「福祉国家」政策の規範的経済理論:その可能性についての一試論

 

吉原直毅

一橋大学経済研究所

 

2004825

 

1. はじめに

経済のグローバル化と脱工業化の影響もあって、いわゆるケインズ主義的福祉国家システムの危機・行き詰まりが指摘される下で、近年、欧米を中心に雇用政策や所得保障政策の再編が進んでいる。そこにおいて見られる一つの特徴は、米国における「ウェルフェア・マザー」バッシングや日本における80年代の「生活保護」適正化の流れを踏まえ、近年のイギリスのブレア政権に代表される西欧社会民主主義政権の「第三の道」路線に見られるように、福祉受給者たちの福祉給付への依存状態、すなわち「就労なき福祉」から脱却し、むしろ就労に条件付けられた福祉給付制度として知られる「ワークフェア」政策の導入や、人々の自立と就労を援助・促進する制度としての福祉国家への再編の動向である。[1] 

こうした現実の政治動向を踏まえ、福祉国家制度の再編成を巡る社会科学的な議論が、とりわけ政治学、政治哲学、法哲学、社会学の研究者を中心に、日本においても積極的に行われ始めている。[2] そこにおいて見られる一つの特徴は、「就労なき福祉」から「就労に徐受け通付けられた福祉」への移行としての「ワークフェア」政策導入に象徴される、福祉国家政策の再編に対する批判的評価であり、それへの代替案として提示されてきている「基本所得(Basic Income)」政策等への高い期待感と評価である。このような評価の動向は、資源配分の経済的効率性や、労働のインセンティブなどの観点から政策への評価を下すであろう多くの新古典派系経済学者のそれとは好対照を成すものと予想される。とりわけ、国民経済の国際競争力の維持や労働インセンティブの維持・向上の観点から「ワークフェア」政策を積極的に評価するであろう新古典派経済学者から見れば、「ワークフェア」政策とは理念的には正反対の動機付けをもつものと解釈される「基本所得」政策は、人々の就労へのインセンティブを悪化させ、福祉受給への依存を強めると同時に資源配分の効率性を悪化させるという観点から、受け入れ難いものと想像される。しかし、政治学者や哲学者のシンパシティックな評価であれ、新古典派経済学者の批判的見解であれ、それらは「基本所得」政策の、また「ワークフェア」政策に関しても同様に、経済的資源配分メカニズムとしての特性に関する理論的解明に基づいてこそ、初めて実りある論争をもたらすことが出来るであろう。[3] 「ワークフェア」か「基本所得」であるかといった論戦は、まさに経済理論的な議論の裏づけを、とりわけ規範的かつ誘因両立的な観点からの資源配分メカニズム分析によるそれをこそ必要とするからである。こうした現代的課題を背景にして、本稿では現代の規範的経済学が、規範的かつ誘因両立的な観点からの資源配分メカニズム分析という課題に対して、いかなる限界や可能性を持ちうるかについて、私見の展開を試みたい。

 

2.      伝統的な厚生経済学の限界

いわゆる標準的なミクロ経済学で語られる厚生経済学においては、いわゆるパレート効率性基準に基づく市場経済のパフォーマンス評価に関する「厚生経済学の基本定理」や、カルドア・ヒックス以来の仮説的補償原理に基づく政策評価、さらにバーグソン=サミュエルソン型社会的厚生関数に基づく政策評価、あるいは部分均衡モデルなどでしばしば用いられる社会的余剰分析に基づく政策評価などのアプローチが提示されている。実際、応用経済学の分野で政策評価の議論がされる場合の多くは、上記のいずれかのアプローチを採用しているように見える。しかし私見に基づけば、こうしたアプローチだけでは、前述のような福祉国家政策に関する現代的課題に取り組むには不十分であると考えられる。

上記のアプローチに代表される伝統的な厚生経済学においては、完全競争市場の資源配分機能の効率性の確認から出発しつつも、市場の失敗問題等の解決の為に市場への政策的介入が不可欠であるとの認識に立っている。その認識は共有しつつも、その上で適切な政策評価の方法や基準の提示、さらにそうした評価に適う政策メカニズムの提起を行う際には、その提起が現実の社会で生活する人々が直観的に持つであろう福祉のあり方に関する価値観に照らして理に適ったものである事が問われるであろう。そのときにこそ、伝統的な厚生経済学の前提する厚生主義的立場・方法論が問題になってくるのである。厚生主義とは、人々が社会において享受する福祉状態に関する評価を、もっぱら人々の主観的選好の充足度に基づいて行う立場・方法論と言ってよい。とりわけ新古典派経済学の舞台設定の下では、それは個々人の財・サービスの消費に関する主観的選好の充足度を情報的基礎として、社会の福祉状態を評価する議論であると要約する事が出来よう。

しかし、人間の営む社会生活とは市場経済的生産・消費生活という側面ばかりでなく、非市場的な社会生活の諸側面(例えば、家族・友人・恋人・近隣等とのコミュニケーション的生活など)をも持つのである。そして、前者の側面のより高い水準での充足の追及が後者の側面での充足と代替関係になるような場合には、前者の側面での改善を試みる政策体系が、「真の意味」で人々の営む社会生活上の福祉の改善を保証する必然性は全く無いと言えよう。また、市場経済的生産・消費生活という側面に限って見ても、人間の生活上の目的は必ずしも財・サービスの消費の充足のみに還元されるものではない。多くの場合、人々は個々に追及すべき人生の目的を持つないしは持ちたがるものであり、財・サービスの消費とはそうした人生上の目的のための一手段ではあっても目的そのものに同定されるものでもない。この観点からも、財・サービスの消費充足度の改善が直ちに人々の福祉の改善を意味しないことが推論されよう。[4] 

例えば、社会的余剰分析を用いることによって、ある種の政策なりあるいは規制緩和なりが社会的余剰の最大化ないしは改善をもたらすことが、理論的シュミレーションの帰結として明らかにされたとしても、我々はその結果に関してもっと慎重な検討を有するべきかもしれないのである。社会的余剰とは「その消費のために支払ってもよいと考える価格と市場価格の格差」という指標で以って評価された消費者の消費選好の充足度と生産者(企業)のコスト・パフォーマンスに基づいて得られる生産収益から算出されるものである。それは、企業のコスト・パフォーマンス改善化行動によって結果的に生じうる失業者の存在や彼らの生活基盤の不安定化などを反映する概念装置にはなっていない。もちろん、失業した個人たちは結果的には、コスト・パフォーマンス改善化によって収益性を改善した諸企業からの増加された徴税収入をファンドとする国家による失業手当給付を得る事によって、以前より多少悪化するとはいえ、依然としてある程度の消費の充足を維持できるかもしれない。しかし、だからと言って、こうした結果はその社会の福祉状態の改善を意味する、という結論には必ずしもならないだろう。失業によるその個人の人生設計の挫折や、そうした挫折感や屈折が社会に対してもたらし得る様々な形での弊害という「負の効果」は、社会全体での消費の充足の維持・改善という「正の効果」によって相殺しえる問題ではない、という見方も有り得るからである。

 

3. 厚生主義的限界を超克する「社会的厚生関数」の議論の必要性

以上のような厚生主義批判が関わってくるのは、とりわけ、政策評価の基準としてのいわゆる社会的厚生関数の構成問題の論脈においてである。社会的厚生関数とは様々な政策体系の実行によって導かれるであろう社会状態や経済的資源配分についてのランキングを与えるものであり、そのランキングに基づいてその社会が採用すべき政策体系を同定し得るものとして、標準的なミクロ経済学では位置づけられている。この社会的厚生関数という概念装置自体は、福祉国家を巡る現代的課題を想定する場合にも不可欠である。問題はどのような社会的厚生関数を構成すべきかという事であり、従来のバーグソン=サミュエルソン型社会的厚生関数が問題視されるのはこの論脈である。それはこのタイプの社会的厚生関数はまさに、前節で批判された、個々人の消費に関する主観的選好の充足度のみを情報的基礎とする厚生主義的立場に立つものであるからである。社会的厚生関数はその社会が人々に享受する福祉水準を評価するものと解釈されるのであるから、その関数が与える社会状態のランキングは、人々の福祉のあり方に関する適切な観点なり指標を十分に反映するものでなければならないだろう。消費に関する主観的選好の充足度という観点は、福祉の一側面にしか過ぎず、より多元的な観点が不可欠である事を前節の厚生主義批判は含意しているのである。

では厚生主義的立場を超えて、社会的福祉を評価するためにはいかなる代替的、並びに補完的な評価の観点が考えられるであろうか?一つは、現代の市民社会を前提する以上、個人の人生選択に関する自律性は最大限、保証されるべきという観点である。これは自由主義的価値観を前提するものであるが、少なくとも日本や欧米などの社会では、個人の人生選択に関する自律性が保証・実現されているか否かは、その個人の「善き生」を評価するうえで重要な一側面になっていると言えよう。我々は封建社会や中央集権的社会主義社会のような個人の自律性が抑圧される社会よりは、ある程度の政治的自由主義が確立し、経済的意思決定に関しても市場経済の下である程度の分権性と「選択の自由」を享受できる現代的市民社会の方をより高度な福祉社会と見なすだろう。こうした観点は、考えられる社会的厚生関数のあり方に関して一定の制約を与えよう。つまり、仮に人々に十分な消費の充足度を実現する社会経済システムであっても、それが市場経済であればもたらすであろう意思決定の分権性や選択の自由などを保証し得ない制度であるならば、そのような社会状態の下での人々の享受する福祉は高く評価され得ない、という事である。

第二に見るべきは、ではその社会の中でそれぞれの個人が自律的に選択する人生の目的としての「善き生」を、どれだけ十分に追求・実現できているか、という観点だろう。もっとも、「善き生」の追求・実現の程度は個々人の意思や努力にも依存するものであるから、政策の選択や評価の際に重要なのは、それぞれの個人が自律的に選択する「善き生」を追求・実現できるだけの機会なり条件を、どの程度実質的に保証しているか、という話になろう。この問題の論脈において、「善き生」を追求・実現する手段としての経済的財・サービスの資源配分の「公正性」が問われることになる。そこでは、いかなる資源配分を公正と見なしうるかに関する分配的正義論が不可欠である。[5] そして複数の代替的な分配的正義論のうちのいずれを当該社会は選択すべきかという、メタ・レベルにおける社会的意思決定問題の存在可能性をも含意しよう。しかしいずれにせよ、そこでの分配的正義論は非厚生主義的な観点に基づくものであって、個人が自律的に選択する「善き生」を追求・実現する機会を最大限平等に保証する資源配分を支持する議論であるべきであろう。

以上の議論は、人々の消費に対する選好の充足度という観点それ自体が不必要である事を意味するわけではない。パレート効率性基準として定式化されているこうした基準は、人々の福祉状態を評価する上で依然として、重要な基準のひとつであろう。したがって、上記2つの基準に加えてパレート効率性基準をも、我々が構成すべき社会的厚生関数を制約する条件と考えるべきであろう。

かくして、前述のような互いに相異なる複数の多元的基準と整合的な社会的厚生関数の構成可能性という問題が、経済理論の課題として想定される事になる。前述したような3つの基準はいずれもそれぞれもっともらしいものであり、もしそうした基準を満たす政策体系が実現できるならばそれに越した事は無いという話になると思われる。しかし問題は、このような複数の基準を同時に満たす政策が本当に存在するのか、実現できるのかという点だろう。そういう問題は現実においても政府や政治家が掲げる多様的な政策公約の実現可能性という形で現れてくるものだ。そしてこの点に関して、もし上記3基準と整合的な社会的厚生関数がそもそも存在しないという話になれば、社会的厚生関数によるランク付けを通して選ばれるであろう政策体系の存在や実行可能性についても覚束ないという予想も生じることになる。その意味で、「複数の多元的基準と整合的な社会的厚生関数の理論的構成可能性」というこの課題は、きわめて純理論的学問的課題であると同時に、政策論的にもきわめて実践的意義ある課題でもあるのだ。[6]

 

4.           「社会的厚生関数」によって同定された政策体系の実現問題

上記の社会的厚生関数の構成可能性問題が仮にクリアされたとしても尚、課題は残る。つまり構成された社会的厚生関数の下で選択される政策体系がそもそも実行可能な形で整備されているか否かという問題である。この点で重要な観点が今日、情報の経済学やゲームの理論などでしばしば言及される誘因両立性問題である。つまり、選択された政策を実行するプロセスにおいて伴う人々の経済的意思決定の場面において、その政策の意図と整合的に個々人が行動する保証は一般には無いという点である。また、政策の実行プロセスが人々の私的情報の集計を必要とする場合などは、正しい私的情報が集計される保証は無く、その結果、政策の結果がその意図したものから歪められてしまう可能性が存在する。こうした可能性をうまく排除し、政策の意図する結果が適切に得られるように政策の遂行メカニズムを設計できるかどうか、という観点も政策選択の際には不可欠である。

具体的には、上記のような誘因両立性問題をうまく解決できるような「ゲームのルール」を政策の遂行メカニズムとして設計可能かどうかを見ていく必要がある。そして、そうした遂行メカニズムがうまく設計可能であるという見通しの立つ政策体系の集合の範囲内で、前提されている社会的厚生関数に基づく政策選択が行われるというシナリオになるだろう。政策の遂行メカニズムの設計可能性問題は、現代的ミクロ経済学の中で「メカニズム・デザイン」論ないしは「遂行理論」といわれる分野において、議論されてきている。また、所与の社会的厚生関数に基づき、誘因両立性条件を満たす政策体系の集合内での政策選択というシナリオは、「セカンド・ベスト・アプローチ」として知られているものでもある。

我々が3節において議論したような、厚生主義的立場を超える多元な評価基準に整合的な社会的厚生関数を仮に得られたとしても、尚、政策の遂行メカニズムの設計可能性問題は独自に探求されなければならない課題なのである。[7] 具体的には、市場プラス何らかの再分配政策(租税政策と福祉政策)や市場介入的政策のプロファイルが、社会的厚生関数に基づく評価を通じて選択されることになるが、このプロファールの遂行メカニズムが一つの整合的な「ゲームのルール」を与えると見なさなれる。換言すれば、この政策体系の実行プロセスは、それが与える「ゲームのルール」に基づいて構成される一つの非協力ゲームのプレイを意味するのであり、その政策遂行の結果は対応する非協力ゲームの均衡帰結と考えることが出来る。この均衡帰結がそもそもの政策の意図と整合的であるならば、当該政策目的は誘因両立的に実現されたと見なしうる。そうなるように巧妙に政策の遂行メカニズムを設計する事が肝心であるのだ。

 

5.      結びに代えて

以上の議論は、尚、純理論的レベルの話で、福祉国家政策についてのもっと具体的な諸事実や制度的お話を期待する読者を失望させたであろう。しかし、そうした具体的な制度論的議論の重要性と共に、福祉国家政策というものを「資源配分メカニズム」という観点から、そのパフォーマンスを理論的にシュミレートすることは、政策の是非やその実現可能性に関する見通しを得る上で有効な導きの糸を与えるものであると思われる。そういう理論的シュミレーションのシナリオを大まかに与えることこそが本稿の課題であったのだ。政治学・社会学・倫理学、あるいはマルクス経済学などの立場から、新古典派経済学の政策論や今日のいわゆる「新自由主義」的構造改革論に対して批判的見解を持つ読者は、議論の精緻化・整合化に関しての、福祉国家政策を「資源配分メカニズム」という観点から考察するミクロ経済学的なアプローチの有効性について、少しでも理解していただければ幸いである。他方、新古典派経済学を専攻する読者の場合は、標準的経済学の教科書が教える社会厚生分析などによる(厚生主義的)政策評価の手法が、多くの人々が直観的に望ましいと共有しうるような社会的福祉や「善き生」のあり方とはいかに隔たった帰結を導きうるかという批判的観点に関して、少しでも学んでもらえれば幸いである。

 

 

 

 

 

参照文献

 

Dworkin, R., (1981a): “What is Equality?  Part 1: Equality of Welfare,” Philosophy & Public Affairs 10, 185-246.

 

R. Gotoh, K. Suzumura, and N. Yoshihara (2004): “Extended social ordering functions for rationalizing fair game forms a la Rawls and Sen,” IER Discussion Paper Series A, No. 455, forthcoming in International Journal of Economic Theory.

 

Sen, A. K., (1979): “Utilitarianism and Welfarism,” Journal of Philosophy 76, 463-489.

 

後藤玲子・吉原直毅(2004): 「『基本所得』政策の規範的経済理論――『福祉国家』政策の厚生経済学序説――」, 『経済研究』第55巻第3, pp. 230-244.

 

斉藤純一 (2004): 『福祉国家/社会的連帯の理由』(ミネルヴァ書房).

 

塩野谷祐一・鈴村興太郎・後藤玲子 (2004): 『福祉の公共哲学』(東京大学出版会).

 

新川敏光(2004)「福祉国家の危機と再編:-―新たな社会的連帯の可能性を求めて――」, 斉藤純一 (2004), pp. 13-53.

 

鈴村興太郎・吉原直毅(2000): 「責任と補償:厚生経済学の新しいパラダイム」,『経済研究』第512, pp. 162-184.

 

宮本太郎(2004): 「就労・福祉・ワークフェア」, 塩野谷祐一・鈴村興太郎・後藤玲子 (2004), pp. 215-234.

 

吉原直毅(1999): 「分配的正義の理論への数理経済学的アプローチ」,高増明・松井晃編『アナリティカル・マルクシズム』(ナカニシヤ出版), pp. 152-175.

 

吉原直毅(2003): 「分配的正義の経済理論――責任と補償アプローチ――」, 経済学研究(北海道大学) 53-3, pp. 373-401.

 

 

 

 

 

 

 

 



[1] 近年の福祉国家の危機の社会的・経済的背景ならびにその歴史的経緯についての明快なサーベイは、新川 (2004) において与えられている。また、「新しい福祉国家」路線の特徴として挙げられる「ワークフェア」や「積極的労働政策」等の欧米における展開のサーベイとして、宮本 (2004)が有益である。

[2] 例えば、上掲の塩野谷・鈴村・後藤編(2004)や斉藤編(2004)などが、このテーマに関連する最新の研究成果の一部である。

[3] 「基本所得」政策の経済的資源配分メカニズムとしての特性に関する理論的解明を行った邦文献としては、

後藤・吉原 (2004).

[4] アマルティア・センやロナルド・ドゥオーキンなどの展開する厚生主義批判もこうした観点に基づくものであった。Dworkin (1981a), Sen (1979)などを参照のこと。

[5] 代替的な現代の分配的正義論として、例えばロナルド・ドゥオーキンは「包括的資源の平等」論を、アマルティア・センは「基本的潜在能力の平等」論を、またリチャード・アーネソン及びジョン・ローマーは「厚生への機会の平等」論を提起している。さらに、「基本所得」政策戦略を積極的に提唱しているヴァン・パレースにおいても、その規範理論的基礎として「実質的自由への機会のレキシミン配分」論を展開している。現代の代替的分配的正義論に関する邦文献としては、例えば, 吉原 (1999), 鈴村・吉原 (2000), 吉原 (2003), 後藤・吉原 (2004) などを参照のこと。

[6] この問題に関する一つの解答は、Gotoh, Suzumura, Yoshihara (2004)において与えられている。そこでは、前述の3基準と整合的な社会的厚生関数(論文内では「拡張的社会的順序関数」と呼ばれている)の構成可能性に関するいくつかの可能性定理を導き出している。

[7] Gotoh, Suzumura, and Yoshihara (2004)前掲論文では、この課題に関しても一つの可能性定理を与えている。