脚 注

 

     『 日本外国貿易年表 』 は1928年(昭和3年)までは 『 大日本外国貿易年表 』 と呼ばれていた。


     

     1900〜1913年間は一巻本、1914〜1928年は上巻・下巻、1929〜1939年までは上巻・中巻・下巻から成る。但し、1940〜1945年は入手できなかったので不明。なお、1921年下巻( 国別貿易 )および1922〜1923年の 『 大日本外国貿易年表 』 の所在について、総理府統計局、大蔵省統計資料室、一橋大学経済研究所図書室および国立国会図書館にあたってみたが発見できなかった。北大図書館片山俊治氏の協力を得て、図書検索および主要大学図書館に問い合わせてもらったが、どこも所有していなかった。関東大震災の時であり、作成されたのかどうかもまだ確認できていない。


     

     バルト三国は含まれない。1)− 昭和19〜23年、附表1〜2頁。


     

     1)− 昭和19年〜23年。1〜4頁に日本外国貿易年表解説が掲載されている。


     

     21)− 110〜113頁。


     

     例えば、1908年から1923年にかけてウラジオストク港を経由して輸出された満州国の貨物量( 単位プード )は、1908〜09年 404万、1915〜16年 1,285万、1916〜17年 2,395万、1917〜18年 485万、1919〜20年 222万、1921〜22年 2,172万、1922〜23年( 暫定値 )3,100万であった。20)− No.20、3頁。


     

     22)− 576頁。


     

     この時期の日本の石油(灯油)輸入相手国は米国であり、1904年には日本の輸入量 8,170万ガロンの60%、1905年には同じく 5,870万ガロンの63%、1906年には 5,940万ガロンの75%を米国に依存している。日本の石油輸入量に占める露領亜細亜のシェアは1904年には24%、1905年には22%であり、米国に次いで重要な輸入相手国であった。それが、1906年にはわずか2%のシェアに転落した。これを埋め合わせたのがオランダ領インドとイタリアである。1)− 明治37年、483頁、明治40年、667頁。


     

     1)− 明治40年版、486頁。


     

    10 23)− 333頁。


     

    11 日ソ基本条約の第4條で通商航海条約の締結交渉を行うことが約束され、これに基づいて駐日ソ連通商代表部が設立されるはずであった。しかし、交渉が進展しないために、1925年(大正14年)5月にソ連政府は佐藤在ソ代理大使を通じ、大使館の一部を成す通商代表部東京本部を設けたい旨提案してきた。ソ連側の要求の骨子は、建物は治外法権を有する、通商代表部員は外交特権を有する、通商代表部員は日本との貿易及び経済発展の援助、貿易の調節に関する事務を行う等であった。日本政府は大使館並の待遇には反対し、度重なる交渉の結果大正15年6月23日、日ソ双方は記録書に署名した。その重要な点は以下である。

      (一)在本邦「ソ」聯邦通商代表部ノ職業ハ(イ)日「ソ」兩國間ノ貿易及其他ノ通商關係ヲ促進便易ナラシメ(ロ)輸出入ヲ調節シ、(ハ)「ソ」聯邦ノ為商取引ヲ為ス

      (二)通商代表部員ハ大使館商務参事官及商務書記官ニ任命セラルルコトヲ得ヘク右商務参事官ハ一名商務書記官ハ三名以下トシ、従的資格ニ於テハ外交上ノ特権ヲ亨有ス

      (三)通商代表部員ハ本邦ノ法律及裁判権ニフクス。9)− 106〜111頁。

    ソ連通商代表はソ連邦大使館附商務参事官として外交官の待遇を受けているが、通商代表部そのものは何ら特権はなく、一商事会社と変わりない。駐日ソ連通商代表部東京本部に次いで、函館、大阪及び大連にも支部が開設された。

    通商代表部東京本部設置後間もない1927年2月14日付けで、駐日ソ連通商代表首席は内国貿易副人民委員 K.G.マクシーモフ宛に 「 日本の通商代表部を東京から神戸に移転させる問題に関する会議のプロトコール 」を送っている( f.5240,op.18c,ed.khr.392 )。その内容は木材と魚の部門の担当官では意見が分かれるが、結論として神戸は木材を統制するのに適しており、発展の余地が大きく、経済的にプラスになる判断された。1924年に神戸の鈴木商店が露領材の大型輸入を始めたのが発端であり、当時日本の露領亜細亜からの輸入は木材に大きく依存していた。

    これに対し、マクシーモフは1927年3月15日付け手紙で、ステータスの変更は難しいこと、東京にはコンツェルンや三井、三菱、久原など重要な業者が集まっていること、利権の問題は常時企業や政府と接触する必要があり、これらの解決に東京は便利である、として駐日ソ連通商代表部の見解には完全に同意できないと移転に反対している。結局、移転は成功しなかった。


     

    12 18)−24頁。全露株式會社 「アルコス Arkos」 は1920年6月、ロンドンに設立された。19)−f.3270,op.1.d.80。1921年3月16日にはソ英間に通商協定が調印され、 「アルコス」 を中心に活発な貿易活動が展開された。1923年3月6日にはソ連領内に 「アルコス」 のエージェントを開設することが認められ、1924年半ばまでにモスクワ、レニングラード、ハリコフ、チフリス、オデッサ、ロストフ・ナ・ドヌー、キエフ、ノヴォロシイスク、バツミ、バクー、ポチに支店が誕生した。モスクワとレニングラードの輸出業務は余り大きなものではなく、活動の拠点はコーカサス周辺にあった。石油ビジネスによるものであろう。1927年3月には英ソ国交断絶で 「アルコス」 理事会はモスクワ支店の閉鎖を決め、同年10月までオフィスは業務を行った。19)− f.3270,0p.1,d.759。


     

    13 18)− 28頁。


     

    14 大使は 「 両国間ノ空気ハ好シ之ヲ利用シ極東方面ノ関係ニ付画期的大事業ヲ為スコトモ困難ナラス 」 と語った。これに対しカラハンは 「 如何ニセハ画期的事業ヲ成功シ得ルヤ 」 と質問、これに対し 「 端的ニ言エハ東支ヲ日本ニ売ルコトナリ 」 と答えた。カラハンは個人的な意見として政府より全権を受けて、正式交渉を行いたいと述べた。5)− 293頁。


     

    15 5)− 298頁。


     

    16 交渉成立後、ソ連側が支払うべき債務を支払わないため、1938年3月17日、満州国外務部ハルビン特派員はソ連総領事にたいし、債務を支払わなければ債権確保のために最終金400万円の支払いを停止する旨を申し入れた。ソ連側は 「 代償金は不可侵であり、割賦金の支払いを受けた後に満州国側の対ソ債権を検討するべき 」と述べた。折しも、同年11月、漁業条約問題に関する日本側の申し入れに対し、ソ連政府は割賦金解決が先決として漁業条約交渉を中断させる手段にでた。日本側は漁業問題と全く無関係で筋違いであると応酬、対立のまま翌年に持ち越された。その後漁期を迎え漁業条約交渉の必要上、積極的に満州国側に斡旋する方針をとり、折衝を重ねた結果、北鐵代償金支払い問題が最終的に解決したのは1940年1月のことであった。満ソ間で懸案となっていたソ連に対する最終割賦金580万9,000円に利子及び北鐵譲渡協定金約款による増金と満州国が受領すべき対ソ請求額約128万円を相殺し、残額452万9,000円をソ連に支払うことになり、その3分の2は物資取引( マニラロープ 1,300t、ワイヤロープ 600t、人絹糸 1,000t、自動車用タイヤ 1,500t )であった。3)− 昭和19年版、1068〜1069頁。


     

    17 3)− 昭和16年版、892頁。


     

    18 2)− 昭和11年版、203頁。


     

    19 V.I. コチェトーヴァの 「 日ソ貿易に関する全ソ商業会議所通達 」 (1936年2月22日付)のなかで 「 日本との貿易拡大のためには法的基盤の創設が必要であることを日本の実業界に提起している。日本のビジネスマンは、日ソ間に通商条約があればという。この問題は非常に重要であり、詳細に検討する必要がある 」 と記している(f.413,0p.13,d.1358)。


     

    20 日ソ通商航海条約締結交渉にあたって日本側は最恵国待遇の約款設定を重視したが、ソ連側はこれに反対した。ロシア国家経済文書館の非公開フォンドには、日本との通商条約締結交渉にあたって省庁間特別委員会が作成した基本規定案の作業課程の一端を述べた手紙がある(f.5240,op.18c,ed.khr.392)。それによると、ソ連は最恵国待遇については一般的な形態を望まない。ソ連側の関心のある問題での最恵国待遇で十分である。法人格の権利についてはソ連・トルコ通商条約8条をそのまま取り入れている。課税についてはドイツとの税協定第1条に基本的に準じている。通商代表部の治外法権については委員会としては未解決のままである。貿易規則についてはドイツとの経済協定第12条、21条および22条を日本に提案することを決定した。ソ連が条約作成で何を考えているのかを知る上でこの手紙は大変興味深い。


     

    21 17)− 106頁。このうち支那茶の輸出量がもっとも多く、漢口製茶所のロシア人保護のために低減運賃の特典が与えられ、また漢口茶がロシア人の嗜好に適していた。6)− 86頁。


     

    22 6)− 86頁。


     

    23 4)− 79頁。


     

    24 17)− 107頁。


     

    25 17)− 108頁。


     

    26 4)− 80頁。


     

    27 3)− 1942年版、999頁。


     

    28 3)− 1939年版、1190頁。


     

    29 3)− 1939年版、1190頁。


     

    30 この分野の歴史研究は、鈴木旭の13)− 149〜188頁、575〜616頁、1179〜118頁や A.T.Mandrik の "Istoriia rybnoi promyshlennosti rossiiskogo Dal'nego Vostoka "Vladivostok,1994 にまとまった研究成果がある。北洋漁業は一般には北緯50度以北の日本海、オホーツク海、ベーリング海における操業であり、経営の種類からみれば日本側経営漁業としては露領漁業、公海漁業、北千島漁業、ソ連側経営漁業としてはソ領漁業、公海漁業に区分される。このなかで歴史的にも経済的にも最も重要性の高いのは露領漁業であり、その発端は江戸時代末期にさかのぼることができる。露領漁業が漁業権として露領内での操業を正式に認められたのはポーツマス講和条約調印以後のことである。


     

    31 3)− 昭和19年版、676頁


     

    32 3)− 昭和19年版、677頁


     

    33 2)− 1931年版、280頁。


     

    34 3)− 1938年版、1032〜1033頁。当時の日露協会会頭の後藤新平は、1929年の議会に 「 對露輸出補償の制定に關する建議 」 を提出し、至急制定の必要性を説いた。


     

    35 3)− 1938年版、1033〜1034頁。


     

    36 13)− 591頁


     

    37 10)− 8頁


     

    38 2)− 昭和9〜10年版、150〜151頁


     

    39 対露輸出組合は 「 輸出組合法 」 (大正14年制定)によって大正15年に設立された。ソ連の貿易が国家貿易であるためにこれに対応する組織が必要であるという認識に基づいている。3)− 1938年版、1046〜1047頁。


     

    40 2)− 昭和9〜10年版、130〜133頁。


     

    41 3)− 昭和13年版、1011頁。


     

    42 2)− 昭和9〜10年版、132頁。


     

    43 関東大震災によってロシアから木材および銑鉄・鋼材の輸出が急増した。1923〜24年度のロシアから日本への輸出額は1,370万ルーブルであり、このうち丸太660万ルーブル( 輸出額の48% )、製材40万ルーブル、銑鉄・鋼材120万ルーブル(9%)であった。17)− f.240,op.18c,ed.khr.740