根岸隆氏の「日経・やさしい経済学−巨匠に学ぶ マルクス」について

一橋大学経済研究所

吉原直毅

2004321

私が米国イェール大学に滞在中の2002年に根岸隆氏が日本経済新聞の「やさしい経済学」シリーズで、マルクスの搾取理論に言及し、批判的議論を展開されたようである。彼のマルクス搾取理論批判については、私は自分が数理マルクス経済学の研究を始めた大学院時代に拝読した事があるし、その後もそのときに読んだ批判の内容と議論の中身は基本的に変わっていないようである。日本経済新聞の「やさしい経済学」シリーズに彼のマルクス批判が執筆されたと言う事は、その影響力は結構なものがあるとも思われるので、この際にその批判的議論についてコメントしてみようと思う。

 

1.根岸隆氏の「マルクス搾取=利潤説」批判

まずは長くなるが、根岸氏のマルクス搾取=利潤説批判の部分を引用しよう。

今、資本家が労働者に百単位の小麦を賃金として支払うと、一年後に二百単位の小麦を得る。マルクスは労働者が搾取されていると主張するが、それでは搾取しないためにはどれだけ賃金を支払うべきであろうか。二百単位の小麦であろうか。
 しかし、労働者が産出するのは一年後の将来の小麦であり、資本家が支払うのは現在の小麦である。たとえ同質の小麦でも、将来の小麦をいま入手することは不可能であるから、同じ量なら現在の小麦のほうが価値が大きい。では、将来の小麦二百単位と同じ価値の現在の小麦は何単位になるのであろうか。

 金融商品などの現在価値と将来価値を比較する場合、将来価値を割り引いて比べるのが普通である。その場合、利子率で割り引くのだが、小麦と労働だけからなる単純な経済では、利子率と利潤率は同一である。したがって、一年後の小麦二百単位の現在価値は、利潤率一〇〇%で割り引いて、百単位であると考えられる。

 資本家は現在において百単位の小麦を前貸しすると、一年後には二百単位の小麦が手に入るが、後者の現在価値は百単位にすぎない。つまり、労働者が生産する小麦二百単位の現在価値である百単位を賃金として支払っているのだから、搾取は存在しない。現在において前貸しされた小麦と一年後に産出される小麦とは、同質の小麦でも時差があるから、前者一単位は後者二単位に相当するのである。

 このように賃金の支払いと生産物の産出との間に存在する時間の差の問題を指摘して、マルクスの搾取利子説を論破したのは、オーストリアの経済学者べーム・バヴェルクであった。古典派経済学に対するいわゆる限界革命は、ジェポンズ、ワルラス、そしてメンガーによって一八七〇年代に引き起こされたが、ベーム・バヴェルクはこのメンガーの高弟の一人であった。

 一八五一年に当時はオーストリア領だったチェコのブルノに生れた彼は、ウィーン大学に学び、さらにドイツの諸大学で研究し、インスブルック大学の教授となる。一八八九年に大蔵省に入り、みたぴ蔵相になった。そして一九〇四年にウィーン大学教授となり、一九一四年に没した。

 べーム・バヴェルクは一八八四年に大著「資本と資本利子」の第一巻「資本利子論の歴史と批判」を刊行した。そこではマルクスの搾取説をはじめ、多くの学説が徹底的に論破されているのである。」(引用終わり)

以上が根岸氏のマルクス搾取論批判に相当する部分である。根岸氏の議論は、一年後の生産の成果の現在価値は労働者の賃金に相当するので、労働の成果とそれに対する支払いとの間の等価労働交換が労働者と資本家の間で成立すると言える。従って、それは搾取とは言えない、というものである。換言すれば、労働者の提供した労働時間――それは生産物の労働価値をも表す――と、彼が賃金分として取得する労働時間――賃金財の労働価値――との格差の存在を搾取と定義されている限り、労働者の提供した労働時間に相当する生産物の労働価値の現在割引額が、労働者の現在取得する労働価値と一致しているならば、搾取は存在しないと言えよう、と言う訳である。彼の議論の枠組みにおいては、問題は、現在割引価値という概念を、搾取の定義の際に導入するかどうかという点にある。

 

2.時間選好説だけで利潤の生成とその資本家的取得を説明できるか?

現在割引価値という概念が意味を持つ前提として、生産過程には一定の時間を要するという想定がある。生産過程の期首と期末とに時間の違いがあり、生活に余裕のない労働者は、生産の成果が得られる期末まで収入の確保を待っていられないので、生産期間の期首に賃金を受け取る事を、たとえそれが利潤分だけ割り引かれたものであったとしても、選好している、という話である。しかし、労働者が生産期間の期首に賃金を受けとると言うマルクス経済理論における設定は、労働者への賃金支払い部分もいわゆる可変資本部分として、資本の不可欠な構成要素であることを明らかにするための理論的想定であって、現実的には賃金は後払いが通常であり、これは生産期間の期末に賃金の授受が行われていると想定して差し支えない。マルクス自体、賃金後払いの現象には着目しており、彼はこれを、労働者の賃金も資本を構成するという本質を隠蔽し、賃金を純生産成果からの分配分として古典派経済学に理解させる機能を果たしていると、解釈している。これは言い換えれば、生産の期末に賃金が支払われたとしても期首に支払われたとしても、正の利潤に相当する部分は存在するという意味で、賃金支払い時期は搾取利潤の説明にとって本質的要素でない事を意味しよう。しかし、根岸氏の使った例での経済モデルでは、労働者が後払い賃金を受け入れれば正の利潤は存在しないことになる。これは、現実的には賃金後払い(生産期間の期末に支払う)というケースも多々見られる現象から出発する限り、にもかかわらず利潤が生成し資本家によって取得されているという現実の説明としては、根岸氏の説明は成功していない事を意味しよう。

確かに収穫まで1年を要するような農産業を例に考えれば、自分の労働力以外は原則として無所有の労働者が1年の生産期間の期末まで賃金の受理を待てるという想定はむしろ現実的ではない。しかし、マルクスが見ていた19世紀の資本主義経済においてすでに主流となっていたのはより生産期間の短い鉱工業を中心とする資本主義的生産活動であったわけである。炭鉱労働などの採掘活動は、採掘対象の鉱山の生産性に依存するとは言え、生産期間は1日とおいても非現実的な理論的仮定としては間違いではないだろう。そして炭鉱労働者はその賃金は、資本家との雇用契約で予め決められているとしても、その受理は1日の労働活動の最後に支払われるのが通常である。さて、これらの様式化された事実から出発して、その上で、根岸氏の議論[1]と同様、以下の想定をすることにしよう。つまり、労働力と石炭からなる簡単な経済を考え、同質な土地が無限にあるので地代はなく、話を簡単にするためにスコップやトロッコなど、商品である石炭の生産に使用される労働力以外の商品の存在を無視する。つまり、剰余価値を生まないと言う意味でマルクスが不変資本とよぶものを捨象するのである。

このように根岸氏とまったく同様の理論的設定をした上で、ここでは生産物が石炭であるので労働者は生産期間の期末である一日労働の終了後に賃金を受け取る事も十分に可能である状況である。根岸氏の利潤の源泉は搾取ではないという言説に基づけば、その一日労働の成果に相当する純収入は全て労働者に帰属しなければならないはずである。なぜならば、このケースであれば労働者は前払いを選択する必然性はなく、したがって賃金は利子率=利潤率で割り引かれる形で支払われる根拠はないからである。となれば、炭鉱資本家は一日の生産期間を経て得た収益を全て労働者の賃金コストして支払わなければならない事になり、利潤はゼロとなろう。しかしそれならば、資本家はわざわざ労働者を雇用などせず、自ら自分の炭鉱に入って採炭労働に従事する事を選択しよう。つまり、石炭産業では資本主義的生産活動は起こりえないと言う話になる。これは明らかに矛盾する話であると言えよう。

以上の考察から伺えるのは、労働者が労働の全成果を受け取れないのは生産期間の期首に賃金を受理するが為に、利子率=利潤率分だけ割り引かれて支払われるが為であり、労働の全成果の現在割引価値として賃金を捉えるならば、それは労働の搾取とは言えない、という根岸氏の搾取=利潤説批判は一般的には成立しないと言う事である。利潤がなぜ生成し、かつそれが資本家に取得されるかについての説明は、時間選好説だけでは不可能なのである。

 

3.正の利潤生成とその資本家的取得を可能にするメカニズム

そもそも根岸氏の想定するモデルの下では、資本主義経済は成立しない。それは資本家が正の利潤を獲得できないからという理由ではなく、仮にゼロ利潤の下でも資本を稼動させると想定しても、そもそも彼のモデルの下では資本−労働関係が成立しないから、という理由である。根岸氏は、地代の議論を捨象したいが為に、同質な土地が無限にあるとの想定をしているが、同質な土地が無限にあるならばそもそも資本財としての土地の希少性は存在せず、土地の購入価格にせよレンタル価格にせよ、価格ゼロとなろう。従って、誰もが自由放任的に好きなだけの土地の占有宣言をして、その自ら囲い込んだ土地内で採炭労働なり収穫労働なりに従事すればよいという話になる。土地の生産性に格差がないから、どの土地で労働しようと、そこから得られる一日労働の成果は変わりないから、誰にとっても他者に雇われて賃金収入を受け取る事は収入の増加に繋がらないし、また、他者を雇用する余裕も生じない。つまり、資本財としての土地所有に関する不均等性が生じ得ないから、そもそも資本−労働関係が生ぜず、自己労働生産からなる単純商品生産社会しか成立し得ないのである。

              以上の考察から伺えるのは、資本主義的な生産関係が生成する為には市場経済が成立している単純商品生産社会にプラスして、以下の前提条件が必要であるという事だ。第一は、資本財の私的所有の不均等性。つまり生産性の優れた優等な資本財と劣等な資本財と言う具合に、資本財の質に生産性という観点からの優劣の格差が存在し、優等な資本財は社会の誰もが自由にアクセスできるほどに豊穣には賦存しておらず、それは希少性を有するものとなる。そして希少な優等資本財を所有する個人とそうでない個人という具合に、「持つもの」と「持たざるもの」との格差が存在している。とりわけ「持たざるもの」として、自分の労働力以外に生産要素となるべき資源を所有できない個人が社会の多数派となっている、という状況の成立である。

              第二は、優等な資本財を行使した場合の剰余生産物生産可能性。優等な資本財による生産活動を行った場合、労働の結果として、本人が生存するのに十分な収穫を十分に上回るだけの剰余生産物も得られる。さらに、彼の資本財所有規模は、他者を複数雇用する事でその資本財をフル稼働できるくらいのものである。その結果として、他者を彼らが生存できるだけの賃金を与えながら、彼らに自分の優等資本財を稼動させる下で労働させる事で、賃金を上回る剰余生産物が見込まれ、それで十分にその資本財所有者も食べていける見込みが立つ事である。

              以上のように、優等な資本財の社会的希少性と、その結果としての資本財の不均等な私的所有関係と、優等な資本財が剰余生産物を十分に生産できるくらいに高い生産性を発揮できる事、以上の3点があって、資本−労働関係は生成可能となろう。資本財の希少性の結果として、自分の労働力以外に生産要素となるべき資源を所有できない個人は、資本財所有者に雇用されて労働を提供しながら生きていくか、ルンペンのように生存すれすれで生きていくしか選択肢は存在しない。希少な優等資本財を所有できた個人は、その資本財の生産性の高さゆえに、他者を雇って彼らを食べさせていけるだけの賃金を支払ったとしても尚、十分な剰余生産物を手元に残す事が出来るから、自ら働くよりも他者を雇って資本財を稼動させる誘因がある。ここで他者を雇って食べさせても尚、十分な剰余生産物が生産可能なくらいに生産性の高い資本財の社会的希少性ゆえに、その資本財の社会的総賦存量に比して自分の労働力以外に生産要素となるべき資源を所有できない個人は十分に多く存在している。このような状況の下では、無所有の個人は、ルンペン生活よりも少しでもましな生活が見込まれる限り、労働条件や賃金条件を譲歩してでも、優等資本財所有者に雇用されたいと思うだろう。他方、優等資本財所有者は、ルンペン生活よりもましな生活を保障するだけの賃金率を支払っても尚、その雇用労働の結果として剰余生産物が見込まれる限り、無所有個人たちを雇用労働者として雇い入れるだろう。以上のようなシナリオの下では確かに資本−労働関係は生成可能となろうし、その結果としての雇用契約は、賃金支払い後に十分な剰余生産物を資本家の手元に残す事を可能とするものとなろう。つまり、私的所有制度と優等資本財の社会的相対的希少性、そして優等資本財稼動の際の、労働力再生産に必要な生産物を上回る剰余生産物生産可能性、以上の3条件が利潤の生成とその資本家による取得という経済システムを可能にしているわけである。

根岸氏の議論は、こうした視点が欠けている点において、不十分なのである。賃金が利子率で割り引かれた現在価値なのか否かというのは、利潤の生成とその資本家による取得の説明の際には本質的な問題ではないと思われるのである。とりわけ、優等資本財の社会的相対的希少性やその剰余生産物生産可能性という要因は、自然条件や社会の到達した生産力に関わる技術的要素であるという側面が強いが、生産手段の私的所有制度は資本主義経済を生成ならしめている本質的要因であるといえる。市場経済は生産手段の私的所有制度がなくても存続しえるが、資本主義的生産関係は生産手段の私的所有制度がない下では成立し得ない。

 

5.では、搾取=利潤説は正しいか?

以上のシナリオの下では、搾取があるかないかという問いに関しては、それはあるいうのが正しい解答であろう。搾取の定義とは、労働者の提供した労働時間と彼が取得した賃金に体化されている必要労働時間との正の格差であり、その格差は労働者に帰属しない正の剰余生産物が存在する限り、必ず生じえるからである。正の利潤が資本家に取得されている限り、搾取は存在しているのである。しかしその事と、正の利潤の生成および資本家による取得の論拠を搾取の存在に求めるか否かという議論とは区別されなければならない。正の利潤の生成および資本家による取得は、先に議論したように、優等資本財の社会的相対的希少性やその剰余生産物生産可能性と生産手段の私的所有制という前提条件の下での市場的メカニズムによって成り立たしめられているのであって、それはたとえ「マルクスの基本定理」によって正の利潤と正の搾取の同値関係が証明されていたとしても、そうなのである。むしろ、「マルクスの基本定理」を成り立たしめているのこそが、優等資本財の社会的相対的希少性やその剰余生産物生産可能性と生産手段の私的所有制という前提条件の下での市場的メカニズムなのであって、その部分を見る事なしに、「マルクスの基本定理」を論拠に、マルクス主義に伝統的な搾取利潤説を維持する事は出来ないのである。



[1]「労働力と小麦だけからなる簡単な経済を考えよう。同質的な土地が無限にあるので地代はなく、話を簡単にするために、小麦の種子や肥料、スキやクワなど、商品である小麦の生産に使用される労働力以外の商品の存在を無視する。つまり、剰余価値を生まないという意味でマルクスが不変資本とよぶものを捨象する。」(根岸隆:日経・やさしい経済学−巨匠に学ぶ マルクス その3)