藤森頼明「書評『労働搾取の厚生理論序説』」(『季刊経済理論』20094月号)への返書

 

吉原直毅

一橋大学経済研究所

 

200954

 

              藤森頼明氏による書評、まずは感謝の意を述べたい。とはいえ率直な感想を述べさせて戴くと、藤森氏の書評は、ある意味、予想以上に「原理主義的」という印象であった。念のために、拙著での立場を繰り返せば、私は拙著『労働搾取の厚生理論序説』において、マルクスを否定し、マルクス的搾取理論を最終的に却下する、という方向性で議論を展開しているわけではない。むしろ、マルクスのオリジナルの「精神」なり試みを生かす上で、どのようにその理論や基礎概念の再構成をすべきか、という方向で議論を進めているつもりである。また、新古典派的なミクロ経済分析のアプローチを取っているのも、現代経済学における一般均衡理論の到達点の中には、古典派やマルクス派の伝統をも継承した意義を見出せる成果が少なからずあると考えるからである。この点は、置塩や森嶋以来の、現在に至るまで、数理的マルクス経済学における共有認識であると思っている。他方、藤森氏は

 

厚生理論の厚生とは、Marx が批判の対象としたブルジョワ経済学のそれである」

 

という言明からも伺われるように、「新古典派経済学=ブルジョア経済学」との認識をお持ちの様であるが、私はいわゆる新古典派経済学者の中に「ブルジョア経済学者」は確かにたくさんいるとは思うが、「新古典派経済学=ブルジョア経済学」という図式には納得いかない。政治的論争の場ならばいざ知らず、学問的論争の場において、この種のレッテルを貼って何らかの「批判」的な印象操作をするやり方は、評者自身を貶めるだけでなく、オールタナティブを志す学問全体に対する自殺行為に繋がる事を、理解すべきではないだろうか?仮にその他で有意な批判をしていたとしても、それら一切を台無しにしてしまう一言であろう。

 

1.      なぜ再生産可能解なのか?

              藤森氏は

 

吉原氏は,競争均衡とPareto 最適が一致することを重視している.その観点から,ミクロ的基礎がMarx の理論にはないので,それが必要であると吉原氏が考えている節が見られる.このような考え方は疑問である.」

「利潤最大という意味での競争均衡とPareto 最適とが一致するか否か,新古典派が,勝手に,そのような命題に「美」を感じているとしても,現実に対するMarx 的な説明とは関係がない.」

 

と整理されるが、ここら辺に、氏と私との最初の認識上の根本的なズレが現れているように思われる。第一に、「厚生経済学の基本定理」は、新古典派ミクロにおける、完全競争市場での資源配分に関するひとつの特徴づけであるが、市場に関する配分効率性的な評価の視点は、スミスやリカードなどの古典派にもあったものである。新古典派の一般均衡理論のようには消費者選択の理論がそれほど精緻化されていなかったが故に、消費者としての効用充足の観点から配分効率性を基準化するパレート原理の議論との相関性が一見、見えづらくなっているかもしれないが、スミスやリカードにおいても、市場的な経済取引を媒介に展開する社会的分業システムの生成が、結果的に社会全体における労働等の生産要素の効率的利用を促進するという観点での市場の有する配分効率性についての認識は、すでに共有されていたと言える。この社会的分業の生成を通じた配分効率性という視点は、いわゆる新古典派のパレート原理の議論とは別ものと考えられているかもしれないが、そんな事はない。パレート効率性の達成プロセスとして、社会的分業の生成があるという市場経済観は、新古典派経済学の枠組みからも導き出す事ができるものである。[1] マルクスもまた、景気循環や恐慌に現れるような市場の不安定性を強調しつつも、他方で、上記の意味での市場の配分効率性に関する認識は、スミスやリカードを継承していると言える。

              私が再生産可能解を均衡概念として支持するのは、「厚生経済学の基本定理」が成立するか否かを基準とした判断であるというよりも、むしろ、価格体系のモデルに競争メカニズム的性格を賦与できるか否か、という点に関る。市場を競争メカニズムとして考えていた点では、マルクスも同様である。『資本論I』は確かに労働価値概念に基づいて資本概念も定義し、資本の蓄積運動も全て労働価値タームで論じられているが、資本の蓄積運動が資本家間の競争に媒介される旨の強調が常に為されている。現代経済学では、この市場の競争メカニズム的性質をモデル上に反映させる為に、「資本家の利潤最大化行動」という仮定を導入している。もちろん、実際には「最大化」はしていないケースが大抵であろうが、より収益性の高い生産活動を目指す、その為にコスト・パフォーマンスを改善するという行動は現実としてもあり、それは市場における競争で淘汰されない為に「強いられている」という側面すらある。価格体系に、市場のその種の競争メカニズム的性質を持たせるための単純な設定が、「利潤最大化」という仮定であると私は解釈している。(もちろん、「利潤最大化」だけで市場の競争的性質を全て表現できるというわけでない事は言うまでもない。)

              既知のように、価格体系自体は競争メカニズムが作動しなくてもシャドー・プライスなどの形で存在しうるわけで、また、東欧の旧「社会主義」体制時に、経済改革の一環として価格システムの導入を試みたが、それが競争メカニズムとして作動しなかったが故に結局上手く行かなかった、という経緯もあった。資本主義経済における市場を考える際に、それが競争メカニズムとして作動しているという側面をオミットしない事が重要であると思われる。レオンチェフ価格方程式やノイマン価格不等式において均等な利潤率の仮定が正当化されたのも、そこに市場の競争メカニズム的特性の反映を見出す解釈が可能だったからであり、実際、森嶋はMorishima (1960; Chapter V)において、そのように説明していた。より収益性の高い生産活動を動機とする資本移動が可能な長期の市場競争においては生産工程間の利潤率が均等化するというシナリオがそれであるが、そうしたシナリオが一般化できない事はNikaido (1983)の研究等によって論証されてきた。ジョン・ローマーがRoemer (1980)において、レオンチェフ経済モデルの下で再生産可能解を定義したのは、部門間の利潤率均等化が果たして競争メカニズムの作動の帰結として正当化できるかを検討する意味もあったのである。資本家の利潤最大化行動という競争メカニズムの特性を導入した上で均衡を定義したとしても、その均衡において部門間の利潤率均等化が内生的に成立すれば、部門間の利潤率均等化を競争メカニズムの作動結果として見做す事をある程度は正当化することが出来る、と解釈したわけであり、実際、レオンチェフ経済モデルの下ではそのような正当化が可能であった。藤森氏も

 

置塩型模型から,利潤率最大化の定式化を考えるのは困難ではない.」

 

と書かれている通りである。しかしそのシナリオは、より一般的な閉凸錘経済モデルでは通用しない。したがって、市場の競争メカニズム的性質をモデルに反映させる上では、より直裁的に利潤最大化行動を仮定するほうが、利潤率均等化を価格体系の連立方程式に天下り的に導入するよりも尤もらしい、というのが結論になる。加えて、再生産可能解という概念は、利潤最大化という、市場の競争メカニズム的性質を入れたのみならず、古典派やマルクス派が持っていた、経済システムの再生産という側面も入れた解概念であり、その意味では、(数学的にではないが)ノイマン的均斉成長解概念の理論的拡張であると解釈可能なものである。

 

2. 「基本定理の整理」に関して

              一般化された商品搾取定理(GCET)についての言及(バナナが人間のように考えるであろうか」)もあったが、労働の搾取とバナナや鉄の搾取とで、社会科学的な意義が違うのは直観的には当然な話である。問題は、マルクスの基本定理(FMT)だけでは労働搾取の固有の意義は説明できない事である。労働搾取の固有の意義を、正の利潤の唯一の源泉として説明する含意があると位置づけてきたのがFMTであったが、GCETによってその種の説明は説得性が無くなった。結局、今回の藤森氏も、労働搾取を他の商品搾取と区別して考察する固有の意義があるのだ、と言っているだけであり、その固有の意義は何かを説得的に示せていない。松尾(2004, 2007)の場合、その点を自覚しているようで、それ故に労働搾取の固有の規範的意義を明らかにするために、代表的労働者の効用関数を導入し、それをプリミティヴなデータとして定義する主観主義的な労働搾取の定式を新たに提唱していた。しかしその定式では、吉原(2009)でも示している様に、肝心のFMTがノイマンモデルでの均斉成長解ですら成立しない等の欠陥があり、またその労働疎外論に絡めた解釈も、あまり説得的ではない。[2] 他方、労働搾取の定式の問題とは別に、労働搾取を考察する事の固有の意義を明らかにする議論として位置づけられるのが、ジョン・ローマーが提示した富-階級-搾取対応原理(Roemer (1982))の議論である。利潤生成を説明する唯一の生産要素という説明が不可能となっても、富-階級-搾取対応原理の成立を見ることで、労働搾取を考察する固有の意義を確認する事が出来るというのが、拙著第5章でも強調したように、私の理解である。GCETを用いて議論すると、なぜか「バナナの立場」とか「バナナが人間のように考えるであろうか.」という批判を受けるわけであるが、「バナナの搾取=バナナ1単位産出に必要なバナナの直接間接の投入量は1未満」を論ずるのに、「バナナの主体性」など前提する必要はない。すでに拙著でも強調しているように、搾取には生産要素の「(技術的な意味で)効率的」利用という意味もあって、バナナの搾取の場合、その意味での搾取に他ならない。他方、労働搾取の場合、労働という生産要素の(技術的な意味で)効率的利用という意味なのか、搾取-被搾取的関係という人間社会における生産関係についての意味であるのか、FMTだけでは曖昧なままであった。森嶋型の搾取の定式の場合、生産要素の(技術的な意味で)効率的利用という側面がより明示されてくるという問題があり、FMTとは経済主体の所有関係のあり方とは独立に成立するものである事から、仮に全員が等しく資本財へのアクセスが保証された公的所有化の市場経済であっても、利潤率が正であれば労働搾取が存在するという話になる。これはFMTにおける労働搾取の意味も、労働という生産要素の効率的利用というものである事を端的に表していると言える。しかし、マルクス主義において意味のある労働搾取とは、資本家階級と労働者階級の生産関係についての特徴付けとしてのそれである。-階級-搾取対応原理は、搾取関係と階級関係の対応性を内生的に導出する事で、労働搾取にその種の含意を持たせることに成功していると言えよう。

 

3. 「労働力の商品化と消費選択」に関して

              藤森氏はこの小節で、

 

吉原松尾論争でも消費選択が当然の如く議論に使用されている.しかし,この枠組自体に問題がないのであろうか.」

「本書で議論されているような消費選択は,労働力商品の再生産の仕方が,謂わば,無限に存在するという規定の仕方である.『資本論』I13 章では,大工業制の進展と共に義務教育制度が英国に確立されて行く過程も述べられている.労働力が商品化され得る為には,それを標準化する機構が存在すると考えてもおかしくはない.そのような機構が存在せず,労働者自身が消費活動を通じて何をしても良い,つまり,社会的に重要な機構を資本が支配していないと認めれば,不十分な議論しか生まれないのは明らかである.

 正統派の消費理論を単に接合しただけでは,労働力商品の再生産の意味が不明確になり,労働力の商品化を正しく議論できず,結果,搾取概念が曖昧になるかも知れないのは,当然ではないだろうか.」

 

と疑問を呈している。確かに、労働力商品化のプロセスをメカニズムとして内生化する事は、従来の「マルクスの基本定理」を議論するモデルでは為されていない。しかし、その種のメカニズムの内生化が、「吉原松尾論争」で取り上げていた当面の課題にとって、必要不可欠な議論であるとは私は思わない。第一に、「マルクスの基本定理」等の議論にとって、そうした契機は本質的ではない。従来そのように解釈されてきた様に、固定されたベクトルが、労働力商品化のプロセスを通じて内生的に決定された労働者の消費財ベクトルの結果である、と解釈することで十分である。仮にベクトルbの決定の内生化をモデルに組み込んでも、マルクスの基本定理に関する結論は変わらないわけで、例えばPetri (1980)FMTへの反例は依然として成立する。実際、Roemer (1980)では、ベクトルbの決定の内生化モデルについて論じられているが、ベクトルbを内生化できるという事とFMTの反例が生じるという事は全く独立な問題である。

              第二に、私の「労働者の消費選好の多様性」モデルも、労働力商品化の資本主義的メカニズムが存在するというマルクス的シナリオと全く矛盾しない。なぜならば、労働者の実質賃金水準が文字通りの肉体的生存可能な最小値である場合にはいざ知らず、そうではない場合には、労働者の消費行動が資本主義的にコントロールされた下にあるとしても、ある程度の個人間での消費選択の差異は十分にあり得るからである。また、義務教育の話をされているが、義務教育への教育投資の話は1個人の労働力商品としての生成に主に関るものであって、1個人の労働力商品としての再生産の話とは区別してよいだろう。現実に労働者間での消費の多様性がある程度見られている以上、労働者の消費行動に対する資本主義的コントロールと、消費の多様性とを、両立的と考えるのは理に適っている。そして、私が提起した議論は、労働者間で多少とも消費の多様性が見られる下では、森嶋型の搾取の定義に基づく限り、個々の労働者で搾取者であるか被搾取者であるかの違いが出てくる、というパラドックスであった。このパラドックスは、労働力商品化の資本主義的メカニズムの存在という契機をモデルに組み込んだとしても、容易に発生してしまうものである。それは拙著4.4節の定理4.9、系4.1、及び定理4.10の議論の適用により容易に確認できる。これらの諸定理は、労働者間での消費選好の多様性が存在していたとしても、個々の労働者の搾取率が正である事と利潤率が正である事との同値関係が維持される為の必要十分条件を明らかにしている。そこで示された必要十分条件は、個々の労働者の消費需要の性質についてかなり強い条件を課しており、しかもそれは生産可能性集合の幾何的性質に依存して定まる条件であって、いわゆる労働力商品化の資本主義的メカニズムから導かれる性質とは全く独立な条件と言わざるを得ない。したがって、仮に労働力商品化の資本主義的メカニズムをモデルに組み込んで、個々の労働者の消費需要関数がそのメカニズムを媒介して内生的に決定されるとしても、結論は変わらないであろう事が容易に推測される。つまり、系4.1で示したような、正の利潤の下で搾取率が負になる労働者が存在する、という数値例を容易に発見することが出来る。

              尚、藤森氏は「消費理論の将来」という小節で、

 

「新古典派的消費理論は,消費が飽和しないと云う仮定の下で構築されている.また,消費財も無限に分割可能であると想定されている.もし,消費財が無限に分割可能でなければ,消費選択は格子点の集合となり,より低所得になれば,消費選択の範囲はより狭められる.

これらの前提を変更する消費理論が必要となるように思われる.」

 

と主張されている。もちろん、分割不可能財が存在するような経済モデルの方が、実際の経済の描写として、より現実的であろうが、しかしその種の要因の導入は、拙著における当面の研究対象にとっては何ら本質的な「モデルの拡張」を意味しない。のみならず、徒に分析を複雑にするだけであり、無意味な「拡張」に過ぎないだろう。そもそも分割不可能財を導入する事に伴って生ずる固有の経済問題と、消費の多様性が齎すFMTの困難性問題とに、いかなる本質的な関連性があると藤森氏は見ておられるのであろうか?分割不可能財を導入する事に伴って生ずる固有の経済問題をマルクス主義の観点から分析するという意図があるのであれば、それは意味があるモデルの拡張であろうが、少なくとも消費の多様性が齎すFMTの困難性問題との関係では無意味な「拡張」であるように思われる。第一に、そもそも分割不可能財を導入する市場理論は、現代の一般均衡理論の先端的研究の一つとしてすでに存在しているし、その種の財を導入するという事は、生産可能性集合も単純な実数空間上で定義される凸錘であるという定式を変更しなければならない事を意味する。(これはノイマン・レオンチェフ型の線形代数モデル自体も修正を要する事を意味する。) 最近では離散凸解析という数学的議論も進展していて、それらが分割不可能財のある市場についての一般均衡理論研究において適用されているが、そうしたモデルの「複雑性」を導入する事によって新たに生まれる知見が何であるのかの展望なしに徒に「拡張」する事は、その反面での「モデルの単純性」の犠牲を凌駕するだけの意味があるとは言えない。第二に、FMTの困難性問題に関して言えば、仮にある種の消費財が整数単位でのみ消費可能であるとしても、消費可能集合へのその種の制約の導入によって、個々の労働者の消費需要関数が上記の定理4.9や定理4.10で示された必要十分条件を満たす、という結果に繋がるとは言い難い。仮に分割不可能財のモデルに変更しても、森嶋型の定式の下ではFMTが一般に成立しないという反例を作る事は容易であって、労働者たちの互いに異なる複数の消費財ベクトルがいずれも整数ベクトルになるように数値例を工夫すればすむだけの話である。

              最後に、念の為に言えば、私はこのFMTの困難性問題の議論を、搾取理論が妥当性を有さないと結論付ける為に提起しているのではない。むしろ、従来の森嶋型の搾取の定義に問題があるのではないか――仮にそれがマルクスの古典の正統な解釈に基づいていたとしても――、という観点から、搾取の再定式化の必要性を主張しているのである。「労働者の消費の多様性がある下でのFMTの不可能性」に関する私の議論は、消費の違いによって労働者間での搾取的地位(搾取者か被搾取者かという意味)に基づく「分裂」を説明するものではなく、そもそもそのようなパラドキシカルな事態を生み出してしまうのは搾取の定式に問題がある事を主張する為のものである。現実の資本主義経済において、労働者階級内での、専門職と事務職、生産現場職と事務部門職、教員と職員、実験系教員と非実験系教員等々、階層の違いによる分裂や、分裂したグループ間での搾取率の違いなり、場合によっては御用労働組合における「労働貴族」のように搾取者の側に廻るという事は、歴史的にも存在してきているであろう。しかしこれらの階層間分裂は、そもそも賃金率も労働の質も異なる労働者間での問題であり、私が拙著で論じた「労働者の消費の多様性がある下でのFMTの不可能性」は、こうした歴史的現実を説明する為の理論を意図するものではない。現状の森嶋的搾取の定式の下では、労働の質も時間も、そして賃金率も全く同一の労働者間で、高々、消費選好の違いだけで搾取的地位の差異が生ずるわけであり、こうした定式の欠陥を乗り越えなければならない。拙著後半の章で展開される労働搾取の公理的分析は、そういう主旨の下での基礎固めを与える役割を果たすものである。

 

4. 「労働搾取の公理的分析」の意味と、価値概念の論理的先行性」に関して

              ではそもそも、本稿前節で論じたような欠陥を生じないような頑健な搾取理論を展開する上では、搾取の定式はいかなる性質を保持するべきであろうか?少なくとも以下の条件が挙げられるだろう:

 

1) 同じ能力で同じ時間働き、同じ賃金収入を得ている全く職種や階層上の違いの無いような労働者間での消費選択の違いだけで、一方が搾取者で他方が被搾取者となるというような同定が起こらないような性質を保持すべきである;

 

2) 正の利潤が実現されている市場均衡であっても、生産技術条件の違い(劣位生産工程が存在するか否か等)によって、搾取率が正となったりゼロとなったりという事態が起こらないような性質を保持すべきである。

 

これが尤もらしい搾取の定式が満たすべき必要条件の一部であると、私は考える。私の公理的分析とは、上記の1)2)の性質を維持するような尤もらしい搾取の定式を同定する為のものである。さらに言えば、拙著の第7章において、森嶋型などのような価格独立的に定義される労働搾取の定式の場合、上記1)2)などの困難を克服できない事も明らかにしており、逆に言えば、これらの困難を齎さないような搾取の定式は「所得依存的」なものでなければならない事を示している。

              私が労働価値の論理的先行性を否定し、そこから議論を出発させない立場を取っているのは、上記の結論に基づいている。つまり、価格概念に先行して価値概念から出発し、搾取を定式化する議論では、仮に森嶋型以外の定式でそのような議論に合致するものを見つけたとしても、FMTの成立に困難を齎してしまう。FMTは、「利潤の唯一の源泉としての労働搾取」の論証としてそれを解釈できないとは言っても、利潤の背景に労働搾取の存在を見出すという点で、資本主義経済に関するマルクス主義の基本認識を提示するものであり、マルクス派はその基本認識に整合的となるように搾取理論をリファインする義務があるだろう。その為には労働価値の論理的先行性という仮説を却下しなければならないというのが私の拙著での結論である。この論点は、藤森氏が

 

「価値概念が生産価格概念に対して論理的に先行するものであるか否か,それは吉原氏に先行する研究者や吉原氏自身が議論に使用した形式的枠組の中では恐らく 判別できない.置塩以来吉原氏に至るまで,使用された枠組は数学的なものであって,そこで示される命題は,概ね同値命題である.かってSamuelson が,Marx 基本定理は剰余価値と利潤とが同列に並べられた同値命題であると批判した.しかし,Marx の経済学で,価値概念が生産価格に先行すると考えられているのは,数学的な同値概念とは別次元の話である.」

 

と言及した、「サミュエルソンのFMTに関する批判」とは全く別次元の話であり、資本主義経済に関するマルクス主義の基本認識を採るか、労働価値の論理的先行性を採るのか、それらのうちのいずれかしかあり得ないという話である。

              既知のように、労働価値の価格への先行性という議論は、数理マルクス経済学の展開の中で、批判されてきたものであり、森嶋の研究段階(Morishima (1973))で、価格決定メカニズムとしての労働価値説はほぼ却下されている。ただ、森嶋自身は労働搾取の定式の際には、価格情報とは独立に労働価値を定義し、それに基づいて搾取も定式化している。現代の日本における置塩門下グループを中心とする数理的マルクス経済学研究では、だいたいこの立場を踏襲している様であるが、藤森氏の立場は、当書評を読む限りでは、これらの人々よりもさらに「原理主義的」であるようにも見える。であるとすれば、拙著第7章で展開した公理的分析の結果は、藤森氏にとって最も根源的な批判を意味する筈である。にも拘らず、この点に関して、殆ど言及が為されなかったのが、むしろ物足りなく思えたところであった。「Marx の経済学で,価値概念が生産価格に先行すると考えられているのは,数学的な同値概念とは別次元の話」と言うだけでは、もはや反論にはならないのである。

 

5.     「ミクロ的基礎とは何か」に関して

              この小節において藤森氏は最後に、

 

「昨今の経済学ではミクロ的基礎の方が煩く議論されているが,問題は,ミクロとマクロの関係であると捉えると正しい認識に到達すると思われる.ミクロ的基礎の有無は,Marx 理論の鼎の軽重とは関係しない.」

 

と一見、もっともらしい主張で閉められている。しかしこの種の問題は、対象とする研究課題に即して柔軟に考えるべきであって、新古典派の方法論とマルクス派の方法論という方法論一般の対立構図で捕らえる事は決して生産的な議論には繋がらないと思われる。拙著において私は確かに、「マルクス理論のミクロ的基礎付け」と整理されるような議論なりモデル構築を展開してはいる。しかしそれは、そのような「ミクロ的基礎付け」を与えるモデル構築なり分析が研究課題上、意味があると判断されるからである。

        例えば藤森氏は、

 

「直観的に考えてみても,階級規定を離れて個人は存在しない,個人を離れて階級も存在しない.数理的な論理に議論を載せるとするならば,社会(集合) とその構成員() とは同時に規定されるべきものであると云う事になる.」

 

と、一見、もっともらしい主張をしている。もちろん、FMTの成立が研究課題である場合、資本家階級と労働者階級の集合からなる社会モデルから出発しており、確かにこの研究課題においては、それで十分であるし意味もあると言える。他方、その種のモデルでは、市場を通じた経済的資源配分のメカニズムが、社会的分業や社会階級の生成機能をも持つという特性を明らかにする事は出来ない。例えば、藤森氏も肯定するだろう、国際貿易論におけるリカードの比較優位説は、自由貿易体制の下での国際間分業の生成を説明する。同様のロジックは、国内経済における社会的分業の生成論としても展開できるし、労働や資本等の生産要素市場が導入されれば、社会的分業生成のプロセスは同時に階級生成のプロセスとしても説明できる。それが-階級-搾取対応原理で議論される市場における資源配分を媒介とする階級分化メカニズムの理論である。市場の資源配分メカニズムが同時に社会的分業体制なり階級構造の生成メカニズムとしても機能するという特性は、そもそも「階級規定を離れて個人は存在しない,個人を離れて階級も存在しない」と限定する立場のモデルからは導く事が出来ない。すなわち、「最初から農業特化国と工業特化国からなるモデルで、リカード的比較優位原理の説明が出来るか?市場が有するその種の機能を分析的に抽出する事が出来るか?」と、いう話になる。要するに、どういうモデルが適切かは、分析対象の性格に依存する、というのが標準的な科学的方法論の立場に基づくモデル認識だと思われる。この種のモデル認識抜きに学派間の方法論的対立構図に徒に導く議論は、有意義ではない。

        第二に、藤森氏は

 

「最適化行動として表現されたものの解を求めてみると,その解は,実は正準系と呼ばれる連立の関数方程式の解の中に包含されている.連立の関数方程式は,行動よりもむしろ全体的な構造を表す方程式である.」

 

とも主張されている。これも、一見、もっともらしい主張であるが、いわゆる一般均衡モデルの認識としては不十分である。そもそも天下り的に提出された連立方程式が「構造」を表す妥当なモデルである、となぜ解釈する事が出来るのか?その連立方程式が市場均衡における需給関係を妥当に表すものと解釈可能だからであろう。ではなぜ、その方程式が市場における需給の均衡的関係の表現なのか?その論拠を示す為に、例えば一般均衡理論は市場における経済主体の需要行動、供給行動の説明から開始し、それらの行動の集計として、連立方程式的な構造を内生的に導出してみせる。この内生的導出によって、連立方程式に関する解釈の妥当性を保証しているのである。私が拙著で行っているのも同様の議論であって、すでに本稿第1節で論じたように、均等利潤率で条件付けられた連立方程式体系を、競争メカニズムとしての市場における需給均衡構造の表現として妥当なものと本当に解釈できるのかという問いがあったからであり、それが、ノイマン的均斉成長解と再生産可能解のいずれが妥当な均衡解概念であるか、という最初の問いに繋がっている。このように明確な問いの意図があっての「ミクロ的基礎付け」の議論なのである。単純な「マルクス派 v.s 新古典派」の方法論争として図式化されるような問題ではない。

 

6.     「終語」に関して

              最後に、「終語」において、パレート最適を批判的に見るところから出発すべき、という主旨のご提案があった。私は、パレート最適性基準は、経済的資源配分の配分効率性を評価する上での重要な1基準と思っているが、「パレートの意味で最適=その社会の厚生は最適」という立場には立っていない。この点は、私のもう1つの主要な研究である非厚生主義的な規範的経済理論についての議論を少しでも参照していただければと思う。(例えば『経済セミナー』20091月号での拙稿「福祉社会の経済学:非厚生主義的アプローチ」など。) また、資本主義経済に関する搾取論的な批判的評価は、そもそも厚生経済学の基本定理とも矛盾しないものであって、我々は仮に資本主義経済は経済的効率性を達成するとしても、搾取の問題をも生み出しているという批判が可能である。さらに言えば、非厚生主義的な規範的経済理論に関する私の研究は、効率性という観点で見ても、パレート主義的な効率性評価は限定的である等々の議論も進めている。その種の議論は、「正統派ミクロ経済学」の方法論の枠内で行ってきているが、これまでの新古典派経済学における伝統的な厚生主義的規範理論に根本的な批判を与えつつ、代替的な福祉指標の提起を試みるという作業であり、労働搾取理論もその一環として研究している。藤森氏の「正統派ミクロ経済学に対する強烈な批判的精神」と言われるのが、何を以ってそう言われるのか、いまいち曖昧であるが、上記の意味では私は十分に「批判的」であろう。冒頭でも述べたが、「新古典派経済学=ブルジョア経済学」という旧態依然とした認識に則った「批判的精神」には組する意思は全くないのは言うまでもないが・・・。

 

参照文献

 

松尾匡 (2004): 「吉原直毅氏による『マルクスの基本定理』批判」『季刊経済理論』第41

巻第1 .

 

松尾匡 (2007): 「規範理論としての労働搾取論――吉原直毅氏による『マルクスの基本定理』

批判再論」『季刊経済理論』第43 巻第4 .

 

吉原直毅(2008): 『労働搾取の厚生理論序説』 岩波書店.

 

吉原直毅(2009): 「21世紀における労働搾取理論の新展開」 forthcoming in 『経済研究』.

 

Morishima, M. (1960): Equilibrium, Stability, and Growth, Clarendon Press, Oxford.

 

Morishima, M. (1973): Marx’s Economics: A Dual Theory of Value and Growth,

Cambridge Univ. Press, Cambridge.

森嶋通夫『マルクスの経済学』高須賀義博訳,東洋経済新報社,1974 年.

 

Nikaido, H. (1983): “Marx on Competition,” Journal of Economics 43, pp.337-362.

 

Petri, F. (1980): “Positive Profits without Exploitation: A Note on the Generalized

Fundamental Marxian Theorem,” Econometrica 48, pp. 531-533.

 

Roemer, J. E. (1980): “A General Equilibrium Approach to Marxian Economics,”

Econometrica 48, pp.505-30.

 

Roemer, J. E. (1982): A General Theory of Exploitation and Class, Harvard Univ. Press, Cambridge.

 

Veneziani, R. and Yoshihara, N. (2008): “Objectivist versus Subjectivist Approaches to

the Marxian Theory of Exploitation,” IER Discussion Paper Series A, No. 514, The

Institute of Economic Research, Hitotsubashi University.



[1] 新古典派貿易理論にある「ヘクシャー・オリーン定理」などを見れば解かるだろう。

[2] 詳細はVeneziani and Yoshihara (2008)を参照せよ。