榎原均「アナリティカル・マルキシズムへの疑問」へのコメント

吉原直毅

一橋大学経済研究所,イェール大学政治学部

2002511

榎原氏は高増明論文(『季刊アソシエ』6号所収)への批判的コメントを展開されている(「論争」のページ:http://homepage1.nifty.com/office-ebara/ronsou.htm)。私は高増氏の当該論文を読んだ事がないし、現在、米国滞在中という事もあって、その論文を今手に入れられる環境にはないが,彼の主張はだいたい想像がつく。それゆえ高増氏と同様、アナリティカル・マルキシズムの立場に基づく研究者の一人として、榎原氏の批判的コメントに対して若干のリプライを試みたい。

1. 榎原氏の数理マルクス経済学批判

           榎原氏は、高増氏によるマルクス派搾取理論の数理的マルクス経済学的解説、及びそのバック・ボーンになっている置塩モデルに関して、以下のように批判する。第一に、「労働価値とは、商品一単位の生産に直接・間接に必要とされる労働時間のことである。」という定義は、価値形態論で展開される、互いに相異なる商品が共通の社会的実体として等価関係にあるとして認め合うプロセスを通じて量的規定される社会的必要労働時間こそが労働価値であるとするマルクスの議論とは、無縁の主張である。また、生産過程で私的に投下された直接・間接の労働時間と、交換過程で互いに等価と認めあう諸商品の共通の社会的実体として対象化されることによって量的規定される社会的必要労働とは、時間差があるので量的に異なってくる。したがって、このようにマルクスの労働価値概念と異なる「労働価値」の定義に基づく、マルクス転化論の議論も、マルクス本来の理論とは縁もゆかりもない。

第二に、「剰余労働とは、労働者が一定期間に支出した労働量と、その間彼が受け取った消費財を生産するのに必要な労働量との差である」という定義は、マルクスの本来の議論である、生産過程での不払い労働を表すものではなく,流通過程での労働者の投下労働時間と支配労働時間の格差へと変形された形態を表すだけのものであり、それは剰余労働の性質を示すものではなく、その効果を定式化したものにすぎない。流通過程における商品が、価値(「労働価値」)以下の価格しか持ち得ないケースがあることは平均利潤率の成立によって明らかであり、したがって,投下労働時間と支配労働時間の格差が生じるのも明らかである。同様の議論は労働力商品以外にも適用され得るのであって、その結果、鉄の搾取が存在するという事が言えるとしても、労働が搾取されることが利潤や蓄積の原泉ではないと結論づけることは当を得ていない。このような剰余価値の説明の仕方は、労働価値を交換過程で社会的に決定される社会的必要労働時間としてではなく、生産過程で私的に決定される直接・間接の投下労働時間として定義した誤りから導きだされたものである。

以上の榎原氏の批判は、マルクスの資本論を厳密に読解し、そこでの議論に立脚する立場からは比較的自然に導かれるであろう見解であり、その意味で妥当な批判であると言えよう。しかし第一に、置塩流の労働価値の定義はスミス、リカード等の古典派経済学における労働価値説での議論に基づくものであり、マルクスの労働価値説もスミス,リカードのそれを出発点にしているという意味で、決してマルクスの議論と無縁のものであると言えるものではない。マルクスの、商品価値の実体が労働である、すべての相異なる諸商品は労働体化物として共通の特性を持つという主張は、古典派経済学の労働価値説を踏まえてこそ導き出され得る主張であり、この主張から出発してマルクスの価値形態論も展開されうる。個々の商品は現象的には労働ばかりでなく相異なった資本財も投下されて生産されているので、この現象を見る限り個々の商品は様々な資本財と労働とが体化したものであると見なされるだけであり,そこには相異なる商品間に共通する価値の実体としての特性は見出されそうにない。資本財をも過去の労働の体化物と見なす古典派の視点がなければ、共通の価値の実体としての労働という視点は導き出されえないのである。

しかし、古典派のすべての商品を労働生産物としての共通の特性へと還元する試みには、ある障害が存在した。つまり複雑労働の存在の問題であり、より一般的には異質労働の存在である。すべての商品を労働生産物としての共通の特性へと還元する試みは、投下される労働が同質のものである限り、何らの障害ももたらさないし、その結果、相異なる諸商品の生産に直接・間接に投下された労働時間を、互いの商品価値の大いさの比較をするための共通の土俵として措定する事も可能となる。だが、複雑労働が存在する場合には、それらの時間単位をいかに単純労働の時間単位に還元するかという問題が伴ってくる。この問題の存在へのひとつの概念的解決として呈示されたのがマルクスの「社会的必要労働時間」としての抽象的人間労働という概念であったと言える。榎原氏の

生きた労働が社会的なものへと転化するのは、それの生産物が他の商品との交換関係に入り込み、そうすることで、この労働が他の商品とに共通なものに対象化し、双方の労働の価値実体としての同等性を相互に確認することによってだ。労働の社会性の中味は、このように、ある労働がその生産物の価値を他の労働の生産物の体で表現することによって、その労働を他の生産物に反照させ、その労働を他の生産物との共通なものへと対象化させる、というところにある。
 商品価値の実体としての諸労働が、このように相互に反照しあって異種労働の生産物と共通なものへ対象化されることで、商品交換という社会的関係を成立させている。」

という議論は、複雑労働・異質労働が存在する下での、労働を価値の実体と規定する為のマルクスの解決策を妥当と見なす限りにおいて、的確な整理であると言えよう。

2. 数理マルクス経済学における労働価値の定式に対する榎原氏のコメントに関して
      
榎原氏は、価値の実体としての社会的必要労働時間論の立場から、その観点が欠如していると言うことをもって、数理マルクス経済学における置塩流労働価値の定式化を批判している。これに対して、第一に置塩流アプローチの批判としてはそのような批判は的外れであるという事、第二に、異質労働問題を解決する為のマルクスの社会的必要労働論はそれ自体、概念上の困難があるという事、この2点を以下指摘しておきたい。

2-1.  置塩流アプローチ批判への批判

第一の問題に関して、私見に基づけば、置塩流労働価値の定式化は、単純化のために異質労働が存在しない、同質な単純労働だけからなる経済モデルを想定した下での議論である。このような想定は、産業革命以降の機械制大工業が主流となる19世紀資本主義的生産様式において、機械に従属した単純労働が主要な普遍的労働形態として見出される「様式化された事実」を前提する限り、必ずしも的外れな想定ではないと言えよう。実際、この「様式化された事実」を前提できたが故に、古典派経済学は異質労働の問題を特殊な現象として位置付ける事で、投下労働価値説を展開しえたのである。そして同質な単純労働だけからなる経済モデルを想定した下では、マルクスの価値形態論の主要な任務は「貨幣の生成」を原理的に説明する事に還元され、いわゆる彼の「社会的必要労働時間」は古典派流の「直接・間接に投下された労働時間」に還元されると見なす事が出来る。

このような単純化された世界のモデルから出発しているのが置塩流労働価値の定式化であって、そこではマルクスの「社会的必要労働時間」決定問題は当面の議論の対象にされていないが故に、その問題に関連し得るような現象はモデルから捨象してよいのである。置塩=森嶋のマルクス・モデルは「利潤の唯一の源泉としての労働搾取」というマルクス派の中心的テーゼを検証する目的で作られたものであり、その目的のために最も単純な設定から議論をスタートさせるという科学的方法論に基づいて、同質労働のモデルを扱ったのである。したがって、異質労働の存在する世界を想定し、マルクスの「社会的必要労働時間」決定問題をモデルに組み込む作業をしていないが故にそのような置塩流モデルはマルクスの議論とは無縁である、という榎原氏の批判はお門違いであると言える。

もちろん最も単純なケースでの分析結果が得られれば、その後により複雑なモデルの下で検証を進めるという具合に議論を発展させる事は自然な経路であって、「利潤の唯一の源泉としての労働搾取」というテーゼの検証問題、通常「マルクスの基本定理」と言われる議論に関しても、異質労働が存在する場合に関する研究が置塩・森嶋以降、Bowles=Gintis (1981),藤森 (1982), Krause (1982)などの研究者によってなされてきている。とりわけ、榎原氏が問題関心を寄せられている「価値形態における価値の量的規定ということを数学的に表現すること」は、Krause (1982)が二項関係アプローチという一つの方法を展開している。

高増氏や我々が「マルクスの基本定理」を巡って問題にするのは、同質労働だけからなる経済モデルという、労働価値説にとってもっとも議論の困難性がないという意味で都合のよい単純な状況を設定してさえも、「利潤の唯一の源泉としての労働搾取」というテーゼが立証できないという点である。それこそが、正の利潤が存在するとき、労働搾取の存在だけでなく、鉄の搾取の存在も主張できてしまう、という「一般化された商品搾取定理」によって呈示された問題であるが、この議論に対する榎原氏の疑問に関しては後ほどリプライするとして、ここで触れておきたい事は、こういう最も労働価値説にとって都合のよい単純な想定をした下でさえもマルクスのテーゼは反証されてしまう事の意味である。異質労働の存在やいわゆる結合生産の存在など、一般にモデルをより複雑にすればするほど困難はより増す傾向にあるから、最も単純な状況で反証されてしまうということは実はもっとも強い批判を意味するのである。そういう強い反論が成り立つかあるいは成り立たないかをチェックするためにも、最も単純な想定から議論をスタートさせるというのは意味のある科学的方法であって、もし仮に榎原氏がそのような単純な想定はマルクスのより複雑な想定と違うから、そこから導き出された否定的結論はマルクスの議論への批判を意味しない、と考えるならばそれは誤った考えですよと、まず断っておきたい。

2-2. マルクスの社会的必要労働概念について
     
榎原氏が論ずるように、マルクスの社会的必要労働概念は交換過程における互いに異なる諸商品が互いに等価関係を結ぶその関係性の中から抽出される。これは換言すれば、市場での商品交換を通じて事後的に各商品の社会的必要労働時間は決定される事を意味する。この事は、各商品の社会的必要労働時間とは市場の均衡における各商品の価格(抽象的人間労働を価値尺度として表現される)に他ならないと言ってよい。その意味で、「資本論I」における価値=価格という想定は、理論的にも裏付けられる想定であると言える。しかしそうなると、商品の労働価値とは、金で表現される商品の均衡価格を別の価格単位としての抽象的人間労働で表現されたものに他ならない、と言う事になる。さらに、市場での商品交換を通じて事後的に各商品の社会的必要労働時間が決定されるという事は、その労働時間の値はその商品への需要と供給の力関係に応じて可変的でありうると言う事を含意しよう。マルクス自身「資本論III」での「市場価値論」の章で、社会的必要労働時間の決定が需要の状態に依存して可変的であると見なしているかのように論じている箇所もあるが、基本的にこの市場価値論は未完成な議論であり、その解釈の仕方も多くの論争の余地があるものであった。しかしいずれにせよ、各商品の社会的必要労働時間の決定は、その商品への需要の状態に依存して可変的であるという風には彼自身明示的には認識していなかった様に思われる。しかし、にもかかわらず、彼の上記のような社会的必要労働時間の概念的規定そのものは、その量的決定が市場の状態に依存するという含意を導かざるを得ないものであると考える。

       このような含意は、リカードにおいて明示的に論じられたような、(奢財のような例外を除き)商品の価値及び生産価格の大いさは供給サイドによって決定され,需要サイドはその市場取引量を決定するという古典派投下労働価値説の見解と全く矛盾するものとなる。しかしながらマルクスは一方で明らかにリカードの労働価値説を継承している。「価値の価格への転化」論において彼が示そうと試みて失敗した諸商品の労働価値の相対値と生産価格の相対値との整合性問題は、リカードが試みてやはり成功しなかった、それゆえに「不変の価値尺度としての労働」という見解を一般的には主張できなかった問題を受け継いでいる。このように、マルクス自身、明示的に認識することなく、価値と価格の関係に関する二つの代替的な見方を抱え込む事によって、全体として価格決定論に関する整合的でない議論を展開していたと言える。

       諸商品の価値が市場での交換過程を通じて決定される社会的必要労働時間の大いさであるとすれば、この市場のプロセスを得て決定される社会的必要労働としての抽象的労働の測定単位はもはや実際の生きた労働時間の測定単位とは一致する保証は全くない。しかし、マルクスの剰余価値論で展開されているように、いわゆる剰余労働時間は労働者の一労働日から彼の労働力再生産の為に必要な諸商品に体化された社会的必要労働時間を控除する事で定義されている。このような議論は社会的必要労働としての抽象的労働の測定単位と実際の生きた労働時間の測定単位とが一致していなければ成立し得ない。したがって、価値形態論における諸商品の社会的必要労働時間の決定論と剰余価値論とは論理的に不整合な議論であると言わざるを得なくなる。換言すれば、マルクスの剰余価値の定義を踏襲する限り、整合的な議論の展開のためには古典派と同様、同質労働の想定をせざるを得ないかも知れないのである(同質労働の想定の下では抽象的労働=実際の労働時間と見なして良いので、剰余労働時間をマルクスの方法に従って定式化できる)

       上記の議論は、マルクスの資本論での叙述展開に忠実でさえあればそれは正しいマルクスのモデルであり、そうでないものはマルクスのモデルとは縁もゆかりもないものであるので、そこから導き出されるマルクス批判は批判足りえないという類のものの見方への疑問を投げかけている。数理的なマルクス理論に対する批判的見解はたいていこの種のタイプのものである。しかしマルクスの叙述展開に忠実である事がそもそも本当に論理整合的な理論を導き出せるのか、という問題にはやはりひとつひとつきちんと詰めた議論が必要であろう。

3.     数理マルクス経済学における搾取理論に対する榎原氏のコメントに関して

榎原氏は、上記のような彼の置塩流労働価値の定式化への批判的見解に基づいて、数理マルクス経済学の搾取理論についても批判する。つまり、そこで定式化される労働搾取はマルクスの剰余価値論のような生産過程での議論の定式化になっていないというわけである。しかし、この批判は、置塩・森嶋流モデルでは同質労働からなる単純な経済を想定している事に留意すれば、全く当てはまらないのである。むしろその想定の下での搾取の定義は極めてマルクスに忠実なものである。

マルクスは一労働日を必要労働時間と剰余労働時間とに分解した。必要労働時間は労働者の労働力の再生産に必要な諸商品の労働価値量に相当する。換言すれば必要労働時間とは彼の労働力を再生産するために必要な労働時間であり、それは彼の労働力価値に相当する。労働力の価値とはその再生産に必要な諸商品の労働価値量によって規定されるし、諸商品の労働価値とは要するにそれら諸商品の生産に要する直接・間接の労働時間に一致する事が同質労働の想定化では言える。かくして、彼の必要労働時間は彼の労働力を再生産するために必要な諸商品の生産に要する直接・間接の労働時間として決定される。この必要労働時間は彼が資本家から労働力売買契約を通して受け取る労働力価値に相当するから、この時間を超える労働時間分は不払い労働としての含意を有する。したがって、労働者の一労働日から彼の労働力再生産に必要な諸商品生産に要する直接・間接の労働時間を控除したものが正の値をとることが搾取の存在であるという置塩流の定義は、マルクスの不払い労働の概念を定式化したものである。この「労働力再生産に必要な諸商品」という概念は数理モデルではしばしば外生的に与えられた「賃金財バスケット」という呼ばれ方をする事もあって、事後的にこの搾取の定式化は労働者の投下労働時間と支配労働時間の格差という解釈の仕方も可能である事が判明したとは言え、もともとのこの定式の動機付けはオリジナルのマルクスの不払い労働論に他ならないのである。

他方,「一般化された商品搾取定理」において言及される「鉄の搾取」とは、単に鉄の1単位生産の為に直接・間接に投入される鉄の総量が1よりも小さいと言う事を搾取と呼んでいるだけで、そこに「搾取」という用語に特有の意味はない。したがって「マルクスの基本定理」、すなわち正の労働搾取率と正の均等利潤率の同値性が言えるとき、同時に正の鉄の搾取率と正の均等利潤率の同値性も成立すると言う、「一般化された商品搾取定理」からもたらされる含意は、利潤の唯一の源泉は労働ではなく鉄の搾取であると言う事ではない。この点、もし本当に高増氏が「鉄が搾取されることもある、という理由で、労働が搾取されることが利潤や蓄積の原泉ではない(119頁)と結論づけたのだとすると、その見解は私のものとは異なる。

私はまず、「一般化された商品搾取定理」の含意としては、「マルクスの基本定理」の成立をもってだけでは、労働搾取が利潤の唯一の源泉であるというマルクスのテーゼの証明にはならないという事を挙げたい。それは「マルクスの基本定理」に関してそのような解釈のされ方がされてきた事を背景に意味ある含意であった。労働搾取が利潤の唯一の源泉である事を論証するためには、正の労働搾取率と正の均等利潤率の同値性が言えるばかりでなく、正の利潤率と同値関係を結ぶのが正の労働搾取だけであるという事まで主張できなければならない。「一般化された商品搾取定理」はそのような主張ができない事を示しているので、この事は「労働搾取が利潤の唯一の源泉である」というテーゼがまだ論証されていない事を意味する。しかしながら、それ自体は 「労働が搾取されることが利潤や蓄積の原泉ではない」というまた別の主張の論証を必ずしも意味するものではないのである。

第二に、「一般化された商品搾取定理」は、任意の商品kの1単位生産に直接・間接に投入される商品kの総量が1よりも小さい事と正の利潤の存在が同値である事を主張するが、この事は換言すれば正の剰余生産物の生産可能性が正の利潤の必要十分条件であるという極めて自明な結論を意味する。つまり、正の搾取の存在に関する議論は結局のところ、正の剰余生産物をいかなるニュメレール財で量るかという議論と論理的に同値になってしまうのである。したがって、「マルクスの基本定理」も「一般化された商品搾取定理」もいずれも正の利潤の源泉として何らかの生産要素の不公正な取り扱いの存在を論証するような議論とは全く無関係であると言うべきである。その意味で、置塩・森嶋流の「マルクスの基本定理」の試みは失敗であったと総括すべきである。

ところで、なぜマルクス派が「労働搾取が利潤の唯一の源泉である」というテーゼに拘ったかといえば,その論証によって、結局、資本家による利潤占有の不当性の含意を引き出す事にあった。つまり不払い労働の存在が正の利潤の源泉であると言う事は、当然その取得権は本来、資本家にあるのではなく労働者にあるという含意を意味するのである。しかしながら、正の剰余生産物の生産可能性という生産の技術条件が正の利潤の必要十分条件であるとすると、いわゆる「利潤源泉論」の展開によって資本家による利潤の占有が不当であるという含意を引き出す事はもはや出来ない。さらに言えば,私は、私的所有制度を前提にする限り、資本家による利潤の占有が不当であるという結論は導き出せないばかりでなく、むしろ正当化できると見なしている。そこら辺の議論展開は「経済研究」誌に最近掲載された拙稿(吉原(2001))で詳論しているので、そちらの方を参照していただきたい。

参照文献

S. Bowles and H. Gintis (1931): Structure and practice in the labor theory of value,Review of Radical Political Economics, 12, pp.1-26.

Y. Fujimori (1982): Modern Analysis of Value Theory, Springer-Verlag. Berlin, Heidelberg, New York.

U. Krause (1982): Money and Abstract Labor, New Left Books. London.

吉原直毅 (2001): 「マルクス派搾取理論再検証 -70年代転化論争の帰結――」, 経済研究(一橋大学経済研究所編集) 523 (20017), pp. 253-268.