1.ソ連の人口センサス

 

 

1-1.センサスの歴史

 

 ソ連のセンサスは、実施当時の政治情勢に大きな影響を受けており、内容的にも発行形態もそれぞれ異なった特色をもっている。以下、フェシュバッハ(Feshbach, 1981)、島村(1985: 157-164)およびシュワルツ(Schwartz, 1986)を参考に、センサスの歴史を振り返ることとする。

 

1-1-1.帝政ロシア末期とソ連初期のセンサス

 ロシア帝国初の全国的な人口センサスは、1897年2月9日(旧暦1月28日)に実施された。この結果は1902年にまず3巻が出版され、専門家による議論・修正をへて1905年に89巻にまとめられている。このセンサスは、西欧で利用されていた科学的な統計手法を用い、トルストイやチェーホフなど知識人をも動員して大々的に実施された。しかし、広大なロシア帝国のすべてを網羅するのは困難で、一説によればシベリアでは住民の30%が調査からもれていたという。ロシア帝国は1915年に次のセンサス実施を計画していたが、これは第一次世界大戦の勃発によって実現しなかった。

 ロシア革命後初のセンサスが行われたのは、1920年8月28日である5。しかし当時は国内戦が完全には終結しておらず、対ソ干渉戦争も終わりには近づいていたものの、また続いていた。そのため社会情勢は混乱を極め、読み書きのできる調査員が不足していたばかりか、紙にさえ事欠く状態であった。地域によっては調査がまったく行われず、全人口の3割近くがセンサスでカバーされなかった。このような事情から、得られたデータは不正確とされ、部分的にしか公表されなかった。また、1923年にもセンサスが実施されたが、これは都市に限定されている。

ソ連全体をカバーした初の本格的センサスは、1926年12月17日に実施され、その結果は1928〜29年に56巻に分けて出版された(USSR, 1928-29)。このセンサスは、質問事項や分類基準などがよく整備されており、質的に充実しているだけでなく、量的にも集計結果のほとんどが公表されているため、模範的な調査であるとして高く評価されている。ただし、全人口は1%程度過大評価されているとする見方もある6。ちなみに、このセンサスはすべてロシア語・フランス語の二ヵ国語で書かれている。

 

1-1-2.1930年代の「極秘」センサス

 次のセンサスが行われたのは1937年1月6日であるが、このセンサスは実施されたことすらほとんど言及されてこなかった。長い間、その結果は廃棄されたと考えられていたが、公文書館に保存されていたことが判明し、ソ連邦崩壊直前の1991年、ソ連歴史研究所からその一部が出版されている(Institut istorii SSSR, 1991)。

 ジロムスカヤら(Zhiromskaia, 1990; 1992; Zhiromskaia and Kiselev, 1991; Zhiromskaia, Kiselev and Poliakov, 1996)は、1937年と39年のセンサスの政治的背景と実施内容を分析している。それによれば、当時ソ連では、生活水準の向上は自動的に人口増をもたらすと考えられていた。したがって人口は、資本主義に対する社会主義の優越性を示す重要な指標であるとされた。しかし実際には、1930年代はじめに飢饉、粛清と農業集団化によって多くの人口が失われていた。ツァプリンは、餓死者および強制収容所で亡くなった人の数は、1927〜38年に790万人、国外へ逃れた人々は200万人であったと推定している(Tsaplin, 1989: 181)7

 1937年のセンサスの結果によれば、ソ連の人口は1億6200万人であった。しかしこれは、ゴスプラン(国家計画委員会)の予測1億8000万人、またクラヴァリ国民経済中央計算局長8によるより控えめな値、1億7000〜7200万人をも大幅に下回っていた。そのため同年9月のソ連人民会議特別決定は、このセンサスの実施は不十分でありその結果には欠陥があるとし、公表を禁じた。またセンサスの実施者たちは「人口の実際の数字を歪曲」したとして、「人民の敵」や外国のスパイとして糾弾された。クラヴァリ局長とクヴィトキン・センサス・ビューロー長は処刑され、少なからぬ関係者が投獄された。

 このように、1937年のセンサスが失敗とみなされたため、次のセンサスが39年1月17日にあらためて実施されることになった。1939年のセンサスの最重要課題は、スターリンの意に反しない全人口の値を得ることであった。政府は、37年のセンサスの結果を考慮して当初の推定値を下方修正し、39年の全人口を1億7000〜7500万人と予測していた。しかし、この数字の「達成」も容易ではなかった。

 調査漏れを防ぐことがもっとも重視され、「一人も抜かさないこと!」というスローガンの下、路上生活者が見つかりそうな場所はすべて調査するよう指示が出された。ソ連人民委員会議特別決定により、情報を提供しなかったり、あきらかにまちがった情報を提供した者は、裁判にかけることとされた。また、わずかでも調査漏れが発見されると厳しく非難された。できるだけ「正確」な数字を出すようにという当局の圧力を感じて、水増し報告をする調査員も少なくなかった。

 このような「努力」の結果、結果的には推定値の範囲内である1億7050万人が記録され、センサス結果は政府にも承認された。しかしこの数字については、当時の政治状況下においてでさえ、ソ連の専門家のあいだで疑問視する声が上がっていた9

 このほか、囚人の所在が明らかになることを防ぐため、彼らの人数を他の地区に少しずつ「配分」するとともに、公式発表の数字以上の軍人の数を、各地域の人口に上乗せする措置がとられた。このように「再配置」された囚人と軍人は、全部で156万7300人分に上るという。また、統計上の都市人口を増加させ工業化の成功を誇示するため、一部の農村が都市に定義しなおされた。

 1939年のセンサスの結果は39〜40年にごく一部が発表されたほか、その後発行された統計年鑑やセンサス報告集に比較のため掲載されたが、いずれにせよ部分的な数字にすぎなかった。ソ連国民経済中央国立公文書館に眠っていたセンサスは、その一部が専門家の手によって編集され、92年に出版されている(Poliakov, 1992)。

 

1-1-3.戦後のセンサス

 第二次世界大戦後初のセンサスは、1959年1月15日に行われた(USSR, 1962b)。1939年のセンサスで使用された方法を引き継いだ点も少なくないが、この年にセンサスの実施方法がほぼ確定され、70年、79年のセンサスも基本的に59年と同じ方針で行われている。調査員の質や、統計技術などにも改善がみられた。しかし公表された報告書は16巻(15の連邦構成共和国についてそれぞれ一巻ずつと総括が一巻、カザフ共和国は第5巻)、全部で2800ページ余にすぎない。なお、第二次大戦後にソ連の領土が拡大しており、また戦争による人的被害が大きいため、それまでのセンサスとの比較が困難になっている。

 次のセンサスは当初1969年に実施が予定されていたが、技術的な理由で一年延期され、70年1月15日に行われた。このセンサスの大きな特徴は、一部の項目について、全人口の25%を対象としたサンプリング調査が初めて実施された点である。この結果は7巻の報告書にまとめられ、72〜73年に出版されている(USSR, 1972-73)。巻数は59年のものより少ないが、全体の分量は3200ページ余で若干増えている。

 その次のセンサスは、1979年1月17日に実施された。この年には、データの集計に初めて本格的にコンピュータが導入された。そのような技術的改善にもかかわらず、このセンサスの結果は、まとまったものとしては1980年と84年に一冊ずつ出版されただけであったため(USSR, 1980; 1984)、西側の研究者のあいだでは、そのほとんどが公表されないのではないかという悲観的見方もあった。しかし、89年になってようやくさらなる公表が進み、最終的には10巻、5700ページ余が刊行された(USSR, 1989-90)。これには、ゴルバチョフの登場によるペレストロイカと、グラスノスチ(情報公開)政策も影響しているとみられる。

 1989年1月12日に実施されたセンサスは、ソ連最後のものとなった。報告集は全部で12巻、ページ数も1万2000を超えている(USSR, 1992)。旧ソ連諸国ではほとんどの国でまだセンサスが実施されていないため10、ソ連邦崩壊後の現在もなお、各国の人口を分析するさいにこのセンサスのデータがしばしば使用されている。

 

1-2.センサスの定義

 

1-2-1.「実在」人口と「定住」人口

 ソ連のセンサスでは、「実在」(nalichnoe)人口と「定住」(postoiannoe)人口の二種類が使用されている。これについては、アンダーソンとシルヴァー(Anderson and Silver, 1985)が詳しく分析している。やや長くなるがこれを引用しつつ、実在人口と定住人口について検討することとする。

 まず実在人口とは、調査時に調査地域の住宅に実際にいる人々すべてを指す。調査地域に居住しており、調査時に不在だった人に関しては@住宅のある市町村内にいた場合(例えば、友人宅を訪問していたり、夜勤についていた場合)A住宅のある市町村外にいたが、帰宅途中であったか、調査を受けられない場所にいた場合(例えば、移動中であったり、列車、船、飛行機等の乗務員が勤務中であった場合)には、居住地の実在人口に入れられる。なお、実際に調査員がその時間にインタビューするわけではないが、センサスでは午前0時にどこにいたかが調査の対象とされている。

 一方、定住人口とは、通常の居住地が調査地域にある人々のすべてを指す。調査時に不在の人(上記@、Aを除く)は、住宅のある市町村の外におり、それが6ヵ月未満の場合「一時的に不在」とみなされる。これらの人々は住宅のある地域の定住人口に含まれるとともに、調査時にいた場所で「一時的に居住」しているとみなされ、実在人口に加えられる。ただし、恒久的に居住地を移した人や学生は、移動した時期が6ヵ月未満であっても、新しい居住地の定住人口に数えられる。

 実在人口と定住人口は、以下のように定義される。

 

「実在」人口=「定住」人口−「一時的不在者」+「一時的居住者」

「定住」人口=「実在」人口−「一時的居住者」+「一時的不在者」

 

 定住地をソ連国内に持つが調査時に国外にいる人、また定住地を国外に持つが一時的にソ連国内に滞在している人を除き、すべてのソ連市民は、実在人口と定住人口の両方に登録されなければならない。旅行者など、外国に短期滞在(一ヵ月未満)している人は居住地の定住・実在人口に入れられるので11、原則的には、両者の差は小さいはずである。実際、ソ連邦全体では、この差が全人口に占める割合(実在人口−定住人口/定住人口)は、1959、70、79年にそれぞれ0.28%、0.12%、0.13%であった12。なお1989年のセンサスでは、この値は0.34%となっている。

 1926年のセンサスでは、都市人口は実在・定住両方、農村人口は実在のみが調査された。37年のセンサスでは実在人口のみ、39年には全人口について実在・定住の両方が調査されている(Zhiromskaia, 1990: 93)。ただし家族構成以外のすべての項目は実在人口で示してある13

 戦後のセンサスは、男女別、地域別、都市・農村別では実在・定住の二種類のデータを掲載しているが、その他の項目については実在、定住のうち一方のみを使っており、どの項目にどちらを使っているかはセンサスごとに異なっている。しかも、しばしばそれについての言及がない。たいていの場合、全人口と比べることによって特定できるが、比率しか出されていない場合や、クロス・タビュレーションなどの場合は判断しにくい。

 1959年のセンサスでは、家族構成以外はすべて実在人口で示してある。70年のセンサスでは、年齢、教育水準、民族、言語が実在人口、家族構成、収入形態(被雇用者、個人副業従事者、学生、年金生活者など)、職業、移住に関するデータが定住人口である。一方、79年と89年のセンサスを調べてみると、すべての項目が定住人口によって示されている。

 実在人口と定住人口の差は、ソ連全体では微々たるものであるが、都市・農村別、地域別に見ると、その差はより大きくなる。一般に、都市では実在人口が定住人口を、農村部では定住人口が実在人口を上回っており、カザフスタンでもそのような傾向が見られる(表4)

 また上述のように、項目によっては実在・定住人口のいずれかしか得られない場合があるため、年代の違うセンサスの比較には注意が必要である。例えば民族構成については、1959、70年は実在人口、79、89年は定住人口が使用されている。中央アジアでは全体として、地元民族は農村人口に占める割合が高く、ロシア人など外来の民族は都市人口に占める割合が高い傾向にある。そのため地元民族の人口は、59、70年のデータではやや少なめに、79、89年のデータではやや多めになっている可能性がある。ただしカザフスタンの場合は、都市・農村別の実在・定住人口の差が0.1〜0.4%と小さいので、民族構成の時系列的比較にあまり問題はない。

 一方、センサス以外の統計では通常、どちらが使われているのか言及されていない。時系列のデータは、実在人口と定住人口が混在している可能性もある。

 

1-2-2.都市人口と農村人口

 ソ連のセンサスでは、都市人口の定義が時代と地域によって異なっている。そのため、都市・農村人口について、異なる時期や地域の比較を行うには注意が必要である。

 ローランド(Rowland, 1986)によれば、1897年のセンサスでは、都市とみなされたのは行政上の中心地で、大きさや機能(全労働人口のうち非農業部門従事者が占める割合)は必ずしも関係がなかった。そのため大きな工業都市がこの定義からもれたり、逆に小さな農村が入れられたりした。

 1926年のセンサスでは、都市人口は「都市型居住区(gorodskoe poselenie)」の人口からなる。カザフスタンの場合、そのような居住区は全体で45あるが、そのうち「行政上、都市(gorod)と認められた」ものが26存在する14。比較的人口の多い居住区が都市に規定されているが、都市とそうでないものとの区分は必ずしも規模によるものではない(USSR, 1928-29 (vol. 8): 14)。 また59年以降のセンサスでは、都市人口は「都市」と「都市型居住区 (poselok gorodskogo tipa)」の人口からなるが15、これらの区分にも一定の基準があるわけではない。

 表3は、カザフスタンでセンサス上都市ないし農村と規定された居住区の規模を示したものである。人口3000人未満の都市型居住区、5000人未満の都市が存在する一方、5000人以上を抱える農村も存在しており、これらの定義は必ずしも規模によるものではないことがわかる。

 

1-3.センサス以外の人口統計

 

 社会・経済統計を集めた「ソ連国民経済統計年鑑」は1955年に初めて出版され16、ソ連邦崩壊まで毎年出版された。出版年によって内容が若干異なるが、男女別、都市・農村別、地域別人口以外に、民族構成、教育水準、結婚、出生、死亡等に関するデータも掲載されている。

 また「ソ連の人口」というシリーズの統計集も何冊か出されているが、出版年によって内容がかなり異なっている。「ソ連の人口1987」(USSR, 1988)は、1897年の帝政ロシア時代にさかのぼった推定値を出しており、利用価値が高い。

 一方、カザフスタンのみを扱った統計集も発行されている。名称はそれぞれ若干異なるものの、カザフ共和国の「国民経済統計集」は、1957年、60年、63年、68年に続き、その後ほぼ毎年発行されていた(Heinemeir, 1984: 120-121)。独立後は「カザフスタン統計年鑑」のほか、「カザフスタン人口年鑑」(Republic of Kazakhstan, 1993, 1996a)などが発行されている。なお、センサスの結果は、少なくとも1989年のものはカザフスタンでも独自に発行されている(Kazakh SSR, 1990a; 1990b; Republic of Kazakhstan, 1991-92)。データソースはもちろん同じだが、州、市町村レベルの情報がより詳しい。