2. 日露貿易のトレンド

 

2)日ソ基本条約締結以後1945年までの日露貿易

 日ソ基本条約が締結され、日本にソ連の貿易代表として通商代表部が設けられた1925年から北満鐵道買収が実現する直前の1934年までの時期は、社会体制の異なる両国間の貿易が最も正常な形で運営されていた時期であった。この間の両国間貿易は一貫してソ連の輸出超過であった。貿易額をみる限りではソ連の貿易政策が見事に写し出されている。ソ連の輸出の基本的な任務は輸入代金の獲得にあり、社会主義建設の速やかな実現に向けて国民経済の工業化と技術的・経済的独立性確立のために外国商品を利用するのであり、輸出額の範囲内でしか輸入は行われない。この方針の下に貿易実務に従事したのが駐日ソ連通商代表部である11。 この組織が設立され、ソ連の国家機関から派遣された代表部員が商談にあたることになったことから、ソ連側との交渉はより円滑に行われるようになった。

 しかしながら、貿易の国家独占体制による業種別窓口の一本化とその出先機関である通商代表部との取引形態は、日本の業界の競争を利用した価格面での厳しい要求を突きつけることとなった。露国日本大使館参事官の酒匂は大阪市役所産業部での講演でロシアとの貿易の先輩格である英国の「アルコス」の例やドイツ国内のロシア国家企業の出先機関が30を超え、ドイツ商社のロシア・ビジネスの活発なことを紹介している12。 また、国家貿易にどう対処すべきか、つまり自由競争に任せるべきか、あるいは自由競争に任せれば、結局粗製濫造に陥り市場を失うことになるから、協調的な輸出組合をつくり、ロシアの大量注文に応じるべきかという問題に対して、酒匂は「輸出組合の設置はまだ検討の余地がある」と述べている13

 日本と露領亜細亜との貿易は、両国関係が改善されたことによって1925年の1,780万円から1934年には4,410万円へと着実に増大した。この間の貿易は日本の大幅な入超を基調としている。この時期の露領亜細亜からの主な輸入品は鹹魚(塩魚)、石油及び木材といった商品である。鹹魚の輸入が再開されたのは1928年からであり、翌々年の1930年からは年間900万円の水準に達し、さらに1934年には1,080万円と過去最高を記録した。これによって露領亜細亜からの輸入額に占める鹹魚のシェアは1928年の5.5%から1934年には32.9%まで拡大した。日本は塩鮭及塩鱒を露領漁業で大量に輸入しており、これは特殊貿易として扱われている。1913年以来『日本外国貿易年表』から消えていた塩魚( 鹹魚、塩鮭及塩鱒 )が1928年から1935年までなぜ普通貿易として再び登場してきたのか。仕入れ港がウラジオストクおよびニコラエフスクになっているために普通の輸入として扱われたものと推察される。

 1927年から石油製品(灯油)の輸入も再開された。この輸入も鹹魚と同様の輸入傾向をもっており、1933年のピーク時には940万円を記録し、同年の露領亜細亜からの輸入額の30.3%を占めた。しかし、石油製品の輸入も1936年からは全く輸入されなくなった。

 統計上大豆、豆糟及び獣骨肥料用が露領亜細亜から輸入されているが、仕入れ港としてウラジオストクを使用しているために計上されているに過ぎず、実際には満州からの輸入である。

 1930年代後半にみられた日ソ間の政治的決着が貿易面に如実に現れたのは北満鐵道の買収に伴う代償物資の供給が行われたことである。1935〜1937年の3年間は日本側の大幅出超に転じ、それ以前とは様変わりの姿を描いた。北満鐵道買収の発端は1932年8月29日の在ソ連広田大使とソ連外務人民委員カラハンとの満州国商人問題、東支鉄道問題等に関する意見交換である14。 1933年(昭和8年)5月になってソ連政府より正式に鉄道を日本国又は満州国に譲渡する提議があり、帝国政府は審議の結果、日本ではなく直接利害のある満州国が買収したい旨ソ連政府に申し込んだところすぐに返事があり、同年5月23日の廟議で東支鉄道が経済的に価値があることやこの鐵道が「赤化宣伝」のための有力な足場を提供してきていることから、経済的・政治的にも有利であり、鉄道及び一切の付帯事業の買収を行うことを決定した。

 ソ連側は交渉開始当初、鉄道とその付帯事業一切の譲渡価格2億7,000万金ルーブリ(6億2,500万円)を提案したきた。満州国は5,000万円を提示し、両者に大きな隔たりがあった15

 

(表〜1) 北鐵代償物質承認額

  金額 (千円) 
 承認総額 92,517
 第1期13,208
 第2期16,784
 第3期15,891
 第4期16,126
 第5期15,104
 第6期15,404

 (出所)『日露年鑑』1942年版、欧亜通信社、999頁

 

 1933年6月27日の第一回正式会議を皮切りに、厳しい交渉が繰り返された。1935年3月23日、北鐵譲渡協定が満州国政府とソ連政府との間に調印され、日本政府とソ連政府との間に支払い保障に関する交換公文が東京で調印された。協定によって、ソ連政府は北満鐵道(東支鉄道)の一切の権利を日本国通貨1億4,000万円で譲渡することになった(第1条)。この額のうち4,670万円は現金支払い、残る9,330万円は物品で支払われることとなった(第7条)。物品引き渡し分9,330万円は6カ月均等割りされ、各年の6カ月あるいは1年間の引き渡し額は3,110万円を越えてはならないとされている(第9条)。

 上述の枠組みで実施された代償物資の引き渡しにあたって、実際には相当多数のトラブルが発生し、完了期限の1937年3月22日は1938年末でやっと完了した16。 駐日満州国財務官の発表では、1937年9月時点で承認件数は839件、承認総額は9,251万7,000円であった。表〜2にみるように、ソ連の技術装備を高めるような機械類や船舶類の輸出の割合が高く、機械類では移動式発電装置、電動機、発電機、変圧器、電気溶接機、電気起重機、各種ディーゼル機関、車輪、旋盤、ポンプ等である。船舶類は川崎船、蟹漁船、カッター、等の生活必需物資が供給される一方、人絹、織物類が輸出されて日本製品を身につけたロシア人がモスクワのメインストリートを闊歩する姿がみられたという。このいわば奢侈品はモスクワ政府が仕入れ値段よりはるかに高価な価格で市民に販売することによって国庫収入を増やすことを目的としたものであった。

 

(表〜2) 北鐵代償物質内訳

  金額 (千円) 
 承認総額92,517
 機械類18,452
 船舶類18,334
 小麦粉1,857
 大豆及び大豆油  9,224
 緑茶7,820
 銅線類8,544
 セメント5,968
 ロープ類5,167
 帯鐵及び鐵板類2,733
 織物類5,235
 人絹1,805
 其他7,378

 (出所)『日露年鑑』1942年版、欧亜通信社、999頁

 

 1935〜1937年間に日露貿易は北鐵代償物資取引の増大で日本の露領亜細亜向け輸出額は1934年の1,140万円から1935年には2,620万円(前年比 2.3倍)に急増し、その後1936年には2,300万円、1937年には2,390万円となった。一方、日本の露西亜向け輸出もこの時期に増大し、1935年には前年比30%増の210万円、1936年には840万円を記録したが、1937年になると410万円に減少した。北鐵代償物資の供給拡大を契機として、日本の技術商品が広くソ連に紹介されることによって今後の日露貿易発展の絶好の機会となるはずであった。ところが、1936年に外国貿易人民委員の「1938年度より開始の第3次5カ年計画では外国品の輸入を完全に封鎖する」という報告があり、日ソ貿易拡大機運に冷や水を浴びせることとなった17。 さらに国際情勢は風雲急を告げ、1936年11月締結の日独防共協定はソ連を刺激し、さらに翌1937年6月の乾岔子島事件、日華事変、1938年7月の張鼓峰事件によって日ソ間を取り巻く環境はにわかに複雑化した。そのために日露貿易は1938年になると急激に縮小することになる。1938年の日本の露領亜細亜向け輸出の3割にあたる150万円は緑茶であり、科学機器類150万円、起重機40万円等470万円が輸出されたに過ぎない。

 同年の露西亜向け輸出額は50万円であった。1938年の日本の輸入をみれば、露領亜細亜及び露西亜からそれぞれ40万円であった。主な輸入品は木材、サントニン及び石炭である。

 1939〜1940年になると露領亜細亜及び露西亜との貿易はほとんど完全に絶たれることになる。唯一、1940年の露領亜細亜との貿易で日本の輸出は370万円を記録した。

 輸入面での特異な存在はサントニンである。ソ連産の回虫駆除薬サントニンは、江戸時代からサントニン摘出の原草であるセメン・シーナの名で知られ、日本に輸入されてきた18。 1929年来三井物産はソ連産サントニンの独占販売権を所有していたが、1931年以来ドイツのシーリンガム・スルバム社、英国のメー・アンド・ベーカー社、米国のアメリカン・サントニン・コーペレーション社が対日ダンピングを行い、ロシア産とみられるサントニンが大阪の武田、塩野義商店に大量に納品され、それまでの三井物産の1カ年契約、融資による委託販売は中止せざるをえなくなった。

 緊迫した国際情勢の下で日ソ関係が貿易経済面でも没交渉に陥ることは好ましいことではなく、ノモンハン停戦協定成立後、両国間の関係改善の気運が高まり、1939年11月、駐ソ東郷大使はモロトフ外務人民委員と会談し、日ソ通商協定締結交渉を開始することで意見の一致をみた19。 翌1940年1月に松島スエーデン公使は東郷大使を補佐し、ミコヤン外国貿易人民委員その他関係者と本格交渉に入ったのである20。 1941年6月11日、通商協定及び支払い協定交渉妥結に関する共同コミニュケが発表された。協定の有効期限を5カ年とし、自動延長されることになった。この時に妥結された貿易及び支払い協定は1カ年とし、その間の日本の輸出は生糸、繭、機械及び器具類、樟脳油、雑貨及び其の他合計3,000万円、輸入は石油、満俺鉱、白金、肥料及び雑品等合計3,000万円、輸出入合計6,000万円とされた。しかし、独ソ戦の勃発によって折角の協定も流産してしまったのである。