ヒューマン・セキュリティに関する厚生経済学からのアプローチの可能性

 

吉原直毅

一橋大学経済研究所

 

2009928

 

0. はじめに

              atプラス 01』「特集 資本主義の限界と経済学の限界」は興味深い論稿が目白押しであった。その中でも、「資本主義の限界と経済学の限界」という言明に対しては、岩井(2009)が肯定的な立場から論じているのに対して、稲葉(2009)はやや懐疑的、すなわち資本主義も経済学も限界に直面しているとは言えない、という論調を展開している。とはいえ、いずれも資本主義経済の貨幣的経済的・金融的側面に議論を集中させている。だが、資本主義の問題は、岩井が強調するような金融不安定性問題だけに尽きるとは言い難いし、また、稲葉の言うところの現代の「定説」を仮に受け入れたとしても尚、金融政策の妥当性のみを論じていれば、問題の解決にとって必要十分であるとは言えないだろう。金融危機の実体経済への影響が金融政策によって一定のレベルに抑えられるとしても、それは実体経済のマクロ集計的な値についての話であって、アマルティア・センがいみじくも主張[1]しているように、その影響が実際にどれだけ人々の生活にダメージを与えるか否かは、実体経済におけるミクロ的政策・制度によって大きく作用されよう。他方、権丈(2009)の「政策判断をしている限り、背後には必ず価値判断をしているはずだから、その価値判断は絶対に隠してはいけない。むしろ前面に出すべし、自分の判断がよって立つ価値判断は決して無意識に行ったりしてはならず、むしろ積極的に明示する事によって議論の客観性は担保される」という見解には強く同意する。本稿はこの見解を共有しつつ、また新古典派経済学における厚生経済学に関する権丈(2009)の論評に多くの点で同意しつつ、それを乗り越えんとする現代の非厚生主義的な規範的経済学の可能性について、論ずる事にしたい。

 

1.      標準的な新古典派経済学における「新厚生経済学」

              現代における主流派経済学である新古典派経済学において発展してきたいわゆる「新厚生経済学」は、社会的厚生に関する古典的な功利主義的評価手法を批判し、個々人の福祉・厚生水準を表す個人の効用水準に関する序数的情報のみに依拠し、個人間の効用比較不可能性という前提の下に、経済的資源配分がもたらす社会的厚生に関する評価基準として、いわゆる「パレート原理」を提示した。パレート原理とは、当該社会の構成員である個々人の選好情報に基づいて、社会状態の望ましさに関する評価基準を与えるものであり、全ての構成員が社会状態Aを社会状態Bよりも少なくとも同程度に望ましいと見なし、かつ少なくとも1人の構成員が社会状態Aを社会状態Bよりも強く選好する場合に、社会的にも状態Aを状態Bよりも強く望ましいと判断すべき事を主張する。このとき、状態Aは状態Bに対してパレート優越すると言われる。この基準は、新古典派経済学が当初から現代に到るまで最も関心を寄せ続けてきた、市場経済システムの経済的資源配分機能をどう特徴付けるかという基本問題と密接に関りあう。そこでは、市場経済システムのもっとも基本的なモデルとして、完全競争市場を想定する。

              完全競争市場は純粋私的財に関しての需要者と供給者との取引の場であり、全ての取引者たちは完備情報の下での完全合理的個人であり、不確実性や外部性などは存在しない。また、取引者たち個々の経済活動は、市場全体から見れば無視できるほどに規模が小さく、従って、全ての取引者たちは市場価格を所与として経済活動を行う。そのような設定の下で、各企業は、所与の市場価格の下で利潤最大化的生産を計画し、労働力や資本などの生産要素を需要すると共に、生産した財を市場へ供給する。各家計は、所与の市場価格の下で定まる所得制約の下で、各々の効用を最大化させる様に、消費財の組み合わせを需要すると共に、それぞれが初期保有する生産要素を供給する。以上の様な所与の市場価格の下での個々の合理的経済活動の結果、各財に対する総需要と総供給が決定される。この両数量がある財に関して一致しない場合には、価格の変更による調整が行われる。こうしたプロセスの結果、市場の均衡においては全ての取引される財や生産要素の総需要と総供給とが一致する。需給の一致の下での市場価格を競争均衡価格(あるいはワルラシアン均衡価格)と呼び、また、そのときの取引結果である資源配分を競争均衡配分(あるいはワルラシアン均衡配分)と呼ぶ。

              新古典派経済学の厚生理論として最も基本的な理論は、この競争均衡配分がパレート効率性」基準を満たすという、「厚生経済学の第一定理」と言われる議論である。ある経済的資源配分がパレート効率的であるとは、その資源配分をパレート優越するような代替的な実行可能配分が存在しない事である。すなわち、この配分と比べて全ての個人の効用が改善されるか少なくとも無差別となり、少なくとも1人の個人にとっては厳密に効用が改善されるような、代替的な実行可能配分が存在しない事である。市場の競争均衡配分がパレート効率的である事は、全ての人々は市場での自発的な取引に参加する事によって、市場に参加しない場合の資源配分に比べて正または少なくとも非負の便益を享受しており、その便益の享受は全員のさらなる改善の余地がない水準にまで到っている、その意味で極大化されている事を意味する。また、市場における資源配分は人々の自発的な取引の結果であり、人々の自律的で自由な活動の相互作用の結果であり、それが人々の便益の享受の極大化を齎すという帰結は、経済政策に関する経済的自由主義の立場――出来る限り、市場の機能に委ねるべきとする立場――を支持する定理と解釈される。

              他方で、パレート効率性基準は、経済政策の妥当性を評価する社会的厚生の基準としては弱すぎるという批判もある。パレート効率性基準が適用できるのは、ある資源配分から別の資源配分への移行によって、全員の効用が改善もしくは同一に保たれる様な状況に限定されるのであり、一部の個人の効用が改善するものの、他の個人の効用は改悪するという、経済政策の実行プロセスにおいて普遍的に生じる事態に対しては判断保留をせざるを得ないからである。すなわち、パレート効率性基準それ自体は、完全競争市場という理論的加工空間を前提する下で、市場経済システムを正当化する事が出来ても、それ以上の、いわゆる「市場の失敗」が存在するようなより普遍的な経済環境の下での経済政策の妥当性を評価する際には、無力な場合が多い。その種の批判に対する回答として、「新厚生経済学」が提示してきたのが、「仮説的補償原理」の議論であり、「費用・便益分析」である。

              例えば既存の社会状態Xから、ある政策の実行によって社会状態がYに移行した結果、個人1は状態が改善したものの、個人2の状態は悪化したとしよう。仮説的補償原理に従えば[2]、その際に、仮に個人1から個人2への何らかの所得移転による補償がなされ、その結果として個人2が元々の社会状態Xのときに享受していた効用水準を確保する事が出来、同時に個人1の効用水準は、その所得の一部が個人2へ移転したにも拘らず、元々の社会状態Xのときに比べて尚、高い水準にある事が見込まれるならば、XからYへの社会状態の移動をもたらす政策は実施すべきである、と判断される。これは仮想的所得移転による仮想的パレート原理の拡張的適用による政策の意思決定に関する判断基準であり、その意味で拡張的パレート効率性基準であるといわれる所以である。

              他方、費用・便益分析は、市場における消費者の消費行動から得られる厚生水準をある貨幣的尺度に基づいて測定し、その集計値として社会的厚生を評価する。すなわち、市場価格が変化する事によって生じる各個人の消費需要の変化が齎す、個々人の享受する効用水準の変化を、貨幣的尺度で測定する手法を提示する。第一に、市場価格体系の変化後の市場価格体系で評価した、価格変化後の各個人の消費支出額と、価格変化前の当該個人が享受していた効用水準を補償するのに最小限必要な消費支出額との差額――それは正値であるかもしれず負値であるかもしれない――をその個人の補償変分と定義する。[3] 各個人の補償変分はいずれも貨幣単位で表されるので、それらは基数的に測定可能であり、かつ個人間比較可能である。ある市場価格の変化に関する個々人の補償変分を集計した値を集計的補償変分と定義する。市場価格の変化が、ある経済政策の導入による市場の競争均衡配分及び競争均衡価格の変化であると解釈できるとき、対応する集計的補償変分の値は、その経済政策に関する1つの評価を意味する。すなわち、補償変分が正()である場合、それは価格変化前の個人が享受していた効用水準に対応する消費支出水準よりも、変化後の消費支出水準が増加(減少)した事を意味し、当該個人の効用の増加(減少)を意味すると解釈される。[4] よって、集計的補償変分が正である事は、経済政策の導入の結果としての価格変化によって、当該社会の構成員の効用変化の集計値が正である事を意味する。

              費用・便益分析のもう1つの代表的な手法は、社会的余剰分析である。市場経済の一般均衡モデルを前提する仮説的補償原理や集計的補償変分の手法とは異なり、社会的余剰分析は部分均衡モデルを前提する。すなわち、ある特定の1産業に焦点を当て、他の産業に関しては「他の事情にして等しい」という前提の下、その産業が提供する財・サービスに関して、各消費者が「その消費1単位のために支払ってもよい」と考える価格と市場価格の格差の集計値が消費者余剰と定義される。この消費者余剰と当該産業に参入する各企業の生産収益(=利潤)の総計である生産者余剰の和が社会的余剰である。部分均衡モデルを前提するとき、当該産業における財への需要と供給の競争均衡の下で、その産業における社会的余剰は最大化される事が明らかにされている。

              以上の仮説的補償原理、集計的補償変分、社会的余剰の3基準ないし指標は、互いの基準に基づく政策判断が概ね一致したものとなるという意味で、論理的に関連しあう。例えば、一般的に、ある経済政策が仮説的補償原理に基づいて妥当であると評価されるとき、その政策の下での集計的補償変分は正値である。その逆の関係は一般的には成立しないが、政策の導入による資源配分の変化が十分に小さい下では、集計的補償変分が正である事は仮説的補償原理に基づいて妥当な政策である事を意味する。他方、経済政策がある1つの産業に関するものである場合に関して、集計的補償変分と消費者余剰との関係について論ずる事が出来る。一般的には、集計的補償変分の値よりも消費者余剰の値は決して小さくはならない。但し、政策によるその産業の市場価格が変化したときの各消費者の所得効果が存在しないか殆ど無視できるようなケース[5]では、集計的補償変分の値と消費者余剰の値は一致する。すなわち両指標に基づく政策判断は一致する。

              以上の議論より、いわゆる「新厚生経済学」は、効用の序数的測定可能性と個人間比較不可能性という限定の下で適用可能なパレート原理という規範的基準から出発しつつも、それに留まる事無く、その原理の拡張的適用と見なされる仮説的補償原理を提示し、また同様にパレート原理の拡張的適用という性質を持つ、集計的補償変分や消費者余剰などの貨幣的尺度に基づく厚生指標も提示する。これらの評価基準はいわゆる国民所得の増大を齎す政策を是認する基準であると解釈する事が出来る。その事は、仮説的補償原理といわゆる国民所得テストとの論理的関係からも明らかである。国民所得テストとは、政策導入によって生じる価格変化前の価格体系で評価して、変化前国民所得と変化後国民所得とを比較する事で、政策の是非を問う手法である。換言すれば、政策導入前の価格体系で評価して政策の結果、国民所得が増加するならば、その政策の導入は妥当であると判断される。一般的に、仮説的補償原理が妥当と見なす政策は、国民所得テストで評価しても妥当と判断される。また、その逆の論理関係は一般的には成立しないが、政策の導入による資源配分の変化が十分に小さい下では成立することも確認される。

              以上のような政策評価体系に対しては、以下の様な疑問が自然と出てこよう。第一は、政策の目的である社会的厚生ないし社会的福祉の概念は、上記の新古典派厚生理論が展開してきた貨幣的尺度で測定可能なものに限られるのであろうか、というものである。集計的補償変分や国民所得テストによる政策評価に見合う典型的な政策目標は国民所得最大化政策となろうし、それは近年の自民党政府が掲げていた経済成長優先政策を想起させるが、それに対しては「国民所得という貨幣的集計値の増大=国民生活の改善・福祉の増大」を直ちには意味しない、という批判が容易に想起されよう。例えば、かつて70年代に「くたばれGNP」という運動が起こったように、国民所得増大の追及が公害問題の深刻化や環境破壊をも齎す場合を想起すればよい。国民所得の増大は、国民生活の改善・福祉の増大にとっての高々、必要条件に過ぎず、決して必要にして十分な条件ではない。第二に、仮に貨幣的尺度で測定可能な福祉概念に議論を限定したとしても、集計値としての国民所得の改善は、経済的資源配分の効率性の改善を意味し得ても、その分配的公正性に関しては何も意味しない。近年の新自由主義政策のように、GDPの成長率の改善が見られても、それが経済的富者への富と所得のさらなる集積・集中と、貧困問題の拡大・深刻化という事態によって、そして全体としての所得不平等の拡大によって齎されるときに、それが妥当であるという判断は必ずしも説得的ではない。

              この第二の批判点に関しては、新古典派的「新厚生経済学」は、1つの典型的な回答を用意している。それはヒックスの楽観主義」と言われる、以下の様な議論である。すなわち、「1つひとつの政策は一部の人にとって望ましくない配分をしているかもしれないけれど、それにも拘らず仮説的補償原理等の効率化政策に適う政策を首尾一貫して行うと、長い目で見てパレート改善するだろう」と。[6] すなわち、色々な政策が仮説的補償原理等の基準に基づいてランダムに遂行される事により、所得再分配政策を伴わないとしても、結果的に分配効果が相殺しあうから、長期的には全構成員の効用が改善される事を意味する、という見通しである。

 

2.      アマルティア・セン以降の非厚生主義的規範的経済学

           前節のような「新厚生経済学」の理論[7]は、しばしば厚生主義ないしは経済的厚生主義という方法論的立場の1つとして解釈されている。厚生主義とは人々が社会において享受する福祉状態に関する評価を、人々の主観的選好の充足度(効用水準)に基づいて行う立場・方法論である。ところで、一般に、諸個人が主観的選好の充足を享受する対象は多様であり、経済学で主に取り扱うような財・サービスの消費活動に限定されるものではない。主に市場における財・サービスの取引帰結に対する主観的選好の充足に基づいて福祉状態に関する評価を行う立場・方法論は、厚生主義一般とは特に区別して、経済的厚生主義と呼ばれる。前節の最後に紹介した「ヒックスの楽観主義」は、結果的に、経済的厚生主義の観点から定義された効率性基準に、それ以外にも潜在的に存在し得る多様な価値基準に比して、第一義的な優先性を与え、経済的厚生主義の下での経済的効率性基準のみの一元的な政策評価を齎す傾向を強める事となろう。

              しかしながら、本来、社会的厚生ないし社会的福祉の概念とは著しく包括的なものであって、およそ思慮ある人であれば価値を承認するはずのすべてのものを含んでいる。このような包括的観点に立って思慮深い価値判断を行う立場に基づくならば、「完全競争市場を媒介する資源配分」の問題領域といえども、一元主義的に経済的厚生主義の下での経済的効率性基準で評価・処理する事が妥当ではない考察事項が存在する事に気付くであろう。そのような項目の1つとして、例えばベーシック・ニーズの問題がある。ベーシック・ニーズとは、人々が当該社会で生活する上で必要不可欠な物・事に関しており、衣類、飲食糧、住居などの財や、健康を維持する為に不可欠な保険・医療サービスへのアクセス、移動に不可欠な交通手段へのアクセス、情報へのアクセス、社会生活において、自立的な人格として当該社会において存在する上で最低限必要となる教育(達成)水準、等々がそれに関する項目として挙げられるであろう。なぜベーシック・ニーズの問題を厚生主義的に評価・処理するのは適切ではないのだろうか?第1に、ベーシック・ニーズとは人間が当該社会で「善き生」として存在する上での必要手段であるから、これらの手段へのアクセスが保証されている状態は、人々が財やサービスの消費による私欲の満足について厚生主義的に語る上での前提条件である、と考える事が可能である。第2に、市場経済システムは、こうしたベーシック・ニーズと見做すべき財・サービスに関しても、営利企業による、市場メカニズムを媒介した供給の対象として包摂し得るのであるが、厚生主義アプローチはそうした現象を肯定的に評価する傾向がある。

        例えば、清浄な淡水資源へのアクセスはいかなる社会体制の下であれ、人間にとってのベーシック・ニーズの典型例であろう。しかし給水事業が民営化され、営利企業によって供給される場合、途上国においてしばしば見られるように、営利企業は収益性の観点から貧困層を給水サービスの対象から実質上、除外する誘因を持つ。[8] その結果、貧困層は水道供給による淡水資源へのアクセスを制限され、水道以外の水源の利用を余儀なくされる事によって、コレラ等の疫病の発生という事態を齎しがちになる。[9] しかし経済的厚生主義における効率性基準の観点からすれば、こうした事態も特別な配慮を払うべき対象にはならない。市場とは、その財・資源の購入の為に「支払う事を辞さない貨幣額」が、提示された市場価格よりも高い消費者達にのみ、その財・資源を供給する仕組みであるから、貧民者たちが1日の生存の為に必要な量の水資源を購入するのに不十分な所得しか有さないが故に、そのベーシック・ニーズを脅かされているとしても、「社会的余剰最大化」原理に基づく限り、市場での取引誘因を持たない消費者たちが市場から撤退する事で自己利益最大化を達成している状況との識別が不可能となるか、ないしはそもそも市場の取引に現れない人々として、市場によって達成される社会的厚生を評価測定する際の対象外となろう。結果的に、彼らの困窮は無視される可能性がやはり生ずる。[10]

        対して、一元主義的に社会的余剰最大化基準の適用を要請するべきではなく、全ての人々のベーシック・ニーズに関する何らかの水準を満たすという制約下でのみ、そうした基準の適用を要請すべきという議論がありうる。[11] こうした立場は、「社会的余剰の最大化」という厚生主義的価値判断基準の他に、「全ての社会的構成員へのベーシック・ニーズ充足の保証」という基準を導入しているのであり、事実上、厚生主義の一元主義的適用を却下している。このように、厚生主義的アプローチの一元主義的適用を採用せずに価値判断を行う立場を非厚生主義アプローチと、一般に称する。非厚生主義アプローチにおいては、厚生主義的価値判断基準の他にいかなる非厚生主義的な価値判断基準を是と見做すべきかに応じて、多様な議論の余地がある。以下ではアマルティア・センが最初に提示し、以降、非厚生主義アプローチの代表的理論として発展してきた「機能と潜在能力」理論に絞って議論を展開しよう。

        ベーシック・ニーズの問題について論ずる際に、それに関る対象となる各財の市場価格情報を用いることで、これらの財のリストの購入に要する所得水準を算出し[12]、その数値を参照基準として、ベーシック・ニーズ充足の有無について判断するという手法も考えられる。この手法は、しかしながら個々人の資質や能力の多様性なり、彼らが存在する社会的背景の多様性が齎す影響を把握する点で限界がある。例えば、平均的に見て、成人男子と成人女子とでは、栄養不良に陥る事無く生存する為に必要な1日の栄養摂取量も違ってくるので、食料支出用に同額の所得が保証されれば十分という話には必ずしもならないだろうし、移動手段へのアクセスの為に必要な支出額は、健常者と身体障害者とでは違ってくる。このように、ベーシック・ニーズを構成する財・サービスのリストを購入可能とする所得水準に焦点を当てるだけでは、個々人の資質や能力の多様性なり、彼らが存在する社会的背景の多様性の問題を考慮するのに不十分である。重要なのは、人間が当該社会で「良き生」として存在する事であり、そうした社会的存在として持続可能である上で必要手段としての、ベーシック・ニーズを構成する財・サービスである。現代社会において、情報へのアクセス手段として、パソコンは必要不可欠な財となりつつあるが、そうした財を購入できたとしても、それを使いこなす能力(例えば、母国語や英語等の識字能力やインターネットへのアクセスや電子メールを使いこなす能力等)がなければ、その個人は社会的生活を送る上での必要な情報へのアクセスという活動において、大きなハンディキャップを負うことになる。また、日本においても、現在では地方における公共的交通手段は相対的に貧弱であるので、移動のための交通手段として自家用車の保有の必要度は以前より高くなっている。そのような環境において、高齢者の家計で自家用車を購入できたとしても、彼・彼女の健康状態によって安全な運転への不安が生じれば、自家用車の使用を躊躇わざるを得なくなろう。その場合、公共的交通手段の貧弱な地方自治体に居住しているそのような高齢者たちは、移動手段へのアクセスにおいて大きなハンディキャップを負うことになる。

        これらの議論からも伺い知れる事は、重要なのは財の所有そのものではなくて、財を利用する事で人間は病気から脱却する事が出来る、適度な栄養状態を保って生存出来る、移動が出来る、コミュニティの社会生活に自尊心を損なう事無く参加する事が出来る、等々の人間の「行為と存在」――善き生(well-being)の客観的特性(objective characteristics)である。これらをアマルティア・セン(Sen (1985))機能(functioning)と名付けた。機能という概念は、人間の善き生・豊かさを、財の所有や所得水準という視点からでも、また、それらの消費によって享受する主観的な選好充足度によって捉えるのでもなく、どのような活動をどの程度のパフォーマンスで発揮できるか否かという視点で捉える。機能概念を用いて眺めると、上記例の高齢者は、移動という機能に関して、その達成水準が低いと評価されよう。また、識字能力に関して同程度のレベルにある個人であっても、彼らが所属する社会の特性によって、彼らが「社会的生活を送る上で必要な情報へアクセスできる」という機能に関して大きな違いが出てくる。共同主義的な文化が発達していて、人々の日常的な会合が活発であるようなローカル・コミュニティに居住している個人であれば、そのコミュニティ社会で生活する上で必要な情報は、様々な形での人的交流や人づての伝達によって仕入れる事が可能であるから、活字情報の重要性は相対的に低い。他方、資本主義的文化の発達している反面、住民間の日常的交流の機会が少なく、個々人が互いに孤立して存在する傾向の強い大都市部ではとりわけ、そこで生活する上で必要な情報はインターネットの検索によって確保する事が重要となろうし、現代ではますますそれらを前提の上で、社会が運営されるようになっている。そのような社会構造下では、識字能力が不十分である事は、社会的生活を送る上で必要な情報へのアクセスという機能に関するハンディはより深刻なものとなろう。

        今、そのような機能の種類が種類あると仮定し、財の利用によって達成される種類ある各機能の達成水準がある非負実数値で表現されるとしよう。その結果、与えられた財ベクトルを通じて個人が享受できる種類の機能の達成水準が1つの次元非負ベクトルで表される。これを機能ベクトルと呼ぶ。ところで、ある財を利用する仕方は多様であり得るが、それは個人による1つの財の様々な利用の仕方に応じて様々な機能ベクトルが達成可能である事を含意する。財の利用によって個人が達成可能な様々な機能ベクトルからなる集合を、センは潜在能力(capability)と呼んでいる。潜在能力は、人々が財・サービスや己の資質や能力を生かす事によって、様々な活動をどの程度の水準まで達成可能であるかを定める、人々の「生き方」に関する機会集合である。このような機会集合が「豊か」である事は、人々が己の望む生き方を選択・実現できる可能性が広く大きいという意味で、彼らはより多くの自由を享受していると言えるし、したがって、より豊かな存在(Being)であると解釈される。逆に、機能と潜在能力アプローチに基づけば、絶対的貧困とは1日あたりの所得水準の低さによって定義されるべきというよりも、むしろ潜在能力の「貧しさ」として定義されるべきものに他ならない。1人当たりGDPにおける高い経済成長パフォーマンスは、当該社会における人々の潜在能力の改善を直ちには意味しないのであり、したがって、1人あたりGDPの高い先進諸国においては絶対的貧困の問題は過去の話であるとか少数者の例外的問題である、と主張する論拠はない。例えば、1人当たりGDP水準の高い先進諸国における相対的に貧しい人々(米国における貧困ライン以下の人々等)の所得水準は、1人当たりGDP水準の低い低開発諸国における中・低所得層の所得水準よりも、実質ベースで見ても高いであろう。しかし、テレビ、ビデオ、自動車、携帯電話、パソコン等々の近代的装備がかなり普及しているという意味で物が豊かな社会に居住する人々が、そこにおいて社会生活を行う上でこれらの装備を欠くという事は、それらの装備の普及度が低い社会においてそれら無しに社会生活を送るよりも、機能と潜在能力においてより大きな剥奪を被っている事になる。なぜならば、これらの装備の普及度の高い諸国では、これらの装備の保有をコミュニケーションの手段として前提する形で、社会が運営されるようになるからだ。[13] 

        機能と潜在能力アプローチに基づけば、ベーシック・ニーズの問題は、いかなる種類の機能をどの程度まで達成可能なものとするかを記載する潜在能力の「豊かさ・大きさ」を確定する事から遡って議論すべき事となろう。ベーシック・ニーズに関る機能の種類としては、「飲食料から栄養を摂取し、身体を維持・再生産する事」、「疾病から脱し、健康状態を取り戻す事」、「自分の能力とこれまで培ってきたスキルを利用して働く事」、「休養して心身を維持・再生産する事」、「必要に応じて様々な情報にアクセス・利用し、学習する事」、「移動する事」、「コミュニティの社会生活に自尊心を損なう事無しに参加する事、及びそこでの関連する意思決定プロセスに参加・関与する事」、「子供を育てる事」等々が挙げられよう。これらの各項目に関して、その達成水準についての測定尺度を導入する必要がある。その測定尺度は序数的性質を持つのみの場合もあれば、基数的性質を持つ場合もあろう。それはそれぞれの機能の性質に応じて決まってくるであろうし、そうした測定尺度は、栄養学、医学、教育学、社会学等々の関連する専門知識を参照しつつ、客観的尺度として、公共的に決定されるべきものである。[14] こうした測定尺度の導入によって、各機能の達成度を表す機能ベクトルを定義できる。そのような機能ベクトルの集合として潜在能力が定義されるが、この場合の潜在能力はそれを構成する機能の種類がベーシック・ニーズに関るものであることから、特に基本的潜在能力と呼ぶ。基本的潜在能力の導入によって、「全ての社会的構成員へのベーシック・ニーズ充足の保証」をする事は、全ての社会的構成員への一定水準以上の基本的潜在能力の保証として定義される事になろう。

 

3. 多元的・折衷主義的規範理論の必要性

        ところで、2節での「機能と潜在能力」理論に基づく非厚生主義的な基準の議論を、ベーシック・ニーズの問題に限定して論じたのには理由がある。我々は、経済的厚生主義の下での効率性基準の一元的適用に同意しないと同時に、「機能と潜在能力」理論に基づく基準の一元的適用をも必ずしも是とは見做すべきではない。例えば、ベーシック・ニーズに関る経済政策の是非に関しては、「機能と潜在能力」理論に基づく基準の適用によって判断しつつ、他方、ベーシック・ニーズの領域を超えた財・サービスの消費活動・生産活動の是非、対応する経済政策の是非に関しては、厚生主義的な効率性基準の適用によって判断するという、多元的・折衷主義的な判断を行う方法を行使する事が考えられるからである。すなわち、社会状態の中のある領域に関しては「機能と潜在能力」等の非厚生主義的福祉指標・基準の適用によってその是非を判断しつつ、他の領域に関しては、厚生主義的な価値基準に基づいて定義された適当な社会的厚生関数によってその是非を判断する、という手法の確立が必要であると思われる。社会状態のどの領域においては非厚生主義的福祉指標・基準を適用すべきであり、どの領域では厚生主義的福祉指標・基準で判断すべきか、という問題は究極的には、当該社会の構成員である市民によって決定されるべき事項である。しかしながら、経済学・社会科学としては、いかなる領域の区分けの仕方が有りうるのか、そのそれぞれの区分けの仕方の違いが、政策判断の特徴としてどのような違いを齎すのか、等々についての十分な説明を提示する為の学問的な基礎理論研究が問われる事となろう。そのような作業においてとりわけ留意すべきは、領域の区分けによって、それぞれ相異なる基準で判断する結果、社会総体としての包括的な判断において非整合性が生じるような事があってはならない、という事である。

        また、セン自身がこれまでしばしば強調してきたように、同じ領域内において、2つの異なる判断基準を適用するものの、その適用に優先順位をつけるなり、2つの基準の重要度を表すウェイトを課す事で定義される一次結合的基準を適用する等も有りうる。そのようなアプローチをとる場合においても、どのような優先順位を採用すべきか、あるいはどのような重要度のウェイトを採用すべきかの究極的な決定権は当該社会の構成員である市民に委ねるべきであろうが、それらの手法の論理的整合性が保証されるようなどのような諸提案が有り得るか、そしてそれらは如何なる性質を有するものであるのか等々についての基礎理論研究を行う事が、経済学・社会科学にとって重要な役割の1つとなろう。

        これまでの主流派経済学者は、経済的厚生主義の観点に基づく効率性基準の充足のみを考える事に自らの職務を限定する傾向が強く、分配的公正性などの規範問題に関しては経済学の扱うべき対象ではない、と一線を画してきたきらいがある。その一方で、本来、経済的厚生主義の効率性基準によって判断するのは必ずしも妥当ではないと思われるような領域においても、一元的にそうした基準の適用に基づく判断を一方的に主張する傾向が強かったように思える。だが、むしろ今後必要な事は、分配的公正性などの規範理論的課題からひたすら眼を背けるばかりでもなく、また、経済的厚生主義に基づく価値判断の妥当性のみをひたすら説教するばかりでもなく、経済学以外の社会科学の他分野で展開されてきた規範的価値理論の固有の意義を研究・分析すると同時に、それらの諸基準と従来の経済的厚生主義の効率性基準とをいかに互いに両立的に棲み分け適用しつつ、総体としての整合的な包括的判断を可能とするか、という問題に関する理論的枠組みと考察を深める事であろう。

 

4.     非厚生主義的福祉指標に基づく完全競争的市場経済システムの評価

        とは言え、領域の区分けのような装置を導入する事無く、社会状態の評価全般を、厚生主義的観点から行う事と、非厚生主義的観点から行う事で、同じ対象に対する2つの互いに通分不可能な福祉指標に基づいた相異なる評価の並列という事もまた、意味のある方法であろう。例えば、完全競争市場における競争均衡配分は、厚生主義的効率性基準に基づけば、パレートの意味で最適配分を意味するのに対し、労働搾取という非厚生主義的概念を通して眺めれば、搾取=階級関係の生成・再生産プロセスの帰結として理解されるのであり、それはまた、人々の自由な自己発展にとって必要不可欠な自由時間[15],[16]のアクセスに関する不公正状態として評価され得る。労働搾取とは、所得1単位取得に相当する生産活動に社会的に必要な労働量を参照水準として、それと比較して各個人がそれぞれどれくらい多く(少なく)の労働量を所得1単位取得の為に供給しているかという観点で、人々の福祉水準を評価する概念である。一般に、社会的必要労働量よりも少ない労働量を供給する個人は搾取者、多い労働量を供給する個人は被搾取者として、定義される。私的所有制度の下での完全競争市場を媒介する経済的資源配分の帰結は、富の豊かな資本家階級と富の貧しい労働者階級という階級分化の生成・再生産を意味すると同時に、前者に属する諸個人が搾取者となり、後者に属する諸個人が被搾取者となるという社会関係の生成としても特徴付けられる。[17]

        ところで、社会的必要労働量よりもより少ない労働量を供給する搾取者ほど、所得1単位取得の為に供給する労働時間は少ないので、反対に自由時間はより多くなる。それは所得を用いて自分の自由な発展の為の活動に費やす時間がそれだけ多いので、それらの所得と時間という資源を利用してその個人が実現できる機能の種類もその達成水準もより開かれたものとなる。すなわち、それはその個人のより豊かな潜在能力を保証するものと考えられるのである。その事は、私的所有制度の下での完全競争市場を媒介する経済的資源配分の帰結は、人々の階級的な社会関係を搾取関係として特徴付けるが、その事は同時に、富の豊かな階級に属する諸個人と貧しい階級に属する諸個人との間での、潜在能力の豊かさに関する不均等を生成する事をも意味する。潜在能力の不均等とは、個々人に開かれた人生選択の実質的機会の不平等を意味する。かくして、主流派経済学者のおそらく大多数が、いわゆる「厚生経済学の第1定理」の観点に基づいて、パレート改善であるという意味で、完全競争均衡における雇用・被雇用関係の成立を基本的に望ましい状況として専ら理解するのに対して、労働搾取という概念を導入する事によって、完全競争均衡における雇用・被雇用関係の成立は同時にまた、各経済主体の本人の責任を問えない富の私的所有の格差に起因して、個々人に開かれた人生選択の実質的機会の不平等――例えば、子弟の将来選択の格差やら、成人においても新しい自分の可能性の開花を享受できる自由に関する格差――を生み出すのだという、市場経済の孕む別の意味での原理的特性を明らかにする事が出来る。

              現実の社会問題として「労働搾取」問題が指摘されるという事態を鑑みれば、上記の議論は、「市場への参加」に関する「パレート改善の可能性」という厚生主義的福祉評価の一面性なり希薄性を示していると言える。「市場への参加」という事態に関して伴う、多くの人々が漠然と感じている「負の側面」を、パレート原理は無いものと見做すのに対して、労働搾取という非厚生主義的概念はそれらを言語化し、定式化する事で、市場的資源配分問題に関するより多元的な評価の可能性を提供していると理解できるのである。[18]

 

参照文献

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マルクス 『資本論』,『マルクス=エンゲルス全集』第23a,b, 24, 25a,b巻,大月書店,1965-1967年.

 

Marx, K (1973): Grundrisse, Penguin Books, マルクス『経済学批判要綱III, 高木幸二郎監訳, 大月書店1961.

 

Roemer, J. E. (1982): A General Theory of Exploitation and Class, Harvard Univ Press, Cambridge.

 

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Sen, A. K. (1992): Inequality Reexamined, Oxford: Oxford University Press.

A.     K.. セン『不平等の再検討』池本幸生・野上裕生・佐藤仁訳, 岩波書店,1999年.

 

Sen, A. K. (1997): On Economic Inequality, enlarged edition, Oxford: Clarendon Press.

A.     K.. セン『不平等の経済学』鈴村興太郎・須賀晃一訳, 東洋経済新報社,2000年.

 

Sen, A. K. (2009): “Capitalism Beyond the Crisis,” The New York Review of Books, Vol 56, No.5.

 

Yoshihara, N. (2007): “Class and Exploitation in General Convex Cone Economies,” IER Discussion Paper Series A, No. 489, Institute of Economic Research, Hitotsubashi University, forthcoming in Journal of Economic Behavior and Organization.

 

稲葉振一郎(2009): 100年に一度や二度は起きても不思議はない普通の『危機』についての、ひどく常識的な結論」, 『季刊atプラス』, 01,  pp. 40-47.

 

岩井克人(2009):「資本主義の『不都合な真実』」, 『季刊atプラス』, 01,  pp. 6-26.

 

岩田正美(2007):『現代の貧困/ワーキングプア/ホームレス/生活保護』, ちくま新書.

 

奥野正寛・鈴村興太郎(1988) : 『ミクロ経済学II(岩波書店).

 

国連開発計画(UNDP) (2003):『人間開発報告書2003.

 

後藤玲子(2002): 『正義の経済哲学:ロールズとセン』, (東洋経済新報社).

 

権丈善一(2009): 「政策技術学としての経済学を求めて」, 『季刊atプラス』, 01,  pp. 48-66.

 

アマルティアセン・後藤玲子(2009): 『福祉と正義』, (東京大学出版会).

 

堤未果(2008): 『ルポ貧困大国アメリカ』, (岩波書店).

 

常木 淳(2000): 『費用便益分析の基礎』(東京大学出版会).

 

八田達夫(2009):『ミクロ経済学II―効率化と格差是正―』(東洋経済新報社).

 

水島宏明 (2007):『ネットカフェ難民と貧困ニッポン』 日本テレビ放送網.

 

吉原直毅(2008): 『労働搾取の厚生理論序説』 岩波書店.

 

吉原直毅(2009):21世紀における労働搾取理論の新展開」『経済研究』 603, pp. 205-227.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



[1] ケインズは、総所得をどうしたら増やせるかという問いに熱心に取り組んでいたが、それに比べて、富や社会福祉が不平等に配分されているといった問題の分析に関心を向けることは少なかった。・・・現在の危機への対応という点で、そして全体的な経済拡大だけを目指すような方策を乗り越えるという点において、社会的弱者に対し格段の配慮を払うことがきわめて重要である。職を失い、必要な医療を受けられず、そして経済的にも社会的にも困難な状況にある家計が、特に深刻な被害を受けているからである。こうした弱者の問題をうまく扱うことができないというケインズ経済学の限界点は、大いに認識されるべきである。Sen (2009).

[2] より厳密に言えば、以下で論ずる「補償原理」は、カルドア補償原理と言われるもののみである。仮説的補償原理の議論には、他にもヒックス補償原理、スキトフスキー補償原理、等々の代替的な議論が存在するが、ここでは省略する。仮設説的補償原理についてのより包括的かつ上級向けの解説を求める読者層は、ミクロ経済学のテキスト・ブックを紐解かれる事を勧めたい。例えば、奥野・鈴村(1988)34章を参照の事。また、仮説的補償原理及び費用・便益分析に関する先端的研究の動向については、常木(2000)が詳しい。

[3] 補償変分とは逆に、変化前の市場価格体系で評価した、価格変化後の各個人が享受する効用水準を補償するのに最小限必要な消費支出額と価格変化前の当該個人の消費支出額の差額によって定義される等価変分という概念もあるが、ここでは省略する。

[4] 厳密に言えば、各個人の効用関数の単調増加性が前提される。

[5] ある産業の市場価格の変化による所得効果が無視できるほどに小さい状況というのは、比較的普遍的な状況であると見なすことも可能である。例えば、非常に多数の財が存在し、一般に一家計の予算上に占めるそれぞれの消費財への支出割合がそれぞれ十分に小さい状況であれば、他の事情に等しくして一つの財の価格が変化しても、その所得効果は十分に小さくなることがスルツキー分解などの操作からも確認できる。このような状況は十分に発達した市場経済の想定として、決して不自然ではないだろう。

[6] 以上の「ヒックスの楽観主義」の議論に関しては、八田(2009)20章が詳しい。

[7] 「新厚生経済学」の理論体系を構成する重要なアプローチとして、上記の議論以外に、バーグソン=サミュエルソン型社会的厚生関数アプローチが存在する。しかし本稿では、このアプローチについての議論は割愛し、現実の経済政策の決定・正当化においてより実践的に適用されている仮説的補償原理等の議論に焦点を絞る事としたい。

[8] コロンビアのカルタヘナにおける貧困街のように、水道会社によって直接に給水サービスの対象から除外されるケースと、水道料金が貧困層には負担不可能なほどに値上がりする事によって、実質的に給水サービスから排除されるケースとある。

[9] 国連開発計画(UNDP)『人間開発報告書2003』第5章。

[10] 以上のベーシック・ニーズに関する議論は、淡水資源の供給問題の例で考察していると、開発途上国の問題であって、先進諸国の経済問題としては関係ない、という印象を持つ読者もいるかもしれないが、決してそうではない。例えば、ベーシック・ニーズの1例として医療サービスを考えてみればよい。米国では公的医療保険制度が弱体化し、患者の自己負担増が家計を圧迫する事への対応として、民間の医療保険市場が拡大し、他方、医療の自由化、市場化の下、病院の株式会社化が進行してきた。それらは医療企業における収益性を改善し、市場原理の機能によって技術開発のインセンティブが働きやすくなり、医療技術の発展を促す側面を有すると共に、低所得層及び中産階級層までもを含めて、病気になったときの経済的負担の拡大によって医療費が払えないが故に自己破産する諸個人の急増という現象を齎してもいる。国民皆保険制度をとりあえずまだ遵守している日本に比べて、対GDPの医療支出も15%以上と、非常に高いにも拘らず、ベーシック・ニーズとしての医療サービスを享受できない中・低所得層の状況ははるかに深刻である。詳細は、堤(2008) 3章。

[11] 実際においても、給水事業の民営化の成功例は、「ボリビアでは、給水と衛生設備事業の許可を、新規接続の大半を貧困層地域に敷設する事を約束した入札者に与えることした。」、「チリでは、所得の5%以上を水に費やす世帯がないように、政府が補助金を出している」等、貧困層への給水サービスを保証するような規制や、貧困層の支払い能力を維持させるような再分配政策を伴ったものである。(国連開発計画(UNDP)『人間開発報告書2003』第5)

[12] ラウントリー及びタウンゼントの議論に基づくものであり、日本における生活保護基準の算出がまさにこの方法に則っている。詳細は岩田(2007)を参照の事。

[13] この点について、センは以下の様に説明する:「豊かな社会の中で貧しい事は、それ自体が潜在能力の障害となる。所得で測った相対的な貧困は、潜在能力における絶対的な貧困を齎す事がある。豊かな国において、同じ社会的機能(例えば、人前に恥をかかずに出られる事)を実現する為に十分な財を購入するには、より多くの所得を必要とするかもしれない。・・・インドの農村に暮らす人であれば、比較的にささやかな衣服でも恥をかく事無く人前に出る事ができ、電話やテレビがなくてもコミュニティーで暮らしていく事ができる。しかし、標準的に多様で多くの財を用いる国では、一般的機能を満たすのに必要な財の要求水準は高い。この事は、・・・これらの社会的機能の追及に資源が向けられる事で、保健や栄養摂取のために支出できたであろう財政的手段を切り詰めてしまう事になる。豊かな国における飢餓という一見明らかな逆説は、所得だけを見るのではなく、所得やその他の資源が多様な潜在能力へ変換される過程に注目することで説明が容易になる。」(Sen (1992), Chapter 7)

 実際、例えば現代の日本でも、非正規雇用労働者が登録式日雇い派遣業者からの仕事のオッファーを受けるのは、携帯電話を通じてである。この事は、「当該社会で(経済的に)自立的に生活する」という最もベーシックな機能を実現する為の「働く場」を確保する上でも、携帯電話は必需品となっており(水島(2007)を参照の事)、したがって上記の機能の実現に際しては、基本的な衣・食・住の為の支出にプラスして、携帯電話およびその利用料を払えるだけの所得水準が前提されなければならない事を意味する。

[14] そうした尺度の導入と利用は、実際にも行われている。例えば、国連開発計画(UNDP)の提示する人間開発指数(HDI)も、出生時平均余命、総就学率、成人識字率、1人当たりGDP等々の尺度を導入し、その指数化と単純平均による集計として定義している。但し、HDIは一国の福祉を1人当たり国民所得に同一視する事無く、いっそう広範囲な観点から評価する為の指数であって、個人の福祉を評価する指数ではない。尚、客観的尺度の公共的決定についての規範理論的考察に関しては、セン・後藤(2009)を参照。

[15]「自由の王国は、事実、窮迫と外的な目的への適合性とによって規定される労働が存在しなくなるところで、はじめて始まる。したがってそれは、当然に、本来の物質的生産の領域の彼岸にある。未開人が、自分の諸欲求を満たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないように、文明人もそうしなければならず、しかも、すべての社会諸形態において、ありうべきすべての生産諸様式のもとで、彼〔人〕は、そうした格闘をしなければならない。彼の発達とともに、諸欲求が拡大するため、自然的必然性のこの王国が拡大する。しかし同時に、この諸欲求を満たす生産諸力も拡大する。この領域における自由は、ただ、社会化された人間、結合された生産者たちが、自分たちと自然との物質代謝によって――盲目的な支配力としてのそれによって――支配されるのではなく、この自然との物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同の管理のもとにおくこと、すなわち、最小の力の支出で、みずからの人間性にもっともふさわしい、もっとも適合した諸条件のもとでこの物質代謝を行なうこと、この点にだけありうる。しかしそれでも、これはまだ依然として必然性の王国である。この王国の彼岸において、それ自体が目的であるとされる人間の力の発達が、真の自由の王国が――といっても、それはただ、自己の基礎としての右の必然性の王国の上にのみ開花しうるのであるが――始まる。労働日の短縮が根本条件である」『資本論』第3巻大月書店 p.1051, MEW25, S.828.

[16] 「彼ら(筆者注:労働者達)がそれ(筆者注:彼ら自身の剰余労働の彼ら自身による領有)をなし遂げたなら――そしてそれとともに自由に処分できる時間が、敵対的実存をもたなくなるならば――、一方では必要労働時間は社会的個体のニーズによって測定されるだろうし、他方では社会的生産力の発展が極めて急速に増大するであろうから、その結果――生産はいまや万人の富の為に意図されるにも拘らず――万人にとって自由に処分できる時間は増大する。なぜならば、真の富のとは全ての個人の発達した生産力だからである。その際に、富の尺度はもはや労働時間では決してなく、自由に処分できる時間である。」(Marx (1973, p.708), マルクス『経済学批判要綱IIIp.657, 大月書店.)

「真の経済―節約―は、労働時間の節約にある。だがこの節約は生産力の発展と同じである。それゆえ、消費を断念する事では決してなく、生産のための力、潜在能力を発展させること、だからまた消費の手段も潜在能力も発展させる事である。消費する事の潜在能力は消費の為の条件であり、それゆえにその第一の手段であり、そしてこの潜在能力は個人の素質の発展であり、生産力である。労働時間の節約は、自由時間の増大、つまり個人の完全な発展の為の時間の増大に等しく、またこの発展はそれ自身がこれまた最大の生産力として、労働の生産力に反作用を及ぼす。・・・・・余暇時間でもあれば、高度な活動の為の時間でもある自由時間は、もちろんその保有者を、これまでとは違った主体に転化してしまうのであり、そのときから彼は直接的生産過程にも、このような新たな主体として入っていくのである。」(Marx (1973, pp.711-712), マルクス『経済学批判要綱IIIpp.660-661, 大月書店.)

[17] 資本主義経済の下でこのような社会関係が生成する事を、「階級=搾取対応原理(CECP)と言う。「階級=搾取対応原理」を分析的に初めて論証したのはRoemer (1982)である。それ以降の「階級=搾取対応原理」を巡る研究の展開については、Yoshihara (2007)、吉原(2008)5章、6章、7章、及び吉原(2009)を参照の事。

[18] 岩井(2009)は「労働価値説批判としての資本主義」の節で、「自分の労働が作ったものだから価値があり、その価値は本来自分のものである」という「労働価値説」に関する岩井自身の理解から労働搾取に関する持論を展開して、「主体が価値を決定するというイデオロギー」なり、「価値が自分一人で決められるという事は、自分の仕事への批評は無視できるという事」、と論を展開し、最終的に「労働価値説を進めると、必然的にスターリニズムや毛イズムになってしまう」と結論付けている。しかしそもそも岩井の様に、「自分の労働が作ったものだから価値があり、その価値は本来自分のものである」という意味での「労働価値論」と「主体自身が作り出す本来的な価値を主体の側に取り戻そう」という「疎外論」プログラムのライン上で労働搾取論を理解する事は、現代では必ずしも妥当性を持たない(労働価値説と疎外論プログラムを前提したとしても、岩井の議論はあまりにも稚拙で、論理の飛躍も甚だしいのであるが・・)事について、注意を促しておきたい。この種の理解は労働のみが生産的価値を形成できる生産要素であるという仮説を前提にしている。しかし、そうした理解は、いわゆる「一般化された商品搾取定理」によって労働搾取のみが正の利潤の唯一の源泉であるという主張が成立しない事が論証された事もあって、現代ではもはや説得性を持たない。しかし他方で「マルクスの基本定理」によって、正の利潤の生成の背景に労働搾取が存在する事も一般的に論証されている(その意味で、岩井が言う「産業資本主義時代に労働価値説が成立していたように見えたのは、今から見ると、それは農村に人がたくさん余っていたからに過ぎなかった」という理解は正しくない。そうした歴史的特殊性抜きに、労働搾取の存在は一般的に論証されているのである)。以上の議論は、労働搾取論がもはや妥当性を持たないという事ではなく、その意義づけを「主体自身が作り出す本来的な価値を主体の側に取り戻そう」という「疎外論」プログラムのライン上で捕らえるべきではない事を意味するに過ぎない。労働搾取は、主体自身が作り出す本来的な価値が主体から奪われている故に批判されるべき事態として考えるのではなく、むしろ本稿で論じたように、自由時間という人々の善き生(well-being)をもたらす基本的機能(functioning)へのアクセスに関する不均等、それに起因する実質的機会の不平等を意味するが故に、批判されるべき事態と考えるべきだろう。労働搾取理論を支持しない新古典派経済学の立場に立ったとしても、資本主義において貧富の格差や労働者階級の生活の不安定性という問題が現代の先進諸国においても焦眉の問題になっていることは否定しようがない。こうした諸問題を規範的に評価する際の説得的な理論的概念装置として、労働搾取論は意義付けられるだろう。