立命館大学でのセミナーに関して

 

吉原直毅

一橋大学経済研究所

200886

 

              728日、そして29日の午前中と、立命館大学経済学部の社会経済学研究会というセミナーに招かれて、研究報告を行った。立命館大学経済学部はこの4月から松尾匡さんが教授として赴任しており、その彼から私の拙著『労働搾取の厚生理論序説』の検討会をやりたいから来てくれという事で、行く事になったのだ。この事について、すでに松尾さんがご本人のHP上でコメントされているので、それへのリプライも兼ねて、言及しておきたい。

              立命館の社会経済学研究会というのは、松尾さんの様な数理マル経の理論系やポスト・ケインジアン系の研究者たちからなる研究会であり、基本的に非新古典派・マル経の研究グループの集まりのようだ。そこでは、現在進行中の『The injustice of exploitation(ロンドン大学ロベルト・ヴェネチアーニ博士との共同研究)について報告した。2月に拙著を公刊して以降、いくつかの大学のセミナーやあるいは国際コンファレンスなどでもこの論文を報告してきているし、また、この秋の日本経済学会でも報告予定になっている。しかし、これらは全てメイン・ストリームのオーディエンス層からなるミクロ経済理論系の研究会であったので、マル経のワークショップでこの論文を報告するのは初めてである。そもそもこれまでのマル経のワークショップでの報告経験も、1年半ほど前に京大の大西広さんの科研費プロジェクトの研究会に招かれて行ったもののみであるし、大西さんの研究会は完全に数理系のオーディエンス層のみだったので、今回のように非数理系の昔ながらのマル経研究者の方々をオーディエンスに含めたセミナーでの報告経験は、事実上、これが初めてであった。どんな感じになるかと思っていたが、思いの他、歓迎ムードで、報告の方もスムーズに進んだ。また、京大経済学研究科教授の八木紀一郎さんの様に、わざわざこのセミナーの出席の為に来てくださり、その後の懇親会まで含めて参加された方もいた。私の報告に参加してくださった全てのオーディエンスの皆さん、とりわけ、この研究会に私を招聘する事を提起された松尾さんや、研究会幹事としての手続きの労を取られた大野隆さん(立命館大学経済学部准教授)に、改めてお礼を申し上げたい。

              尚、今回のこのセミナーには、立命館大学社会経済学研究会が始まって以来、初めての新古典派のファカルティーによる出席があった。この出席者とは、私が前任校の北海道大学経済学研究科に勤めていたときに博士課程の大学院生だった紀国洋さん(立命館大学経済学部教授)である。当時、北大の近代経済学グループのリーダーだった小野浩教授からも優秀な大学院生として高く評価されていた人で、理論的産業組織論の分野で優れた業績を蓄積して博士号を取得された後、ここにパーマネント・ファカルティーとして就職された。当時は北大の近代経済学研究会というワークショップ後などに一緒に飲み会に参加していた仲なのでお互いよく知っているが、彼にとっては、自分はミクロ経済理論の研究者というイメージが強いので、社会経済学研究会で私が報告する事を知って、驚いて聞きに来たらしい。

              報告した『The injustice of exploitation』の最終的な結論は、労働搾取概念の有効性を正当化するものであるが、とはいえ、その概念をどう定式化するかという論点で、従来の投下労働価値説に立脚した置塩-森嶋型の定式を批判し、ダンカン・フォーリー型の価格依存的労働搾取の定式のみが唯一、妥当な定式であるという定理を、公理的分析を通じて導いている。この論文の内容の一部は、現在連載中の『経済セミナー』誌の拙論「福祉社会の経済学」の連載2回〜4回目(『経セミ』5月号〜7月号)で紹介している。元論文の方は当然ながら数理的分析に満ち満ちた論文だが、「福祉社会の経済学」での紹介の方は、この連載はそもそも学部23年のミクロ経済学の素養レベルを前提に書かれているので、数学的知識が殆ど無くても読解できるように書いてある。興味のある方はそちらを参照いただきたい。[1]

              フォーリー型の価格依存的労働搾取の定式のみが唯一妥当な定式である、というこの論文の主要定理の結論に関しては、いわゆるマル経の立場としては文句を言ってくるかな、と思っていたが、それに関しては特に何も異論は出ず、皆、「面白かった、勉強になった」と概ね好評であった。一つは、このプレゼンも、数理的分析に満ち満ちた原論文とは違って、学部23年のミクロ経済学の素養レベルを前提に、専らグラフィカルな説明に終始した事もあって、数学的分析のフォローに困難を感じられる年配層の昔ながらのマル経研究者の方々も話をフォローできた様子だったのが挙げられる。また、逆に新古典派の伝統の下で専ら研究してきて、マル経の素養は殆どないらしい紀国さんもセミナー中、よく発言されていたが、私の話の内容をよく理解している風であった。価格独立的労働搾取の立場に立つ松尾さんは当然、この結論に対して批判してくると思っていたが、彼の発言も基本的には内容を理解する為の質問だけであった。

 

1.  The injustice of exploitation』への松尾コメント

              その後、松尾さんのHP (matsuo-tadasu.ptu.jp) 上のエッセイ「吉原直毅さんの立命館セミナー」で以下のような事を書かれている:

 

「吉原さんはここで、各自の消費を生存維持消費財の束に固定した上で、各自が自己の労働を最小化することを目的にするモデルを使っています。そして、このモデルの正当化のために、自由時間増大を展望し、他者の自由時間の領有を搾取とみなすマルクスの文章を引用されています。

・・・・・自由時間の最大化ってあんた、そんな工程選択問題を解いたら、出てくる解ベクトルは投下労働価値になるじゃないですか。投下バナナ価値にはなりませんよ。投下バナナ価値が出てくる問題は、木になったまま収穫されない自由バナナを最大化する問題でしょう。つまり、自由時間増大論の立場をとるかぎり、規範論としての労働搾取論を、一般商品搾取定理を根拠にして批判することはできなくなると思います。」

 

この部分の議論を読んでの第一印象は、残念ながら「・・・全然、理解していない!」という軽い失望であった。第一に、例の「バナナ搾取」の話をまた持ち出してきて、規範論としての労働搾取論を、一般的商品搾取定理を根拠にして批判することはできなくなる、と言っている点である。しかし私は、「規範論としての労働搾取論」を、一般的商品搾取定理を論拠にして批判した事はない。私が、一般的商品搾取定理を論拠にして、一貫して主張しているのは、「労働力=唯一の価値生成的生産要素」という前提に立った「正の利潤の唯一の源泉としての労働搾取」論は、マルクスの基本定理を根拠にしても論証されたとは言えない、という事である。「正の利潤の唯一の源泉」論としての労働搾取論は批判しているが、それとは別に、むしろ労働搾取論の規範理論的意義を明らかにしようというのが、『The injustice of exploitation』をはじめとする最近の私の研究である。松尾さんは自由時間という指標から人間の福祉を評価しようという私の議論、及びそのような福祉論的含意のある自由時間の不均等配分という観点で労働搾取を位置づけようという私の議論を肯定的に紹介しており、その事より判断するに、彼の言う「規範論としての労働搾取論」の観点からも私の議論は受容され得るように見える。であれば、「正の利潤の唯一の源泉としての労働搾取」論を私が批判したとしても、その批判は直ちに「規範論としての労働搾取論」批判を意味しないとも思えるのだが、いかがだろうか?

              そもそもなぜ、バナナ価値とかバナナ搾取という概念を定義して分析に用いると、直ちにバナナ中心主義の規範的立場に立つことになるのか?結局、「一般的商品搾取定理」を巡るこの間の必ずしもあまり生産的とは言えなかった「論争」において、彼が提示してきた唯一の論拠は「バナナ搾取=バナナ中心主義」という珍妙な解釈論だけである。しかし、そもそも一般的商品搾取定理を論拠とする「正の利潤の唯一の源泉としての労働搾取」論批判にとっては、「バナナ搾取」が規範的に有意義であるか否かは本質的な論点ではない。「バナナ搾取」という言い方が気に食わなければ、すでに拙著第33.5節でも強調しているように、「バナナ投入財の技術的に効率的利用可能性の存在」等と言い換えても良い。その種の要因が正の利潤の必要十分条件として関係付けられる以上、「労働搾取=利潤唯一源泉」論は主張できないと言っているだけであり、その主張は正の利潤の背景に労働搾取が存在する事をも否定しているわけではないし、まして、労働搾取概念の規範理論的重要性についても否定しているわけではない。強いて言えば、「マルクスの基本定理」からは、労働搾取概念の規範理論的意義を導き出す事は出来ない、とは主張しており、マルクスの基本定理よりもむしろ「階級-搾取対応原理」において、労働搾取概念の規範理論的意義を導き出す可能性を探求している。[2] マルクスの基本定理の論脈における労働搾取の定式は、労働という生産要素の技術的効率的利用可能性という、純粋に生産技術的性質についての言及とも解釈可能である。従って、むしろ階級-搾取対応原理によって、階級生成という機会の不均等化的契機と関係付けられて初めて、労働搾取は規範的意義付けを獲得するし、「ある社会的参照消費ベクトルを確保する為の生産活動」というある種、仮想的な市場経済モデルに置ける市場均衡解の特徴として搾取関係の生成が確認できて初めて、市場経済における自由時間に関する不均等配分の指標としての労働搾取概念の規範的意義が根拠付けられる、と言えるのである。

              第二に、自由時間を人間の福祉指標として適用しようという立場は、それイコール森嶋型労働価値の定式の採用を意味はしないという点がある。「自由時間の最大化ってあんた、そんな工程選択問題を解いたら、出てくる解ベクトルは投下労働価値になるじゃないですか。」と松尾が言うとき、明らかに森嶋型の投下労働価値の定式が想定されている。その想定において松尾がイメージしているのは、ロビンソン・クルーソー的「1個人=1社会」モデルである。ロビンソン・クルーソー的社会に存する唯1人の個人がその生存の為に不可欠な消費財ベクトルの生産の為に、自由気ままに生産手段にアクセスする結果、その生産活動に要する労働時間の最小値が確定する。その労働時間から解放された残りの時間が、松尾の言わんとする「最大化された自由時間」である。松尾の議論は、この「最大化された自由時間」を参照点として、市場経済下の資源配分において「最大化された自由時間」を享受していない個人の存在を以って、搾取の存在を定義するものである。ロビンソン・クルーソー的社会を人間社会の「本来系」と措定し、市場経済社会を「本来系」からの「疎外系」と措定する松尾の疎外論とパラレルな論理構造になっているのが解るだろう。

              しかしこの森嶋型の定式の問題は、生産技術決定論的構造が強すぎる点である。松尾がロビンソン・クルーソー的社会における意思決定問題として解釈する森嶋型労働価値の決定問題では、生産手段へのアクセスに関して何らの制約が課されていないから、生存の為に不可欠な消費財ベクトルの生産の為に要する労働時間を短縮したいと思えば、(資本と労働とは一般的に互いに代替的な生産要素であるという想定の下では)資本‐労働比率が最大化されるような生産技術を選択すればよい。それは生存の為に不可欠な消費財ベクトルの生産の為に要する資本財の投下量が極めて膨大になる可能性[3]を有しており、実在の社会においてそのような投下量が可能となるだけの資本財の社会的賦存量が存在する保証はない。従って、ある有限な資本財の社会的賦存量を所与とする経済社会においては、仮にその資本財へのアクセスが均等に保証されている平等主義的(共産)社会であってさえも――従って階級が一切存在しない社会であっても――、全員が被搾取者になり得る()のである。このとき、階級-搾取対応原理は当然ながら、成立しない事になる。生産手段の所有関係などの様な生産関係的要因でなく、社会の総賦存資本ストック量の不足というような生産力的な要因故に、平等な諸個人全員が陥る境遇とは、普通、「搾取」と呼ばれるべき事態というよりは、むしろ「絶対的貧困」と呼ばれるべき事態だろう。

              このように、「自由時間を人間の福祉指標として適用しようという立場=森嶋型の労働価値の定式化」と解釈してしまうと、あまり実りの良い規範的分析を引き出せそうにない、という見込みが立つ。同様の結論は、議論を松尾型の労働価値の定式に置き換えたとしても、導き出す事ができる。[4] 我々の『The injustice of exploitation』では、森嶋型労働価値及び搾取の定式が、自由時間を人間の福祉指標として適用しようという立場で労働搾取概念を意義付ける観点からすれば不適当である事を、公理的分析を通じて論証しているのである。

              次に、松尾さんは以下の様にも批判している:

 

「この立場をとることは、労働搾取論を批判するために、"いわゆる『非弾力性条件』が満たされない場合の『階級・搾取対応原理』の不成立"を持ち出す論理と矛盾すると思います。『非弾力性条件』というのは、富が増加した時に、その率を上回って労働供給を増加させることはないという条件です。これが満たされないと、初期資産が多い富者が、初期資産の少ない貧者のもとに働きにいって搾取されるということが起こり得ます。ローマーなどはこれを根拠に、労働搾取論よりは、初期資産の配分の平等・不平等性が資本主義批判の基準として適切と言ったわけです。しかし、自由時間増大を無条件によしとする立場は、こんな、富が増大したら労働時間を増やす想定とは相容れないでしょう。」

 

この批判には、事実解明的論点と規範的論点の混同が見られる。「非弾力性条件」はあくまで経済主体の主観的選好を表す効用関数に関する性質であり、それが満たされるか否かは、現実の市場経済におけるデータに基づいて判断されるべきものである。さらに言えば、経済主体の主観的効用関数に関する性質である以上、それは「分析者」ないしはいわゆるsocial plannerの立場からはパラメーター的なものである。他方、「自由時間を人間の福祉指標として適用しようという立場」は「分析者」が選択した規範的価値であり、あるいはそのモデル社会において社会的選択された、あるいはいわゆるsocial plannerが選択した規範的価値観である。従って、現実の市場経済を事実解明的に分析し、それを「自由時間を人間の福祉指標として適用する」規範的立場に基づいて評価しようとする際に、現実のデータにおいて、「ワーカホリックな資本家とレイジーな労働者」が見出されるのであれば、それを前提にして議論をするのは当然である。

              実際、市場経済の一般的な事実解明的特徴として、階級-搾取対応原理を位置づけようと考える場合には、「非弾力性条件」が現実のデータの性質としてどの程度に尤もらしいかという論点が関らざるを得ない。さらに言えば、市場経済の一般的な事実解明的分析に関するより強い定理としては、階級-搾取対応原理が「非弾力性条件」なしに成立するに越した事はない。ローマーの論点はあくまで、市場経済の一般的な事実解明的特徴として、階級-搾取対応原理を位置づけられるか否か、というところにあったと解釈するのが妥当である。そして、「非弾力性条件」が現実のデータの性質として必ずしも強い普遍性をもたないと判断され得る限り――この論脈において、「ワーカホリックな資本家とレイジーな労働者」の例が検討されなければならない――において、「否」という答えを引き出した彼の議論も妥当なものであると言える。

              以上は、ローマーが1980年代において行っていた議論での話の紹介である。他方、私自身はローマーの結論に必ずしも完全に同意しているわけでなく、市場経済の一般的な事実解明的特徴として階級-搾取対応原理を位置づけられないとしても、市場経済のもつ原理的特性として階級-搾取対応原理を位置づける事は可能ではないかと、拙著の55.9節でも主張しているわけである。資本主義経済システムを批判する上で理論家としての我々に必要なのは、現実の実際の市場経済において、富の大小関係と階級‐搾取関係とが厳密に対応しているか否かという経験的事実に関する検証なのではなく、もし仮に人々が同程度に一生懸命働いたとしても、尚、出身家計の資産格差などの要因によって階級‐搾取関係が規定され再生産されるという構造を、資本主義的経済システムはメカニズムとして内包しているか否か、という類いの、システムの原理的特性に関する理論的認識なのである。

              尚、松尾さんは「余暇時間」一般と「自由時間」との区別について言及しているが、この認識自体は私も共有している。彼の提案も一考に価するかもしれないが、これはもっと十分に深い検討が必要な課題であろう。

 

2.      『労働搾取の厚生理論序説』への松尾コメント

              本書の中で私は置塩-森嶋型の価格独立的労働搾取理論を根本的に批判したし、その流れの延長上で松尾流労働搾取の定式化論にも根本的批判を与えていたし、また森嶋が依拠し松尾も依拠していた、フォン・ノイマン型の均斉成長均衡解も批判した。松尾さんの報告はそれに対する反論の展開を試みるというものでもあった。しかし結論的に言えば、彼の「反論」に対しては全て、この本書内においてそれに対する再反論が準備されている。従ってこれらに関する私の基本的なスタンスは、拙著の該当箇所をまずはしっかりと読んで戴きたい、という事に尽きる。

              それから、私の拙著全体の本質的前提は、「再生産可能解」という均衡の上ですべてを論じていることにあり、他方、松尾流の搾取体系はこの均衡概念に依存しないところで作っており、そこに両者のズレの本質があるとエッセイで書いておられるが、これは必ずしも本質的な理解とは言えない。例えば、松尾流搾取の定式の下でマルクスの基本定理が成立しないという本書内での批判は、再生産可能解の採用には依存していない。この事は、本書の中でも明示的に記述している。もっとも、松尾流の搾取体系が特定の均衡解概念とは独立に構成されるのは、松尾流「疎外論」の立場そのものから来ていると言うのは、その通りであろう。その性質は森嶋型の搾取体系の特質を継承したものであって、拙著はまさにそのようなアプローチ一般を「価格情報独立的労働搾取の定式」と称して、公理的分析に基づいて批判しているのである。

              ところで、松尾流の「主観主義」的な労働搾取の定式であるが、これは労働搾取の定式と解釈する限り、その価格情報独立的性質と厚生主義的主観主義的な性質の双方が齎す諸困難を指摘せざるを得ない[5]のであるが、搾取という概念から離れて、衡平性という観点から彼の定義を再検討すると、意外に面白い性質が浮かび上がる。すなわち、松尾流労働搾取の定式に基づく「無搾取状態」とは、いわゆるPazner and Schmeidler (1978)によって提唱された「平等=等価としての衡平性基準」(equity as egalitarian-equivalence)の一変種であると考える事ができる。もっと厳密に言えば、松尾流の「無搾取状態」基準を、1投入-1産出の生産経済モデルに適用するならば、その基準に適う資源配分ルールはまさにマスコレルがMascollel(1980)で提唱した、収穫一定等価解(constant returns equivalent solution)に他ならない。収穫一定等価解は、ある収穫一定経済を仮想的に設定し、その経済において人々が自由に生産テクノロジーにアクセスし、自分の望むだけ働き、その成果を消費するという仮想的資源配分(収穫一定下での自由なアクセス配分)を導出する。これは「ロック流の処女地開墾後の状態」として定式化されたものであり、これを松尾流の無搾取状態と解釈可能なのは松尾さん自身が言及している通りである。この収穫一定経済での仮想的資源配分の下で各々の個人が享受していた効用水準と全く同一の効用水準を保証するような資源配分を、実在の収穫非逓増的生産経済において実行させる資源配分ルールこそ、収穫一定等価解に他ならない。つまり、収穫一定等価解によって割り当てられた資源配分の下で人々が享受する効用水準は、ある仮想的な収穫一定経済の下での松尾流無搾取的資源配分の下での効用水準とまったく同一になっている。この解の特性についてはムーランがMoulin (1987)において公理的に分析しており、パレート効率性と生産技術の単調性を満たす唯一の、収穫一定下での自由なアクセス配分ルールである事が知られている。また、ジョン・ローマーはRoemer (1996)において、この解を自己所有権と外的資源の公有制を共存させた、新ロック主義的配分ルールと位置づけている。

              ムーランによって明らかにされた公理的特徴を持つという良さのあるこの配分ルールであるが、同時にマルクス主義的社会主義の伝統からはもっとも遠い解概念であるとも言える。第一に、いわゆる「労働に応じた配分」という性質も「必要に応じた配分」という性質も、いずれも有さない。また、この解の存在は1投入-1産出の生産経済モデルの下では頑健であるが、多数財の生産経済では解の存在は保証されない、という弱点がある。1投入-1産出の生産モデルにおける収穫一定経済とは、生産要素としての資本財の存在しない経済環境である。従って、1投入-1産出の生産経済モデルでのみ、解の存在が議論できるという事は、高々、資本財1種類の世界かもしくは、可塑的な資本という仮定の下においてのみ[6]、収穫一定等価解を無搾取的な資源配分ルールとして適用可能な事を意味する。最後に、この解を分権的に遂行するのは極めて困難である。いわゆる市場メカニズム類似の自然な分権的遂行メカニズムによってナッシュ均衡として遂行する事は出来ない為、より不自然なステージ・ゲームのメカニズムを考えなければならなくなる。

              これらの性質が、松尾流の搾取論にどう影響するかについて言及しよう。第一に、松尾さんは搾取のない経済社会においては、物理的な労働時間に応じた――従って、労働能力の個人間の格差を反映させない――資源配分[7]を、アソシエーション的な分権的意思決定メカニズムによって遂行する状況を展望していた。[8] [9] しかし、そのような資源配分は明らかに収穫一定等価解が指定する資源配分とは異なる性質である為、松尾の意味での無搾取状態を実現しない。従って、物理的な労働時間に応じた配分ルールの代わりに、収穫一定等価解によって指定される資源配分が、実現されなければならない。しかしその実現は、アソシエーション的な分権的意思決定メカニズムによっては、一般に不可能である。[10] のみならず、価格メカニズム風の分権的意思決定メカニズムによっても、収穫一定等価解の遂行は不可能である。すなわち、松尾流の無搾取的資源配分は、いわゆる自然な分権的意思決定メカニズムによって実現する事が難しい、という含意が導き出される。松尾さんは周知のように、進化論的シナリオを描いていたから、そのフレームワークに則れば、進化的に生成していく将来のいかなるタイプの「アソシエーション的」資源配分メカニズムによっても、松尾流の無搾取的資源配分が遂行される事は極めて困難、という結論になるだろう。

 

3.      最後に

              最後に、以前、松尾さんが彼のHP上での拙著の書評欄において、以下のような事を書かれていた:

 

「あるえらい先生との会話で、この本の話になって、おっしゃるには、
『あの本、半分くらい、あんたのこと書いてあるね。』
『はあ・・(いや、せいぜい6%くらいですけど)。まあ、全部批判されてるのですが』
『そやね。まぁ、はたから見てたら、あんたら何やら細かいこと、ごちゃごちゃやっとるなあという印象やな。』
『はぁ』
『そんなことして、何の役にたつんや。』」

 

今回、この立命館の「あるえらい先生」という方が名乗り出てくれてお会いできるという可能性を密かに楽しみにしていたのだが()、結局、それらしい人は現れなかった。もしかしたらオーディエンス層にいた一人だったのかもしれないが、名乗り出られないとこちらは全く解らないのでどうしようもない。

              いや、確かに瑣末な事でごちゃごちゃやっとるという印象に思われてしまうのもその通りだと思う部分もある。今にして思うと、「バナナ搾取」の解釈論にはお付き合いすべきでなかったという反省もある。「バナナ搾取」の意味づけがどのように与えられようとも、「労働のみが価値生成的生産要素である」という古典的マルクス主義の公理が、一般的商品搾取定理によって、その妥当性が否定されたという論理的結果自体には影響がない以上、余計な解釈論に口を挟むのは瑣末な議論に捉われて本来の論点をぼかすだけであるからだ。

              そもそも、その種の解釈論に話が進んだ時点で、一般的商品搾取定理の意義付けを巡る本来の議論は終わったのである。なぜならば、松尾さんの主張も、結局、「労働=唯一の価値生成的生産要素」という古典的マルクス主義の公理が、一般的商品搾取定理によってその妥当性が否定されたという私の議論に正面から応え、「労働=唯一の価値生成的生産要素」論を擁護する事を目論む議論ではなかったからである。彼の主張は、一般的商品搾取定理の成立があろうとも、「労働搾取論のマルクス労働疎外論的意義」は損なわれない、というものであり、その主張を論証する為には、実質上、マルクスの基本定理の半分だけでよい――つまり利潤が存在するときに労働搾取が存在する事のみの論証――という議論の構成になっている。「労働搾取論のマルクス労働疎外論的意義」付けの論証として、マルクスの基本定理を参照する事で十分であるという解釈に関しては依然として異論の余地が大きいものの、そのような解釈をとりあえず是として前提しておけば、ともかく「利潤が存在するときに労働搾取が存在する」という言明と、「利潤が存在するときにバナナ搾取が存在する」という言明とは何ら論理的に矛盾しないから、一般的商品搾取定理の成立があろうとも、「労働搾取論のマルクス労働疎外論的意義」は損なわれない、という彼の主張それ自体はその意味で論理的には間違ってはいない。[11] 同時にまた、その彼の主張によってでは、「労働=唯一の価値生成的生産要素」論を擁護する機能を発揮しないのも論理的には明らかである。要するに多義的な解釈が可能なのであり、松尾の述べている事は、「疎外論風に読み込めば、マルクスの基本定理はこのように解釈できる」と提示しているに過ぎない。その立場で解釈したときには「バナナ価値=バナナ中心主義」になるから商品搾取定理はおかしいと批判しても、経済学説上の暗黙的論争テーマとして闘われてきた「いずれの生産要素が利潤ないし剰余の源泉であるか?」という論点に対して、一般的商品搾取定理が1つの確定的な結論を与えているとするメイン・ストリームな解釈[12]自体を棄却させるだけの説得性は持たない。そもそも一般的商品搾取定理を支持する論者は、当初からマルクスの基本定理に関する多義的な解釈の余地のある事を認識し、かつ主張しており、それ故に、「労働=唯一の利潤の源泉」論の論証と一義的に結論付ける事は出来ない、と主張している。同様にして、「労働搾取論のマルクス労働疎外論的意義」付けとしての「マルクスの基本定理」解釈を一義的に結論付ける事も出来ないのである。一般的商品搾取定理を巡る以上の論点と、残された論点、つまり松尾さんが提示したような形での「労働搾取論のマルクス労働疎外論的意義」付けが妥当であるか否かという論点についての検証は、区別して別の論文として行うべきであったろう。

              また、吉原(2001)において一般的商品搾取定理を取り上げた当初から、置塩・森嶋の数理マルクス経済学研究の成果に関して批判的にコメントしたり、古典的マルクス主義の一部の議論を批判したりはしてきても、労働搾取そのものの存在なりその意義なりを全否定した事は一度もなく、私的所有制度との関連性にフォーカスした形での搾取論の再構成の必要性という問題意識であったのだが、受け取る側からは往々にして、「吉原はマル経の搾取の存在を否定した」という意味合いで専ら、受け止められてきた点に関する反省もある。他人というものは、研究者レベルの人であっても、自分が期待するほどに十分に11文の論理展開を了解しながら精読しようとはしないものであり、むしろ表面的な言い回しから得る印象に支配されながら読む傾向の方が強い、という事への認識が不足していたとも言える。

              以上の反省点があるとはいえ、そして確かに「何やら細かいこと、ごちゃごちゃやっとるなあ」というような冷ややかな認識のマルキストも古手の人の中には相変わらず少なくないようだが、我々の論争は現在日本のマルクス経済学界における、数少ない学問的論争らしい論争という事で、比較的若手世代を中心に、それなりに認知されているようでもある。実際、我々の場合、単なる一時的な流行もののテーマではなく、労働搾取論というマルクス経済学の王道中の王道的テーマで原理論的にやっているわけで、また、輸入・紹介というレベルの研究を超えて、地道ではあるが、確実にオリジナルな研究成果を蓄積しつつある。それだけに、松尾さんの

 

「『そんなことして、何の役にたつんや。』
 この問いに対して、まじめに大義名分を立てることもできたのである。しかもそれは決して口先だけのことではなくて、本気で社会的意義と有用性を信じているものとして。しかし、僕の口をついて出た即答は、
『おもしろい。』」

 

という対応は如何なものかと思う。これでは単に「何やら細かいこと、ごちゃごちゃやっとる」事をおもしろがるオタクの為の研究テーマであると言わんばかりである(苦笑)。もう少し自覚を持って対応して欲しいものである。研究者である以上、面白いと思えるテーマでなければ本格的に取り組もうとしないであろう事は言うまでもないが、経済学研究者である以上、単に「おもしろい」だけではアカウンタビリティーを果たしたとは言えない。少なくとも私はその様に考えている。

 

 

 



[1] また、本年度の日本経済学会秋季大会(近畿大学)においても『The injustice of exploitation』について研究報告の予定である(915日の午後セッション)

[2] マルクスの基本定理が問うているのは、いずれの生産要素が正の利潤ないしは正の剰余の源泉となるか、という問題である。その種の問題に関しては、いずれの生産要素もそうなり得る、という解以上に確定的な事は言えない、というのが、一般的商品搾取定理から導かれる含意である。むしろ、利潤がどの生産要素の私的所有者に帰属する事になるのか、そしてそのような資源配分は正当化し得るのか、という論点こそ、労働搾取概念を用いて本来解くべき問題であったと言えよう。尚、こうした論点の転回の必要性を日本において最初に提唱したのは、三土修平であろう。

[3] 等産出量曲線の形状次第では無限大になるという可能性もある。

[4] 一般的な凸錘生産可能性集合を前提して、仮に生存消費ベクトルが2次元以上の場合、森嶋型と松尾型での労働価値量の値には違いが出てき得る。しかし、消費財1種類のモデルを想定すれば、森嶋型での議論が直接、松尾型での議論に適用されるだろう事を理解できる。

[5]一例として、上述のように、松尾的労働搾取の定式の下ではマルクスの基本定理が成立しない、という点が挙げられよう。

[6] 1投入-1産出の生産経済モデルと言及しながら、投入財として労働以外に1種類の資本財、ないしは可塑的な資本の存在を言及するのは矛盾するように聞こえるかもしれない。しかし、収穫一定等価解とは、想定される経済環境が生産技術が規模に関する収穫非逓増なクラスにおける資源配分ルールである。従って、例えば、収穫逓減な1投入-1産出の生産関数によって与えられる経済環境というのは、実は明示化された労働投入以外に、固定された資本ストックが隠れた投入財として存在していて、それ故にフローに関して1投入-1産出で見る限りにおいて規模に関する収穫逓減な生産関数として現われる、と解釈する事も可能である。そのように考えると、収穫一定等価解とは、産出財が1種類の世界で、純粋に労働のみが投入財であるような収穫一定経済での無搾取的配分 (すなわち、収穫一定下での自由なアクセス配分) を仮想的に設定した上で、労働投入以外に1種類の資本財がストックとして固定投入された下での、それ故、見かけ上は1投入-1産出の収穫逓減生産経済として現われるような2投入-1産出の収穫一定経済において、上記の仮想的な無搾取的配分と、各個人の効用関数において無産別となるような資源配分を指定するルールであると解釈可能である。

[7] これは、厚生経済学の分野で「等しい労働時間への等しい成果の配分」(Equal reward for equal labor time)と言われている衡平性基準と同一のものである。

[8] 稲葉・松尾・吉原『マルクスの使いみち』の第2章での議論を参照の事。

[9]「等しい労働時間への等しい成果の配分」とパレート効率性基準とが両立可能である事は、Yoshihara (2000)において論証されており、この2つの基準を満たす資源配分ルールが自然な分権的意思決定メカニズムによって遂行可能である事も、Yamada and Yoshihara (2007)において確認されている。自然な分権的意思決定メカニズムとは価格情報を用いた市場風のメカニズムを意味し、他方、アソシエーション下の分権的意思決定メカニズムは必ずしも価格情報を用いず、経済主体のニーズに関するより直接的な情報をやり取りする性質を持っている。そのようなタイプのメカニズムとして、マスキン・タイプのメカニズムのように、個々人の選好情報をメッセージ空間に持つようなメカニズムを想定しても良いかもしれない。そして、そのような想定が許容されるのであれば、「等しい労働時間への等しい成果の配分」とパレート効率性基準を満たす資源配分がアソシエーション下の分権的意思決定メカニズムによって実現可能であると解釈する事もまた、十分に許容可能であろう。

[10] もちろん、アソシエーション下の分権的意思決定メカニズムの可能性を、特殊な多段階ゲーム形式として正当に限定してしまえるのであれば話は別で、その場合は部分ゲーム完全均衡での遂行可能性について検討する余地が出てくる。しかし少なくともここで考察しているような経済的資源配分問題の論脈では、「ナッシュ均衡での遂行可能性」に比べて、「部分ゲーム完全均衡での遂行可能性」という性質はより解釈上の困難が伴い、従って正当化も困難となる。

[11] とはいえ、労働搾取を労働疎外論的に意義付ける為の論証としては、マルクスの基本定理の成立は必要であるかもしれないが、十分であるとは言い難い。労働搾取を労働疎外論的に意義付ける為の叙述的ストーリーと、マルクスの基本定理それ自体の論理的含意とは距離がありすぎるからである。

[12] こうした解釈はBowles and Gintis (1982), Samuelson (1982), Roemer (1982), 吉原(2001, 2008)等で展開されてきた他、日本のいわゆる宇野学派においても同様の見解が佐藤隆や中村宗之によって展開されている。