コメント:鳥澤 円「個人主義的アナキズムの法秩序」(一橋論叢1241,20007)

吉原直毅

一橋大学経済研究所

2000年11月3日

鳥澤論文を読んで、個人主義的アナキズムの思想に関して幾つかの疑問点を感じた。以下ではそれについて議論を展開してみたい。

1.「国家」の概念規定に関して

           個人主義的アナキズムは、国家・政府による法の創造と執行の独占的遂行を否定し,市場メカニズムを通じた自生的法秩序を模索する思想と定義されている。その議論は、国家・政府による法の創造と執行がいかに不効率で,かつ個人の自由権を侵害せずにはおられないものであり,それら国家の持つ欠点は国家を廃止し,国家サービスを供給する諸企業の市場での競争メカニズムを適用することで克服されることを展望している。しかし、そこで行われている議論を見るに、そもそも個人主義的アナキズムの思想家たちは国家の原理的特性をどう捉えているのであろうかという点に関して疑問を感ずる。鳥澤論文では,いわゆる「政府の失敗」の議論において、国家機構のもとで生じてきた様々な問題が指摘されており,これら「政府の失敗」の問題は市場メカニズムを通じた自生的法秩序を構成する個人主義的アナキズムのもとでは生じないし,また市場メカニズムを通じた自生的法秩序は、国家による強制的法秩序の供給よりもより効率的であると位置付けられている。

           しかし国家よりもアナキズムのほうがパフォーマンスがよいと言うことを理論的に根拠付けるにはそもそも国家とは何かの理論的規定が前提されなければならない。筆者が「政府の失敗」の節で挙げたような国家システムの下で生じた様々な問題が国家というものの本質的特性から導かれているものであり,したがって,国家システムを人々が採用しつづける限り,いかなる形態を持った国家であれ免れることのできないものである事を確認できてこそ、オールタナティブとしてのアナキズムを論ずる意義も出てくる。つまり、アナキズムの下で達成されるような法秩序パフォーマンスが、現状の国家の下では達成されえないとしても、新たな修正された国家、既存とは異なる形態を持つ国家の下では達成されうるとすればアナキズムの積極的意義は理論的には説明されえない。しかしながら、そもそもこういった議論を展開できるためには、国家とは何かについての理論的規定がなければならない。つまり国家の原理的特性が明示化されてこそ、何が国家システムの下では原理的に達成不可能であり,アナキズムの下では原理的に達成可能であるかと言うことが理論的に明示される。しかし、本論文を読む限り、個人主義的アナキストがいかなる国家原論を展開しているのかは明確ではない。

2.国家は個人の自由権を一方的に侵害する抑圧機関か?

           個人主義的アナキズムは、国家を、法秩序の創造,執行に関する独占的機関であり,その機能の過程において不可避的に個人の自由を侵害するものとして、位置付けている。しかしこのような国家観は、少なくとも普通選挙制を前提とした民主主義的国家に関しては一面的な見方であるように思われる。民主主義的国家であれ、一定の国家権力機構は存在し,個人は国家の定め,執行する法の下に従わされるわけであるが,しかし、個人の側には選挙を通じた拒否権が存在することを見落としている。つまり、原理的には民主主義国家の下での権力行使は、主権者たる国民の承認の下でなされているとみなされうる。すべての個人は国家・政府が行う政策についてそれを決定するプロセスに参加する機会を等しく保証されており,したがって、いかなる権力機構を国家に与えるかの究極的決定権は国民、個々人の側に委ねられているというのが民主主義国家の下での社会的意思決定の特性である。

           したがって,民主主義国家の下では、政府による個人への自由の侵害は、原理的にはその個人(ないしはその個人が参加する集団的意思決定)の承認事項であると見なされるのである。換言すれば個人は欲するならばいつでもそのような国家による侵害に対して拒否の意思を表明し、その行為を変更させる機会を与えられている。これを果たして、国家による不可避的な個人の自由の侵害と言えるのであろうか?このレベルによる「侵害」はアナキズムの下での契約による法執行機関の下でも生じうるものであろう。その「侵害」が気に入らなければ、アナキズムの下では市場を通じて別の法執行機関に乗り換えるだけであるし,国家の下では、選挙を通じて法を改定するとか、政策の変更を求めて政権交代を促す等の事となる。前者を可能にするのが市場の競争メカニズムであるのに対して,後者では選挙システムにおける政治的競争(political competition)のメカニズムである。原理的に見て,前者が後者よりも個人の自由を保障するか否かは必ずしも明らかでない。

           国家の本質的規定に関わる事であるが,アナキズムはそれを権力的な自由抑圧機関とみる点において,マルクス主義的国家観と共有している。マルクス主義的国家観はさらに、国家を支配階級の被支配階級に対する階級的支配の道具(エンゲルス=レーニン的国家観)と見なすなり、階級的力関係の凝縮(プーランツァス等のネオ・マルクス主義)と見なすなりしてきたわけであるが,これらの議論はなぜにそれが国家の本質的規定であるのかについての論拠に乏しい、表層的な見方であったと言えよう。個人主義的アナキズムに関してもこの点でマルクス主義国家論と同じ批判が当てはまるのではないかと邪推される。つまり、国家を個人に対してもっぱら対立する概念として捕らえているが,民主主義国家に関してはその個人と国家の対立的関係は、個人の承認なしには成立し得ないものであると言うことをどう捕らえているのかと言うことである。例えば,政府は民主主義国家の下であれ,国民の意思とは相対的に独立な国家戦略を独自に展開し,その遂行に従事する事があるが、その際,国家戦略の遂行の為に、個々人の自由権が侵害されたり、国家機密の名の下、その戦略遂行の実態が隠蔽されたりという事態が確かに伴いうる。しかしこれらがいったん白日の下にさらされ、政府、または政府役人による憲法違反行為が明らかになれば、政権そのものの交代を諮るべく解散総選挙になるか、もしくは関係役人、政治家へのパニッシュメントがなされることになろう。つまり、現代の民主主義国家の下であれ,様々な職権濫用,汚職、または国家的謀略や国家的犯罪等の実行に伴う国家機密や国家治安の維持を理由とする個人的権利への侵害、等々の事態が生じてきたのは確かであるが,その多くは現存の国家の下でも必ずしも正当化されえないものであって,それらが否定され正される契機は、最終的には国民の審判に委ねるという形で、確保されているのである。さらに、これら現代の国家システムの下,生み出される多くの問題点は、現代の国家システムの持つ欠陥ゆえであって,よりましな国家システムの構成可能性が原理的に否定されたわけではないかもしれない。このような反論に対して、個人主義的アナキズムはいかに答えるのであろうか?少なくとも十分に納得できる国家理論を論理的・体系的に持っていなければこの種の議論に対して答えることはできないであろう。それはちょうどカール・マルクスが資本主義社会を否定し、社会主義・共産主義社会の有効性を主張するための科学的裏づけを持つために、資本主義経済の一般理論の展開(それが「資本論」である)を必要としたのとちょうどパラレルである。

3.国家という強制的機関の存在なしに法の一意的決定は平和裏に成され得るか?

           現存の国家形態においては、国家は立法・行政・司法のいずれをも独占的に執行する機関として位置付けられているが、法の行政・司法に関してはそれが民間のサービス機関・企業に委ねられる可能性は、国家システムの下でさえ、十分に開かれているように思われる。実際,今日、公務員の人減らしの手段として採用されようとしている独立行政法人化であるが、この制度が発展して、より広範囲の行政サービスが法人の手に委ねられる可能性は極めて現実的なものである。

           つまり行政・司法というサービスは国家というものを特徴づける本質的な機能でないというのが私見である。この点は国家=支配階級道具説を採るマルクス主義国家論とも一致する見解である。マルクス主義に基づけば,高度に発達した共産主義社会では国家は死滅するとされる。しかしそれは国家の階級抑圧的機能(マルクス主義国家論ではまさにその機能こそが国家の本質的特性を規定する)が死滅する事を主に意味し, 行政・司法というサービス機関は依然として存続するであろう事が展望されていた。

           この見解に基づくと,個人主義的アナキズムが法の行政・司法サービスの供給を国家の独占的・強制的な供給から市場の競争メカニズムに委ねることに変更することを強調したとしても、それは「小さな政府」論と本質的に違ったところがないものとなろう。では、法の立法サービスに関してアナキストはどう考えているのであろうか?この点に関しては、鳥澤論文を読む限り必ずしも明らかではない。鳥澤論文で言うところの「基本的法原理」はいかなる憲法を選択するかという問題につながってくると思われるが,アナキズムの議論ではそれを「不文憲法」と位置付けるのみで,いかなる憲法を国民が採択するかと言う社会的選択の問題は問われていない。他方、「基本的法原理」の実際の適用においては様々な解釈の余地を生むが、それらは判例の積み重ねの中で進化的に一つの解釈に収斂していくものとされる。総じて、アナキズムの議論では法はいわば慣習法的なものの発見としてのみ考えられていて、意図的に設計されるものではないとされる。しかし、このような見方は法の一意的決定ということに関してあまりに楽観的ではないか?個人主義的アナキストは、個人の自由の領域、つまり個人の権利域が確定された社会を前提にするが,実際には社会状態のすべてをいずれかの個人の権利域に配分し尽くすような状況は自然には決して導かれないであろう。ジョン・スチュアート・ミルやアマルティア・センが言うように,個人のある領域で社会からプロテクトされた権利域が必ず存在すると言うことはできるが,それらを除いたとして尚,誰に権利を割り当てるべきかで論争の余地のある社会状況はかなり存在するであろう。資源の私的所有にしても共有地のように、原理的に適切な私的所有の割り当ての決定がしえない状況も少なくない。そのような場合,個々人が互いに自己の権利を主張しあう戦争状態(一種の囚人のディレンマ)に陥らないであろうか?そして、ホッブス流社会契約論はそのような囚人のディレンマ問題の解決として契約としての国家の生成を説くものではなかったか?アナキズムの議論には国家が憲法の形成機能を放棄してしまったら陥るであろう囚人のディレンマ問題に対する配慮がないようにも思われる。

           囚人のディレンマ状況の解決としての、社会契約としての国家という見解には、そのようなフィクショナルな議論に対する反論が、当然ながら自生的秩序論の立場からなされうるであろう。第一に、アナキストからは、囚人のディレンマ状況の下であっても、暗黙的な法原理が次第次第に人々の間に根付いていって、いわば人々はそのような慣習法の下で行動するようになる事から、囚人のディレンマ状況は解消されるであろうという類いの反論が予想される。いわば、進化的に囚人のディレンマ状況を解消する様な慣習法が生成し,人々はそれに従って行為する様になっている、という見解である。しかしながら、このような見解は理論的には裏づけが取れない。なぜならば、進化ゲーム理論の議論において、囚人のディレンマ・ゲームにおける均衡解(非協調行動)こそが唯一、進化的に安定であることが知られているからである。

第二に,ゲーム理論家からは、囚人のディレンマ問題を一回限りの非協力ゲームと見なすから、契約国家による協調行動の強制的誘導(つまり協調行動から逸脱するとパニッシュされる)という解決策を諮らざるを得ないのであって, 囚人のディレンマ・ゲームが繰り返しプレイされると考えれば、いわゆる繰り返しゲームにおけるフォーク定理によって、人々が互いに協調行動をとり続けることがナッシュ均衡になる事実に基づいて、人々は自発的に協調行動をとり続けるようになると見なせるだろうという見解が出されるかもしれない。しかし、この見解に対しても、注意をしなければならないのは、フォーク定理に基づけば、協調行動をとり続けることがナッシュ均衡になるだけでなく、非協調行動を採り続ける事もナッシュ均衡になると言う点である。したがって、最初のステージでの囚人のディレンマ・ゲームで、人々が協調するか非協調するかいずれをとるかで、その後のゲームの帰結は決まり,かつ、この段階で人々がいずれの行動をとるかについてフォーク定理自体は何も示唆し得ない。したがって, 最初のステージでの囚人のディレンマ・ゲームで人々が必ず協調する様にするには、やはり何らかの第三の主体による協調行動の強制的誘導がなければならないであろう。やはり国家による強制は登場しないわけにはいかない様である。

ここで注意しなければならないのは、最初のステージでの囚人のディレンマ・ゲーム――すなわち社会の初期時点――において人々が契約国家による協調行動を強制的に誘導されているとしても、そのような契約国家を生成することに同意したのは人々それ自身であるということである。つまり、個々人は囚人のディレンマ・ゲームのプレーヤーとしては、合理的である限り非協調行動を採らざるを得ないが,お互いに協調して平和に暮らす方が互いにベター・オフであることをもよく承知している。したがって、ゲームのプレイに先立って社会契約を締結し,ゲームの状況において自分達に協調行動を強制的に誘導するであろう第三機関としての国家を生成したのである。この場合の国家による個人の行動への介入は果たして個人の自由の侵害といえるであろうか?個々人は自分達が欲する平和状態(協調解)を実現するために国家という第三機関を代理人(Agent)として使っているだけではないだろうか?

4.個人主義アナキズムの下での「市場の失敗」は国家システムの下での「政府の失敗」よりもどれほどましなのか?

           個人主義アナキストは、国家的サービス(法制度の生成,執行、維持)の供給を政府に独占させることによって生じる「政府の失敗」よりも、市場メカニズムに委ねることによって生じる「市場の失敗」の方がよりましであるとして、そこに個人主義的アナキズム制の正当性を見出している。しかし、「政府の失敗」よりも「市場の失敗」の方がよりましであると言う議論には理論的根拠はまったくない。筆者がここで「政府の失敗」として挙げている事象、すなわち、政策担当者や官僚が本来の業務である「国民への奉仕」から離れて特定集団への利益を図ったり、所属官庁の利益を最大化しようとしたり、あるいは官僚には政策実行の費用最小化の誘引が存在しない、汚職と職権濫用、等々は基本的には、国民を依頼人(Principal)、政府を代理人(Agent)とする、情報の非対称性(asymmetric information)が存在する下での依頼人−代理人問題(Principal-agent problem)として位置付けることができるものである。情報の非対称性下での依頼人−代理人問題の発生は、何も国家システムに固有の事象ではない。むしろ典型的な「市場の失敗」の問題として、現在経済学において議論されてきている。

           ここでの例に則して見るに, 「政府の失敗」事象における情報の非対称性とは、もちろん依頼人である国民は代理人である政府ほどに、政策実行に関わる必要情報にアクセスすることができないと言う状況である。ここで依頼人である国民は社会的選択の結果である政策目標の実行を、代理人である政府に委ねているという関係にあることを注意してほしい。しかし情報の非対称性ゆえに、国民は代理人である政府が自分達の依頼どおりにきちんと仕事を行っているか否かを適切にチェックする事ができない。より具体的には国民は政治家や役人の働き振りを観察することはできないし、そのパフォーマンスを適切に評価するだけの情報力に乏しい。したがって、国民が選択した社会厚生関数とは一般的に異なった個人的目的関数(地位の保全、所属官庁の利益の最大化、特定集団の利益の最大化等々)を持っているであろう個々の政治家や官僚は、社会厚生関数の最大化(すなわち政策目標の実現への最大限の努力)ではなく、彼ら個人の目標関数の最大化を諮ろうという誘因を持つに到る事になる。なぜならば、そのような諮りごとの実態を国民のサイドは適切にチェックできないからである。これは現代経済学において、モラル・ハザード問題と呼ばれているものの一つである。

           モラル・ハザード問題は、経済学において、市場メカニズムの下での取引においても生ずるものとして議論されてきている。例えば、顧客と依頼企業との間の関係であるとか、企業内の株主-経営者関係、経営者-労働者関係、すべてにおいてモラル・ハザード問題は存在する。それは依頼人と代理人との間に存在する情報の非対称性と情報の取引費用が非常に高い(すなわち代理人のパフォーマンスを完全にモニタリングすることはコストが馬鹿にならない)という事から生じうる。逆にいえば, 情報の非対称性と情報の取引費用が存在する依頼人-代理人関係が生ずる状況では、同じようなモラル・ハザード問題は市場メカニズムの下であれ、民主主義国家の下であれ、生じうると言えるのである。例えば、行政サービス、司法サービスを、政府でなく市場に委ねたとしても、個々人はある特定の企業と契約関係を結ぶこととなり、そこでは情報が非対称的な下での依頼人-代理人関係が生ずる。したがって,この企業が顧客である市民の目標関数を最大化するべく努力することに手抜きを行ったとしても市民の方はそれをチェックする術をもたない。つまり「政府の失敗」と同じような事態が「市場の失敗」として起こりうるのである。

           では、ここでモラル・ハザード問題として現れている「政府の失敗」の度合いと「市場の失敗」の度合いではどちらがよりましであろうか?直観的には、市場に委ねた方が、行政・司法サービスを提供する複数の企業間での競争原理が働く故に、よりましであるという答えが予想できる。つまり、モラル・ハザードか確かに存在するとしても、それがあまりにも劣悪な場合には、そのような企業はより良質なサービスを供給するライバル企業の登場によって淘汰される可能性がある。そのような経路が存在する分、「市場の失敗」は「政府の失敗」よりましであると予想できる、という直観である。しかし、「政府の失敗」には市場に対応するような「競争原理」が存在し得ないかというと、そんな事はないわけである。議会制民主主義の制度や行政オンブスマンの制度など、民主主義的なシステムは、まさに「政治的競争」のメカニズムを導入するものであり、国民への公約に明らかに背いた政府は、国政選挙などを通じて、ライバル政党に政権の座が取って代わられうるルートは存在している。もちろん、そのようなルートの存在の指摘だけでは問題の真の解決には不十分であって、悪質なモラル・ハザードをもたらすような政治家・官僚・司法家などを適切に淘汰するようなより有効な政治的競争メカニズムとして機能するような民主主義的政治制度をどう設計できるかという課題を考えていかなければならないが、同様な制度設計の課題は、市場メカニズムにおいても存在する。

こうして見てみると、「政府の失敗」の度合いと「市場の失敗」の度合いではどちらがよりましかという問いに対する原理的な解は、容易には確定し得ないように思われる。問題は、モラル・ハザードを適切に解決するメカニズムなり制度の設計可能性にあると見なす事もできるのであり、それは規範理論の課題というよりも、より社会工学的な意味での技術力の問題であると見なす事も可能である。つまり規範理論の範疇で、前者より後者の方がよりましであると一般的に言明できる論拠は存在しない様にも思えるのである。

5.法秩序維持サービスへの市場の導入は効率性を改善するか?

           この節では、前節で論じたモラル・ハザード問題の存在は当面捨象して考察を進めることにしよう。さて、そう仮定して議論を進めると国家と個人主義的アナキズムの違いは、法秩序維持サービスが国家という独占企業によって賄われているか、競争的市場の下で賄われているかという違いとして、見ることが出来るかもしれない。するといわゆる配分効率性の観点から、競争市場の存在する個人主義的アナキズムの方が、独占市場が形成された国家システムより望ましいという議論が成立するように思われる。しかし、個人主義的アナキズムの下で、本当に「厚生経済学の基本定理」が前提するような完全競争市場が成立するか否かは十分に注意して見ていかなければならない。

法秩序維持サービス企業が提供する財は、公共財的性質を有するものが多く,一般にその産業では規模の経済が存在すると見なしてよいであろう。したがって、生ずる市場の特性は、せいぜい、複数の大企業が存立する寡占的市場の構造をもつと見なす方が適切である。そこで寡占的企業の間で暗黙の価格カルテルが形成される可能性はきわめて高いと言えよう。そのようなカルテルは市場に存在する最もコストパフォーマンスの悪い寡占企業が収益性を維持できるようになされるであろうから、結果的に実現する市場価格は競争的なそれに比して割高になるであろう。また、現代経済学においてはあまり論じられる事がないが、マルクスの「資本論」が論ずるように、競争的な市場であれ、絶えず資本の集積・集中の運動に伴って独占化する傾向があると言うことも留意しておくべきであろう。

こうしてみると個人主義的アナキズムの下でも、必ずしも法秩序維持サービスの効率的配分が行われるという保証は存在しないと言ってよい。さらに国家システムの下では、そのシステムの公共的性質ゆえに、法秩序維持サービスの提供は公共的性質を維持するべきであることが一般に留意されることになろうが、個人主義アナキズムの下では、そのサービスの提供は私的企業の収益性の観点が財の公共性の観点を優先するであろう。例えば、全体的に所得水準も教育水準も高い世帯から構成されている地域・共同体と所得水準が低く教育水準も低い世帯から構成されている地域・共同体が存在すると考えて見よう。今、それぞれの地域に治安維持サービスを提供することを考える。供給者の立場から見れば、前者の地域ではそもそも住民も温厚で凶悪犯罪の発生も少ない、したがって、警察サービスの従業員が危険に巻き込まれるリスクも少ないし、全体的に治安維持に要するコストは低くてすむ。他方、後者の地域では、達の悪い人間が絶えずたむろしていて、凶悪犯罪の発生も度々である。したがって、警察サービスの従業員が危険に巻き込まれるリスクも大きく、全体的に治安維持に要するコストも莫大なものとなる。こうなると多くの治安維持サービス企業は前者の地域に財を喜んで提供する一方、後者の地域に対してはそもそも顧客契約を結ぼうとしないか、さもなくば、前者に比して相当割高の契約金を要求することになるだろう。その結果、後者の地域では治安維持サービスを購入する事ができず、治安はますます悪化することになるかもしれない。

もし国家システムの下でそのような地域間での不均等な取り扱いを行ったら、たちまち公共機関の精神に劣ると批判され、選挙を通じて、政権の座を奪われる事になるかもしれない。なぜならば、選挙システムの下での政治的競争メカニズムでは、富者であれ,貧者であれ、政策に自分の意思を反映すべく行使する力は、原則的には一人一票と平等である。対して、市場の競争メカニズムの下では富のあるものは政策に自分の意思を反映すべく行使する力を富の大きさに見合ってそれだけ大きく持つことになる。いわゆる「競争力」の有る無しが結果に影響を与えるのである。

個人主義アナキズムの下で、富者の多い共同体には十分な治安維持サービスが提供されうるが、貧者の多い共同体にはされないという事が一旦明らかになれば、ますます富のある個人は富者の共同体に集ってくるようになるであろうし、他方、貧者はますます貧者たちの共同体に取り残される様になろう。富者の共同体における住居費はその地域への居住需要の高さゆえに貧者が参入できないほどに高いものとなってくるであろうから。かくして、個人主義アナキズムの下では貧困の社会的問題は国家システムに比して比較にならないほど深刻になる可能性が高い。貧者の共同体の治安が悪化し、自然環境の悪化も伴うなどすれば、その外部効果が富者の共同体にも及ぶであろう。貧者共同体の治安悪化は、その共同体出身者の富者共同体への潜入を阻止すべく、富者の世界での治安維持費も高騰していく方向になりかねない。自然環境の悪化は当然、富者の共同体内での環境維持費用を高騰させることになろう。このように貧困問題の悪化は、市場のパフォーマンスに現れない、広い意味での社会的費用の非効率性を導きかねないのであり、個人主義的アナキズムの採用はその傾向を促進する効果を明らかに有するとはいえ、それを解消する契機を制度に内在しているとは言いがたい。

6.フリーライダー問題は強制機関の存在無しに解消されうるのか?

貧困問題の悪化が富者の共同体における治安維持を悪化させるとすれば,富者にとって貧困問題の解消は公共財的価値を有すると言ってよい。そのことを理解した富者たちは個人主義的アナキズムの下でも何らかの所得再分配政策に応ずることになるかもしれない。つまり国家システムの下での累進課税制に相当するものが導入され,そうして集められた財源が貧者地域への援助として利用されるという可能性である。ただし,ここで国家システムとの違いは,アナキズムの下では,徴税を行う強制執行機関が存在しないという点である。したがって、それは税制の導入と言うよりも、貧困問題の解消による治安状態の改善という公共財を供給するための費用の自発的供出問題として定式化することができる。

以下のような状況を考えて見よう。今,富者の共同体で、貧者地域の状態改善プロジェクトが提起されたとしよう。(あるいはある企業がそのようなプロジェクトをこの共同体に提起したとしよう。)個人主義的アナキズムのシステムの原則に則り、このプロジェクトに参加することを共同体の人々は一切強制されない。ただし,参加を表明する限りは何らかの費用負担に応じなければならないものとされている。貧者地域の状態改善プロジェクトのパフォーマンスは供出された総費用の大きさに依存して決定されるものとなる。このような状況において,果たして貧者地域の状態改善プロジェクトは実行されうるであろうか?

理論的には答えは否である。それはいわゆる公共財供給におけるフリーライダー問題がここでも発生してしまうからである。すなわち、ある富者は他の富者たちがプロジェクトに参加を表明し、一定の費用負担に応じていると予想しつつ,自分の意思決定を行っていると考えて見よう。ここで自分がプロジェクトに参加しないとしても、他の参加した人々が供出した費用に応じた水準でプロジェクトが実行され,その効果は富者共同体内外の治安の一定の改善と言う形で表れる。その便益は治安というサービスの公共財的性質により、プロジェクトに参加せず費用負担をしなかったこの個人でも享受する事ができる。他方,この個人がプロジェクトに参加すれば,治安の状態はもう少しだけ改善されるかもしれないが,彼は一定の費用負担に応じなければならない。ここで、彼がプロジェクトに参加する事によって追加的に得られる便益よりも彼の参加に伴う費用負担のコストの方が大きければ,この個人は、合理的であるならば,参加しない方を選ぶであろう。ところで、同じような意思決定の演算を他の個人もやっているとするならば,結局、均衡において誰もプロジェクトに参加を表明しない、という状態になり得るのである。かくして、せっかく提起された貧困問題改善プロジェクトは結局,参加者がいない為、実行されない。これが国家という強制機関が存在しない下での公共財供給に伴いうるフリーライダー問題である。必要な公共財を適切に供給するためには、国家による課税という強制的費用負担のメカニズムが不可欠であるように思われる。個人主義的アナキズムの下での公共財供給に関するアナキスト達の議論は、この点に関して十分に納得のいく解決策を提示しているようには思われないのである。

          

7.まとめ

           以上,見てきたように,個人主義的アナキズムの論者が国家システムの弱点であると指摘する「政府の失敗」の多くは、情報が非対称的である下での依頼人-代理人関係から派生するモラルハザード問題として整理されるものであり,仮に政府に代わって民間企業が法秩序サービス機能を担ったとしても、同様に生じうる問題である。その意味で国家システムから個人主義的アナキズムに変換することは、問題を「政府の失敗」から「市場の失敗」に置き換えるだけであるように思われる。

           また、法秩序サービス機能を市場の競争メカニズムに委ねるということは、その財の配分に関して、富者と貧者との間で差別的取り扱いが行われる可能性が高い。このことは、個人の権利は法制度の整備の下でこそ平和裏に保障されうるという事実に鑑みれば,富者と貧者との間で保証される自由に関する不均等が生じうることを意味する。憲法ないしは政策の決定に関して、民主主義国家の下では、すべての個人は一人一票と言う等しい決定力を有するが, 個人主義的アナキズムの下では、市場での競争力に応じて決定力は異なってこよう。

           また、国家的強制のメカニズムを個人の自由の侵害として否定する個人主義的アナキズムの制度の下では,強制がないゆえに囚人のディレンマ問題を解決できないという可能性や、公共財供給におけるフリーライダー問題がいっそう深刻になるであろうという可能性が生じる。

           こうしてみると,個人主義的アナキズムは国家的強制による個人の自由の制約から免れる為にあまりにも多くの事を犠牲にしなければならない様に見える。社会を安定した秩序だった状態で維持していく為には、個々人の協調行動を誘導する何らかの強制的装置は不可欠であり,いかなる強制装置を採用するかについての人々の合意形成プロセスを有する民主主義的国家よりも強制装置の存在を原理的に否定する個人主義的アナキズムの方がよりましであると提起できる理論的根拠は、今のところ見出されないと言ってよいだろう。