『マルクスの使い道』(稲葉振一郎・松尾匡・吉原直毅)の出版、近し[1]

 

吉原直毅

一橋大学経済研究所

 

2006219

 

 

 

1. イントロダクション

一部で秘かに注目されていたらしい稲葉振一郎・松尾匡・吉原直毅の3人による座談会本『マルクス経済学の逆襲(仮題)』が、『マルクスの使い道』という正式なタイトルの下に、ついに出版への最終段階に入った。当初の予定通り、2月末から3月初旬の間に、書店の書棚に積まれることになろう。帯タイトルが人文系ヘタレ中流インテリのためのマルクス再入門」となるようだが、この本はまさに寝る前にベッドで寝転がりながら読むのにちょうど良いような「ポップ」な娯楽本であって、その意味では入門レベルの教科書ですらない、という体裁を整えて発売されるようだ。そこら辺は、稲葉さんの趣味や出版社のそろばん勘定が働いた結果であろうから、私自身はあまり突っ込む気はない。少なくとも、「研究業績」のリストには載せるべきではない、「その他」カテゴリーの著書扱いしかし得ないものだろうから。

本の構成を紹介すると以下のようになる:

 

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『マルクスの使い道』 稲葉振一郎・松尾匡・吉原直毅

 

はじめに       稲葉振一郎

 

第一章 『解体と再生』その後

 マルクスへの新たな一歩

 反経済学は経済学ではない

 ヘタレ・インテリの迷走

 マルクスからの逃走

 塩沢流新古典派批判の精度

 新古典派は過度にヒューマニスティック!?

 ポスト・ケインジアンとスラッフィアン

 アナリテ

ィカル・マルキストのつくり方

 ラディカルズの問題意識

 

第二章 搾取と不平等

 搾取理論を捨てたローマー

 貧乏人は労働者になるのが利潤最大化

 生産のポリティックス

 「マルクスの基本定理」の核心

 搾取のパラドックス

 ワーカホリックな資本家とレイジーな労働者

 定理の頑健性とモデル

 レトリックとしての労働価値説

 マルクス主義が労働搾取に関心を寄せる四つの理由

 搾取理論から分配的正義へ

 ローマーとボールズ&ギンタスの論争

 「資源の平等」と「機会の平等」

 

第三章 公正と正義

 正統派マルクス主義批判としての政治主義

 搾取なきあとの変革へのモチベーション

 「気合いと根性」から科学へ

 社会主義の失敗からの教訓

 ローマーの市場社会主義モデル

 アナリティカル・マルキシズム=現代リベラリスム

 帰結主義と非帰結主義

 フェアネスとは何か

 

『たたかいの朝(ルビ・あした)』   吉原直毅

 

下からの計画経済           松尾匡

 

マルクス主義者たちへの宿題      稲葉振一郎

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以下、簡単に話の流れを説明しつつ、適宜、著書の中では触れられずにいた、私自身のより踏み込んだ論点についていくつか展開していくこととしたい。

 

2. 第一章について

第一章では、主に理論史・思想史のお話と方法論についての対談となっている。ここでは、3人とも科学的方法としての方法論的個人主義を擁護し、その手法に基づいて分析体系を構築している新古典派経済学を擁護する論陣を張っている。とりわけ、方法論的個人主義に批判的な立場であるいわゆるアンチ新古典派(ポスト・ケインジアン経済学やスラッフィアン経済学などに代表される)、及び近年の反経済学の社会科学的潮流に対しては、徹底した「駄目出し」宣告の鉄槌を下すことになる。このような論陣を張る3人のそれぞれのバックグラウンドは、しかしながら、微妙に異なっている事も紹介される。

稲葉は伝統的な宇野派系マルクス主義的実証研究(社会政策)から出発し、その後、社会思想や社会倫理学の分野で活動してきた経歴を持ち、非新古典派経済学的なバックグラウンドの持ち主ながら、最近は自己批判の意図をも含めた非新古典派経済学的な社会理論や経済理論を批判的に総括しつつ、むしろ新古典派経済学のここ20数年あまりの発展の成果を評価する立場に到っている。

松尾は、伝統的な正統派マルクス主義経済学の教育環境の下でマルクス経済学者として陶冶されてきた人ながら、同時に、新古典派経済学のミクロ理論をマルクス経済理論と両立可能な経済学として、あるいはむしろ数理的分析ツールの開拓という側面では前者を後者のある種の発展系として、矛盾無く了解・吸収してきたという稀な経歴の持ち主である。こうしたバックグラウンドは、大学院時代の師匠である置塩信雄による薫陶の影響もあると思うが、置塩門下生の多くはむしろ反新古典派・正統派系(数理)マルクス経済学の旗印を鮮明にしていたりすることから見れば、やはり極めてユニークな存在といえる。こうした松尾の観点からすれば、反新古典派や反経済学の潮流は反マルクス主義の立場に他ならないことになる。

吉原()は、3人の中では唯一、正統派マルクス経済学のトレーニングと新古典派経済学のトレーニングの双方を受けてきたというバックグラウンドを持っている。また、正統派マルクス経済学から新古典派経済学への研究分野の移行のプロセスでは、ポスト・ケインジアン、スラッフィアン、レギュラシオン学派などの潮流にも出会ってきている。こうした経歴を持つ私の場合、それらの反主流派経済学の問題提起の意義を高く評価しながらも、そうした提起に実際に応えるためのフレームワークを豊饒化させて来ているのは新古典派経済学的手法に基づいた経済理論のみである事を強調し、自らもマルクスの問題提起を高く評価しつつ、そうした提起に応えるための経済理論的研究を新古典派経済学の手法に基づいて行ってきている。

この章は、3人が揃って対談に臨んだ唯一の場面を原稿起こししたものであるが、同時に編集のプロセスで削除された部分が最も多かった章でもある。ケンブリッジ資本論争についての総括や、レギュラシオン学派についての評価、並びに進化論的唯物史観についての言及など、話題的に盛りだくさんなトピックが最終的には削除された。これらは、この本の啓蒙系娯楽本という性格上、内容的に難しすぎるという理由や、議論自体が散漫で解りにくいなどの理由で削除された。これだけの話題の削除にも拘らず、尚、第一章はトピックが十分に豊富であると思う。

また、私自身は、正統派マルクス主義経済学から新古典派経済学への研究分野の移行期に当たる大学院修士課程時代に、自分なりに色々とマルクス派やポスト・ケインズ派と新古典派との位置づけ――それは科学方法論的な観点と思想的・イデオロギー的観点双方に跨るものであったし、こうした位置づけ作業を通じて、各経済学派の事実解明的分析に相当する部分と規範的分析に相当する部分とを区別する必要についても認識を形成していったのであるが――についての整理を試行錯誤してきた結果として、現在の到達した境地というものを、初めて公にする場となった。私の、新古典派的手法を擁護し、反新古典派経済学や反経済学的な社会科学的潮流を批判するスタンスは、決して、後者のスクールが前者のスクールに対して与える批判や代替的ヴィジョンの意義に無理解なところから来るものでも、「異端派」の一括りで無視するところから来るものでもない。むしろそうした反主流的見解や眺望には、一定の意義を認め得るケースも多いと見なしているし、むしろ現代の様々な社会問題に知的関心を持つ一定以上の知的水準を持つ層をして惹き付けるようなアピール力にも長けていると言えよう。そうした影響もあり、現代の様々な社会問題に知的関心を持つような社会科学的素地ある層が結果として経済学を選ばず、社会学や応用倫理学などに専ら流れていく状況に対して、危機意識もある。こうした「危機」が生じるのも、他方で、今日における多くの新古典派経済学者の問題意識からは、上記のような知的関心層を魅了するに足るだけのモチベーションが見出されにくいから、と言えるかもしれない。

しかし、一度、新古典派経済学の世界に入ってみれば、決してそのようなことはない、ということを私としては強調する必要がある。新古典派経済学の手法を適用しながら、現代の様々な社会問題に対する知的関心を生かす形で、むしろこうした問題に関するより深い理論的洞察を獲得できる可能性というものが、十分にあることを私は強調したかったわけであるし、アナリティカル・マルクシズムの研究成果はそうした可能性を示唆する十分に良いサンプルに他ならないことを強調する使命があったといえよう。私のこうした立場と対極の立場に位置するのが、塩沢由典であろうから、私としてはこの機会に、徹底的に批判させてもらうことにした。

稲葉が適切にコメントしているように、反新古典派経済学な主張にシンパシーを感ずる様なタイプの「人文・社会系インテリ」にとって、数学科出身である塩沢由典の存在は、新古典派経済学の数理的議論を理解できずとも、新古典派経済学の存在を否定したい自分たちの立場を合理化する最も便利で強力な味方であっただろう事は想像に難くない。私は、私の周囲にいるレギュラシオン学派や進化経済学などにシンパシーを持ち、反新古典派経済理論の発展にアイデンティティを見出している多くの経済学者たちからも塩沢氏が一定の権威ある存在として尊重されている事を知ってもいる。

しかし、仮に学部学生時代に塩沢由典の書籍に一定の影響を与えられつつ触れた人たちであっても、一度、経済学の大学院でミクロ経済学・マクロ経済学などのコア・コースを修得するや否や、そのような書物からは「卒業」するのか大抵でもある、というような存在でもある。なぜならば、大学院に進学すれば、研究者として本当に評価される仕事とは、彼のような評論家的書籍を何冊も書いてその「博識」振りをアピールすることではなく、狭い領域であってもその領域での先端的トピックで新しい知見を発見し、それをレフリー制度の学術雑誌に発表する論文にまで練り上げることである、と徹底的に叩き込まれるからだ。しかし、こうした事実もまた、反新古典派的人文・社会系インテリにとっては、単に一つのスクールの定型化された思考のレールに乗せられて、言わば「洗脳」された結果としか写らないものである。逆にそうした「洗脳」を嫌うが故に、彼らに新古典派経済学を学ばないことの理由付けにすらなっている。

    しかしながら、私自身の塩沢由典氏に対する印象というのは、確かに数理的思考力の切れは一定の水準にある人ではあるが、なるほどこの人は本格的な研究論文のような成果を出せない人だろうな、というものである。私はかつて高増・松井編『アナリティカル・マルクシズム』の論評会を兼ねたAM研究会で、塩沢氏と対峙したことがあったが、その際に、塩沢氏は特に私が書いた搾取論の章と分配的正義論の章に対して、批判を集中させてきた。細かい論点はもう記憶が定かではないが、いずれもその場で私は即座に反論し、彼の批判は妥当でないことを結果として周知させた形で終わった。批判対象をきちんと正しく理解した上で、公正な議論をしようという態度に欠けていて、研究者として誠実でない、これではまともな研究は出来ないだろうな、という印象であった。私には、新古典派憎しで凝り固まっているばかりであるが故に、対象に対する慎重かつ注意深い理解を怠っているとしか思えなかった。

研究という営みにもっと謙虚な気持ちがあれば、同じ反新古典派という立場であってももっと違った形で活躍する可能性はあるだろう。実際、ポスト・ケインジアン経済学に立脚していても、例えば浅田統一郎(中央大学教授)のようにコンスタントに研究成果を国際的な学術誌に発表してきて、主流派経済学者の間でも一目置かれている人は存在する。スラッフィアンとは違うものの、いわゆるフォン・ノイマン系の線形経済モデルを対象とした理論研究を、地道ながら国際学術誌に発表してきている研究者としても、藤本喬雄(香川大学教授)や少し前までの細田衛二(慶応大学教授)などがいる。私はこのような研究者たちに関しては評価しているし、尊敬の念を持ってお付き合いさせて戴いてもいる。

 

3. 第二章について: その1:生産過程における民主主義 v.s. 分配的正義

    第二章は、この本のメイン・ボディに相当する。マルクスの搾取理論とそれが暗黙裡に措呈する資本主義経済システムに対する規範的評価に対して、アナリティカル・マルクス派の吉原と、正統派マルクス経済学の系列に属する松尾の見解が見事なまでに分かれる様を概観することが出来るだろう。但し、注意しなければならないのは、松尾の議論は、アナリティカル派の正統派マルクス主義批判に対して、正統派的なマルクス主義の概念的フレームワークを擁護する立場にあるとは言え、彼自身のマルクス主義理解自体がかなりユニークなものであって、いわゆる標準的なマルクス経済学の理解の仕方とはかなり趣が違っているという点である。

例えば、マルクス経済学体系を一般均衡理論そのものであると断じて、マルクス的議論を論ずる際に、新古典派経済学のフレームワークを殆どダイレクトに適用することに頓着しない性向などがそれである。それは、原論レベルでの議論のみならず、現代資本主義論や政策論的な次元において、一層、いわゆる正統派マルクス主義の「定型化された事実」とは異なった様相を示してくれる。新自由主義的グローバリゼーションを歴史の進歩であり、左翼は歓迎すれこそ、反対すべきでない、という主張などは、私ですら「オイオイ?」と戸惑いを覚える程である。科学的方法論として便宜的に新古典派の手法に基づいて分析をするというスタンス以上に、よりウルトラ・ネオ・クラシカルな、つまり新自由主義に親和的な思想的傾向があると共に、そのような思想的傾向こそが真のマルクス主義の立場であると考えているようである。もっとも、近年における正統派マルクス主義内でのこうした思想的傾向は、松尾のみに見出せるものではない。例えば、松尾もいくつかの共著を出している大西広(京都大学教授)や、彼を中心とする研究者グループが、同様の思想的傾向を持っているようである。

私自身は、何が真のマルクス主義の立場であるかという論争に深入りする気にはなれない。但し、マルクスの時代において、彼自身が国際主義の立場を掲げていたとか、自由貿易主義者であったという事で以ってして、現代においても同様のスタンスを取ることが本当に、適切なマルクス主義ないしは左翼の戦略であると言えるのか否かについては相当に、慎重な検討を要するのではないか、というRemarkは一応、表明しておく。例えば、現代的観点から見れば、当時のマルクスといえども、非常に西欧中心主義的な世界観しか持ちえておらず、アジアに対する認識は尚、偏見に満ちたレベルを脱しえていなかった、という認識[2]は、アジア経済やアジア経済史を専門とするマルクス経済学系の研究者の共有するところであろう。

私自身も基本的には、自由貿易を擁護する立場になるであろうが、私の場合、その根拠は、それがマルクス主義の真髄であるからという事ではなく、あくまで経済的効率性の観点を一定のウエイトで重視するからであり、そうした観点から自由貿易体制が評価できるという新古典派的理由に基づくものに他ならない。そして、むしろマルクス主義的な価値観に基づいて、自由貿易体制が一方でもたらすであろう、生活者レベルでの様々な歪みや国際間(とりわけ南北間)の経済的不均等の諸問題に着目し、その解消を図るための処方箋に向けての問題提起を行っていくことの方が重要であろうと考える。

対象とする問題は異なるものの、「季刊at」第2号に寄稿した「『新自由主義』に対する科学的オールタナティブ構想に向けて」は、私のこうしたスタンスを国内の経済問題に即して展開したものである。そこにおいて私は、新自由主義が立脚する経済的厚生主義に基づく評価体系の一元性を批判しつつも、そうした観点を完全に棄却する立場には立っていない。経済的厚生主義が推進する経済的効率性の観点にも一定のウエイトを置きつつも、マルクス主義の立場からも是認し得るような非厚生主義的な分配的正義の価値基準をも考慮したような、より包括的かつ多元的な評価体系に基づいて政策勧告をしていくべきことを、現代左翼の目指すべき方向性として提案しているのである。[3]

    話がだいぶ脱線した。第二章の話に戻ろう。第二章ではマルクス主義の労働搾取概念の理解において、すでに松尾と吉原の間の見解の違いが明示化される。松尾は、マルクス主義の労働搾取のエッセンスは生産過程における合意の有無に関する問題である、と理解している。マルクス的労働搾取とは労働者が自分の活動時間を自分の意思で自由にできないで働かされている部分があるということであると考える点で、それは置塩信雄も共有していた正統派マルクス経済学の搾取概念を受け継いでいると言える。また、そうした観点を突き詰めれば、搾取の問題とは結局のところ、生産過程における労資の支配関係、ドミネーションの存在の問題に帰着すると考える点で、それはボールズ&ギンタスなどのラディカル派の立場とも近いと言える。しかし、ラディカル派が労資の支配関係の問題を専ら企業内の強制労働の問題と考えるのに対して、経済全体を通して一般均衡の結果としての、労働者が自分の活動時間を自分の意思で自由にできないで働かされているという意味での強制労働の存在を考えるのが、自分の立場であると位置づけている。そうした観点から見れば、アナリティカル派の労働搾取概念は、分配問題に関心が偏っていて、分配の不公正という観点でしか搾取の問題を考えていない、と批判する。

    対して、吉原は、マルクス主義にとって労働搾取について論じるとき、生産過程における労資の支配関係の問題に強い関心を寄せてきている点を十分に承知しつつ、搾取の概念と支配の概念とは厳密には異なる概念としてまずは定義した上で、両者の論理的関係を解明する作業が大事であろうと、主張する。それはベーシックな数理的解析方法の一つである公理論的アプローチに基づいた方法である。公理論的アプローチに従えば、労働搾取の定義は供給労働と取得労働の格差として出来る限りシンプルに与えられるし、他方で、労資の支配関係についてもそれを規定するエッセンスのみでシンプルな形式で定義されるはずである。例えば、ボールズ&ギンタス流の理解では、労資の支配関係の存在とは、生産過程における労働強度の決定が内生化され、抗争的交換の性質を持つ場合を意味すると定義する事ができよう。その上で、このようにして定義された労働搾取の存在の必要十分条件がこのように定義された労資の支配関係の存在であるか否か、その論理関係を問うのがベーシックな数理的方法である公理的分析である。

    このアプローチの観点から見れば、松尾の議論も含めて、古典的なマルクス主義の搾取論は、労働搾取の存在と労資の支配関係の存在の論理的同値関係を最初から仮定していた議論である、という話になる。しかし二つの概念の論理関係を厳密に解析するならば、古典的なマルクス主義の搾取論が暗黙裡に仮定していたような両概念の論理的同値関係は成立しないことが確認できる。アナリティカル派の労働搾取概念が分配の観点しか持っていない、という典型的な批判に対しては、こうした分析作業の結果を突きつけることで、むしろ正統派マルクス主義の労働搾取概念は、本来別の概念で捉えられるべき色々な意味を全部背負い込んだ形で、定義されている。さらに、その結果として概念の定義それ自体が曖昧でwell-definedであるか否かすら、怪しくなりかねない事を反批判するのである。

    両者の搾取論に関する認識の違いは、望ましいオールタナティブ社会に関する評価の違いにも関わってきている。松尾は、アナリティカル派は分配の公正、平等の保証にのみ専ら関心を寄せているが、より重要なのは自由であると考えている。自由が保証されているのであれば、少々の不平等は構わない、という見解を取っている。ここで言う自由とは、労働者たちが合意により生産編成と生産過程を自分たちでコントロールしたときに成立し、それによってなるべく多くの自由時間を享受出来るようになるであろう状態を指している。こうした規範的理想状態の措呈は、マルクスの「個々人の自由な発展を可能にするような社会的連帯」としての理想社会像とも整合的であるように見える。労働者たちが合意により生産編成と生産過程を自分たちでコントロールすることによって、彼らの生産過程における労働はもはや強制的性格を帯びなくなる、その意味で彼らは生産過程において自由なのである。また、合意により生産編成と生産過程を自分たちでコントロールすることによって労働時間そのものをなるべく短縮化すべく努力する事は、長期的には生産力の発展とも重なり合って、労働者たちが個々に自由に活動するための自由時間をますます長く享受出来るようになる。その意味でも、彼らは自由なのである、という話になろう。

    私は、こうした自由論は、現代の規範理論の到達点から見ればナイーブ過ぎると思う。第一に、ここでの議論は個人の(活動の)自由という観点と民主主義的合意(意思決定)という観点とが混在しており、二つの観点が無矛盾に調和されたイメージでしか捉えられていない。しかし、すでにアマルティア・セン以来の「パレート・リベラル・パラドックス」に関する一連の諸研究が示しているように、個人の自由の保証と民主主義的意思決定とは必ずしも両立可能ではない。

第二に、自由と民主主義の原理的両立不可能性の議論を脇に置いておくとしても尚、民主主義的合意の存在が直ちに、強制労働からの解放を意味するとする議論には多くのさらなる論及の余地や異論の余地が残されている。合意の有無が強制労働からの解放に関して重要と言うとき、その「合意」とは果たして何を意味するのであろうか?それはいかなる意味で、現在の資本主義社会における市場契約的合意と本質的に異なる性格を有するのであろうか?というのは、現代の資本主義経済においても、少なくともその理想状態としての完全競争市場の世界では、人々の経済行為は全て、市場における契約的合意の結果として説明されるのであり、そこに強制性を読み取る事はできない、という解釈も成り立つからである。

否、市場における契約的合意とは形式的な意味での自由な合意に他ならず、実質的には自由な合意ではなく、強制された合意なのだ、という反論が有り得るかもしれない。では「実質的には強制された合意」とは何を意味するのであろうか?それはどうして生じるのであろうか?ある者は、それは契約当事者間のパワー、交渉力が違いすぎるからだ、と言うかもしれない。では、その交渉力の不均等性が交渉力の強者による交渉力の弱者への「実質的には強制された合意」をもたらすのであるとすれば、交渉力の不均等性は何によって生み出されているかが問われなければならない。ここで我々は、理想状態としての完全競争市場の世界を考えていることを思い出せば、こうした交渉力の不均等性が情報の非対称性に起因する抗争的交換におけるショートサイドとロングサイドの立場によって決まっているものだとは見なすことが出来ないことに気付かねばならない。

であるとすれば、残る可能性は、所有の不均等関係でしかありえないという話になろう。生産的資産の乏しい個人はそれが豊かな個人に比して交渉力が弱くなる可能性がある、まさに労働者と資本家の関係のように。ここまで突き詰めてみると、平等よりも自由が重要なのだという議論にしても結局、生産的資産の不均等な所有関係という分配の公正性問題に関わらざるを得ない話になる。実際、生産的資産の不均等な所有関係という分配の公正性問題を問うアナリティカル派の動機の一つは、そうした不均等に基づく経済的意思決定ならびに政治的意思決定における少数の富者の支配的影響力の行使の存在に批判のメスを入れるために他ならないのである。そして、アナリティカル派の市場社会主義の構想は、そのような意味での支配の問題を解消する意義を持つものとして位置づけられよう。しかしこの結論は、合意の有無に基づく強制労働からの解放論者たちにとっては受け入れがたいかもしれない。分配の公正性問題に還元されない固有の問題がある筈だ、と。

ある論者は、契約的合意といっても資本主義社会では労働者たちは最初から、労働力の売買に関する契約にしか参加できず、自分たちが提供する労働力がいかに利用されるのかについての意思決定、つまり生産の意思決定の場からは完全に排除されている。そうではなく、労働者たちが自分たちの提供する労働力のもたらす社会的な創造的力がいかなる方向性で発揮されるのかについての意思決定から疎外されることなく、むしろそれに関与できることが重要なのだ、それこそが資本主義の克服によって実現されうる自由に他ならない、と位置づけるかもしれない。こうした議論の行き着く先は、真に自由な社会の規範的モデルとして労働者管理企業の連合体として構成されるアソシエーション社会を措呈することになろう。

このラインの議論において存在する一つの問題は、アソシエーション社会における経済的資源配分メカニズムとは何かが極めて不明瞭なままで、それを実行可能な規範モデルとして措呈することの理論的不確かさであろう。しかし、そのような資源配分メカニズムがいかなるものであろうとも、それが労働市場を媒介とした労働資源の配分を行わないこと、及び、各生産単位である企業は労働者管理企業であって、それは全ての雇用労働者の収入を均等に最大化するような分配ルールに基づいて運営されていること、この2つの性質を満たすようなものである限り、それが導く資源配分の結果は非効率的なものとならざるを得ないという見通しについては、現代のミクロ経済分析を用いることによって確認できる。[4]

    ここではこうした配分効率性の観点とはまた別の意味で、アソシエーション社会の問題点を考察してみたい。つまり、労働者管理企業によって、生産過程における意思決定が労働者たちの民主主義的な合意に基づくものであったとして、それがどこまで望ましいと主張し得るか、という論点である。アローの不可能性定理の含意として、民主主義的な意思決定は意思決定における「情報効率性」とある種、トレード・オフな関係にあるということがあり、「情報効率性」の観点へのウエイトを高めていくに連れ、その帰結は独裁制とならざるを得ない、というものがある。現実の世界においても、意思決定の効率性――そこでの「効率性」の定義なり意味はアローの不可能性定理において論じられる「情報効率性」公理のそれらとは違っているであろうが――と民主主義性とは明らかにトレード・オフな関係にあること、そして前者へのウエイトの強化は独裁制に行き着くであろう事を直観的にも了解可能であろう。企業経営における経営者の独裁制を否定し、民主主義を導入する事は、経営的意思決定における効率性のロスを生み出すことを意味するのである。意思決定における効率性のロスがもたらすであろう、社会的ロスに関しては、大学の運営をイメージしてみれば十分に想像できるであろう。

    また、企業の意思決定におけるとりわけ現代における経営者の独裁制は、「所有と経営の分離」という一種の社会的分業の帰結でもあるということも考慮すべきであろう。効率的な資源配分を社会的に実行するためには、経営的意思決定という作業にはその作業のエキスパート(すなわち経営労働者)達に専念させる方が望ましい、ということが言えるであろう。エキスパートといえども時には適切な決定に関して誤る可能性もあるが、こうした誤ちに対しては、株式市場における評価とか市場の競争メカニズムなどの淘汰機能によるパニッシュメントが存在することによって、能力を失った経営者がいつまでも経営に関する独裁的地位を維持することが出来ないような民主主義的機能も存在している。となれば、無能な独裁者による極端な非効率性という独裁制に付き物の不安定性も、うまく排除することが出来ているわけで、その上で尚、社会的分業の利益に基づく効率的な経済的意思決定機能をもたらすエキスパートである経営者の独裁制[5]を犠牲にしてまでも、直接的労働者の経営への民主主義的関与を要請する積極的理由が存在するのであろうか、という疑問が残る。もっとも、これに対しては、経営者の独裁制は分業の固定化の促進も相俟って、直接的生産者たちの労働疎外を深刻化するだろうという反論があり得る。分業の利益を放棄する事は適切ではないにしても、分業の利益の存在は必ずしも分業の固定化を意味しないであろう。しかし経営者の独裁制は分業の固定化を促進する効果を持つだろう、と。

確かに、マルクスやエンゲルスが語ったような、能力の全面的に発達した諸個人からなるような理想社会であれば、分業の利益の存在は必ずしも分業の固定化を意味しないであろうから、仮に「分業の利益」の原理に基づいて、生産労働者としての役割と経営労働者としての役割分担が存在したとしても、人々はときには直接的生産過程に従事する生産労働者として経済活動に関与し、ときには経営労働者として関与する、ということが有り得るかもしれない。そうなればある程度の時間のスパンで見れば、いずれの個人も生産の意思決定に関与する期間を機会として持てるという意味で、資本主義における労働疎外の問題はかなりの程度、緩和されると見なされるかもしれない。こうした理想社会はもちろん、「理想状態」に過ぎないのであるが、しかしながら、そのような「理想」に近づくためには必ずしもアソシエーション経済に変革する必要はないであろう。むしろ、未成年期と老年期を除いた全ての成年期の年代の全ての個人に、既に開発済みの人的資本のさらなるスキルアップをさせるための、あるいは新たな人的資本を開発するための「教育・学習」への出来る限りの均等な実質的機会を保証するような社会制度によって、上記のような理想状態へのある程度の近似値を実現可能にすることが出来るであろう。すると、ここでも重要なのは「機会の平等」という分配の公正性問題に関わる議論になってくるわけである。

我々はむしろ、人々が生産過程においても生活過程においても実質的な自由、すなわち達成したいと願うことを追求する自由を出来る限りに高い水準で享受できるためにも、分配的正義の問題を考えざるを得ない、という立場にある。もちろん、マルクスの想定した高度に生産力が発達した共産主義社会であれば、分配的正義の問題を考えずとも良い。なぜならば、全ての個人は、僅かばかりの必要労働に従事するだけで、必要なだけの豊かな生産物を無制限に手に入れることが出来、かつ残された多くの時間を自由時間として、好きなように自己実現のための活動に従事できるし、そうした活動を物質的に支えるだけの経済的裏づけも、必要労働の成果によって十分に保証されているからだ。そこでは、人々が各々の自己実現を実質化するための時間や物的資源の確保を巡って対立しあうという、資源の稀少性が導きうる問題が最初から捨象されているのである。しかし、現代においてもある程度先の将来においても、資源の稀少性という制約の下で人々が意思決定しなければならない状況を考える限り、分配的正義の問題を考えないことは、実質的自由の享受に関する個人間の不均等をもたらすのであり、その典型的な帰結は市場原理主義の支配する社会であろう。資源の稀少性という制約の下での自由の実現とは、自由な活動のための実質的機会の出来る限り高いレベルでの均等な保証の実現に他ならず、それはそのような保証の実現のための経済メカニズム論を考えるや否や、経済的資源の分配的正義の問題に直面しないわけには行かなくなるのである。[6]

分配の公正性の実現は、それ自体にIntrinsicな価値があるが故に追求すべき事ではなく、実質的な自由への機会を全ての個人に保証するためのInstrumentalな価値があるが故に追求すべき事なのである。松尾が平等よりも自由への志向性を、分配の公正よりも生産における合意への志向性を主張するとき、おそらく、彼にとっての平等や分配の公正性に関する価値観はIntrinsicな内容として捉えられているのであろう。さもなくば、自由の実現ということの意味を十分に掘り下げていないかのいずれであろう。我々が平等や分配の公正性に言及する際には、決して「厚生の平等」や「所得の平等」などの意味での「結果の平等」をIntrinsicな価値として追求しているわけではないことに、留意すべきである。[7]その点は、リベラル左派のロナルド・ドゥウォーキンの「(包括的)資源の平等」論でもアマルティア・センの「潜在能力の平等」論でも、あるいはアナリティカル・マルクス派のリチャード・アーヌソンやジョン・ローマーの「機会の平等」論でも、変わりはない。

   

4. 第二章について: その2:自己所有権の是認 v.s. 非厚生主義的正義論

    第二章について、もう少し論点を突き詰めてみよう。吉原は、労働搾取概念にマルクス主義が関心を持つべき諸理由を分類し、そのそれぞれの理由の妥当性を検討していく結果、最終的には資本主義経済システムが人々の環境的要因に過ぎない資産の初期保有の格差に応じて、人生選択の機会の不平等を生み出してしまう原理的特性を有している点を、労働搾取概念を通じて確認することが出来るからである、と位置づける。しかしこうした批判的機能は、個々人の労働能力が同一であるような社会状態においてのみ実効性を発揮しえるという意味で、十分に強力な機能とは言い難いのであり、労働能力の格差ある社会状態における資本主義経済システムの特徴についての批判的機能を発揮しえるのは、むしろ現代の非厚生主義的な分配的正義論の方であると、結論付ける。

他方、従来のマルクス主義では、資本主義のその成立時における体制正当性の根拠の一つであった自己所有権という基準を、資本主義自らviolateせざるを得ないという事態を明示化し、資本主義の自己批判を迫るが故に、労働搾取論は一定の意義付けを与えられうると整理される。資本主義がなぜ自己所有権のviolationを意味するのか?その解答は、資本主義における労働搾取の存在の確認によって証明されると考えるのが、従来のマルクス主義の立場であり、結果的に松尾も追認する立場である。自己所有権とは、自己の身体の自由な処分への権原及び身体の延長である労働の成果の自由な処分への権原を認める思想である。この後者の権原の解釈は多様で有り得るとしても、いずれにせよ労働搾取の存在とは、本来労働者に帰属すべき労働の成果が労働者の自由な処分に委ねられない事態を意味するのであり、自己所有権の観点からは是認できない事態であるという解釈は十分に可能である。実際、松尾の場合も、「労働主体が、合意により生産編成と生産過程を自分たちでコントロールしたとしたときに成立するであろう状態を、規範的基準にして現実批判しているのが労働搾取論」であると言明しているが、このような「規範的基準」は自己所有権の確立と十分に両立的なものである。

このようにマルクス主義の労働搾取論は、少なくとも自己所有権の基準と親和的ないしは両立可能な規範的基準を背景に持っているということに関しては、松尾と吉原の間での同意が成立したのであったが、問題は労働搾取が原則として廃止された社会というのが規範的にどの程度に望ましいと評価し得るかという問題である。マルクス自身は、衆知のように、社会主義において資本主義的な労働搾取が原則として廃絶される、と位置づけるが、同時に社会主義の段階では、労働能力の格差による不均等が残存するであろうと認識していた。私はマルクスのこの見解を基本的に妥当であると考える。資本主義的な労働搾取が原則として廃絶された社会経済システムであっても、労働能力の格差に起因する不平等に関しては、経済システムそれ自体にその問題を解決する原理的特性は存在せず、何らかの社会政策のプログラムをデザインせざるを得ないであろう。特に、実行可能な社会主義が市場社会主義的なものでしか有り得ないだろうという現代的到達点から見れば、自由な労働市場の存在は労働能力の格差に起因する不平等を自動的に解決するどころかむしろ、放任すればより格差を拡大する傾向についても考えておかねばならないだろう。

他方、松尾の場合、この点が伝統的なマルクス理解とは大きく逸脱している。すなわち、搾取の廃絶の本質は、生産過程における労働の処分の仕方を、労働する人々の合意に基づいて行うことであるという視点の強調に根拠付けて、搾取なき規範的社会状態とは、労働能力の格差はどうあれ、全ての個人の同じ物理的な労働時間一時間は同じ一時間労働に相当する価値を対価として受け取る状態であるとして、解釈されるのである。[8] このような報酬体系は確かに、労働能力の格差に起因する不平等を生み出すことが無いという意味で、労働搾取論の自己所有権的性質に対するリベラル左派からの批判をかわす事は可能である。しかしこのような報酬体系を、当該経済システムに内在する固有な資源配分ルールとして位置づけてしまうことにより、松尾の展望するアソシエーション型社会主義経済システムは、完全に市場的資源配分メカニズムとは両立不可能なものとなってしまっているのである。結果として、そのような報酬体系の下で人々の自発的な生産活動への関与を経済システムが許容する場合、そのようなシステムの下での資源配分の帰結はパレート非効率的となるであろう事は、容易に確認できるだろう。[9][10] 松尾の想定する搾取なき経済社会とは、原理的に資源配分が非効率的な帰結しか実現し得ないと言わざるを得ず、今日の経済学の到達点を踏まえれば、規範的には到底受け入れがたい結果である。

 

5. 第三章について

    第三章は、稲葉と吉原の対談からなっている。ここでは、現代の資本主義経済システムよりもよりましな経済システムの実行可能性について、経済学のメカニズム・デザイン論などの成果を生かす形での「青写真」構想を探求することの意義についてから話題が始まる。それからローマー流の市場社会主義構想の原理的特徴について、大まかに説明される。さらにローマー流の市場社会主義とロールズ以降の非厚生主義的なリベラル左派の代替的経済システム構想の類似性についても論じられた。これについては、また改めて別稿で議論したい。

 



[1] この稿は2月半ばに書き始めたものであるが、その後、5節の執筆を本格的に始める前に、筆者が一橋大学での3月の国際コンファレンスの準備に追われて、気がつけば出版がすでに開始されてしまっていたものである。今となっては、5節で何を語るつもりであったのか詳細を忘れてしまったし、ここで語るべき内容は、これからアップする予定である316日のシンポジウムについてのレポートにおいて、有効に展開されていると思うので、ここではとりあえずこのままアップすることにしたい。

[2] この点を私は、学生時代の恩師の一人であった、アジア経済史の宮本謙介(北海道大学教授)から教わった。

[3] こうした意図を理解することなく、「整合性へのフェティシズムを感ずる」とか、「生産力至上主義的志向性」などという不適格な評価が一部で為されているのは残念なことであるが、これらは単に政策体系の整合性の確保や、生産性の維持の重要性を十分に認識していないが故であろう。

[4] 例えば、吉原直毅「市場社会主義はアソシエーションにパレート優越する」の命題2を参照の事。

[5] ここで言うところの経営者独裁制は、労働者のそれぞれの現場での意思決定の裁量の余地を残すようないわゆる日本的経営システムをも含むものとして考えている。現場の声を反映させる機会が存在するということと、そうした現場の声を実際に採用すべきかどうかの最終的意思決定の場に直接関与し得るかということとは大きな違いである。前者は日本的経営システムやかつての西独コーポラティズムのような下でも保証しえたとしても、後者は例外はあれ、原理的には労働者管理企業でなければ保証し得ないであろう。

[6] こうした観点に基づけば、むしろ従来の正統派マルクス主義は、理想状態としての高度な共産主義社会の達成の必要条件として、高度に発達した生産力とそれを背景にした無限に豊穣な生産物の生産可能性と十分に長い自由時間の両立性を措呈することによって、社会科学としての考えるべき主要な問題を「生産力の発展」という技術的解決に委ねているという点で、技術決定論的性格を持っていると言えるかもしれない。プロレタリアートが政治と経済の意思決定権を握ることによって、合理的な民主的経済計画によって経済の運営を行うならば、社会の生産力は資本主義的私的所有の桎梏を解かれた結果として、急速に発達するであろう。あとは生産力さえ発達させていけば、問題は長期的には自動的に解決されるだろう。従って、何よりも重要なのは、まずプロレタリアートが政治と経済の意思決定権を握ることによって、合理的な民主的経済計画を遂行する体制を整えること、それによって、社会の生産力を資本主義的私的所有の桎梏から解き放つことである、と。私のマルクス経済学の師匠であった唐渡興宣(北海道大学教授)は、しばしば「共産主義社会においては、経済学は無用の長物となる」という様な事を言っていたが、こうした指摘は、上記のようなマルクス主義的展望――それは現象学的マルクス主義を自認していた唐渡自身の展望とは違うであろうが――に立つ限り、全く正しいといえよう。

他方、松尾の進化論的唯物史観は、必ずしも「生産力の高度な発展」という契機なしに、アソシエーション社会への変革を展望する理論構成になっている。また、アソシエーション経済の資源配分パフォーマンスを、生産力の発展度とは独立に、その原理的特性を応用ミクロ経済分析に基づいて検討しようという姿勢も持っている。これらの点は、正統派マルクス主義の中での松尾のむしろ評価されるべき特異性の一つであろう。「生産力の発達」という要因に解決の契機を委ねることで、社会科学が本来、その解決策を考えるべき問題の検討を先送りするという態度は、今も尚、マルクス主義の陣営において根強いと言えるかもしれないからだ。実際、松尾に近い立場の研究者と見なされるであろう、大西広に到っては、従来の正統派以上に一段と生産力至上主義的な論を展開している。

[7] 誤解すべきではない点は、このように言ったからといって、「厚生の平等」や「所得の平等」などの「結果の平等」はIntrinsicな価値としてしか位置づけられないと、私が考えているわけではない、ということである。これらの平等論といえども、何らかのInstrumentalな価値を有すると解釈する事は可能であろう。

[8]松尾は、「投下労働価値概念は、すべての労働者の一時間を同じ一時間とみなすことによって、他者の強制労働の一部を自分の強制労働とみなす役割をしています。ここには、すべての人の一時間は等しく自由であるべきであるという価値観があると思います。」と見なしている。そのような投下労働価値の解釈は伝統的な解釈とは大きく異なるものであり、とりわけ資本財の存在しない収穫一定経済における市場価格は労働価値によって決定されるという、アダムスミス以降の経済学の命題とも矛盾する。吉原によるその点の指摘に関しては、松尾はマルクスの投下労働価値説は古典派の投下労働価値説とは区別されるべきであり、とりわけ市場的交換を規定する価値価格としての役割とは無関係と位置づけるべきと主張する。このような一見、特異な解釈がマルクスの精神となぜ合致するかについて、松尾はもっと自己の見解を体系的に論述する必要があるであろう。現状では、彼の議論はマルクスそれ自身の理論体系とは異なる相当にユニークなものである、と解釈するしかないであろう。

[9] 例えば、吉原直毅「市場社会主義はアソシエーションにパレート優越する」の命題3を参照の事。

[10] Yamada and Yoshihara (2005)の提出した、メカニズム・デザイン論の最近の成果によれば、松尾が暗黙裡に想定している一つの規範的分配基準「等しい労働時間への等しい成果の配分」(Equal reward for equal labor time)とパレート効率性基準とは両立可能であり、かつ両基準を同時に満たすような資源配分をナッシュ均衡で分権的に遂行するような資源配分メカニズムも、理論的には設計可能であることを確認できる。しかしこの結果を以って、松尾のアソシエーション構想を支持するのには無理があろう。何より、上からの「青写真」構想的アプローチを退ける松尾にとって、メカニズム・デザイン論のアプローチは「青写真」主義そのものに他ならないはずであり、彼自身、Yamada and Yoshihara (2004)の成果を自分の議論の正当化のために受け入れる事はできないであろう。