「基本所得」政策の規範的経済理論:――「福祉国家」政策の厚生経済学序説――
後藤玲子
立命館大学大学院先端総合学術研究科
吉原直毅
一橋大学経済研究所
2004年4月22日
要約
本稿の目的は、「福祉国家」の有り方を巡る近年の論争において提起されている「基本所得」政策の、資源配分メカニズムとしての規範的特性を明らかにする事である。最初に、「基本所得」政策の代表的提唱者であるヴァン・パレース(Van Parijs (1985))に依拠しつつ、「基本所得」制構想の規範理論的基礎付けを与える「リアル・リバータリアン」論を紹介し、それによって明らかにされた「基本所得」政策が満たすべき規範的基準を、公理的資源配分理論の枠組みにおいて定式化する。さらに、「基本所得」政策と整合的な資源配分ルールの理論的構成可能性を探求する。そのようなルールは、労働スキルの格差のない経済環境では、均等便益解として特徴付けられる一方、スキル格差のある経済環境では「非支配的多様性」条件を満たすいくつかのパレート効率的配分ルールについて紹介・分析される。
1. はじめに
いわゆるケインズ主義的福祉国家システムの危機が指摘される下で、近年、欧米を中心に雇用政策や所得保障政策の再編が進んでいる。そこに見られる一つの特徴は、米国における「ウェルフェア・マザー」バッシングや日本における80年代の「生活保護」適正化、さらには、近年のイギリスのブレア政権に代表される「第三の道」路線に見られるように、福祉給付者たちの福祉給付への依存状態、すなわち「就労なき福祉」から脱却し、むしろ就労に条件付けられた福祉給付制度として知られる「ワークフェア」政策の導入や、人々の自立と就労を援助・促進する制度としての福祉国家への再編の動向である。[1]
こうした現実の政治動向を踏まえ、福祉国家制度の再編成をめぐる議論が、日本においても、政治学、政治哲学、法哲学、社会学の研究者を中心に積極的に始められている[2]。とりわけ注目される動きは、「ワークフェア」政策に代わる福祉改革案として提案された「基本所得(Basic Income)」構想――すべての市民に対して無条件に基礎的所得を保証するという構想――に対する高い関心と評価である。このような傾向は、資源配分の経済的効率性や、就労インセンティブの観点から政策評価を下す新古典派系経済学者のそれとは好対照をなしている。彼らの多くは、国民経済の国際競争力の維持や就労インセンティブの維持・向上の観点から「ワークフェア」政策を積極的に評価する一方で、その対極に位置するものとして「基本所得」構想を退ける。
本研究は、この「基本所得」構想について規範経済学的に分析することを目的とする。「基本所得」構想は、一般に、「すべての市民に対して無条件に一定額の所得を給付する仕組み」として定義され、通常は、その背後に市場との補完関係が想定されている。本研究の意図は、その基本観念に留意しながら、資源の拠出と給付との対応関係に光をあて、1つの資源配分メカニズムとして「基本所得」構想を再定義することにある。はじめに問題関心を簡単に記そう。
周知のように、福祉国家と呼ばれる国々にはさまざまな社会保障制度が用意されている。人々に共通するリスク、例えば長生きや障害、一時的な失業などに起因する稼得手段の喪失、あるいは疾病・傷害などによる医療支出の増大に予め対処することを目的とする保険制度はその代表例である。それらは市場賃金とリンクしつつ、ライフ・サイクルの途上でおきる共通の偶然性に対処して、所得平準化(生涯所得の個人内移転)を図る点、それによって市場からの脱落(さらには市場メカニズムの機能不全)を防ぐ点に特徴がある。だが、市場あるいは市場賃金とリンクした保険制度ではカバーすることのできない問題も数多く存在する。例えば、長期失業・就業困難、多子、未婚・離死別、難病などに起因する生活困難には、市場や保険に参加すること自体が難しく、たとえ参加できたとしても市場的な資源配分のもとでは基本的な福祉を達成することができないという問題が伴う。従来、これらのケースは、人々が共通に対処すべきリスクとは異なる特殊・例外的な困難であり、市場経済の残余的現象として個別的・偶然的に――社会手当その他さまざまな種類の公的扶助によって――対処されてきた。
「基本所得」構想は、これらのケースをより根本的かつ総合的に捉える視座をもつ。[3] その構想の基底には、すべての個人を市民として尊重し、配慮するという考え方(citizen’s entitlement)がある。その目的は、特定の制度に依存した価値やその評価を越えて、市民としての必要(citizen’s needs)を充足することにおかれる。そして、その実現にあたっては、社会を構成するすべての個人が義務を負うことになる。このような基本所得に関して、例えば、P・ヴァン・パレースは、「いかなる市場活動を開始するにも有用な活動の実質的機会」として解釈する。[4] また、オッフェは、それを「いかなる個人に対しても有用な福祉の実現手段」として説明する。[5] 彼らに共通する関心は、個々人が特定の経済システムに参加し、多様な活動を展開するために必要な基盤の整備である。
だが、従来の議論においては、「基本所得」構想を具体化する資源配分システムの姿は明白ではなかった。定義から明らかであるように、その基本観念はシンプルかつ根源的なものでありながら、支給される定額所得の水準やそれを支える財政的な仕組み、さらには市場経済との接合方法などにおいて、多様な政策的・財政的定式化の可能性をもっている。「基本所得」構想を批判する論者はもとより、擁護する論者の間でも、「基本所得」に対応する資源配分システムの具体像はかならずしも一致していない。
本稿では、「基本所得」を提唱する論者の中でも、とりわけ「リアル・リバータリアン」を標榜するヴァン・パリースに焦点をあて、基本所得論に対応する資源配分メカニズムの姿をより明確化することに努めたい。論文の構成は次の通りである。はじめに、ヴァン・パレースが標榜する「リアル・リバータリアン」の特徴とそれに基づく「基本所得」構想を解読する。続いて、彼の「基本所得」構想の基本観念をいくつかの公理として整理したうえで、それらを満たす資源配分システムの構成可能性を探求する。具体的には、次の2つのケースに応じて異なる資源配分システムが構想される。1つは人々のスキルに関して個人間で格差がない場合であり、他の1つは格差がある場合である。最後に、「基本所得」に対する通常の議論や批判との関係で、本稿で構成された「基本所得」制度の特徴が浮き彫りにされるとともに、今後の検討課題が確認される。
2.「基本所得」政策の規範理論的基礎付け
以下では、ヴァン・パレースの議論(Van Parijs (1995))に即して、「基本所得」政策を正当化する規範的条件とは何であるかを明らかにしていきたい。[6]
2.1. 「実質的自由の全構成員への最大限保証」としての「公正な社会」論
ヴァン・パレースによれば、「公正な社会(just society)」とは自由な社会――個人的自由が保証された社会――であると考える。[7] 彼のいう自由な社会の理念とは、個人的主権の下に、個人がしたいと欲するであろうどんな事であれ、行う自由(the freedom to do whatever one might want
to do)をもつことである。それは、単に個人の嗜好の充足が妨げられないことを意味するものではなく、また特定の道徳的義務(ルソーの「一般意思」などのようなもの)によって規定された道徳的「選好」が充足されることを意味するものでもない。個人は自分自身の嗜好を自分以外の何者でもなく、自分自身によって形成する事を保証されなければならない。その意味において個人の自律性(autonomy)も自由の条件とされる。
個人がしたいと欲するであろうどんな事であれ、行うことができるという意味での個人的自由は、当然のことながら、他のいかなる主体の行使する強制や脅迫・暴力によって個人のなそうと思うであろう事が妨げられる事を許容しない。また、こうした消極的自由の侵害がなされないように、社会による権利の保障(rights security)の確保とそれによる個人の自己所有権(self ownership)の確立・確保は前提されなければならない。その意味でそれは当然ながら消極的自由を包含する。しかし、他のいかなる主体の行使する強制や脅迫・暴力による個人的行為への制約からの自由としての、個人の権利――自己所有権――の確立・確保というのは、単なる形式的自由(formal freedom)の保証に過ぎない。それに対して、ヴァン・パレースの特徴は、実質的自由(real freedom)をも視野に入れるべきであると主張する点にある。実質的自由とは、個人の権利の確立・確保に言及するのみならず、個人が実際にどの程度、為す事が出来るか、為したい事の実現手段をどの程度、確保しているかにも関わってくる概念である。例えば、個人の購買力や個人に内在する能力並びに遺伝的特性も、彼のいう実質的自由の範囲を規定することになる。また一般に、個人の実質的自由の範囲は、彼に開かれている選択可能な人生の機会集合の大きさによって決まってくるとしたら、個人の持つ社会的権力、技術水準、資産・資本等々は、彼の選択可能な人生の機会集合の大きさを制約し、実質的自由の範囲を規定する事になるだろう。
かくしてヴァン・パレースは、上記のような意味での実質的自由を全ての個人に出来るだけ多く与える事(real freedom for all)こそが、自由な社会の条件であると主張する。それは、さらに以下の3条件によって、より精密に規定される。すなわち、第一に、強制や暴力などによる侵害なしに諸権利がうまく執行されるような構造が存在すること(権利に関する安全保障の確立)であり、第二に、その構造の下で、個人の自己所有権が確立・確保されていることであり、第三に、以上の2条件の制約の下で、各個人は己が為したいと欲するであろうどんな事であれ、それを為すための最大限可能な機会が保証されていることである。この3条件は、それが並列的に要請される限り、矛盾する可能性をもつが、パレースは3条件の間に次のような辞書的順序をつけることによって、矛盾を回避しようとしている。すなわち、第一の条件(権利に関する安全保障の確立)を第一次的に優先し、第一の条件の制約下で最大限の自己所有権の確保が要請される。また、上記2つの条件の優先的達成の下で第三の条件の達成が追求される。
第三の条件における「最大限可能な機会の保証」については注記が必要だろう。パレースはそれを機会集合のレキシミン配分として定式化している。ただし、レキシミン配分によって定まる「最大限可能な機会」の大きさは、当該社会に存在する個々人の才能や技能の程度、並びに当該社会の経済力(技術的生産力)や資源配分方法に依存することになる。このうち、前二者が社会にとっての外生変数であるのに対し、最後の「資源配分方法」は社会の決定変数である。したがって、実質的自由な社会の第三の条件は、適切な資源配分メカニズムの設計を要請するものとして解釈される。このような3つの条件を満たす「自由な社会」として「公正な社会」を規定する立場を、ヴァン・パレースは「リアル・リバータリアン」と称している。
この「リアル・リバータリアン」について2点注記しておきたい。第一は、「リバータリアン」という名称が使われているからといって、あるいは、個人の自己所有権に関する優先的言及があるからといって、ヴァン・パレースの立場をいわゆるロック主義的リバータリアンの一派として位置づけることは出来ないという点である。なぜなら、彼のいう「自己所有権」とは、通常のロック主義的自己所有権概念に比してはるかに弱い条件によって規定されたものであり、その内容は、事実上、ロールズの「正義の第一原理」(Rawls (1974))が規定する内容に近いものと想定されるからである。すなわち、それは個人の意思決定の自由あるいはその尊重として理解されるものであり、具体的には政治的自由や職業選択の自由などに相当する。事実、ヴァン・パレースは、ロック主義的リバータリアンが言及する権原原理(entitlement principle)を「強い意味」でのそれと「弱い意味」でのそれとに分類し、自らの議論を「弱い意味」での権原原理に基づく自己所有権論として位置づけている。「弱い意味」での権原原理では、所有権はそれ自体、社会のコントロール変数とされ、一定の分配的目標を達成するように所有権を制約的に定義し再構成する立場と完全に両立可能である。それに対して、「強い意味」での権原原理は、所有権を社会のコントロール変数と見成す立場とは相容れない。社会にとって、所有権は一種のパラメーターであり、尊重するしかないものとして位置づけられている。この「強い意味」での権原原理こそ、ジョン・ロックの議論であり、ロバート・ノージック(Nozick (1974)) 等のリバータリアンが無所有外的資源の原始的領有(original appropriation)の議論を展開させる論拠となったものである。
第二は、ヴァン・パレースの「リアル・リバータリアン」は、シュタイナーに代表されるような、全ての個人による初期外的資源の平等な共同所有論を展開する左翼リバータリアンの一派と見なす事も出来ないという点である。外的資源の価値を全ての個人が均等にシェアすべきと考える点で、「リアル・リバータリアン」は左翼リバータリアンと共通性をもつ。しかし、両者の間には次のような相違がある。左翼リバータリアンは、外的資源の価値の均等シェアについて、いわゆる「自然権」の観点から正当化を試みるのに対して、「リアル・リバータリアン」は、実質的自由を実現する機会集合の最大限の保証という観点から、その経済的物的手段として外的資源の均等アクセスを位置づける。[8] さらに、「リアル・リバータリアン」は、同様の観点から、外的資源の均等シェアを超えた分配を要求する場合がある。例えば、個々人間で才能や技能、あるいは健康状態などの内的資源の賦存が異なる場合、ヴァン・パレースは機会集合のレキシミン配分の観点から、より内的資源の賦存において劣位にある個人はより多くの外的資源を受け取るべき事を主張する。この点において、ヴァン・パレースの「リアル・リバータリアン」は、むしろロールズの「格差原理」(Rawls (1971))やドゥオ―キンの「資源の平等」論(Dworkin (1981))等の左派リベラルと見解を共有している。[9] また、人々の選択の機会集合という実質的自由に着目する点において、彼の議論はアマルティア・センの「機能と潜在能力」アプローチ(Sen (1980, 1985))と共有点を持つと言える。
このようにリベラル派平等理論と多くの共通性を持つヴァン・パレースの「リアル・リバータリアン」の議論ではあるが、他方でそれは、いわゆる帰結主義的平等主義からも距離を置いている点に留意する必要があるだろう。帰結主義的平等主義との違いとして彼が挙げているのは、第一に、形式的自由に関連する2つの条件を優先的に要請している点である。第二に、人々の所得や厚生水準など、彼らが自らに開かれた機会集合から選択した結果ではなく、機会集合そのものの配分に着目する点である。最後に、機会集合の配分に関して平等化を要請するものの、具体的な配分方法としては、もっとも不遇な個人の状態を最優先に改善させるというレキシミン配分を要請している点である。レキシミン配分の特徴は、もっとも不遇な個人の状態が最大限に改善された状況が維持され続ける限りにおいて、より厚遇な個人の状態が不均等に改善される事を許容する点にある。
2.2. 「実質的自由の全構成員への最大限保証」の制度的保証としての「基本所得」制度
以上のように整理される実質的自由の社会を実現する制度的仕組みとして位置づけられるのが、「基本所得(basic income)」制である。「基本所得」とは、当該社会の政府によって全ての社会の構成員に賦与される所得であり、それは、(1)その個人が労働市場に参入して、就労する意欲を持っているか否かに関わり無く、(2)その個人が富者であるか貧困者であるかに関わり無く、(3)その個人が誰と住んでいるかに関わり無く、そして、(4)その個人の居住地域がいずれかであるかに関わり無く、支払われるものである。これは通常の最低所得保証制度と以下の点で異なる。最低所得保証制度における福祉受給者は、(1)疾病や何らかのハンディキャップのためにそもそも就労する事が出来ないか、もしくは就労する意思を持っていながら失業などのため、現在就労していない旨を証明しなければならない(ワークテストの存在)、(2)国からの受給に値するほどに、十分な所得の源泉を持たない旨を証明しなければならない(資力調査の存在)、(3)受給に値するか、また仮に値するとしてもどの程度の受給に値するかは、その個人の属する家計構成、及び、その個人の居住地域の特性(大都市圏エリアか、地方都市圏か、過疎地かなど)に依存して決定される。
また「基本所得」は、ミルトン・フリードマンなどが提唱したいわゆる「負の所得税(negative income tax)」とも、主にその手続き的性格において違いがある、とされる。すなわち、第一に、「基本所得」においては一定の所得が全ての個人に事前に与えられ、その上に各自が自由に所得を増やすべく経済活動をする事が可能であると考えられるのに対して、負の所得税は勤労所得額が一定以下の場合に限って事後的に給付される。第二に資力調査の実施を伴う負の所得税に比して、「基本所得」政策はその行政的執行費用の面で安上がりである事が期待され、ひいては給付の維持可能な水準がより高くなる事が期待される。
「基本所得」制のもう一つの特性はその財源を、第一次的に土地などの外的資源に求めている点である。[10] ここでいう外的資源には、ロック主義的リバータリアンが原始的領有の対象として考えていた自然物としての外的資源のみならず、人間の媒介を経た生産財である資産や資本なども含まれる。先行世代によって生み出された富はすべて共有の遺産として、現行世代によってその価値を均等にシェアされるべきものとみなされる。かくして、「基本所得」制のエッセンスは、外的資源が経済的活動を通じてもたらすレントを第一次的財源とし、安全保障と自己所有権の確保という制約の下で、もっとも不遇な個人の機会集合を最大化するように――より精確には、レキシミン基準に基いて――基本所得を配分することとして定義される。
次節では、「基本所得」を具体化する資源配分システムを定式化する作業を通じて、その規範的特性を解明していきたい。以下では、そのような作業に先立って2つの点を注記しておこう。第一は、個々人の機会集合をいかにして定義したらよいか、その大きさをいかにして比較評価したらよいかという問題である。これについては個々人のスキルに格差がない場合とある場合を区別しつつ考察することが必要となるだろう。第二は、外的資源のもたらすレントに加えて、賃金所得への課税による財源確保を付加する場合には、はたしてどのような配慮が必要となるかという問題である。
第一の問題に関しては、ヴァン・パレースは機会集合をいわゆる個人の予算集合として考えている。[11] もちろん予算集合は、市場価格の変化に応じて可変的であるが、パレースは競争均衡価格で定義される予算集合をもって、個人の機会集合を定義している。その上で、いかなる機会集合の賦与の仕方が、先述したリアル・リバータリアンの3条件に整合的でありうるか?この問いに答えるにあたって、ヴァン・パレースはまず、個人間での才能や労働技能の違いがほとんど問題にならないような状況を想定する。そしてそのような想定の下では、全ての個人が外的資源の生産的利用から得る経済的レントを均等に分け合う初期賦存状態の達成こそ、実質的自由の機会集合のレキシミン分配を意味すると主張する。彼の主張の正当性は、厚生経済学における衡平配分理論で論じられる「無羨望基準」(Foley (1967))――どの個人も他者の分配分を自己のそれよりも高く評価する事がないような配分こそ望ましい――を介して以下のように説明される。すなわち、個人間での才能や労働技能の違いが問題とならない状況下では、全ての個人が外的資源の生産的利用から得る経済的レントを均等に分け合う初期賦存状態は無羨望基準を満たし、また、そのような初期賦存状態の下で実現される競争均衡配分はパレート効率性と無羨望基準双方を満たす。もっとも、パレート効率性と無羨望基準双方を満たす資源配分は、必ずしも外的資源の経済的価値の均等なシェアを前提しなくても達成しえるように思える。しかし、各個人の効用関数の連続微分可能か仮定されているラージ・エコノミーの下では、パレート効率性と無羨望基準双方を満たす資源配分は、外的資源の経済的価値の均等なシェアの下で達成される競争均衡配分だけである事も確証されている。[12]
それに対して、個人間での才能や労働技能の違いがある下では、外的資源の経済的価値の均等なシェアのみでは、才能や技能などの内的資源の賦存において不遇な境遇にある個人を補償するのに不十分であることが予想される。この点に関して、ヴァン・パレースはドゥオーキンの「資源の平等」論における「責任と補償」の観点に依拠しながら、個人の責任要因とは言い難い内的資源に関する不遇は、外的資源のより多い賦与によって補償されるべきであると主張している。ただし、その具体的な方法に関しては、ドゥオーキンの「仮想的保険市場」メカニズムを採用せず、代わりに「非支配的多様性(Undominated Diversity)」という基準を定式化した上で、それを満たすような配分方法を要請している。[13] 「非支配的多様性(Undominated Diversity)」とは、各個人に賦与する内的資源と外的資源の組み合わせ (「包括的資源(comprehensive resources)」と呼ばれる) に関する社会的ランキングの公理として定義される。すなわち、ある初期賦存に関して、全ての社会構成員が一致して、ある個人の初期賦存状態よりも他の個人のそれの方を強く選好するのであれば、この初期賦存は不公正な分配であると判断される。逆に、上記のような状況が起こらない限り、この初期賦存は公正な分配であると判断される。
続いて第二の論点に移ろう。上記の議論は、基本所得の財源が労働以外の外的資源――土地、資本財など――から得る経済的レントから構成されるケースに限定されていた。たが、そもそもこうした財源だけで、実質的自由の経済的裏づけとして十分な一人当たり所得額を保証できるのだろうか。おそろく、労働以外の外的資源がもたらす経済的レントだけでは基本所得制度の財源として不十分であるような経済環境の下では、賃金所得への課税による財源確保を考えざるを得ないであろう。だが、はたしてそのような課税はどのような論理によって正当化されるであろうか?このようなケースに関してヴァン・パレースは、就労をもレントの発生する外的資源と位置づけ、課税によってそのレントに相当する部分を社会的な共有物としてシェアする事によって、基本所得の追加的財源を確保しようと試みている。[14] 以下ではこの問題に関する本稿の立場について簡単に言及したい。
「基本所得」制に賃金に課税する政策体系を導入する場合は、労働以外の外的資源のもたらす経済的レントだけを財源とする場合に比して、その経済的パフォーマンスについてより注意深い取り扱いを要するであろう。後者の場合、基本所得の配分は外的資源の初期賦存配分の設定の性格を持っており、構成員はその初期賦存を出発点にして、市場における経済活動に参加することによって、賃金所得を上積みする事が可能である。この点に関しては、個人間の労働スキルに格差が無い場合でもある場合でも、変わりがない。労働スキルに格差が無い場合は、外的資源のもたらすレントが単純に均等に配分される。労働スキルに格差がある場合は、非支配的多様性基準を満たすような市場的資源配分の実現可能性を読み込んだうえで、それとの整合性を図りながら、外的資源のもたらすレントが補償的に配分されることになる。
以上のような基本所得制度は、それがいわゆる外部性の無い完全競争市場を前提にし、そこでの競争均衡配分を事後的な資源配分の実現と見なす限り、ファースト・ベストの資源配分ルールとしての特性を持つと言ってよいであろう。基本所得配分+競争均衡配分の実現は、パレート効率性と無羨望衡平基準、ないしは非支配的多様性基準の実現を意味するからである。それに対して、賃金課税をも基本所得制度の財源とする場合には、市場的取引後の労働所得への課税を伴う点で、資源配分ルールとしての規範的特性に違いが出てくることが予想される。このケースにおいて考慮しなければならないのは、各個人が自己の労働スキルを過少申告するかもしれないという、いわゆる「誘因両立性(Incentive compatibitiy)」問題であり、この問題をクリアするような税制度の設計可能性である。
この点に関して、ヴァン・パレースは賃金率に対して一律に一定の割合で税を課すような線形的比例税を提唱している。はたしてそれがいかなる経済的パフォーマンスを発揮しうるかについては、慎重な分析を要するであろう。線形的比例税の導入が、個々人に自己の労働スキルを過少申告する誘因を与え、事後的な資源配分に変化を与える事が予想されるのであれば、こうした税制を伴う基本所得制度+完全競争的市場メカニズムは資源配分ルールとしてはセカンド・ベストの性格を有するに過ぎないという議論が成り立つことになる。この問題に関する詳細な検討は別稿に譲るとして、ここでは、基本所得の財源を何にするかに伴って考慮すべき問題が変わりうる点を確認し、外的資源を財源とするケースに関して具体的な分析作業に移りたい。
3.「基本所得」制の資源配分メカニズム:ファースト・ベスト・アプローチ
以下では、前章までに議論されてきたヴァン・パレース自身による「基本所得」制度の規範理論的基礎付けに基づいて、彼のリアル・リバータリアンの条件を満たすような資源配分メカニズムの可能性とその特性について見ていきたい。ここで考える経済環境は以下の様なものである。
生産技術を全員で共有し、各個人が労働を提供する事で協同である財を産出する社会を考える。この社会における個人の全体集合を有限集合とし、#=とする。この社会における一つの労働スキルのプロファイルを:=で記述する事にする。は任意の個人の消費に関する選好順序を意味し、その定義域である消費空間は:=である。ここで、空間は、任意の個人の選択可能な労働時間の集合を意味し、は全ての個人に共通に与えられている、選択可能な労働時間の上限である。他方、空間は、生産された財の消費空間を表す。任意の個人の消費ベクトルは一般に、=によって記述される。上の選好順序は、労働時間に対して単調減少、生産される財の消費に対して強単調増加であると仮定される。その様な性質を共有する選好順序のプロファイル:=が一つ与えられている。選好順序の強選好部分をで、及びその無差別選好部分をで表す事にする。この社会で共有される生産技術は生産関数
: 但し、, =
で表され、このは強単調増加な凹関数であるとする。かくして、一つの経済環境は:=として定義され、その許容なクラスをで表す事にする。
ある経済環境=の下での実行可能配分は消費ベクトルの組み合わせ:==であって、を満たすものである。環境の下での実行可能配分の集合をで記す事にする。また、資源配分ルールは対応であって、これは各経済環境に対して、実行可能配分の非空部分集合を割り当てるものである。
以上の経済モデルにおいては、個人の内的資源のプロファイルは、労働スキルのプロファイル:=として体現されている。また、外的資源としての土地は生産関数として表現されており、それへの所有権は、いわゆる利潤請求権として定式化されるであろう。
3.1. 内的資源の格差が無い社会の下での「基本所得」制度による資源配分
まず、ヴァン・パレースの議論に則り、内的資源の格差の無い社会で議論してみよう。その場合、労働スキルのプロファイルは例えば、全員1の値を持つスキルをもっている状況として想定される。他方、外的資源である生産関数は公的所有の下にあり、その生産的利用の成果価値は均等にシェアされるものと想定される。今、この生産関数は十分に高い水準の生産技術力を体現しているものと想定し、社会の協同的生産による利潤の価値額は、全ての個人に生存するに十分な水準の基本所得を保証する財源として十分であると想定する。この状態の下で、もし新古典派的完全競争市場の下での競争均衡配分を想定するならば、そこには就労に関するレントは発生しているとは言えないであろう。第一に、全ての個人は今、同一の労働スキルを持っているので、相対的に優れたスキルの持ち主が労働市場においてその稀少価値を評価されるような状況は生じない。また、労働市場は新古典派的であるので、いわゆる非自発的失業は競争均衡では存在しない。よって失業者にとって就労する事が稀少価値を持つような状況ではない。以上の議論より、この設定の下では、就労に関するレントは発生せず、したがって、社会は基本所得の財源を賃金への課税によって賄う規範的論拠を持たない。さらに、賃金への課税による財源確保抜きでも、生存するに十分な水準だけの基本所得は、社会の利潤収益から賄える状況でもある。
この状況において、形式的自由の2条件の制約下で、機会集合のレキシミン配分をもたらすような外的資源の初期賦存配分はいかなる特性を持つであろうか?ヴァン・パレースは機会集合は競争均衡価格で定義された予算集合によって定義されると、論じているわけであるが、全ての個人の労働スキルが同じである場合には、いかなる価格ベクトルで評価しようとも、対応する予算集合の大きさは、常に各個人の利潤請求権の大きさに比例して決まる事になり、異なる個人間の予算集合は集合の包含関係で完備にランク付けが可能となる。したがって、機会集合に関してもっとも不遇な個人とは、利潤請求権に関してもっとも不遇な個人に他ならず、彼を最大に改善しつつレキシミンに機会集合を賦与するとは、全ての個人の利潤請求権を均等にn等分化する状況に他ならない。同時に全ての個人の利潤請求権を均等化する初期賦存状態から出発した競争均衡配分はパレートかつ無羨望基準を満たす事はすでに前節で紹介したとおりである。したがって、この初期賦存配分は機会集合のレキシミン基準とも、市場での経済取引を通じて最終的に実現される資源配分の無羨望基準をも満たすという点で、全く矛盾は生じない。
以上の議論を踏まえるならば、全ての個人に最大限の基本所得を保証するような資源配分ルールとは、以下のように定義される均等便益解(equal benefit solution: Roemer and Silvestre (1989))に他ならないのである:
定義1 (Roemer and Silvestre (1989)): 資源配分ルールは以下のような性質を持つとき、均等便益解(equal benefit solution)と呼ばれる:任意の経済環境=に対して、である事の必要十分条件は、以下の条件を満たすある効率価格が存在する:
(i) s.t. ;
(ii) , s.t. ,
但し、は賃金率と利潤分配の下での予算集合であり,
。
これは均等初期賦存の下での競争均衡配分を指定する資源配分ルールに他ならない。個人間での労働スキルの違いが存在しない限り、この資源配分ルールが無羨望基準とパレート効率性基準の双方を満たす事は、よく知られた事実である。
「基本所得」制を、個人間の労働スキルが同一な状況での均等便益解としての資源配分ルールと理解される程度においては、ヴァン・パレースが「実質的自由の全構成員への最大限の保証」として定義した規範的諸基準と、その実行制度としての「基本所得」制の間に基本的な齟齬は無いといえよう。均等便益解は第一に、外的資源の生産的活用から得られる経済的レントへの均等なアクセスを保証するような初期賦存状態を「基本所得」政策によって実現した後に、競争均衡配分として実現されるものである。競争メカニズムによる資源配分の決定プロセスを前提にしているという点で、このルールは個々人の労働市場での自由な職業選択と自由な労働パフォーマンスの選択を許容するものであり、それはヴァン・パレースの意味での「自己所有権」の保護という制約条件と完全に両立可能である。さらに、個人間の労働スキルが同一な状況での機会集合のレキシミン配分という条件に関しても、機会集合が競争均衡価格によって定義される予算集合であるならば、経済的レントへの均等なアクセスを保証する初期賦存状態の実現は明らかにレキシミン配分に一致する。
3.2. 内的資源に個人間格差がある場合の「基本所得」制度による資源配分
次に、内的資源の格差のある社会で議論してみよう。前節と同様、外的資源である生
産関数は公的所有の下にあり、この生産関数は十分に高い水準の生産技術力を体現しているものと想定する。つまり、社会の協同的生産による利潤の価値額は、全ての個人に生存するに十分な水準の基本所得を保証する財源として十分であると想定する。しかし、内的資源である労働スキルに格差があるため、均等な利潤請求権の下での競争均衡配分では、一般に無羨望基準を満たさない。のみならず、このような経済環境では一般に無羨望基準とパレート効率性基準が両立しない(Pazner and Schmeidler (1974))事が知られているから、そもそも内的資源に格差がない経済環境での資源配分の基準とは別の取り扱いが要請される。すでに2.2節でも言及したように、このような経済環境での資源配分の基準としてヴァン・パレースは「非支配的多様性」基準を提起している。以下では、この「非支配的多様性」基準を資源配分ルールの1公理として定式化し、その基準とパレート効率性基準を満たすような資源配分ルールの可能性について議論する。
利潤請求権のプロファイルを一般にで表すとしよう。ただしこのとき、である。このとき、経済環境=の下で利潤請求権のプロファイルがであるならば、この社会の包括的初期賦存分配はプロファイルで記述される。このとき、包括的初期賦存分配はプロファイルの下で実現される一つの競争均衡配分と対応する競争均衡価格を、それぞれとであるとしよう。今、各個人の選好順序を表す効用関数を、またそれに対応して定義される間接効用関数をで表せば、この競争均衡価格の下での間接効用関数の値はによって定義される。ここで間接効用値のうち、はこの協同生産経済の下での効率的生産点に関する情報、さらにこの経済全体での総利潤量に関する情報を与える。他方、は個人の直面する価格情報であり、また、はが経済全体での総利潤量に関する情報を与える状況下で個人の獲得できる利潤量に関する情報を与える。よって、プロファイルから個人の予算集合が以下のように確定できる:
,
但し、.
この予算集合内での個人の効用最大化を実現する消費ベクトルがに他ならない。このとき:
定義2: 任意の経済環境=の下で、包括的初期賦存分配が 非支配的多様性 (Undominated Diversity)を満たすのは、この経済環境と初期賦存の下で存在する任意の競争均衡価格 の下で、以下の条件が満たされるときである:
, , .
以上の定義は、完全競争市場の適用を前提した場合の、完全競争配分の実現に先立って確定されているべき個々人の利潤請求権のあり方に関する基準である。[15] 利潤請求権に関するこのような規範的基準を導入する前提として、ここでは、個々人の利潤請求権とは社会にとってパラメーターと見なされる個々人の私的所有の対象ではなく、いわば社会の政策変数である状況を想定しているのである。
利潤請求権に関するこの非支配的多様性に対応して、以下、資源配分ルールに関する公理を新たに導入する。価格において、労働スキルがである個人が消費ベクトルを賦与されている場合の彼の予算集合を
で表す事にする。ここで、消費に関する選好順序で評価した、予算集合上での効用最大化解(の集合)をで表す事にする。このとき:
非支配的多様性 (UD): 任意の経済環境=, 及び任意のに関して、もしがにおけるパレート効率配分であるならば、を支持するある効率価格の下で以下が成立する:
, , .
この公理は、無羨望基準よりははるかに弱い条件である。また、この公理と定義2との関係は以下のように説明される:もし配分ルールの指定するある実行可能配分がパレート効率である場合、対応する効率価格が存在する。その効率価格と各個人の労働スキル・プロファイルと配分によって、各個人の予算集合が定義できる。選好の強単調増加性より、パレート効率的配分において、各個人の消費ベクトルは価格における予算集合内での効用最大化解に相当する事を確認できる。今、予算集合のプロファイルの情報より、以下のような性質を満たすある利潤請求権プロファイルを確定できる:
. (*)
配分ルールの指定したパレート効率的配分の背景にある利潤請求権プロファイルによって定義される予算集合プロファイルから、配分の間接効用値プロファイルが確定される。その結果、の成立との成立とは同値であることを確認できるだろう。
上記の公理UDを満たすようなパレート効率的資源配分ルールとして、例えば以下のようなルールがある。
定義3 (Fleurbaey and Maniquet (1996)):配分ルールは以下の様な性質を満たす:
=,, (1)はにおけるパレート効率配分である;
(2)
, s.t. 価格は環境において配分を支持する効率価格,
& , ,
但し、は関数:=によって表現されており、
& はを以下の様にして表現するものである:
= or .
上記の定義中の、各個人の選好順序を実数値関数表現するの定義に関して、説明しておこう。もし個人にとって、消費ベクトルがであるときには、ある正の値に関して、となる。この正の値を彼のに関する効用水準と定義する。他方、もし個人にとって、消費ベクトルがであるときには、ある負の値に関して、となる。その場合、この消費ベクトルに関するこの個人の効用水準を負値で表すものと定めるのである。このような効用関数の定義の仕方は選好順序の強単調性と整合的である。このように各消費ベクトルごとに各個人の効用水準は=で決まり、集合に関して最小なを選好の消費ベクトルに関する評価を表すものと定める。
このようなの定義の仕方は、ここで考察している強単調、連続かつ凸な選好順序の性質を満たす事を確認できる。それは、が現存の経済環境における選好順序プロファイル内のある個人の選好順序に一致する事から従う。実際、そうでない場合にはとなるような二つの消費ベクトルとに関して、それぞれ二人の個人が存在して、でありながらかつとなる状況が成立しうる。これは同時にかつを意味するが、そのときにはのいずれかの無差別曲線が消費ベクトルとに関してクロスするケースを生み出してしまう。
以上より、は現存の経済環境における選好順序プロファイル内で、最も労働の不効用の強いという意味で最も怠慢な個人の選好に一致して定義される。その結果、配分ルールとは、この社会の各経済環境において、もっとも怠慢な個人の間接効用関数で評価して全ての個人の消費ベクトルは互いに無差別であるようなパレート効率的配分を指定するルールである事が解る。このルールが公理UDを満たす事は以上の考察より明らかであろう。また、配分ルールがwell-definedであることも、[Fleurbaey and
Maniquet (1996); A.1.]の結果の系として確認できる。
以上の配分ルールはの選出に依存して定義されるが、しかしは必ずしも最も労働の不効用の強い個人の選好順序として選出される必要はない。つまり、:=である必要はなく、:=として、つまり労働不効用のもっとも弱い個人の選好順序として選出してもやはりルールのwell-definedであることも確認できるし、また、公理UDを満たす点も変わりがない。以上のルールは、人の個人から、その労働の不効用の強さの度合いに応じて参照選好順序を選抜し、全ての個人の予算集合がその参照選好順序の間接効用関数で評価して無差別となるパレート効率的配分を指定する特性を持つ。
しかし、上記の配分ルールの場合、個々人の選好順序のプロファイルが変化すると、一般に、参照選好順序の持ち主として選抜される個人も変わる性質を持っている。そのようなルールはその遂行に際して個々人の選好順序に関するより詳細な情報を必要とするという複雑性を持ってしまう。他方、個々人の選好順序のプロファイルとは独立に、ある個人の選好順序を参照選好として一意に選抜し続ける方法も可能である。その場合の選抜の基準は何らかの客観的な指標を用いたものとして考えられる。例えば:
定義4: 配分ルールは以下の様な性質を満たすものとする: =, , (1)はにおけるパレート効率配分である;
(2)
, s.t. 価格は環境において配分を支持する効率価格,
& , ,
但し、 where .
この配分ルールの場合、参照選好順序として選抜される個人は、選好順序プロファイルが変化しても変わりなく、労働スキルが最小の個人である。配分ルールが公理UDを満たすパレート効率的配分を指定するルールとしてwell-definedであることも、[Fleurbaey and Maniquet (1996); A.1.]の結果の系として確認できる。
配分ルールやに代表される上記のようなルールの下では、相対的により低い労働スキルの個人は、結果的に相対的により大きいシェアの利潤請求権が賦与された下で競争均衡配分として実現可能となるような消費ベクトルを享受できる。その意味で労働スキルの相対的に劣る個人は外的資源からのレントのより大きいシェアによって補償されるような資源配分が実行されている。さらに、このような配分は、機会集合のレキシミン配分というヴァン・パレースの第三の条件とも整合的である。なぜならばその配分の下では、対応する包括的初期賦存は定義2の非支配的多様性を満たす。それは、その配分に対応する個々人の予算集合の比較において、集合的包含関係による優劣関係が生じない事をも意味する。つまり、以下の公理を満たすのである:
集合包含的非支配性(Set-inclusion Undomination)
(SIU): =, ,, s.t. 価格は環境において配分を支持する効率価格, & ,
s.t. & , .
3.3. 内的資源に個人間格差がある場合の「基本所得」制度による資源配分の遂行可能性問題
前節で議論された資源配分ルールは公理UD(非支配的多様性)を満たすパレート効率的配分を指定するという点で、配分方法として優れた性能を持っていることが確認された。しかしそれが「基本所得」制度を体現するルールである以上、それは「基本所得」制度が持つべき遂行手続き面でのシンプルさという性能をも備えるべきだと考えられる。だが、はたして、配分方法として優れた性能をもつことと遂行手続きに関して優れた性能をもつことは両立可能だろうか。本節では、「基本所得」制度の遂行手続き上の性能を分析する。
ヴァン・パレースのシナリオに基づけば、「基本所得」制度の遂行手続きは以下のように記述される。第一に、外的資源のもたらす経済レントの請求権(利潤請求権)に関して、社会(政府)による個々人への賦与がなされる。第二に、賦与された利潤請求権を所与として個々人は市場に参加し、完全競争市場の下で資源配分が競争均衡配分として決定される。ここで考察すべき問題は、第一のプロセスにある。パレースは資産調査など私的情報を収集する必要性のないことを「基本所得」制のメリットとして挙げていた。だが、はたして社会はいっさいの私的情報から独立に、利潤請求権を賦与することができるのだろうか?
この問いに対して、労働スキルの相違を考慮せざるを得ない場面においては、一般的に困難であることが予想される。例えば、前節で構成した資源配分ルールは、最終的な競争均衡配分において、対応する個々人の予算集合プロファイルが非支配的多様性の基準(定義2)を満たすことを要求するものだった。社会(政府)は、利潤請求権のプロファイルを賦与するに当たって、この点に配慮しなくてはならない。ところで、前節で明らかになったように、非支配的多様性の基準を満たすような利潤請求権のプロファイルは、経済環境の特性――個々人の消費に関する選好順序や労働スキルなど――に依存して可変的である。そうだとしたら、利潤請求権を適切な形で賦与しようとする限り、社会(政府)は、個々人の消費に関する選好や労働スキルなどの私的情報を集計しなくてはならないことになる。だが、はたして個々人は社会(政府)に私的情報を正しく表明する誘因をもつのだろうか。
この問題は、「厚生経済学の第二命題」に基づいて、衡平な資源配分を完全競争市場を通じて実行する際に伴う困難さと共通の性格を持っている。[16] すなわち、いわゆる私的情報の表明に関する誘因両立性問題として、厚生経済学では今日、よく知られている問題である。この誘因両立性問題の解決法として、いわゆるナッシュ遂行理論(Maskin (1977))を適用する事が考えられよう。以下で説明するように、ある資源配分ルールがナッシュ均衡として遂行可能であることが確認できれば、非支配的多様性の基準と整合的な利潤請求権プロファイルを分権的かつ誘因両立的に決定可能と考えることができるからである。[17]
今、ゲーム形式が、ペアとして定義される。ここでは各個人の戦略集合の直積であり、他方、は帰結関数である。ゲーム形式と一つの経済環境=が定まると、一つの非協力ゲームが定義できる。その非協力ゲームの純粋ナッシュ均衡戦略の集合を、対応する純粋ナッシュ均衡配分の集合をで記す。このとき、資源配分ルールのナッシュ遂行可能性は以下のように定義される:
定義5 (Maskin (1977)):配分ルールがナッシュ遂行可能であるとは、あるゲーム形式が存在して、=,.
以下の公理は、社会(政府)が個々人の労働スキルの情報を把握している前提の下で、配分ルールがナッシュ遂行可能であるための必要十分条件を与える:
マスキン単調性 (MM)(Maskin Monotonicity; Maskin (1977)):
=,=,,,
[,].
以下では、公理UDを満たすパレート効率的配分ルールのナッシュ遂行可能性問題を検討する。残念ながら、公理UDを満たすパレート効率的配分ルールでナッシュ遂行可能なものは存在しない。それは以下の分析に基づいている:
一様な選好に対する等しい厚生 (EWUP) (Equal Welfare for Uniform Preference):
=,,[,=][,].
レンマ(Fleurbaey and Maniquet (1996)): 公理MMと公理EWUPを共に満たすパレート効率的配分ルールは存在しない。
今、公理UDを満たす任意のパレート効率的配分ルールを考え、さらに全ての個人の選好順序が同一であるような経済環境を想定してみれば、このルールが公理EWUPを満たす事を容易に確認できる。その結果、上記のレンマより、以下の結論が従う:
命題: 公理UDを満たすパレート効率的配分ルールはナッシュ遂行不可能である。
以上の議論は、労働スキルの異なる経済環境において、ヴァン・パレースの非支配的多様性基準(定義2)を満たす利潤請求権の賦与+完全競争市場から構成される「基本所得」制度の遂行不可能性を意味している。「基本所得」制のアピール・ポイントの一つが、従来の所得再分配政策に比してのその遂行手続きの容易性にあると主張されてきている事を考えれば、この結果は、労働スキルの異なる経済環境における「基本所得」制の規範的基準がヴァン・パレースの非支配的多様性(定義2)によって与えられる限り、従来の「基本所得」制に関する政治学的な、また社会政策学的な主張に対する疑問を提示することになる。
しかしながら、労働スキルの異なる経済環境における「基本所得」制の規範的基準を、ヴァン・パレースの非支配的多様性(定義2)ではなく、本論3.2節で言及した公理SIUに求める場合には、その遂行可能性はまだ残されている。ここで以下のような配分ルールを考えてみよう:
定義6 (Fleurbaey and Maniquet (1996))[18]: をある参照選好順序であるとしよう。このとき、配分ルールが-参照厚生等価予算(-RWEB)(-Reference Welfare Equivalent Budget)であるとは: ,, s.t. 価格は環境において配分を支持する効率価格, & , .
この配分ルールでは、参照選好順序を決定する際に、必ずしもこの社会の個々人の私的消費選好を選抜する必要はない。とりわけ、それは経済環境の変化に対して不変な選好として定義されている。したがって、は、各経済環境において人々が持つ主観的選好順序の情報からは独立に、何らかの客観的な福祉基準に基づいて形成された厚生指標であると解釈する事ができる。
明らかに配分ルールは公理UDを満たさないが故に、それが指定する資源配分は、ヴァン・パレースの非支配的多様性基準に適う利潤請求権を賦与した下での競争均衡配分とは一般に一致しない。しかし、このルールは公理MMを満たす(Fleurbaey and Maniquet (1996))ため、社会が労働スキルの情報を把握する状況では、ナッシュ遂行可能であるという利点を持っている。さらに、このルールは公理SIUを満たす事も確認できる。つまり、このルールが指定する実行可能配分に対応する個々人の予算集合の比較において集合的包含関係による優劣関係が生じないという意味において、機会集合のレキシミン配分というヴァン・パレースの第三の条件とも整合的であると見なす事も可能である。
つまり、機会集合のレキシミン配分というヴァン・パレースの第三の条件の再定義の可能性を追求する事で、「基本所得」政策が遂行可能である状況を作り出せる。実際、ヴァン・パレースのようにある種の「無羨望基準」をパスする資源配分を要請する限り、非支配的多様性基準はその最小限の必要条件として譲歩不可能であるかもしれない。しかし、「無羨望基準」のバリエーションの要請を諦めるならば、機会集合のレキシミン配分の条件と整合的な利潤請求権を賦与できるような配分ルールであって、ナッシュ遂行可能なものが構成可能となるのである。
換言すれば、機会集合のレキシミン配分を決定するための手続きとして必要な、個々人の予算集合の順序付けにおいて使われる厚生指標が、主観的な個人の消費選好順序に基づく指標である場合と、もしくは何らかの客観的な福祉基準に基づいて定義された厚生指標である場合を一般的に考える事ができる。そして、主観的な個人の消費選好順序に基づく厚生指標でもって予算集合のレキシミン配分を賦与するような資源配分ルールは、少なくとも弱い意味での無羨望基準を要請可能とするものの、「基本所得」制度としての遂行手続き的特性とは両立的ではなくなる。他方、客観的な福祉基準に基づいて定義された厚生指標でもって予算集合のレキシミン配分を賦与するような資源配分ルールは、弱い意味での無羨望基準すらパスしないが、「基本所得」制度としての遂行手続き的特性とは両立可能性を維持できるのである。
以上の議論は社会(政府)が個々人の労働スキルの情報を把握しているものの、消費に関する選好順序の情報を把握していない状況での遂行問題に関してであった。ここで、もし社会(政府)が個々人の労働スキルの情報をも把握していない状況を考えれば、問題は一層深刻である。予算集合のレキシミン配分は、一般によりスキルの低い個人により多くの利潤請求権を賦与する為、一般に個々人は労働スキルの過少申告をする誘因を持つと言える。この種の誘因問題が存在する下でのナッシュ遂行可能性問題は、山田&吉原(2004)によって議論されている。そこではゲーム形式のクラスを、各個人の戦略は自分の労働スキルと産出財への需要の表明、及び労働時間の選択からなり、対して帰結関数は産出財の実行可能な分配を割り当てるようなシェアリング・メカニズムのクラスに限定して議論している。そして、シェアリング・メカニズムによってナッシュ遂行可能となる配分ルールの必要条件の一つとして、以下の公理が提示されている:
不利用の労働スキル変化からの独立性(USI): =, =, , [ (); & はの下でパレート効率的] .
残念ながら配分ルールすらこの公理USIを満たさない。シェアリング・メカニズムは比較的シンプルでかつ生産経済における配分ルールの遂行メカニズムとして自然な構造を持っているから、そのようなメカニズムによってナッシュ遂行できないという事は、労働スキルが非観察的な私的情報である場合の予算集合のレキシミン配分を要請する「基本所得」制の遂行問題についてのより深刻な困難性を意味しよう。
もっとも、労働スキルが完全な私的情報であるという想定は、消費選好順序が私的情報であるという想定ほどには説得的ではない。なぜならば、我々は学歴や職歴など、様々な客観的に観察可能な個々人のデータから、彼らの労働市場におけるスキル水準の情報をある程度、把握可能である。つまり、ある個人がより多くの利潤請求権を確保しようと、労働スキルの過少申告をしようとも、それは彼の学歴や職歴、及び労働市場における彼の賃金などの情報からその偽性が立証可能である。そう考えられる限りにおいて、「基本所得」制の遂行問題は、選好順序の私的情報問題の解決を考慮するだけでも十分であるとも言える。
4.結びに代えて
以上、本稿では、「リアル・リバータリアン」の立場に立つヴァン・パレースの「基本所得」構想を、資源配分メカニズムとして定式化することが試みられた。定式化の方法は、経済学で公理的アプローチと呼ばれるものである。すなわち、構想の基礎にある観念をいくつかの公理の組み合わせとして再定義したうえで、それらをみたす資源配分メカニズムの構成可能性を問うというものである。以下では本稿で得られた結論の意義と今後の課題を確認して結びに代えたい。
従来、「基本所得」は、一定額の所得が全ての個人に事前に与えられ、そのもとに、各自が市場活動を通じて所得を上乗せできるような仕組みとして記述されてきた。だが、この記述にはいくつかの曖昧さが含まれている。第一に、「事前」という語は、勤労所得額が一定以下の場合に事後的に給付される負の所得税との区別としても用いられているが、「事前」か「事後」かという区別は本質的ではないことは経済学では周知の事柄である。1期で終わる活動ならばいざ知らず、継続的な経済活動がなされる状況であるならば、人々は課税も含めた事後的な純所得(事前に給付された所得+賃金所得―課税)を予測しながら、事前的な経済活動のあり方を決めるであろう。他方、人々の行動に先立って資源配分ルールを設計する際には、ルールのありようそれ自体も変数としながら経済活動を行う個々人の行動を予測することが不可避となるだろう。第二に、ここでは実行可能性の問題が考慮されていない。一定額の所得を全ての個人に給付するためには、社会全体でプーリングされた資源を必要とする。だが、人々の経済活動に依存して資源の総額が変動する状況においては、あらかじめ決められた一定額の所得をすべての個人に給付するための資源が常にプーリングされる保証はない。実行可能性を保証するためには、人々の自発的な経済活動と連動した形で、給付される所得総額が決定される仕組みを構成する必要があるだろう。
それに対して、本稿が構成した「基本所得」制度は、次のような特徴をもつ。1)労働以外の生産要素、例えば、土地や資本、資産が経済活動を通じてもたらすレントを基本的な財源とする。2)自己所有権の確保、全ての個人の形式的自由の保護という制約の下で、レキシミン基準に基づく機会集合の平等化がなされる。ただし、個々人の機会集合は競争均衡価格で定まる個々人の賃金率とレントの請求権をもって定義される。個々人のスキルに格差がない場合、競争均衡価格で定まる賃金率は個人間で差がないので、レントを均等に配分すれば、個々人の機会集合は平等化される。それに対して、個々人のスキルに格差がある場合には、競争均衡価格で定まる賃金率はスキルに応じて異なるために、レントを均等に配分するだけでは機会集合の平等化は実現されない。通常は、より高いスキルをもった個人の機会集合により低いスキルをもった個人の機会集合が包含されることになる。この場合に、両者の機会集合を平等化するためには、より低いスキルをもった個人により多くのレントを配分する必要がある。はたしてどの位の格差をつけたらよいのだろうか。この問いに対するヴァン・パレースの答えが「非支配的多様性」基準であった。
以下では、このようにして構成された「基本所得」制度の性質について2点、注記したい。第一は、就労インセンティブに関連する問題である。基本所得に対しては、労働能力の活用のみならず、労働する意欲の有無からも独立に一定額の所得が支給されるとしたら、人々は労働意欲を喪失するのではないかという批判がしばしば寄せられる。だが、本稿で定式化した基本所得システムのもとでは、個人間でスキルに格差がない場合、ある場合のいずれにおいても、均衡配分においてはパレート効率性が実現していること、すなわち、個々人の選択した労働時間と所得の組み合わせが効率的であることを意味している。このような状況に対して、就労インセンティブの観点は、例えば、ある個人の効用の低下とひきかえに、労働時間の増加――総労働時間の増加あるいは“標準労働時間”以上就労する個人の増加――を要求するのだろうか?
第二は、平等化の基準に関連する問題である。本稿で構成したシステムは、所得の実現そのものではなく、所得の実現に関する機会集合に着目することに加えて、機会集合の「一定水準の保証」ではなく、「最小の機会集合の最大化」を要請する点に特徴があった。後者の要請は、最小の機会集合をもつ個人に着目するという意味でまた、より本質的には、いずれの個人の間にも機会集合に関する包含関係が生じないという意味で、より強い平等基準であるといえる。ここでは、その規範的意味ではなく、実行可能性という観点から、両者の性能を比較したい。はじめに、すべての個人に対して一定水準の保証をなすことは、最小の機会集合を一定水準以上にすることと同値である点を確認しておこう。従って、最小の機会集合が定められた一定水準を下回るとしたら、それは即、その水準が実行不可能な水準であったことを意味する。つまり、一定水準の保証額を予め定めることは、最小の機会集合の水準を予め定めることに帰着する。ところで、上述したように、人々の経済活動の自律性を前提としたうえで、資源配分の実行可能性が保証されるためには、総額と連動して変化しうるように水準を定義する必要がある。「最小の機会集合の最大化」という要請は資源配分の実行可能性を常に保証する方法の1つに他ならない。
最後に残された課題を確認して結びに代えよう。本稿で構成された基本所得的資源配分ルールは、いわゆる外部性の無い完全競争市場を前提にし、外的資源の経済的レントへの請求権の適切な賦与の後にそこで実現された競争均衡配分を「基本所得が保証された資源配分」と見なす点で、いわばファースト・ベストの解法として位置づけられる。だが、「基本所得」論の現実的実行(practical implementation)問題を考慮する際には、ファースト・ベストとしての資源配分ルールではなく、セカンドベストとしての租税ルールを考えざるを得ないであろう。ここから次の2つの課題が浮上する。第一に、様々な市場の不完全性を考慮するとき、はたしていかなる租税ルールが適切であると考えられるだろうか、それは、ファースト・ベストの資源配分ルールと比較して、いかなる難点を抱える事になるだろうか。第二に、経済のグローバル化が進行している現代社会においては、いわゆる「資本逃避」の問題を避けられない。国際間での資本・労働移動の可能性を踏まえたうえで、すべての個人に基本所得を保証する為には、はたしていかなる広がりをもった協調的規制の仕組みを用意すべきだろうか。これらはいずれも今後の課題として残される。
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[1] 近年の福祉国家の危機の社会的・経済的背景ならびにその歴史的経緯についての明快なサーベイは、新川敏光(2004a)において与えられている。また、「新しい福祉国家」路線の特徴として挙げられる「ワークフェア」や「積極的労働政策」等の欧米における展開のサーベイとして、宮本太郎(2004)が有益である。
[2] 例えば、上掲の塩野谷・鈴村・後藤編(2004)や斉藤編(2004)などが、このテーマに関連する最新の研究成果の一部である。
[3] 「基本所得」構想は、これらの問題に対して事前的、一律的に対処する点に特徴があると言われる。
[4] Van Prijs, 1995
[5] Offe, 1992
[6] ヴァン・パレースの「基本所得」制に関する邦文献内での先駆的紹介論文としては松井暁(1999)が挙げられよう。他に、近年の著作としては、新川敏光(2004)が挙げられる。
[7] Van Prijs, P. (1995;Chapter
1)。
[8] Van Prijs, P. (1992) p.16を参照の事。
[9] Van Prijs, P. (1995;Chapter 1)。
[10] Van Prijs, P. (1992) p.13を参照の事。
[11] Van Prijs, P. (1995;Section 2.6)。
[12] Champsaur, P. and
Laroque, G. (1981) を参照の事。
[13] Van Prijs, P. (1995;Chapter 3)。「非支配的多様性(Undominated Diversity)」基準はAckerman (1980)に由来する概念であり、パレースはその概念を拡張しつつ定式化している。
[14] Van Prijs, P. (1995;Chapter 4)。また、新川敏光(2004)が、この問題に関するヴァン・パレースの議論も含めた様々な研究者による論争についての簡潔なサーベイを与えている。
[15] 我々は本論2章で、ヴァン・パレースが提起した労働スキルの異なる経済環境に適用される包括的初期賦存分配に関する「非支配的多様性」基準とは、上記の定義2によってこそ、定式化されると考える。ヴァン・パレース自身はVan Prijs, P. (1995;Chapter 4;Appendix 3)において非支配的多様性に関する一つの定式を与えているが、そこでは包括的初期賦存に関する個々人の評価を表す選好順序が如何様に定義されるかについては言及していない。しかし、労働スキルの同一な経済環境の場合での彼の議論に基づけば、その選好順序は包括的初期賦存と競争均衡価格によって決定される間接効用関数によって表現されるものと考えるのが自然であると思われる。
[16] こうした困難は、労働スキルに個人間格差が存在しない経済環境で均等便益解を遂行する社会においては生じない。そこでは、利潤請求権は経済環境の変化如何に関わらず、全ての個人に均等に賦与すれば十分であるからだ。
[17] ここで通常の議論との違いに注意すべきである。通常、配分ルールがナッシュ遂行可能であることは、ある分権的意思決定メカニズム(ゲーム形式)が存在して、そのメカニズムの下でのナッシュ均衡配分がルールの指定する資源配分に一致することを意味する。他方、ここでは配分ルールの遂行プロセスは利潤請求権の賦与+完全競争市場として考えられており、ナッシュ遂行するための分権的なメカニズムの構成が要請されるのは利潤請求権の賦与のプロセスである。もっとも、配分ルールが指定する最終的資源配分をナッシュ均衡で遂行するメカニズムの存在が保証されれば、そのルールの利潤請求権の賦与プロセスだけを遂行するメカニズムの構成は比較的容易である。それゆえ、以下では、もっぱら公理UDを満たすパレート効率的配分ルールのナッシュ遂行可能性問題に焦点を当てて議論する。
[18] ここで定義される配分ルールと定義3のルールに関して、ドゥオーキンの「責任と補償」論の観点からの公理的特徴づけをFleurbaey and Maniquet (1996)が行っている。「責任と補償」論の観点からの公理的資源配分理論についてのサーベイ論文としては、吉原(2003)を参照せよ。