松尾さんへの再リプライ

吉原直毅

1) 「人間主義的前提」とマルクスの基本定理について

この問題に関する松尾さんの議論は、マルクスの基本定理とは、資本主義経済における正の利潤の存在の必要十分条件は正の剰余生産物生産可能性であるという主張を、「正の剰余生産物生産可能性」に関して労働をニュメレール財にして評価した形で記述したものに過ぎない、という「アナリティカル派」の見解を事実上受け入れた上で、その上で、ニュメレール財としてバナナ財ではなく労働を使用することの固有の価値判断として、「人間主義的前提」という議論を提示されている、と理解しました。つまり、

人間労働をなるべく節約して、人間の処分できるものをできるだけ多くするのがこのシステムが解くべき問題です。これを指して、「人間主義的前提」と言っているわけです。

というわけですね。労働価値方程式に関するこのような解釈に関して、私は全く反対しません。私のみならず、レオンチェフ・モデルに通じた新古典派経済学者の多くからも異論は出ないと思います。しかしこの解釈の成立をもって、「「マルクスの基本定理」の意義はそれだけで何も損なわれることはありません。」という結論は、あまり説得的とは思えませんが。

       と言うのは、松尾さんの言う「「マルクスの基本定理」の意義」とは、その定理が元々意図していた、マルクスによる資本主義経済批判の論証という意味での意義ではないわけです。定理の結論は依然として、資本主義経済における正の利潤の存在の必要十分条件は正の剰余生産物生産可能性であるという含意以上のものではない、そして「人間主義的前提」という議論は、「正の剰余生産物生産可能性」を労働ニュメレールで定式化することの一定の意義づけにはなったとしても、「資本主義経済における正の利潤の存在の唯一の源泉は労働搾取である」というマルクスの資本主義経済への根本的批判命題、及びそれに基づく「ブルジョア経済学の三位一体論」批判を論証する議論には成り得ないからです。しかし、マルクスの基本定理はこれまで「資本主義経済における正の利潤の存在の唯一の源泉は労働搾取である」というマルクスの資本主義経済への根本的批判命題を論証したものと標準的には解釈されてきたし、だからゆえに主流派経済学者を含めてあれだけ反響を産んできたとも思うわけです。この意味での「マルクスの基本定理」のオリジナルの意義は、もはや失われているというのが私の一貫した議論です。それを承知した上での、松尾さんの基本定理に関する再解釈による再意義付け自体――その内容はオリジナルの意義付けに比べてはるかに控えめなものになってしまっていますが――には、特に反論はありません。

2) 「投下労働価値規定式とその双対体系の示す事態を本来形とみなす価値判断的前提からは、もはやアナリティカル派は離脱していると評するべきでしょう」について

        これに関しては、「搾取・階級・富の対応原理」の議論が現実の資本主義経済への批判的洞察を与えたという側面と、マルクス的労働搾取概念が資源配分に関する公正性の観点からの指標としては一般的には機能し得ない事を明らかにしたという側面の双方があるという事を指摘しておきます。前者に関して言えば、まず「搾取・階級・富の対応原理」が成立しない状況は(余暇が下級財であるケースや労働賦存が個人間で異なるケース、余暇と消費財との代替性が個人間で異なるケース等)、実際の資本主義の歴史を見ても対応原理が崩れるのが当たり前と予想がつくものや、あるいは実際の歴史では不自然と思われる状況である事が多いわけです。ローマー自身、余暇が下級財でないケースを仮定するのは実際の資本主義の歴史に照らしてもリーズナブルな仮定であると述べていますし、また、労働賦存が個人間で異なるケースで搾取-階級関係と富の大小関係が整合しない事も、現実の資本主義経済を見ても容易に予想がつきます。逆に、人々の選好やスキルの違い等が全くないような状況――つまり人々の主体的努力や才能等に全く差がないような状況――においてさえも、不均等な資本財の私的所有の故に搾取-階級関係が成立してしまうという点に、資本主義経済がシステムとして抱え込んでいる批判されるべき特性を見出す事ができる、というのが私の見解です。[1] とはいえ、マルクス的労働搾取概念が、「搾取」という、本来資源配分の公正性に関する指標としては一般的には機能し得ない事は、「搾取・階級・富の対応原理」が一般的には成立しない事から明らかでもあります。したがって経済理論の課題として、より一般的に機能しうる資源配分の公正性に関する指標としての代替的「搾取」概念を探求する事、さらにはそもそも如何なる状態をもって公正な分配の達成と見なせるかに関する規範理論を探求する事になるわけです。

        いずれにせよ、アナリティカル派が分析の結果、こういう結論に辿り着いたという事、したがってまた、代替的な「搾取概念」なり分配の公正性に関するより説得力ある指標を探求する事をもって、この学派が「価値判断としての「人間主義的前提」から離脱」したと見なすのは、ちょっと早計でしょう。「投下労働価値規定式とその双対体系の示す事態」というのは、直接的生産者達の再生産に必要な財を生産する際に、生産要素としての人間労働をいかに効率的に各財の生産に配分するかを決定する過程の描写なわけです。その問題と、より一般的に機能しうる分配の公正に関わる指標としてよりもっともらしい搾取概念装置は何か、という問題とは本来、互いに独立な課題たり得るわけです。この様な意味での「投下労働価値規定式とその双対体系の示す事態」という解釈自体は、上記した様に、非マルクス経済学者にも受容可能なものに過ぎません。言い換えればこのような解釈は、価値観の対立を想起するようなものではない、その意味で極めて「中立的」な「価値判断」です。他方、アナリティカル派が主張したのは、分配の公正度を評価しうる一般的指標として

は労働価値概念を使った労働搾取率の定式は機能しないという事です。搾取とは分配の公正度に関わる概念で、その意味で立場の違いに基づく価値観の対立を想起する規範概念です。この問題での労働価値概念の採用の棄却という結論が、「投下労働価値規定式とその双対体系の示す事態」という解釈自体の棄却を意味するわけではない事は容易に理解できると思います。

3)     「異質労働の抽象的労働への還元の問題」について

       この問題に関する松尾さんの見解は以下の2点に集約されている:

抽象的人間労働への還元の交換過程への論理的先行性の是非を問う吉原さんのご質問に対しては、協同社会においては事前、単純商品生産社会においては事後と答えておきます。

資本主義経済になるとどうなるのか。ここにいらっしゃる論者のみなさんは、抽象的労働への還元が交換によって事後的に確定するとすると、資本主義経済の均衡価格である生産価格が投下労働価値と比例しないことから論理的困難が生じると考えていらっしゃるようです。しかしこの点はちっとも問題ではないと思います。生産価格のもとでも社会的欲望に応じた総労働の均衡的配分は立派になされます。余計に費やされた労働は切り捨てられ、残りは社会的総労働の一環とみなせます。

上の見解のうち、まず「協同社会」と「単純商品社会」については、そもそも価値と価格の論理的先行問題自体が通常、存在しないと考えて良いので、ここでの議論の対象になっていません。問題は価値と生産価格が乖離する資本主義経済であって、これに関しても松尾さんの見解は、「抽象的労働への還元」は交換過程を経て事後的に確定されると考えておられるようですので、それを前提に議論します。松尾さんの議論は、「生産価格のもとでも社会的欲望に応じた総労働の均衡的配分は立派になされ」るから問題ないのだと結論付けていますが、これはそもそも私が問題にしている論点からずれている。「生産価格のもとでも社会的欲望に応じた総労働の均衡的配分は立派になされ」るのは当たり前で、これは新古典派一般均衡理論のフレームワークでも導かれるであろう結論です。

       そもそもの問題は、労働価値の決定という意味での各商品への総労働の配分が、生産価格の決定に依存してなされるか、独立してなされるかという事であったわけです。それに対する松尾さんの回答は、事実上、生産価格の決定に依存してなされる事を認めた上で、そうであったとしても各商品への総労働の配分が立派になされるから問題ないのだと言っているわけです。これはある意味でのマルクス経済理論体系の再構成を意味すると思います。もちろん、それはそれで私は全く構わないと思うわけですが、これはいわゆる置塩学派のマルクス経済理論体系とも違ってくるわけです。また、以前にも論じたように、これら「事後的確定」論を突き詰めていくと、還元後に成立する労働価値体系による各財の相対価値比率と生産価格体系による各財の相対価格比率が一致するように労働価値体系が決定される事となり、そもそも価値と生産価格の乖離問題が存在しなくなると思うのです。(対して置塩学派の議論の特徴の一つは、価値と生産価格の乖離問題の存在を前提とした上で、マルクスの諸命題の論証をする事でした。) マルクス的経済理論体系をそのように再構成するのだというのであれば、それはそれで一つの方法としていいとは思いますが、果たしてそこまで突き詰めて考えた上で、「事後的確定」論を展開されているのかどうか、が疑問です。

       クラウゼ(1979)も、「事後的確定」論者です。彼は、労働価値の決定が、生産価格の決定に依存してなされるか、独立してなされるかという問題に関しては、「具体的労働の抽象的労働への還元率」の決定を、「標準還元」というかなり恣意的な概念を外生的に導入する事によって、一見独立決定しているようにうまくかわしているのですが、労働価値体系による各財の相対価値比率と生産価格体系による各財の相対価格比率が一致する議論を展開しています。その一致性の仮定によって、「標準還元」を通じて決定される労働価値から、その相対値が一致するようにして生産価格体系が均等利潤率とは独立に決定されます(他方、還元の「事後的確定」フレームワークにあっても価値の決定が生産価格の決定を導く)。このフレームワークの下で、もし「標準還元」を無くしたら、労働価値体系による各財の相対価値比率と生産価格体系による各財の相対価格比率の一致性の仮定を維持しつつ、生産価格の決定後にそれに一致するように労働価値が決定されるという議論になったでしょう。生産価格体系は各部門の具体的労働の実質賃金バスケットさえ与えられていれば、通常のペロン=フロベニウス定理の適用で決定できますから。他方、「標準還元」の導入によって、一見、価値が生産価格を規定しているかのような議論が可能ですが、そこで成立している生産価格が本当に市場の競争均衡価格と整合的な価格体系なのかどうかがかなり疑問の余地があります。なぜならば、標準還元を使って決定された労働価値体系に相対比が一致するように決めた価格体系が生産価格方程式と整合的であるためには、外生的な「標準還元」率と各部門間の賃金率格差が一致するように決まらなければならないからです。しかしこのような値で賃金率が市場の長期均衡で決まるかどうかのマイクロ・ファウンデーションは全くないわけです。

       いずれにせよ、クラウゼ(1979)のようなもっとも数理的に厳密な分析を展開した場合でも、「事後的確定」論を展開する限り、価値と生産価格の相対値での一致を前提せざるを得なくなるし、また、その結果、生産価格を単に均等利潤率が成立している価格体系として解釈するのでなく、市場の長期競争均衡分析を通じて形成される価格と整合的であるという意味でのマイクロ・ファウンデーションを持った価格体系と解釈する限り、労働価値は生産価格決定に依存して決定されると言わざるを得ないように思います。「事後的確定」論を展開するならば、ここまで突き詰めて覚悟の上で論ずる必要があります。すなわち、その議論はマルクス資本論体系の大筋を大きく書き換える程の、マルクス的経済理論体系の再構成を伴わざるを得ないのだという覚悟です。