマ6世王(治世1910〜1925年)は、商業発展をうながすために特別の政府機関の発足を意図したのである。

 そのため国王は、当時、大蔵省監査局長会計局長であったグロマムーン・ピタヤーロングゴンに命じて、(1)統計データの作成、(2)商業情報の収集、(3)商業知識に関する普及活動、(4)産業活動の支援の4つを目的とする新しい機関、すなわち「統計予測局」を設置した12)。  そして、局長にはグロマムーン・ピタヤーロングゴンが就任し、同局の顧問にイギリス人のケーブル(J.A. Cable)を雇用した13)。  

「統計予測局」が設置された初期に、同局の職員に任命されたひとりにプラヤー・チャオナーヌサティティ(本名チャオワ・イントゥーゲート:1890−1969年)がいる。彼は、スワヌグラープ校を卒業したあと、1908年に大蔵省中央会計局に入局し、1910年1月から大蔵省の奨学金を得て、イギリスで5年間会計学を学んだ。戦前タイ会計学のパイオニアの一人である。プラヤー・チャオナーヌサティティは1914年末に、 Senior Book-Keeping and Accountancy of London Chamber of Commerce の資格を取得したのち帰国し、ただちに統計予測局に入り、1917年7月に国家歳出監査局(Krom Taruwat Ngoen Phaendin)に移るまで、統計予測業務に従事した14)

 次いでこの「統計予測局」は、1年半後の1915年9月1日に「商業並びに統計予測局」(Department of Commerce and Statistics; Krom Phanit lae Sathiti Phayakon)に名前を変更し、同時に組織も「準局」から「局」へと格上げとなった。この名称変更と格上げは、同局の仕事に、先に掲げた統計事業とは別に、1916 年にピッサヌローク県から始まった協同組合の普及事業や、商業普及活動が加わったためである15)

「商業並びに統計予測局」に厳しい試験の末入局したプラ・プラガートサハゴンの『葬式本』によると、1916年当時同局は、
(1) 統計作成並びに普及課
(2) 協同組合設立課
(3) 商業振興課
の3つの課から構成されたという。

それぞれの担当官には、統計課に外国人顧問のケーブル、ピッサヌローク県からさらにロッブリー県などへ協同組合の普及を開始した協同組合設立課にプラ・プラディットサハガーン、商業振興課にイギリスで財政学を学んで帰国したばかりのプラ・スームパーニットを、それぞれ任命した16)

 それはともかく、「商業並びに統計予測局」の中の統計課が担当したもっとも重要な仕事は、『タイ国統計年鑑』(Statistical Year Book of the Kingdom of Siam)の編集とその刊行である。じっさい、1916年12月には、『タイ国統計年鑑』の第1巻が刊行された。

 『タイ国統計年鑑 第1巻』は、全体で11分野、91表、235ページからなり、構成は次のとおりであった17)
(イ)気候(気温、降雨量など) 7表
(ロ)人口(1910年以降の性別、年齢別の人口、寺院と僧侶数) 8表
(ハ)財政(歳入・歳出、対外債務、為替、外貨準備金、通貨) 34表
(ニ)外国貿易(バンコク港の輸出入統計、国籍別海運) 7表
(ホ)郵便・電信・電話 6表
(ヘ)鉄道(延長キロ、旅客数、貨物輸送量) 11表
(ト)教育(政府・民間学校数、教員数、教育支出) 5表
(チ)司法(刑事事件など訴訟件数ほか) 7表
(リ)農業(農家負債、米作植付面積) 3表
(ヌ)アヘン(輸入数量、金額、価格) 2表
(ル)鉱業(スズの生産高と価格) 1表
(ヲ)度量衡と為替レート
(ワ)索引

 ところで、その後「商業並びに統計予測局」の活動は次第に拡大していく。統計年鑑の作成や『商業ニュース』(Khao Phanit)の刊行とは別に、協同組合活動はピッサヌローク県からロッブリー県などにも拡充していった。また、それまで静観していた第一次大戦に対して、国王は1917年7月に連合国軍に荷担することを決定し、ドイツ・オーストリアの枢軸国に宣戦布告する。その際、タイ国内にあるドイツやハンガリーなどの敵国資産の管理を全面的に任されたのも、この「商業並びに統計予測局」であった18)。  さらに、第一次大戦終了後は、商業活動の振興が重要な課題となり、その面での役割も増大していった。

 その結果、1920年8月に、政府は新たに「商務省」(Krasuwang Phanit)を新設し、そのもとに大蔵省の統計作成事業、協同組合事業、商業振興事業の3つを「局」として移管した。さらに商務省の上には、現在の経済閣僚会議に相当する「商業普及会議」(Sapha Phoeiphae Phanit)を設置して管理する方針をとった。なお、「商業普及会議」に対しては、イギリスにならって「Board of Commerce(のちBoard of Trade)」の名前を付与したが、実際にその活動を指導していたのはフランス人顧問のルメイ(R.S. Le May)であった19)。  また、同会議の委員長にはグロマプラ・チャンタブリーナリナートが、また、同副委員長にはグロマムーン・ピタヤーロングゴンが、それぞれ就任した20)。  

 ところが、翌1921年7月には、再び統計作成事業のみを大蔵省に戻し、局よりひとつ下の「準局」として「統計予測局」を再設置する。また大蔵省への復帰を契機に、同局の局長には、タイ人ではなく外国人のトラストラム(A.J. Trustrum)を新たに任命し、彼が前任者である外国人顧問ケーブルの仕事を引き継いだ21)


3 モームチャオ・アティポンポングと統計事業の現地化


 

 1921年に新しい局長となったトラストラムの政府との契約は、27年までであった。その任期が切れる1年前の1926年に、「統計予測局」は、もっとも重要な転機を迎える。というのも、大蔵省の官費留学生として、イギリスのケンブリッジ大学で経済学と統計学・予測科学を学んだモームチャオ・アティポンポング.ガセームシー(1899〜1964年)がタイに帰国し、ただちに統計予測局の局長補佐に就任したからであった22)

 モームチャオ・アティポンポングは、ラーマ4世王の第30子(皇子)であるグロマムーン・ティワゴラウォンプラワット(螺鈿局長)の長男として生まれ、子供時代は伯父であるプラオンチャオ・スパーヨックガセーム(大蔵大臣、1923〜29年)の薫陶を受けた。その後、王宮学校であるラーチャウィタヤーライ校(8年制)を全学2番、英語課目を1番で卒業し、1917年に大蔵省に入省した。そして、席を暖める暇もなく、同年イギリスへ官費留学生として派遣された。イギリスではパブリック・スクールで学んだあと、ケンブリッジ大学に進学し、そこでタイ人としては初めて統計学を学ぶのである23)

 もっとも、彼は在学中に大病に罹り健康を損ねたため、1926年には、勉学の途中でやむなく帰国した。とはいえ、帰国後の彼は、統計学に関する専門知識と経験を生かして、約34年間にわたり、一貫して統計事業の中に身を置いている。じっさい、戦前の統計予測初代課長、戦後の中央統計局初代長官をそれぞれ歴任し、タイにおける人口センサス、農業センサス、貿易統計、労働力・事業所統計など、主要な統計の整備と国際基準化を推進した。国家統計局(1963年)の設立を見たあと、翌64年に65歳でこの世を去っている。したがって、モームチャオ・アティポンポングこそは、文字通り「タイ統計の父」であった。

 モームチャオ・アティポンポングが統計予測局に入った翌1927年、外国人局長のトラストラムが契約期間満了で退任した。その結果、統計予測局はタイ人だけの組織となる。しかも彼の回想によると、統計予測局は当時、モームチャオ・アティポンポング(局長補佐。局長は以後空席のまま)、事務官2名、副事務官2名、事務職員が1名の計6名という、きわめて小さな所帯であった24)。  この小人数で、『タイ国統計年鑑』(当時、12から14の分野、120〜140表の統計をカバーする)を編集し刊行していたのである。逆に言えば、『タイ国統計年鑑』の作成は、基本的には先に紹介した各部局の年次活動報告のデータにそのまま依存していた。

 とはいえ、統計予測局は、モームチャオ・アティポンポングを実質的な責任者として編集作業を続け、1929年半ばに『タイ国統計年鑑 第13巻(1927/28年版)』を無事、刊行した。そしてこれは、タイ人が外国人の手助けなしで編集した、最初の記念すべき統計年鑑となったのである25)。  ちなみに、第13巻は14分野、167表、9図(合計440ページ)に達し、構成は次のとおりであった26)
(イ)気候(気温、降雨量など) 9表
(ロ)人口(1910年以降の人口、1919年センサス) 10表
(ハ)外国貿易(バンコク港、並びに地方港の輸出入統計、国籍別船舶) 20表
(ニ)運輸通信(海運、鉄道、道路輸送、水上輸送、民間航空、郵便電信) 30表
(ホ)財政(歳入・歳出、対外債務、為替・通貨) 36表
(ヘ)司法(刑事事件、破産宣告ほか) 9表
(ト)教育(1923年以降の政府・民間学校数、教員数、教育支出) 6表
(チ)物価(輸入品価格、食品等の小売価格、米価) 10表
(リ)農業(穀物別植付面積、家畜数、負債、土地転売) 8表
(ヌ)米作植付面積 1表
(ル)鉱業(スズの生産高と価格、浚渫機、シンガポールのスズ価格) 3表
(ヲ)アヘン(輸入数量・金額、価格、小売店舗数) 3表
(ワ)その他(度量衡、外貨準備の変化、外国人出入国、政府雇用者と年金) 13表
(カ)統計要約 9表
(ヨ)索引

 その後も彼は、統計年鑑がカバーする分野の拡大や、「タイ語・英語併記」の導入(それまでは英語のみ。1937年11月刊行の第18巻[1933/34年版]より実施)を試み、内容を充実させていった27)。 したがって、1929年はタイの統計事業にとって、第一の転機、すなわち「統計整備の現地化」の第1歩を記す年だったといえよう。

 モームチャオ・アティポンポングは、こうした『統計年鑑』の編集・刊行だけではなく、1930年代初めには、いくつかの重要な統計作成調査にも、専門家として参加している。1929年恐慌がタイ農村経済社会にどのような影響を与えたのかを調査する、アメリカの太平洋調査会(ジンマーマンのちハーバード大学助教授が団長)の「第1回農村経済調査」(1930〜31年)、ハーバード大学の「第2回農村経済調査」(1934年、アンドリューズ教授が団長)がそれである。この2つの調査は、アメリカの専門家とタイ政府が共同で行なった、タイで最初の「全国的な」経済実態調査であり、土地所有、農産物流通、家計調査、農民負債、農外職業などを含む、本格的なサンプル調査でもあった28)。  大蔵省を代表して参加したモームチャオ・アティポンポングが、この調査から「近代統計」の手法について多くのことを学んだであろうことは、想像に難くない。また、1934年には、『1937年人口センサス』の準備委員会にも参加している。

 一方、1932年6月に勃発した「立憲革命」は、統計予測局に対しても少なからぬ影響を与えた。第一に、経済問題を担当する経済省(Krasuwang Setthakan)が新たに設置され、統計予測局は大蔵省から経済省商業局に移管された。そしてこの移管にともなって統計予測の地位は、局から課へと格下げになった(Bureau of General Statistics, Ministry of Economic Affairs)29)。  これは深刻化する経済不況のなかで、統計事業が「不急不要の仕事」とみなされたことによる。

 第二に、新政府は統計事業の法的整備の必要性を認識し、1936年に『仏暦2479年(1936年)統計法』(Phraracha-banyat Kan Sathiti Phayakon Pho. So. 2479)を初めて制定した。しかし、この法律は統計担当機関の業務内容や任務を明記していたたものの、他部局に対して必要な統計収集や統計作成を指示できる権限については、いっさい触れていなかった。そのため、モームチャオ・アティポンポングは、統計事業機関の独立性(省からの分離独立)と強い権限を保障する新しい「統計法」の必要性を、ことあるごとに政府に対して訴えていった30)。  なお、彼の要望が実現するのは、旧統計法から数えて16年目、1952年のことである。


4 統計事業の国際標準化とアメリカ・国際機関


 1941年末の太平洋戦争への参加(タイ日軍事同盟)によって、タイの統計事業は一時的に休眠状態に追い込まれた。実際、『タイ国統計年鑑』は1941年5月に刊行された第20巻(1937/38年版)を最後に、行政上の混乱や紙不足を理由に、刊行が中止となった。また、統計予測課の所属先も、商務省データ課や首相府に移り、事務所を構える場所を捜すのに苦労するありさまだった31)

 タイの統計事業が第二の転機、つまり「統計事業の国際標準化」を迎えるのは、1948年から1952年にかけてである。この国際標準化には、国連アジア極東経済委員会(エカフェ)と、アメリカの経済援助機関の2つが、決定的な意味を持っている(前掲、表1参照)。

 エカフェは1940年代後半から、アジア諸国の経済統計の整備とその国際標準化を意図し、各国の統計官を集めた国際会議を何度が開催した。また、エカフェに各国政府が提出する経済統計(貿易、労働、農業、工業など)については、所定の方式と国連基準に従うように指導している32)。  こうした会議に専門家として、また、タイ政府の代表として常に参加したのが、モームチャオ・アティポンポングである。彼はまた、アメリカに研修旅行(1949年)にでかけ、主要な統計調査機関を訪問して、新しい専門知識をタイに持ち帰った。

 こうした中で、タイ政府は、1948年頃から国連食糧農業機構(FAO、ファオ)の指導を受けつつ、「農業センサス」作成の計画をたてる。そして、50年3月に「農業センサス調査特別委員会」を国内に設置し、ファオが規定する方式と基準にもとづいて、最初の農業センサス、すなわち『1950年農業センサス』を作成するのである。これは、タイが統計作成に初めて国際基準を取り入れた記念すべき事業でもあった。なお、この「特別委員会」の委員長に就任したのも、やはりモームチャオ・アティポンポングである33)

 次いで、同じ1950年5月には、エカフェが主催する「工業と商業の統計整備に関する国際会議」が、バンコクで開かれた。53年に制定された「仏暦2496年工業センサス作成に関する勅令」は、これを受けたものである。ただし、実際に最初の「工業センサス調査」が実施されたのは、はるかあとの64年であった。

 最後に、1952年1月には、バンコクで国連主催の「貿易統計作成への国際基準の適用に関する国際会議」が開かれ、モームチャオ・アティポンポングが、タイ代表団の団長として、この会議に臨んだ。そして、この会議のあと、タイは従来の貿易統計の分類方式(戦前から続いている方式)を抜本的にあらため、1954年以降、「国連標準国際貿易商品分類(SITC)」(1950年、国連決議)を初めて導入し、「5段階」方式(Thon, Muwat, Mu, Mu-noi, Khon Raikan-yoi)に従った品目別の貿易統計を発表するのである34)

 さて、もうひとつの契機は、アメリカとの相互防衛協定(1950年10月)と並行して締結した「タイ・アメリカ技術経済協力協定」である。この当時アメリカは、中国における共産党革命の成功やインドシナにおける共産主義勢力の拡大に直面して、従来の対東南アジア政策を「反共封じ込め政策」に転換した。そして、タイを反共のための「もっとも重要な資産」と位置づけ、経済援助の提供を計画した35)。  一方、タイの側でも、ピブーン首相がアメリカの経済援助計画である「ポイント・フォー」への参加希望を表明していた。さらにタイの軍部は、当時の朝鮮戦争に参加することで、アメリカから軍の近代化や武器供与の面で、さまざまの協力が得られることを期待した。

 その結果、アジア冷戦の直接の産物として、タイとアメリカの間で、アジア最初の「技術経済協力協定」が締結され、これにもとづいて、タイは多数の官僚、学生(フルブライト奨学生)をアメリカに派遣した。逆にアメリカは、タイの経済発展を支援するために、50人近い専門家(農業、灌漑、運輸、通信など)を同国政府に送り込んだ。そして、この専門家のなかに、のち第3章「国民所得統計」で紹介するグールド(Joseph Gould)や統計専門家たちも含まれていたのである36)

 一方、ピブーン政権は1950年2月に、経済問題全般を扱う「国家経済会議委員会」(National Economic Council, Samnak-ngan Sapha Kan Setthakit haeng Chat)を設置する。この会議は、(1)経済問題の協議、(2)経済計画実施のための経済統計の収集と整備、(3)対外経済援助(主としてアメリカ)の受け入れの3つを目的としていた(第3章を参照)。

 このうち、(2)の目的遂行のために、当時商務省データ局にあった「経済予測課」を国家経済会議に移管し、「中央統計事務所」(Central Statistical Office)に改組した。その長官に就任したのは、言うまでもなくモームチャオ・アティポンポングであった。そして、この中央統計事務所の業務と権限を明確にするために制定・公布されたのが、「1952年統計法」である37)

 これを受けて、1950年代半ばから、中央統計事務所は新しい活動を開始する。先に述べた統計の国際標準化の延長として、まず1955年2月に、全国規模で人口動態、労働力、事業所の調査を行なう大掛かりなプロジェクトを発足させた。このプロジェクトは、ディルワリ(C.K. Dilwali, Dr.)など、国連が派遣する4名の外国人専門家の指導と協力のもとで進められ、1955年2月(バンコク)から、1956年8月(北タイ)まで、1年半をかけてサンプル調査を全国で実施した。

 その調査結果は1959年に『1954年タイ人口動態・経済事業調査報告』(全13巻、タイプ印刷、タイ文)として発表されている38)。  これは、タイ最初の本格的な地域別の人口動態、労働力、事業所調査であったと同時に、のちの「1960年人口センサス」の準備作業でもあった。今日、この調査結果はほとんど省みられることがないが、1950年代のタイ経済社会を検討する上では、不可欠の統計資料である。

 統計調査とは別に、国家経済会議は、顧問のゴールドの提言を受けて、1954年に会議内に「国民所得課」を新たに発足させ、国民所得、国民総支出などの推計作業にとりかかった(第3 章で後述)。こうして1950年代半ばには、国家経済会議という同じ組織の下で、センサスを中心として統計調査を行なう「中央統計事務所」(のちの国家統計局NSO)と、国民所得会計の推計作業を行なう「国民所得課」(のちの国家経済開発庁NEDB)の分岐が、始まっていったのである。


5 世銀の提言と国家統計局(NSO)の設立


 1957年7月、世界銀行はタイに対する借款供与の準備作業として、ウィスコンシン大学のエルスウォース教授を団長とする「経済調査団」を派遣し、以後、58年6月まで1年間、きわめてインテンシブな経済調査をタイ国内で実施した。また、調査団派遣に先だって、国家経済会議内には、57年2月に「世銀経済調査団協力委員会」(Khana Kammakan Ruwam-mue kap Khana Samruwat Setthakit khong Thanakhan Lok: Kho. So. Tho.)が設置され、デート・サニットウォン(国家経済会議委員会副委員長)やプウォイ・ウンパゴーン(中央銀行総裁、1959〜71年)たちが、この調査団との連絡調整にあたった(第3章参照)。

 世銀調査団の調査とその後刊行された提言(A Public Development Program for Thailand)は、その後のタイの経済政策に多くの影響を与えている。

 第一に経済開発計画の策定とその実施を担当する国家経済開発庁の設立、第二に国営企業の活動規制と外国人を含む民間資本の積極的な導入、第三に政府の主導による産業・生活インフラの整備、第四に初等教育の改革など教育整備、がそれであった。またこうした政策は、1958年のクーデタで全権を掌握したサリット・タナラット陸軍司令官(のち首相)の「国の開発(phatthana chat)」の方針とも合致していた39)

 ところで、世銀経済調査団の役割を考える場合、看過すべきでないのは、第一に同調査団が、滞在中に「国民総支出」の推計を試みたことであり、第二に、彼らがその提言のなかで、国家経済会議に代わる「専門的な開発事務局」設置の必要性を強く主張したことであった。とくに、後者については、タイにおける従来の統計事業取り組みへの立ち遅れに対する批判が前提となっていた。そこで少し長くなるが、以下、該当個所を引用しておこう40)

 「(経済データの)分析とその評価という必要な仕事を実施し、結果につながる具体的な提言を行なうためには、専門的な事務局(professional Secretariat)の新設が、予定している国家開発委員会(National Development Board)の技術支援部隊として不可欠であると、われわれ調査団は提案したい。かつ、その事務局の長は次官クラスとし、首相に対して直接責任を負うものとする。また、この事務局は、各省、並びに大蔵省の年度毎の予算配分作業から独立しており、既存の中央統計事務所(CSO)と国民会計課を直接その管轄下に置く。したがって、現在存在する国家経済会議は解体すべきである。」

 「予定する経済計画の長官が確固たる地位を保ち、事業計画に対して判断を下し優先順位をつけていくためには、情報収集が必要不可欠である。・・・・この統計のなかには、国民所得、資本形成、生産価格、雇用、貿易と国際収支に関するデータや、財政と金融に関する幅広い統計が必要であろう。現在、中央統計事務所には数名の専門家がいるが、今後中央統計事務所以外の20の省庁にも、単なる事務職員ではなく統計専門家(statistician)が、370人相当必要と考える。」

 「国連から派遣されたハウザー(Philip M. Hauser)の最近の報告によると、国連が5年間にわたって技術援助を提供したあとも、タイの中央統計事務所(CSO)は、外部(外国人)の支援なしには、依然として近代センサスの作成、サンプル調査、あるいは統計解析の作業を実施することができないという、深刻な事態にある(したがって、これを改善することが急務である)」。

 こうした提言が、その後、1959年7月に新設された「国家経済開発庁(NEDB)」(正確には国家経済開発会議委員会事務所)、同年9月にNEDBの中に設置された「中央統計担当部局」(Suwan Sathiti Klang)の生みの親になったことはもはや明らかであろう。なお、この中央統計担当部局の初代長官に就任したのは、60歳定年直前のモームチャオ・アティポンポングであった41)

 そして、1963年5月には、NEDBのなかにあった4つの部署、つまり、経済開発計画、国民所得会計、中央統計、対外経済協力のうち、後者2つが分離独立し、対外経済協力担当部局は「対外経済協力局(Krom Withetsahakan)」として、また、中央統計担当部局は「国家統計局(National Statistical Office; Samnak-ngan Sathiti haeng Chat)」として、それぞれ活動を開始するのである。

 1965年8月に制定された「仏暦2508年統計法」はその集大成であり、各省庁から真に独立した中央統計機関の誕生を意味した42)。  1926年にモームチャオ・アティポンポングが、大蔵省経済予測局の局長補佐に就任してから40年目にしての、まさに紆余曲折を経ての実現であった。


6 国家統計局の組織と活動


 ここでは、簡単に現在の国家統計局(NSO)の組織と活動を紹介しておきたい。1996年末時点での組織は、図1−1表1−2に示したとおりである。まず、組織は国家経済社会開発庁と敷地をともにする中央統計局(608名)と地方統計局(75県、482名)に分かれ、地方統計局は、人口センサスや社会経済調査の当該県での実施とともに、必要なデータの収集整備にあたる。

 一方、中央統計局は、(1)データの収集、整備、処理・検索、加工、保管などに従事する分野と、(2)統計の作成並びに分析を行なう分野の2つに大別することができる。そして、(2)の分野は大きく「社会統計課」と「経済統計課」に2分される。さらに社会統計課は、主要事業に即して、「人口住宅統計係」、「労働力統計係」、「教育社会統計係」、「社会調査係」(社会指標)の4つの係から構成される。

 国家統計局の統計事業は、大きく(1)人口、商業、漁業、農業、工業の各センサス(Census, Samamano)の作成、(2)センサスではないが、センサスを補完する形で定期的に実施される調査(Survey Samuruwat)の実施、(3)定期的に行なわれる特定目的の調査の実施(労働力調査など)、(4)不定期に行なわれる特定目的の調査の実施、(5)他の省庁・部局からの委託調査の実施、の5つに区分することができる。(5)を除いた(1)から(4)までの事業で、1982年から96年までに実施されたか、もしくは97年以降計画している統計調査の一覧は、表1−3に掲げたとおりである。

 表を見ると、国家統計局は56の分野で調査を行ない、1996年までの実績で、延べ回数はじつに348回に及んでいる。その他に、表には示していないが、同時期に47件の委託統計事業を実施している。中央統計局の人員が600名程度であり、予算規模が1996年時点で4億バーツであったことを考えると、これは明らかに「過重負担」であろう。

 例えば、1996年の予算合計4億バーツの内訳は、経常の人件費が1億6200万バーツ、臨時雇用費が6130万バーツ、調査にかかる費用(回答者への報酬、調査員の手当、資材費の合計)が1億4300万バーツであった。1993年は5億3300万バーツであり、調査にかかる費用が、この年「農業センサス」を実施するために、3億6600万バーツに膨らんでいる。  しかし、センサスの実施に応じて特別の事業予算を組んでいるとはいえ、国家統計局の予算規模は決して大きくなかった。その結果、数多い統計調査のなかでも、重要な事業はおのずから決まってくる。

 「社会統計課」が実施する主な事業は、次の2つである。

(イ)人口・住宅センサス(Population and Housing Census;10年に1回実施、第2章参照):

 国家統計局の最大の事業で、予算はそのつど別途計上され、予算規模も投入される臨時雇いの調査補助員の数も抜きんでて多い。地方での個票の作成は、「1990年センサス」では、地元の小学校・中学校の教員が調査補助員として、また高校の教員がインストラクターとして、多数動員されたといわれる。

(ロ)労働力調査(Labor Force Survey;年3回実施):

 労働力人口の把握、失業などを把握する基本調査で、人口センサスに劣らず、現在では重要な地位を占める。「労働力調査」については、別途詳しく紹介しているので、そちらを参照されたい。  これとは別に、国家統計局は、地域間の労働力移動調査も実施しているが、その調査方式や内容の検討についてはまだ調査していないので、ここでは割愛する。

 社会統計課は、そのほか人口動態、出生率、マスコミやアヘンに関する社会調査なども実施している。

 一方、「経済統計課」の調査のなかで重要なのは次の2つである。

(ハ)社会経済調査・家計調査(1986年から2年に1回、実施):

 地域別の世帯を基礎とする経済状況、所得分配、消費行動などを示すのがこの調査で、世銀などが、最近融資にあたってもっとも注目している経済指標が、この「家計所得・支出」の調査である。

(ニ)農業センサス(10年に1回。最近は2年に1回に頻度を増加):

 タイは農業国であり、農業センサスの充実はきわめて重要である。 これ以外に「経済統計課」が担当している「工業センサス」もしくは「工業調査」、「商業サービス業センサス(もしくは調査)」は、それぞれ定期的に調査結果が発表されているとはいうものの、その調査方式の不明確さ、有効回答率の低さ、予算規模と人員の欠如を考えた場合、調査結果の利用についてはかなり疑問である。  結局、国家統計局の調査事業としては、上記の4つがもっとも重要であり、かつ予算と人員の大半もこの4つに集中している。


7 国家統計局とその他の統計事業の調整


 それでは、国家統計局がカバーしていない分野で、他の省庁が独自に作成している経済関連統計にはどのようなものがあるのか。最後にこの点を紹介しておきたい。

(イ)国家経済社会開発庁の国民所得統計(National Income 、四半期・毎年)。

 国家統計局と密接に関連しているが、国民所得統計は同庁が責任をもち、別個に算出する。本書の第3章で作成の経緯と利用にあたっての問題点を指摘する。

(ロ)商務省の貿易統計(Trade Statistics and Economic Indicators、毎年)。

 大蔵省関税局の通関統計とは独自の分野設定・品目分類、仕向地・輸入先別、地域別に貿易統計を整理し直し、年次別の統計を毎年作成している。

(ハ)商務省商業経済局の物価統計(Rakha Khai-song Rakha Khai-plik、月別、四半期別・年次別)。

 同省が作成している「卸売り物価」「消費者物価」「物価指数」の統計がこれである。中央銀行の季報・月報に掲載されている統計数字は、商務省提供のものであり、同時にこの統計は国民所得会計の推計に利用される。

(ニ)中央銀行の金融統計(Financial Indicators in Thailand, 四半期・年次別)。

 商業銀行、ノンバンク、その他金融機関の活動、最近では経済危機、通貨危機に関わる「バンコク・オフショア市場」(BIBF)のデータなどがそれである。また、商業銀行やノンバンクの個別企業の営業活動については、バンコク銀行調査部が中央銀行の委託を受けて、別途年報を作成している(例えば、Commercial Banking in Thailand)。

(ホ)首相府予算局の中央財政の予算、大蔵省中央会計局の予算・決算(毎年)。

 タイでは予算の策定は首相府予算局と大蔵省中央会計局で決まる。しかし、中央財政の歳入・支出については、中央銀行レベルと大蔵省中央会計局レベルで、財政統計の作成方法が違い、データは一致しない。

(ヘ)労働福祉省の労働統計(Year Book of Labour Statistics、毎年)。

 国家統計局の「労働力調査」の紹介とは別に、事業所、業種別賃金、労働争議、解雇、労働災害、社会保障、生産性指数などのデータを独自に整備している。労働争議の定義などを含めて、その問題点は本書の第13章を参照。

(ト)農業・協同組合省農業経済事務所の農業年別農業統計(Agricultural Statistics, Crop Year ....、毎年)。

 「農業センサス」がカバーしない農業生産高、植え付け面積、収穫面積、生産者価格、畜産、林業などに関する年次データを提供する。「本テキスト」の統計は1955年から、ハンディな「要約版」は1980年から刊行されている。

(チ)教育省の教育統計(Education in Brief、不定期)。

 タイでもっとも混乱しているのは「教育統計」であり、もっとも基本的な数字である就学率や進学率さえも、教育行政が多数の省庁・部署に分散しているため、正確な数字を把握することができない。同様に、国際機関であるユネスコの統計も、定義その他が不明で年次統計としては利用できない。教育統計の整備は、今後の課題である。

(リ)工業省の工場登録統計。

 「工場法」にもとづいて登録された工場の統計で、業種分類は労働福祉省とは異なる。生産能力や設備の統計に重点を置き、従業員数などは必ずしも正確ではない。

(ヌ)エネルギー関係の統計(Energy Situation in Thailand、毎年)。

 石油、天然ガス、発電などに関する統計。

 なお、以上の統計のうち一部分は、国家統計局が毎年編集する『タイ国統計年鑑』か、中央銀行の『経済季報』に再録されている。しかし、『タイ国統計年鑑』も『経済季報』も、再録するのは数字のみであり、統計作成上の諸問題や現物には細かく記述されていた注記や補足説明がすべて省略されている。したがって、『タイ国統計年鑑』などは便利ではあるが、実際に統計数字を利用する場合には、現物にひとつひとつ当たることが不可欠であろう。









脚注


  1. 宮田敏之「戦前期タイの貿易統計―通関統計と英国領事報告」(一橋大学経済研究所『アジア長期経済統計データベースプロジェクト ニューズレター』10号)、11−13ページ;同『タイ貿易統計史―通関統計と英国領事報告』Discussion Paper (近刊)。  

  2. 当時、東京外国語大学博士課程の柿崎一郎氏による、タイ公文書館所蔵資料の調査結果にもとづく。

  3. 1866年のイギリス領事報告をみても、輸出入統計についてはタイ関税局(Custom House)のいわゆる「通関統計」(Customs-Returns)に依拠している旨、記録がある。しかし、その書式や記録は未確認である。

  4. The Chronicle & Directory for China, Corea, Japan, The Philippines, Indo-China, Straits Settlements, Siam, Borneo, Malay States, & C, Hong Kong: Daily Press Office, various years (1892-1901) により確認。宮田敏之天理大学助教授提供の資料による。

  5. The Directory & Chronicle for China, Japan, Coream Indo-china, Straits Settlements, Malay States, Siam, Netherlands India, Borneo, The Philippines, &c, For the Year 1921, The Hongkong Daily Press Office, 1917, p.1154.

  6. 末廣昭「戦前期タイの関税局の変遷、1855〜1939年」(1998年、内部資料、未刊)

  7. 詳しくは、前掲論文(注1)、宮田「戦前期タイの貿易統計・・・」を参照。

  8. 柿崎一郎のタイ公文書館における調査によると、鉄道局、測量地図局、灌漑局、通貨紙幣局、教育局などの『年次活動報告書』の一部が、戦前の大蔵省経済調査局の「ファイル」に収録されている。タイ公文書館所蔵、NA Ko. Kho. 0301.1.38.

  9. 末廣昭『戦前期タイ鉄道業の発展と技術者形成』(総合的地域研究15号)、京都大学東南アジア研究センター、1996年。

  10. プララーチャウォンター・グロマムーン・ピタヤーロングゴンの『葬式本』(バンコク、1948年3月22日)に所収の「経歴」(Phra Prawat Phrarachawongthoe Koromamun Phithayalongkon)、37ページより。以下、『経歴』として引用。

  11. 同上『経歴』35〜36ページ「中国サイアム銀行」については、次の文献を参照。Suehiro, Akira, Capital Accumulation In Thailand 1855-1985, Tokyo: Centre for East Asian Cultural Studies, 1989, pp. 85-86

  12. 同上『経歴』37ページ。

  13. Directory & Chronicle for China, Japan, Coream Indo-china, Straits Settlements, Malay States, Siam, Netherlands India, Borneo, The Philippines, &c, For the Year 1917, The Hongkong Daily Press Office, 1917, p.1201 ほか、同ダイレクトリーの各年次版より。

  14. プラヤー・チャオナーヌサティティ(本名チャオワ・イントゥーゲート)の『葬式本』(バンコク、1970年2月2日)の「経歴」より。

  15. 前掲(注10)『経歴』38〜40ページ。

  16. 元「商業並びに統計予測局」の会計官、のち同局次長のプラヤー・タナパーラピシット(パオ・ミリンタスート)の『葬式本』(バンコク、1971年6月23日)所収の、プラ・プラガートサハゴンの追悼録(Anuson tae Than Chaokhun Thanapharaphisit)より。以下、『追悼録』として引用。

  17. Department of Commerce and Statistics, Ministry of Finance, Statistical Year Book of the Kingdom of Siam 1916, First Number, December 1916

  18. 前掲(注10)『経歴』43〜46ページ。

  19. アムマートエーク・プラ・プラモンパンヤー(本名プラモン・ネートシー)の『葬式本』(バンコク、1971年3月2日)の「経歴」による。なお、プラ・プラモンパンヤーは、ルメイのもとで商務省の季刊雑誌と貿易統計の副編集長に、1922年4月に就任している(Assistant Edition of the Record Organ of the Board of Commerce)。

  20. 前掲(注10)『経歴』48〜52ページ。前掲『追悼録』より。

  21. Directory & Chronicle for China, Japan, Coream Indo-china, Straits Settlements, Malay States, Siam, Netherlands India, Borneo, The Philippines, &c, For the Year 1923, The Hongkong Daily Press, 1924, p.1163.

  22. モームチャオ・アティポンポングの詳しい経歴と、彼が関わった統計事業については、次の文献が詳しい。モームチャオ・アティポンポング・ガセームシーの『葬式本』(バンコク、1965年3月28日、タイ文)、及びそこに収録されている彼の回想録 "Hetkan thi Khaphachao Dai Phan Phopma khong Momchao Athiphonphong Kasemsri".(以下、『回想録』として引用)。

  23. 同上『葬式本』所収のモームチャオ・アティポンポング・ガセームシーの「経歴」による。

  24. 前掲(注22)『回想録』、5ページ。

  25. 前掲(注22)『回想録』、7ページ。

  26. Department of General Statistics, Ministry of Finance, Statistical Year Book of the Kingdom of Siam B.E. 2470(1927-28), Thirteenth Number, Bangkok, 1929

  27. 前掲(注22)『回想録』9-10ページ。

  28. Zimmerman, Carle C., Siam: Rural Economic Survey, 1930-1931, Bangkok: Bangkok Times Press, 1931; Andrews, James M., Siam: 2nd Rural Economic Survey, 1934-1935, Bangkok: Bangkok Times Press, 1935 なお、これに先だつ1929年に、東北タイではガムペーンペット商務大臣の提案のもとで経済実態調査が実施されている。Ministry of Commerce and Communications, The Economic Conditions of North-Eastern Siam, Bangkok, June 1932.

  29. 前掲(注22)『回想録』7ページ。

  30. 同上『回想録』、6ー7ページ。

  31. 同上『回想録』11ページ。

  32. 当時の日本で、アジア諸国の経済統計をもっとも収集していたのは、日本エカフェ協会であった。

  33. 前掲『回想録』、20ページ。タイにおける「農業センサス」の変遷については、次の報告を参照。重冨真一「農業センサスと農業・農村関連統計」(末廣昭編著『タイの統計制度と主要経済・政治データ』アジア経済研究所、1998年、129-152ページ。

  34. 前掲『回想録』、21ページ。なお、1870年代から現在までの120年間の貿易統計を、この1954年の国際基準にそくして連続データに編集しなおすことが、今回のアジア長期経済統計データプロジェクト・タイ班(作業従事者は末廣昭、玉澤美香)のもっとも重要な作業のひとつであった。

  35. Randloph, R. Sean, The United States and Thailand: Alliance Dynamics, 1950-1985, Berkeley: Institute of East Asian Studies, University of California, 1986, pp.14-20.

  36. Silcock, T.H. (ed.), Thailand: Social and Economic Studies in Development, Canberra: Australian National University, 1967, pp.109, 209-210.

  37. 前掲(注22)『回想録』20ページ。

  38. この調査結果の詳しい経過と統計は、第1巻に掲載されている。Samnak-ngan Sapha Phatthana Kan Setthakit haeng Chat (ed.), Rai-ngan Wikhro Phon chak kan Samuruwat Phawa Prachakon lae Kan Setthakit Thurakit Pho.So. 2479  ( Central Statistical Office of the National Economic Development Board, Final Report of The Demographic and Economic Survey 1954), Bangkok, 1959. また、その主な内容については、末廣昭『タイにおける労働力調査と事業所調査』一橋大学経済研究所、アジア長期経済統計データベースプロジェクト、Discussion paper No. D97-10, September 1997.

  39. 末廣昭『タイー開発と民主主義』岩波新書、1993年、第1章。

  40. The International Bank for Reconstruction and Development, A Public Development Program for Thailand, Baltimore: The John s Hopkins Press, 1959, pp. 209-210, 216-217.

  41. 前掲(注22)モームチャオ・アティポンポングの『葬式本』の「経歴」による。

  42. Kong Nayobai lae Prasan Sathiti, NSO, Naenam Samnak-ngan Sathiti haeng Chat, Bangkok, 1997, pp.3-4.

  43. 前掲、NSO, Nenam Samnak-ngan ....., p.24 より算出。

  44. 国家統計局社会統計課人口住宅センサスの担当官からの聞き取り調査(1997年11月、バンコク)。

  45. 前掲(注38)末廣昭『タイにおける労働力調査・・・』参照。

  46. 「工業センサス」については、前掲(注33)末廣昭『タイにおける統計制度・・・』第5章(末廣昭執筆)、「商業・サービス業センサス」については、同書の第6章(遠藤元執筆)を参照。

  47. 以下については、同上書(注33)末廣昭編著『タイにおける統計制度と・・・・』参照。

  48. 同上書所収、第11章(東茂樹執筆)を参照。