「『新自由主義』に対する科学的オールタナティブ構想に向けて」[1]

 

吉原直毅

一橋大学経済研究所

 

20051123

 

1.     「新自由主義」に対する既存のオールタナティブ路線に欠けているのは何か?

いわゆる「経済のグローバリゼーション」の下で、日本の福祉国家制度も本格的再編が進んでいる。その動向は、「新自由主義」路線として特徴付けられることも多い。すなわち、経済的自由競争を重視し、規制緩和や市場の競争ルールの整備を進める一方、社会福祉教育など従来公共部門が担ってきたものを民間へと移して「小さな政府」を作り、「民間活力」による経済的効率やサービスの向上を図る路線として特徴付けられている。これらの政策路線の資源配分的特徴の一つは、端的に言って大企業や高所得者への優遇的な減税の実施であり[2]、他方での福祉的支給の切り詰め・制度見直し[3]等を通じた、所得再分配メカニズムの変換である。こうした政策的動向は、他方で労働市場の規制緩和[4]やそれを法的根拠として進行する非正規雇用比率の拡大[5]の下での民間給与総額の減少という傾向[6]と相俟って、結果としての所得格差の拡大をもたらしている[7]。また、所得の不平等が世代を通じて拡大的に再生産される傾向もあって、出身家計に起因する人生選択の「機会の不平等」が近年拡大傾向にあると、社会的にも認識されつつある。

「新自由主義」路線に基づく福祉国家制度の再編成は、政治学や社会学、マルクス系経済学等の学問的議論上でも、批判の対象として取り上げられる事が多い[8]。しかし、それらの議論の中には、なぜ「新自由主義」路線は批判されるべきなのか、そしていかなる代替的路線が実行可能なプランとして呈示されうるのかという理論的観点を欠いたものも少なくない様に見える。つまり、「新自由主義」的福祉国家再編成の特徴付けに関しては、その事実的動向を指摘・説明することで済ませ、そうした政策的動向がいかなる経済的合理性を持ち得るか、いかなる経済理論的裏づけを持ち得るのか、という問いの重要性に関する認識は極めてプリミティブな段階に留まっているように見える。

例えば、池上・二宮編 (2005)は、「豊かさ」や「貧困」に関する概念的把握に関してアマルティア・センの「機能と潜在能力」[9]アプローチとも問題意識を共有する「人間発達」という概念を軸に、「人間発達を支援する社会システム」を目指すべき福祉国家路線として展望している。その問題意識は高く評価できるものの、そうした路線が導くであろう経済的資源配分メカニズムが実行可能(feasible)なものとして存在し得るのか、そしてそれはいかなる特徴を持つのかという不可欠の経済的問題意識に欠け、その結果として多くの提言が経済理論的根拠の薄弱な「夢物語」の吐露に終わっている。また、成瀬・二宮(2005)における「福祉国家解体戦略としての新自由主義」論[10]に伺えるように、依然として多国籍企業・大資本を敵視した階級闘争史観的思考に捉われ続けている様に思える。

しかしそのようなレッテル張りを受ける「新自由主義」路線も、経済の「グローバリゼーション」の下で、国民経済の国際競争力の維持・強化の必要性を考慮する観点からは別な評価が有りうるのである。つまり、一連の規制緩和や市場の競争ルールの整備は、市場の競争的メカニズムとしての機能を改善させる事を通じて、経済的資源配分をより効率化させ、社会的厚生の改善に寄与するだろう。また、法人税や所得税における最高税率の引き下げや有価証券取引税の廃止、配当所得への減税、研究開発促進税、あるいは労働市場の規制緩和等々、総じて国家予算配分の、社会的弱者向けの福祉関連項目から国内主要産業の国際競争力強化対策項目へのシフトは、結果的に主要大企業に先導される形で国民経済の生産性と国際競争力を維持・向上させる事によって、長期的には社会的弱者の雇用条件の改善・拡張や福祉関連予算の確保・拡張が見込まれ、結果的に弱者も長期的には改善されるであろう、と。

こうした議論の「正当性」についても、新古典派経済学の精緻なミクロ経済理論的分析によってある程度の裏づけを与えることは十分に可能である。実際、現代の厚生経済学における標準的な政策的評価基準である「仮説的補償原理」は、「新自由主義」的政策体系の理論的正当性を検証する術を与えてくれるであろう。他方、こうした理論武装を備えた「新自由主義」路線に対して、その対抗路線のサイドは確固たる経済理論に立脚した反論を提示できるであろうか?「新自由主義」的「改革」によって社会的弱者がいかに悲惨な境遇に陥っているかについての現状の実態告発という批判的言説を展開する事は出来るであろうし、ケインズ主義経済学の枠組みに立脚した景気対策についての言論を展開する事も可能かもしれない。そしてこうした議論ももちろん重要である。しかし、日本社会の長期的構造のあり方を巡っての社会的選択問題というコンテキストにおいて、「新自由主義」的「改革」路線は一つの選択可能な戦略として位置づけ可能であるのに対して、その対抗路線サイドはどこまで有効な代替案を呈示し得ているだろうか。現状は、はなはだ心もとないと言わざるを得ないだろう。そもそも「新自由主義」的「改革」が導く経済的資源配分メカニズムの構造を特徴づけ、「長期的には社会的強者のみならず弱者の状態をも改善できる」という、伝統的な厚生経済学的分析に裏付けられた主張に対して理論的な反論を正面から行い、さらに経済理論に立脚した代替案までをも提示することは並大抵の作業ではない。

もちろん、「新自由主義」路線への対抗勢力も、様々な代替案(オールタナティブ)の提示の試みを行ってきている事については、私もある程度、承知しているつもりである。例えば、今日、生活扶助基準の見直しと自立支援制度の見直しとして特徴付けられる「生活保護制度の見直し」問題に見られるように、就労に条件付けられた給付制度としての「ワークフェア」政策の推進が「新自由主義」的福祉政策路線である。対してその対抗路線の一つが所謂「基本所得」(ベーシック・インカム)政策である[11]。また、政府・自治体の福祉・公共サービス供給活動における予算切り詰めと市場原理の導入という動向に対して、NPOやボランティア・地域生協組織等による代替的供給運動があるし、地域通貨による地域コミュニティ再建運動も存在している。マルクス主義においても、旧ソ連・東欧型の中央集権的社会主義システムの失敗が明らかになったに伴い、マルクスの「真の」将来社会論としての「アソシエーション社会」論が注目されるようになり、資本主義経済システムへのオールタナティブとして、協同組合型企業の連合体としての経済システムが展望されるようになった。

しかしこうしたオールタナティブ構想の多くは、一部の社会科学研究者たちのコミットメントにも拘らず、経済的・政治的実行可能性という観点で説得力の不十分さが散見されるように思う。そのような未熟さの大きな理由の一つは、こうした構想によって、いかなる経済的資源配分メカニズムが制度化されるのか・されるべきなのか、あるいはいかなる経済的資源配分が実現されるのか・されるべきなのか、という経済理論的視点を欠いていることにある。例えば、「基本所得」構想に関しては、ヴァン・パレース[Parijs (1995)]が規範理論的・厚生経済学的基礎付けの作業を行っている[12]。だが「基本所得」構想やパレースの議論を紹介する日本の社会科学者の論文[13]を拝読する限り、そうした基礎理論への確かな理解に基づいて「基本所得」構想を検証する試みの必要性に関して、殆ど無関心であるように思える。こうした現状である限り、「新自由主義」路線を支持・推進する人々を論破・説得する事は永久に不可能であろうし、そうした政策を支持・推進する経済学者からは、殆ど議論の相手に値しないと見なされるだけであろう。

 

2.     新自由主義の何が問題か?

「新自由主義」路線の規範理論的根拠は以下の二つに見出すことが出来る。すなわち、リバータリアニズムと経済的厚生主義である。リバータリアニズムは、ロバート・ノージック[Nozick (1974)]の「獲得と移転の正義の原理」に基づく手続き的正義論に代表される。「獲得の正義」は、天然資源・生産物・サービス等からなる外的資源(external resources)の専有の権原を規定する。すなわち、ある個人が外的資源の一部を専有する権原を有するのは、その資源が誰の所有物でもなく、かつ、彼がそれを専有することによって、それが誰によっても所有されていなかったときの社会状態と比較して、誰もその効用を下げることがないときである、と定められる。他方、「移転の正義」は、ある保有物をその権原を有する他の人からの自発的な贈与によって得る場合に、その保有物への権原を認める。他方、それが拳銃強盗によって他者から収奪したものである場合には権原は認められない。このように、「移転の正義」によって、市場における自発的交換が許容されるのに対して、「獲得の正義」は、外的世界が無所有の初期状態と比較して、パレート弱改善(=「誰もその効用を下げることがない」)でありさえすれば、いかなる資源の専有に対しても権原を認めるから、結局、十分に整備された私的所有制度を前提とした市場の競争的資源配分は何であれ、正義の基準を満たすことを意味する。反面、こうした二つの基準を満たさない様な、公的機関による再分配政策は批判されるのである。

このように、ノージックの議論は、私的所有制度下の競争的市場メカニズムを、その手続き的特性から正当化する。関連する議論は、ミルトン・フリードマンの『資本主義と自由』における「手続き的公平性」論に基づく、競争的市場メカニズムの正当化であろう。そこでいう「公平性」とは市場の持つ形式的な意味での「機会均等」、すなわち人々が生産性とは無関係な個人的特性によって差別的な処遇を受けることが無い、等々の機能についての言及である。その限りでの「手続き的公平性」に関して、市場のパフォーマンスを高く評価できることに関しては、我々も同意する。しかし、こうした評価が私的所有制度の下で市場が機能する資本主義経済システムを前提になされるとき、その評価は一面的なものである事も頭の隅に留めておくべきである。

こうした批判は、ジョン・ローマー[Roemer (1982)]などのアナリティカル・マルクス学派が展開する「搾取と階級の一般理論」[14]に基づいて導き出すことができる。生産手段の私的所有制度の下での市場経済の機能を考える限り、資産を持っている個人と資産を持っていない個人とでは、たとえ彼らの本来的に備わっていた才能や技能、あるいは勤勉に対する意欲という点においても、まったく差がないとしても、各々の経済的行為の選択の機会において大きな不均等が生じてしまうのである。無資産の個人は生きていくために、雇用労働者となって日々の糧を得るために奔走しなければならない。彼が生活手段を得るためには雇用が継続されなければならないから、職場において多少の不服や人権侵害があっても、上司に服従して働かざるを得ないという弱い立場にもならざるを得ない。他方、資産がある個人であれば、どこかの企業で雇用労働者として働いても良いし、資産の大きさ如何では、その利子収入だけで十分な生活の手段を確保することも出来、毎日を享楽的放蕩生活で彩ることも可能だ。もちろん、資産を自分の人的資本の陶冶のために投資して、自分の技能や将来のキャリア・アップの可能性を高めるようなより「生産的」な生き方も可能であるし、仮に雇用労働者として働いていても、いざとなれば資産で食いつなげるという裏づけがあれば、嫌な上司の命令や不当な人事的取り扱いに対しても服従する必要は必ずしもなく、辞職してしまえばよいと思って強気で行動することも可能だ。

以上の考察は、私的所有制度の下での市場メカニズムの原理的特性として、人々のライフ・チャンスの自己実現を自律的に選択する機会の大きさが、資産を持っているか否かだけで著しく不均等になり得る事を明らかにしていよう。こうした不均等は、市場による経済的資源配分に何らかの介入や結果の変更を加えない限り、ますます拡大する傾向があり、世代的にもこうした不均等が拡大再生産される傾向を有する。人々のライフ・チャンスの自己実現を自律的に選択する実質的機会の不均等を拡大するこのような傾向を、規範理論的に許容できないと考えるのであれば、何らかの所得再分配なり資源の再分配なりで、資産の不平等を緩和するしかないであろう。ノージックやフリードマン等の「手続き的正義」の観点による市場メカニズム肯定論に欠けているのは、このような選択機会の不均等問題への洞察である。

リバータリアニズムが、「新自由主義」路線による経済的自由競争の重視、規制緩和や市場の競争ルールの整備、公共部門における市場原理の導入、等々に対して、「手続き的正義」論の観点から規範的正当性を与え得るとすれば、経済的厚生主義は、それらの諸政策が結果的に導く経済的資源配分に帰結主義的観点からの規範的正当性を与え得るだろう。経済的厚生主義とは、人々が社会において享受する福祉状態に関する評価を、人々の主観的選好の充足度に基づいて行う立場・方法論である。とりわけ新古典派経済学の舞台設定の下では、それは個々人の財・サービスの消費に関する主観的選好の充足度を情報的基礎として、社会の福祉状態を評価する議論であると要約する事が出来よう。

いわゆる厚生主義(welfarism)による社会的福祉の評価方法に関しては、アマルティア・セン[Sen (1979; 1980)]やロナルド・ドゥウォーキン[Dworkin (1981a; 2000)]などによる批判が良く知られている。それらは人々が享受する福祉を主観的選好の充足という観点からのみ評価する、その情報的基盤の限定性への批判であった。さらに、選好充足としての厚生概念に関しても、いかなる種類の選好の充足に起因しているかという問題に対して厚生主義が採る中立的態度を批判するものであった[15]。これらは、厚生主義一般に関わる哲学的・方法論的批判である。対して、ここで言う経済的厚生主義とは、実際の経済政策の評価等の論脈でしばしば応用ミクロ経済学の分野で採用され、かつ政策的意思決定にも影響を与え得る、厚生主義的厚生経済学で開発された「仮説的補償原理」や「社会的余剰分析」などの手法やアプローチが前提する規範理論を指す。

具体的に「仮説的補償原理」について言及しておこう。例えば既存の社会状態Xから、ある政策の実行によって社会状態がYに移行した結果、個人1は状態が改善したものの、個人2の状態は悪化したとしよう。その際に、仮に個人1から個人2への何らかの所得移転による補償がなされるならば、その移転の結果として個人2が元々の社会状態Xのときに享受していた効用水準を確保することが出来、同時に個人1の効用水準は、その所得の一部が個人2へ移転したにも拘らず、元々の社会状態Xのときに比べて尚、高い水準にあることが見込まれるならば、XからYへの社会状態の移動をもたらす政策は実施すべきであると判断するのである。これは仮想的所得移転による仮想的パレート原理[16]の適用による政策の意思決定に関する判断基準であり、その意味でパレート効率性基準の拡張であるといわれる所以である[17]

仮説的補償原理に代表される経済的厚生主義が、人々の財・サービスの消費に関する主観的選好の充足度という観点での福祉概念に立脚している、と言われることの意味をもう少し掘り下げて考えてみたい。すなわちその意味とは、個々人の福祉を、貨幣的測度で評価可能な、市場化可能な経済的財・サービスなどの消費から得る主観的選好の充足度としてのみ理解するという事であり、その結果、社会的厚生ないしは社会的福祉というものも、こうした意味での貨幣換算可能な経済的便益の総計として理解するものである。その様な評価は以下の様なミクロ経済理論ではよく知られた命題によって裏付けることが出来る。すなわち、仮説的補償原理に基づく政策評価は、一定の条件下[18]では実は、国民所得テストに基づく政策評価と同値になる、と。つまりこの二つの政策評価は多くの状況において、同様の結論を導き出すのである。

国民所得テストとは、ある政策の実行による既存の社会状態Xから新たな社会状態Yへの移行の妥当性を、社会状態Xにおける国民総所得と社会状態Yにおけるそれとの比較によって判断する方法である。すなわち、社会状態Xよりも社会状態Yの方が国民総所得が大きいのであれば、この政策は是認される[19]。かくして、仮説的補償原理と国民所得テストの同値性は、経済的厚生主義が想定する社会的厚生ないしは社会的福祉の概念とは、国民総所得という貨幣的尺度で量的評価可能な経済的総便益に他ならない事を意味しよう。しかも、国民総所得とは主に市場における財・サービスの取引の帰結であるから、経済的厚生主義の社会的福祉概念とは、主に市場を媒介して享受される経済的総便益であると総括できるのである。

したがって、「新自由主義」路線が貧富の格差や機会の不均等を拡大し、社会的弱者の状態を「絶対的」に悪化させるとしても、産業界の国際競争力の強化による企業収益性の改善が見込まれることで、結果的に総国民所得の上昇が想定されるならば、経済的厚生主義の立場からは是認される。しかし本来、社会的厚生ないし社会的福祉の概念とは著しく包括的なものであって、およそ思慮ある人であれば価値を承認するはずのすべてのものを含んでいる。経済的厚生主義が対象とする社会的厚生とは、この広義の概念としてのそれではなく、直接または間接的に貨幣という測定尺度と関連付けられる(市場)経済的側面としてのそれに限定されている。

              経済的厚生主義の社会的厚生概念の限定性についてのこうした認識は、すでにその始祖とも言えるA.C.ピグー[Pigou (1932)]において存在していた。例えば、ピグーは『厚生経済学』の「第1 厚生と経済的厚生」において、「我々の研究範囲は、社会的厚生のうち、直接または間接に貨幣の尺度と関係付けられることのできる部分に限られることになる。この部分の厚生は経済的厚生と呼ぶことができよう。」と述べ、広い意味での厚生概念と「経済的厚生」概念とを区別し、当面の課題を「現実の近代社会の経済的厚生に影響を及ぼす或る重要な部類の原因」の研究に限定している。すなわち、貨幣尺度が適用可能な経済的厚生が経済学の対象であると限定したのであるが、彼自身はこうしたアプローチに潜む問題点も十分に認識していたのである。そのことを彼は「一つの経済的原因が非経済的厚生に対して及ぼす影響の仕方が経済的厚生に及ぼす影響を相殺するようなものであるかもしれぬ」と表現し、端的な例として経済的満足の追求に集中するようになる国民の、倫理的質の面での後退現象について、様々な例を列挙している。「ドイツ国民の注意は仕事をすることを覚えようという考えに集中され、そのために往時のように人物たることを学ぼうと努めなくなった」というわけである。

また、資本と労働との間の疎外的関係についても、ピグーは言及している。両者の対抗関係の根源は「賃金率に関する不満」というような経済的厚生上の問題に還元できるものではなく、「自由と責任とを労働者から奪い去り、彼らをば他人の便宜に応じてあるいは使用しあるいは捨て去るところの道具に過ぎぬもの」と位置づけられる労働者の「一般的地位」そのものに関する不満からも来ていると、論じており、こうした問題を非経済的厚生上の問題と位置づけている。その上で、「労働者に彼ら自身の生活を支配する能力を一層強めるようにするために、例えば労働者委員会を通じ使用者と協力して規律と職場の組織とに関する問題を監督すること、あるいは民主的な選挙による議会をして国有産業の責任を直接に負わしめること・・・などは、たとえ経済的厚生を変化せしめず、または実際にこれを毀損することとなっても、全体としての厚生を増大せしめるであろう。」とも論じているのである[20]

以上のようなピグーの認識は、現代における「新自由主義」路線に対抗可能なオールタナティブ構想を考える上で、重要な示唆を与えてくれる。実際、人々がその人生を通じて彼の厚生を高めるのは、経済的な消費活動によって享受する満足だけではない。人々は、良き家族関係、友人関係、隣人関係の存在によってしばしば自らの人生に幸福を感ずる事に見られるように、他者とのよき社会関係・コミュニケーションを形成する事を通じて豊かな良き生を享受しているという側面があり、また、新鮮できれいな空気や水、さらには新鮮な食生活にどの程度恵まれているかという点が、個人の人生評価に大きく影響する事からも見出されるように、豊かな自然環境に囲まれる中で地球に生息する生物として健康な生活を維持する事を通じても、豊かな良き生を享受していると言える。

広義の社会的厚生の水準を規定するこうした非市場経済的社会生活の諸側面が、例えば、社会的厚生の経済的側面における(潜在的)パレート主義的改善を試みる仮説的補償原理に基づく政策勧告の結果、果たしてより改善される方向に進むか、あるいは逆に市場がもたらすより効率的な私的財消費の満足の達成とは代替関係にあるのかは、一概には明らかではないのである。例えば、介護の問題などがそうであろう。介護労働というのは効率的な収益確保を目的とする競争的な営みというよりも協同的な営みであり、それに関わる人々の互恵的連帯やコミュニティがその営みを有効に機能させる上で重要なものと位置づけられよう[21]。こうした営みが「福祉サービスの市場化」という形で、利潤最大化企業などによって供給されることが、果たして介護がその受け手や担い手にもたらす「厚生」を高めるという観点で、どれほどに適切であるかは議論の余地があろう。

アマルティア・センも認めるように[22]、相手の自立をめざし、自らも自立し協同して働く協同労働であるべき介護労働は、利潤最大化企業よりもNPOや協同組合的組織などを通じてより有効に提供されるかもしれない。もちろん、ミクロ経済理論的には利潤最大化企業による市場的資源配分と協同組合的企業によるそれとでは前者のほうが配分効率性の観点で優れていることは既知の事である。これは、通常の純粋私的財市場の想定の下で、消費者の得る便益を金銭的に評価しうる限りで表現するコスト・ベネフィット分析によって配分効率性を評価するならば確かにその通りである。しかし、そうした既存の厚生分析が、介護が本来もたらすであろうコミュニケーション機能を適切に評価しえるかどうかは検討の余地ある問題であろう。経済的資源配分システムは市場などのような競争メカニズムのみによって担われるべきものとは限らない。非市場的で非競争的な、「協同原理」[23]に基づく組織やメカニズムが、市場的競争メカニズムによってだけでは十分かつ適切に提供し得ない役割を担う補完的機能としてどれほどに堅固に存在し得るか[24]?このような可能性の検討について、経済的厚生主義に立脚する「新自由主義」路線は十分な位置づけを与える事は出来ないだろう[25]。しかし、オールタナティブな福祉社会・福祉国家を構想する為には、こういう可能性を視野に入れた規範理論が必要なはずである。

 

3.     多元的評価基準に基づく「社会的厚生関数」の議論の必要性

「新自由主義」路線を正当化する規範理論として、我々はリバータリアニズムと経済的厚生主義を批判してきた。では、「新自由主義」へのオールタナティブを志向する路線はその構想をいかなる規範理論に基づいて正当化すべきであろうか?残念ながら、「新自由主義」への対抗勢力は、自らが拠って立つ体系的な規範理論を整合的に構成する努力を払ってきているようには思えない。しかし今後、「新自由主義」路線の欠陥を克服した代替的な福祉社会を構想し、その具現化へ向けて一歩踏み出すためには、整合的な規範理論を自覚的に構成する作業が不可欠であろう。

規範理論の整合的な構成とは何を意味するのであろうか?私は、それは一つの社会的厚生関数の構成作業であると理解している。社会的厚生関数とは様々な政策体系の実行によって導かれるであろう社会状態や経済的資源配分についてのランキングを与えるものであり、そのランキングに基づいてその社会が採用すべき政策体系を同定し得るものとして、標準的なミクロ経済学では位置づけられている。この社会的厚生関数という概念装置自体は、「福祉国家」的政策を巡る現代的課題を想定する場合にも不可欠である。問題はどのような社会的厚生関数を構成するべきかという点であり、従来の標準的なミクロ経済学のテキストで論じられている、バーグソン=サミュエルソン型(B-S)社会的厚生関数が問題視されるのはこの論脈でである。それはB-S社会的厚生関数とはまさに、個々人の消費に関する主観的選好の充足度のみを情報的基礎とする厚生主義的立場に立つものであるからである。しかし、社会的厚生関数とはその社会が人々に享受する福祉水準を評価するものと解釈されるのであるから、それが与える社会状態のランキングは、人々の福祉のあり方に関する適切な観点なり指標を十分に反映するものでなければならないだろう。消費に関する主観的選好の充足度という観点は福祉の一側面にしか過ぎず、より多元的な観点が、とりわけ「新自由主義」的政策体系を乗り越える代替案を構想する際には不可欠なのである。

ではいかなる代替的、並びに補完的な評価の観点が考えられるであろうか?当面、以下の3つの基本的観点を呈示したいと思う[26]。一つは、現代の市民社会を前提する以上、個人の人生選択に関する自律性(autonomy)は最大限、保証されるべきという観点である。これは自由主義的価値観を前提するものであるが、少なくとも日本や欧米などの社会では、個人の人生選択に関する自律性が保証・実現されているか否かは、その個人の「善き生」を評価するうえで重要な一側面になっている。我々は封建社会や中央集権的社会主義社会のような個人の自律性が抑圧される社会よりは、ある程度の政治的自由主義が確立し、経済的意思決定に関しても市場経済の下である程度の分権性と「選択の自由」を享受できる現代的市民社会の方をより高度な福祉社会と見なすだろう[27]。こうした観点は、考えられる社会的厚生関数のあり方に関して一定の制約を与えよう。つまり、仮に人々に十分な消費の充足度を実現する社会経済システムであっても、それが市場経済下で保証されるだろう意思決定の分権性や選択の自由などを保証し得ない制度であるならば、そのような社会状態の下での人々の享受する福祉は高く評価され得ないのである。

第二に見るべきは、ではその社会の中でそれぞれの個人が自律的に選択する人生の目的としての「善き生」を、十分に追求・実現できているか否か、という観点だろう。もちろん、「善き生」の追求・実現の程度は個々人の意思や努力にも依存するものであるから、政策の選択や評価の際に重要なのは、それぞれの個人が自律的に選択する「善き生」を追求・実現するための機会なり条件を、どの程度実質的に保証・整備しているかである。この問題の論脈において、「善き生」を追求・実現する手段としての経済的財・サービスの資源配分の「公正性」が問われることになる。そこでは、いかなる資源配分を公正と見なしうるかに関する分配的正義論が不可欠である[28]。そのような分配的正義論は、我々が言及してきたところの「広義」の福祉概念に基づいた非厚生主義的なものであって、人々にとっての「広義」の福祉実現の実質的機会の出来る限りの均等性を要請するものであるべきだろう。そのような福祉概念として、ここではラディカル派系マルクス経済学者として著名なハーバード・ギンタス[Gintis (1972)]の「活動」概念と、その議論の発展系とも位置づけ可能なアマルティア・センの「機能と潜在能力」論について言及しておきたい。

ギンタスは、新古典派経済理論の福祉モデルを〈消費と所得〉偏重と批判した上で、代替的な福祉モデルとして、「社会生活において実行される個人の活動から生じるものとしての福祉」論を提示している。ここで言う「活動」の個人的福祉に対する貢献として、(a)個人が活動を遂行し、評価するために開発した個人的能力、(b)活動がそのものとでおこなわれるところの社会的活動文脈(労働、コミュニティ、環境、教育制度など)、(c)活動をおこなうにあたり手段としての個人に利用可能な商品、以上を挙げている。そして、資本主義では個人的福祉をもたらす社会的活動文脈は、市場化された商品の消費のための手段となり、また、どれだけ積極的な社会的活動文脈に近づけるかは個人の所得稼得能力に依存すると主張する。従って、人々は望ましい社会的活動文脈へのアクセスのために、コミュニティを充実させる社会政策への支出よりも、個人的に福祉的消費財の購入によって対応しようとする傾向がある、とギンタスは指摘している。

アマルティア・センの「機能と潜在能力」論は、上記の「活動」概念を精緻化し、数理的に表現可能な形に仕上げたものと言っても良いかもしれない。センは、分配的正義に適う社会状態を決定するに当たっての、福祉の評価単位として財・所得などを採用するアプローチについて、これらの財・所得が人々に何をなすのかではなく、財そのものに関心を寄せる点でフェテシズムに陥っていると批判する。他方、経済的厚生主義は財・資源が人々に何をなすのかについての関心を、財・資源に対する人間の心的反応の観点でのみ寄せているだけである、と批判する。これらの議論で見落とされているのは、財・資源を利用する事で人間は病気から脱却する事が出来る、適度な栄養状態を保つ事が出来る、移動が出来る、コミュニティの社会生活に参加する事が出来る、等々の人間の「行為と存在」――善き生(well-being)の客観的特性(objective characteristics)である。これらをセン[Sen (1985)]機能(functioning)と名付けた。ある財・資源を利用する仕方は多様であり得るが、それは個人による一つの財の様々な利用の仕方に応じて様々な機能ベクトルが達成可能である事を含意する。財の利用によって個人が達成可能な様々な機能ベクトルからなる機会集合を、センは潜在能力(capability)と呼んでいる。そして、機能の実質的機会集合としての潜在能力を出来る限りに均等化するような経済的資源配分の実行を要請する事こそ、センの分配的正義論である[29]

上記の議論は、人々の消費に対する私的選好の充足度という経済的厚生主義の観点それ自体が不必要である事を意味するわけではない。「パレート原理」として定式化されているこうした基準は、人々の福祉状態を評価する上で依然として、重要な基準のひとつである。経済的資源を無駄に処理してしまう経済システムがもたらす人々への不幸の大きさについては、我々はソ連・東欧崩壊の歴史的経験から十分に学ぶことが出来る。従って、経済的便益の効率的達成を実現する上で市場メカニズムが依然として最も優れた制度であると確認できる限り、たとえ非厚生主義的な分配的正義の観点を強調すべきとは言っても、我々は、市場の利用の放棄を要請するべきではない。いわゆる「厚生経済学の基本定理」も示すように、経済的厚生主義の観点はそう我々に示唆するであろう。また、経済の「グローバリゼーション」の下、他方で必要な経済的規制に関する国際的協調なり国際的行政組織の形成が尚、困難な現状の下では、国民経済の国際競争力の維持・強化への関心を寄せうる経済的厚生主義の観点を無視するべきではない[30][31]

           上記の3つの観点はそれら自体は別個の次元の価値基準であるが故に互いに相反する判断を導きうるものだ。その際に必要なのは、それらの多元的な価値基準に基づく諸判断間のウェイト付けなどによる調整によって、3つの観点間のバランスのとれた、全体として整合的な社会的ランキングを導くことである[32]。それこそが、整合的な規範理論体系としての一つの社会的厚生関数の構成作業であり、その際にいずれの価値基準にどれだけのウエイトを賦与するべきかという問題において、その規範的立場の固有性が現れる事になる。こうして構成される社会的厚生関数に基づいて、我々は当面の実行可能な政策オプションの集合内のいずれが、我々の社会的目的にとって最適な実行可能政策であるのかの見通しを立てることが出来るのである。それによって、「新自由主義」路線とのより有効な論戦なり実りある対話も可能になってくるだろう。

 

参照文献

 

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Dworkin, R., (1981b): “What is Equality?  Part 2: Equality of Resources,” Philosophy & Public Affairs 10, pp. 283-345.

 

Dworkin, R., (2000): Sovereign Virtue, Harvard University Press: Cambridge.

 

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[1]本稿最終版作成に当たり、安藤道人、伊佐勝秀、奥島真一郎、保田幸子の各氏より初稿版へのコメントを戴いた。また、関連する研究テーマに関して、宇佐美誠、神林龍の各氏それぞれとの議論の機会を得た事が有益であった。ここに感謝申し上げる次第である。

[2] 例えば、法人税(97年度37.5%から98年度34.5%、99年度30)法人事業税(97年度12%、98年度11%、99年度9.6)等の減税、所得税(98年度50%から99年度37.5)・住民税(98年度15%から99年度13)の最高税率引き下げ、研究開発減税(研究開発促進税制)(03年度)有価証券取引税の廃止(99年度)、配当所得(03年度)への減税、等々の実施である。

[3] 例えば、「生活保護制度の見直し」では、「自立支援プログラム」の導入の提案など自立的支援制度・運用の見直しが検討される一方、老齢加算や母子加算の段階的廃止が検討され、全体として生活保護費の国庫負担率引き下げ(2007年度実施) と地方自治体への負担の転嫁が「三位一体改革」の一環として検討されている。

[4] 例えば、労働基準法の改定による、裁量労働制の導入(98年度、03年度)や、従来一年以内とされた有期雇用の三年までの拡大(98年度、03年度)、また、派遣労働の「原則自由」化(00年度)及びその製造業務への適用(04年度)等。

[5] そうした動向は結果的に労働市場の買い手市場的構造を強化することもあり、正規被雇用者においても総労働時間の増大という傾向が見られている。

[6] 98年度以来、ここ5年間で19.2兆円ほど減少している。

[7]「所得格差拡大」に関しては、学界でもその認識評価は論点になっている。例えば、大竹(2005)で論じられる様に、80年代以降の所得格差の拡大は、人口分布が高齢者に厚くなり、二人世帯や単身世帯が増加する事で生じた見かけ上のものである、という評価もある。とはいえ、大竹(2005)でも論じている様に、90年代以降、若年層での所得格差の拡大傾向や消費格差の拡大は認められているのであり、また、金融資産の同一年齢内格差の拡大も認められている。

[8] 例えば、斉藤編(2004)、塩野谷・鈴村・後藤編(2004)、池上・二宮編(2005)などを参照の事。

[9] Sen (1980, 1985)。また、吉原(2004)も参照の事。

[10] 例えば、「つまり、新自由主義は福祉国家を切り崩し、圧縮し、あわよくば水に流してしまおうとする野望を秘めたものとしては、捉えられない。

 だが、こうした見方は、そもそも現代の新自由主義がグローバル化のなかの多国籍企業型資本蓄積に根ざす戦略として登場してきたことを見逃した見解だと言わなければならない」(成瀬龍夫・二宮厚美 (2005)p.177.)、と。理論的論証を欠いたこうしたレッテル張り紛いの「批判」はいい加減に超克して欲しいものだ。

[11]近年の福祉国家の危機の社会的・経済的背景ならびにその歴史的経緯についての明快なサーベイは、新川 (2004a)において与えられている。また、「新しい福祉国家」路線の特徴として挙げられる「ワークフェア」や「積極的労働政策」等の欧米における展開のサーベイとして、宮本 (2004)が有益である。

[12] こうした作業のサーベイ論文として、後藤・吉原(2004)がある。

[13] 日本の社会科学研究者による「基本所得」構想に関する論文としては、上掲の後藤・吉原(2004)の他、新川(2004)、山森(2004, 2004a)、堅田(2005)等がある。

[14] この議論のより詳細な紹介を行っている邦文献としては、吉原(1998, 1999)を参照せよ。

[15] すなわち、個人の持つ攻撃的嗜好(offensive tastes)の充足による効用も、高価な嗜好(expensive tastes)の充足による効用も、適応的選好形成ゆえの充足による効用も、あるいは「飼い慣らされた主婦(termed housewife)」などのような安価な嗜好(cheaper tastes)ゆえの充足による効用も、いずれも効用充足という一元的な尺度に還元して評価するという意味で、社会的厚生の評価において無差別に取り扱う点への批判であった。

[16] パレート原理とは、社会状態Xにおいて享受している全ての人々の効用水準が社会状態Yにおける全ての人々の効用水準より上回るときに、XYよりも望ましいと判断する規範的基準である。

[17] 仮説的補償原理についてのより詳細な説明は、ミクロ経済学のテキスト・ブックを紐解かれる事を勧めたい。例えば、奥野・鈴村(1988)を参照の事。また、仮説的補償原理及び費用・便益分析に関する先端的研究の動向については、常木(2000)が詳しい。

[18] すなわち、「政策的移行による資源配分の変化がそれ程に大きくない」という条件である。より詳細には、吉原(2005)を参照の事。

[19] この場合、政策的移行によって市場の価格体系が変化する可能性もあるから、両社会状態の国民所得の値はXにおける市場価格体系に基づいて算出されている。

[20] もっとも、ピグー自身は経済的厚生としての厚生概念に限定して議論を展開する立場を正当化している。すなわち、「それにもかかわらず私は自分の意見として、特殊の知識が無い限り蓋然性の判断を下す余地があると思う。すなわち或る原因が経済的厚生に及ぼす影響を我々が確認した場合に、我々はこの影響をば、厚生全体に対する影響と比べてみて、その大きさにおいて異なるとも、おそらくその方向において相等しいものと見なしてよいであろう。・・・・約言すれば、経済的厚生に対する経済的原因の影響に関する質的な結論は、厚生全体に対する影響についても当てはまるであろうという・・・一つの想定がここにある。・・・この想定が無効であるべきだと主張する人々は、それについて挙証の責任を負うものである」[Pigou (1932)], 翻訳pp.20-21.、と。

[21] 例えば今田(2004)などを参照せよ。

[22] 永戸 日本では、これまでの「重厚長大」型の産業でのリストラ産業的な縮小が非常に進んでいますが、一方で雇用創出ができる場面は環境、教育、情報関係、とりわけ福祉の分野になっています。
 これは高齢者社会が急速に訪れているということもあって、政府もふくめて共通の認識になっているのですけれども、私たち労働者協同組合は、こういった面から一定の成果を納められるかなと思っています。
 とくに公的介護保険制度が始まりますが、この分野は本質的に利潤原理にはなじまない分野であり、自治体と結びながら、NPOや協同組合組織が非常に力を発揮できるところです。
 こういうところに生まれる労働の関係は、利益第一の企業に雇われ、命令されて働く雇用労働ではなく、相手の自立をめざし、自らも自立し協同して働く協同労働であるべきだし、コミュニティーの再生をとりわけ重視しなければならない、と提起しているところです。
セン まったくその通りです。
 先ほども述べましたが、日本では全般的な物事への対処の仕方の中に、常に協同的な要素がありました。この要素は良好に発展したものも、しなかったものもあるかもしれませんが、ケアの世界では生きてくるのではないでしょうか。」

以上のインタヴューは「日本労協連永戸理事長、アマルティア・セン教授と語る」『日本労協新聞』2000年新年号(15日、509号)(http://jicr.roukyou.gr.jp/sen/sen1227.htm) より引用。

 

[23] セン みなさんの「日本労働者協同組合連合会」という名称には、2つの重要な言葉が含まれています。「労働者」と「協同」です。 これは、労働者の連帯によって仕事を得て、相互の競争を本質的な原理とするのではなく、相互の協同を原理として働くことができるということを示すものです。
 労働者協同組合連合会が労働を評価し、それゆえに失業を憂慮し、協同という手法が指し示す諸手段を通じてその解決を考えるのはきわめて正当です。」

上掲インタビュー「日本労協連永戸理事長、アマルティア・セン教授と語る」より引用。

[24] この点について、セン自身は賢明にも、「協同原理」に基づく組織の提供できる経済的機能はあくまで通常の市場機能の補完と位置づけている。

セン 協同組合が通常の雇用関係、企業のすべてにとって代わりうると考えたら大きな間違いで、逆効果になるでしょうが、通常の賃金・雇用制度、ないしは通常の営利的ブルジョア制度ができないことを協同組合が行い得る、という意味で経済を豊富にするものであり、それゆえ、協同組合はきわめて高い価値を有するのです。」

上掲インタビュー「日本労協連永戸理事長、アマルティア・セン教授と語る」より引用。

[25] ここで言うような「可能性の検討」は、新古典派経済学の標準的なミクロ経済理論から導かれる諸帰結から自明的にその意義を否定されるものでもないし、また、それらと矛盾する議論の展開を予感させるものでもない。いわゆる純粋私的財の範疇に属する多くの財・サービスに関しては、利潤最大化企業が生産・供給活動する市場経済での取引が、経済効率性の観点で相対的にもっとも良いパフォーマンスを発揮するだろう事への認識は前提されているのである。それと同時に、共同体や地域コミュニティの活動が十分に機能していた時代にはそれらの「組織」によって「供給」されてきたような「財・サービス」――介護などはそうした一例であろう――のあらゆるタイプに関しても、「資本による包摂化」ないしは「市場化」、もしくは政府による集権的な「公共財供給」のいずれかに置き換わる事によって、広義の意味での「社会的厚生の改善」が見込まれるという洞察には必ずしも同意するものではないということだ。

[26] 以下の議論の詳細かつ理論的に厳密な展開に興味のある読者は、吉原(2005)を参照の事。また、こうした議論の経済理論的な根拠付けを確認したい読者は、Gotoh, Suzumura, and Yoshihara (2005)を参照の事。

[27] この点での評価に関する限り、我々はノージックやフリードマンの「手続き的正義・公平性」の観点からの市場メカニズムへの好評価を支持し得る。我々が批判すべきは、彼らが分配的正義の存在意義を否定する点である。

[28]現代の代替的な分配的正義論に関する邦文献としては、例えば 吉原 (1999a), 鈴村・吉原 (2000), 吉原 (2003), 後藤・吉原 (2004)などを参照のこと。

[29] 詳細は吉原(2004)を参照の事。

[30] 同様の議論はグローバリゼーションに対する態度決定という論脈においても適用できるだろう。グローバリゼーションがもたらす光と影のうちの影の部分(「短期的金融資本移動の自由化がもたらす国民経済の不安定化」等)のみを過度に強調することで、それがもたらす「自由貿易の経済的便益」等の可能性まで見落とすべきではない。

[31] その意味で、我々は「大企業・多国籍企業=主敵」論の認識的立場を堅持し続けるような旧マルクス・レーニン主義系とは見解を異にするものである。

[32] 詳細は、吉原(2005)及び、Gotoh, Suzumura, and Yoshihara (2005)を参照の事。