最近思う事:

湯浅誠・堤未果『正社員が没落する--貧困スパイラルを止めろ!(角川新書)を読んで

 

吉原直毅

一橋大学経済研究所

 

2009315

 

1. 湯浅誠・堤未果『正社員が没落する--貧困スパイラルを止めろ!(角川新書)は今の時勢がまさに必要とする論を展開している。湯浅氏や堤氏の昨年来の優れた新書の公刊なり、そして経済学者においても京大名誉教授の橘木氏の一連の地道な「日本の貧困問題」に関する実証研究もあって、現在ではもはや日本でも貧困問題や経済格差問題が深刻化している旨を否定する論調も見られなくなった。34年前までは、80年代以降の日本の所得格差拡大は人口の高齢化によって齎された統計上の見せかけの現象である――人口の高齢化が統計上の所得格差拡大を齎す大きな要因であった事は確かであるが――、そして90年代後半以降の若年層での顕著な格差拡大を伴った所得格差拡大は、90年代長期不況故であって、景気の回復と共に解消されていくだろうと言う論調が、経済学界のみならず、政府や日本経済新聞などの一般メディアにおいても支配的な情勢であった事を鑑みれば、隔日の感がある。

 

だが、昨年末の「年越し派遣村」が大きく報道される等、貧困問題が一般メディアによって取り上げられるにつれ、派遣村に集う貧困層へのバッシング的報道も目に付くようになってきた。他方、いわゆるロスジェネ系論壇では当初から、公務員、正社員等の中間層へのEnvyに動機付けられた敵対的論を貼るという特性が見られた。これらは、典型的な「分断統治(Divide and conquer )」の構図の現代版である。ロスジェネ系論者によくよく考えてもらいたいのは、敵は本当に公務員、正社員等の中間層なのか、それらの階層が貧困層に滑り落ちる事で自らのEnvyが解消されればそれで問題は解決されるのか、という事である。湯浅誠・堤未果『正社員が没落する--貧困スパイラルを止めろ!』は、中間層が貧困層に滑り落ちる事態は同時にこれまでの貧困層の更なる深刻な貧困水準へのすべり落ちを齎すだろう事を繰り返し指摘し、分断統治のロジックに陥らぬように諌めている。中間層が、貧困層を「かわいそうな人々」なり「自助努力の欠けた人々」等、彼岸の出来事として捕らえるのは、自分達こそいつでもその貧困層に滑り落ちる可能性がある事を見ていないという点で自己認識の誤りでもあり、他方、貧困層は中間層に対して「あいつらがいるせいで自分達が不遇なのだ」という認識でEnvyを膨らませても自らの境遇の改善に繋がらない事を、湯浅氏も堤氏も強調している。

 

階級社会においては、支配階級が被支配階級同士をいがみあわせる事で、自らの支配的地位の安定を図るのは典型的な構図である。例えば、白土三平の『カムイ伝』を読んでみるとよい。そこでは農民階級とエタ・非人という最下層とが互いにいがみ合う構造を、支配階級たる武士層によって構成される藩政府なり幕府なりが巧妙に作り出している様が実に見事に描かれている。江戸時代の封建社会においてもっとも不遇に虐げられてきた二つの被支配階級である農民層と非人層が、互いにいがみ合い小さな利害を巡って敵対しあう構図を乗り越え、連帯し武士政権に闘いを挑むに到る時、この物語は1つのクライマックスを迎えるのであった。あるいは、戦前のプロレタリアート文学である。小林多喜二の『蟹工船』は、現代で言うところの非正規の派遣的労働者たちの未組織的集団が、植民地における過酷な搾取的労働に耐えかねて自然発生的に連帯し、闘いに立ち上がる様を描くものであった。しかし、多喜二の文学は『蟹工船』だけではない。『工場細胞』、『沼尻村』、そして『党生活者』などの一連の代表作では、農民層と労働者階級、非正規の期限付き労働者と正規従業員、ブルーカラーとホワイトカラー等々の階層間のいがみ合う構図とそれを乗り越えて階級闘争への連帯を組織していくマルクス主義者たちの闘いに焦点が当てられている。そこでは、実質上団結への分裂を持ち込む右翼社会民主主義者とのイデオロギー闘争も描かれ、階級的労働組合運動が単なる職場の賃金値上げ闘争に終始するのでなく、帝国主義戦争反対闘争へと昇華出来るか否かが問われていた。90年代初頭のソ連・東欧社会主義の崩壊後、これら当時の日本の満州・中国大陸における帝国主義戦争への反対闘争の方針は、当時のコミンテルンを支配するスターリンが、「社会主義革命の輸出」の名目の下にソ連の帝国主義的侵略を優位に推し進める為に下された戦略である事が明白になり、すっかり権威喪失と相成ってしまった。とはいえ、この反戦闘争それ自体の意義を過小評価する必要は全くない。むしろ、現代の貧困問題を巡る論において、歴史の教訓――とりわけマルクス主義者たちが先導してきた階級闘争の歴史――から学ぶ姿勢があまりにも欠如している事に懸念を覚える。

 

歴史に学びながら資本主義のメカニズムを洞察するならば、現代における深刻化する貧困問題も経済格差も、そして現在の世界的恐慌も、決して驚くべき特異な事象ではない事に気付くであろう。精密な議論をすればきりがないものの、非常にごくごく大雑把な見方をすれば、戦後の先進資本主義諸国における福祉国家システムの導入は、資本主義体制の不可欠な延命策として導入されたものであり、福祉国家システム抜きでは、資本主義体制は容易に、資本の蓄積に対する貧困の蓄積、資本の集積・集中による競争システムの独占体制への転化、世界市場恐慌による諸矛盾の(強制的)解消、等々の19世紀的世界資本主義の様相を復活させるであろう事は、マルクス主義の資本主義社会理論に基づく限り、容易に想像された。実際、7475年のスタグフレーションと7982年の世界同時不況を経て、ケインズ主義的福祉国家システムが体制サイドからの全面的な批判を浴びて後退し、レーガノミックスなりサッチャーイズムの新自由主義体制が支配的政策になり始める頃に、マルクス主義の論壇においては早くも、近い将来の資本主義世界における貧富の格差の拡大、そして金融自由化はいずれ世界的な金融恐慌を引き起こす事になる等々、現代の諸問題を予見する論が展開されていたのである。これらは確かに理論的には稚拙な、マルクス主義の古典を専ら引用しての論法が大多数であったとはいえ、他方でその洞察の基本的確かさは新古典派経済学からは得られないものでもある。

 

ともかくも、現代の危機は、IT化による産業構造の変化と、経済的グローバリゼーションの深化という新たな諸現象を伴いつつも、資本主義体制の下では繰り返されてきた危機である事を認識し、少しでも歴史の教訓に学ぶ事によって、現代の危機も決して「豊かな文明社会」が齎す宿命的なものでもなく、また、個々人の人生に関しても困難ばかりで展望の見えないブラックホールであるかのごとく悲観的になるか、あるいはそのブラックホールから逃れる為の生存競争を運命づけられた状況にある、というわけでは決してない事を楽観できるようになろう。困難の原因は無能な個人ゆえである訳でもないし、競争に負けた故でもないし、また市場の生存競争をたくましく勝ち抜くだけの「人間力」がないが故でもない、そうではなく、資本主義という社会体制ゆえに齎される構造的問題故であり、そしていかなる社会体制を選ぶかは、少なくとも民主主義的政治システムの存在する現代においては、究極的には我々個人11人の側にある、という「事実」に気づく事が肝心であろう。その事は、同時に個々人に「成長」への動機をも与えるだろう。かつてのマルクス主義の運動は、弱者が強者をEnvyする事に動機付けられた運動ではなかった。「弱者」とは経済的地位なり社会的地位という点において確かに弱い立場にある諸個人であったが、それらが人間的に弱い存在である事を無批判に肯定するものではなかった。それは、個人とは人間として弱い存在である事の自己認識とその肯定から始まる事は確かであるが、同時にそうした弱き存在である自己を乗り越え、成長していく事が求められた。その意味では厳しい倫理学を、本来、マルクス主義というものは内包するものである――私がここで稚拙に展開する論も、決して私の思い付きではなく、著名なマルクス主義哲学者であった故・真下新一(名古屋大学名誉教授)が述べていた事についての私なりの理解に基づいたものである――が、「弱き自己を乗り越える」事は人間にとって本質的な喜びでもある。仕事におけるプロジェクトなり、部活動におけるトレーニングなり、サークル活動における共同作業なり、人はしばしば何かを成し遂げる活動のプロセスに生の充足を覚える[1]が、この何かを成し遂げる活動のプロセスは、常に「弱き自己を乗り越える」プロセスでもある。湯浅・堤の著作を読むと、彼らが推し進める現代の反貧困運動にも同様の人間的成長のドラマが存在するらしい事が垣間見える。単なるEnvyに動機付けられた運動のままでは、支配階級による分断統治の罠を乗り越える事は出来ない。現状の自己を乗り越え、人格的に成長しようという動機に裏付けられてこそ、真の社会連帯の展望も開けてくるだろう。湯浅氏や堤氏の活動に期待するのも、この点の認識を共有しているらしい事が伺われる故である。

 

1つの問題は、かつてマルクス主義が労働運動や様々な社会運動を先導していた時代には存在していた「社会主義」という展望を、現代においては措呈する事が難しい事である。資本主義体制が齎す様々な諸矛盾・諸困難を、かつてのマルクス主義運動は資本主義体制であり続ける限りは根本的に解決困難な必然性と処して、それら諸困難の解決策を将来社会たる社会主義体制への変革運動へとある種、「議論をすり変える」事が許されていた。現代では、その種の運動方針では人々が動かされないのはもはや自明である。我々は、現在直面する資本主義体制の遺産の上で、実行可能な改革策を模索せざるを得ないという現実的課題に直面しており、この課題に対して魅力的な提案を示せないならば、容易に「必要悪としての現状」追認論へと人々を誘導せしめる事になろう。この課題こそは、我々、社会科学の研究者に担うべき社会的責務があろう。それは、例え反マルクス主義的なイデオロギーの持ち主であっても、例えば現在の貧困化問題なり人々の生存権を保証してきた社会的基盤の崩壊現象を放置できない、もっと持続可能な社会経済システムを展望せざるを得ないと考える社会科学者、ないしは経済学者であるならば、現代の問題をもはやトリクルダウン説に依拠したいわゆる構造改革的経済成長政策で事足りるとは思えないだろう。だが、そういう彼らとて、トリクルダウン政策を凌駕するより説得的で魅力的な提案が為され得ない限り、依然として「必要悪としてのトリクルダウン政策」へと誘導される事となろう。しかし、この点についても、それほど悲観的になる必要はない、と私は見ている。変革への主要な困難は主に政治的実現可能性に纏わる事であり、経済システムとしては現在のような新自由主義的ではなく、もう少し北欧社会風な福祉社会システム――例えば公的な教育投資の大幅な拡大政策と最低限の所得保障制度の導入等――へと漸次的に改革していく事は実行可能なプランであり、かつそうした社会システムは大多数の国民にとって、現状よりもはるかに安心して暮らせる生活を保証できるだろう。

 

2. ところで、これまでの新自由主義的諸政策が、仮説的補償原理等のいわゆる新古典派経済学における狭い意味での厚生経済理論によっても、果たして本当に支持しうるものであったのか否か、それ自体、疑問視されるものも多かったと思うし、そもそもそのようなまともな経済学的裏づけの有無を問うような政策論議を行ってきたのかどうか自体、疑問に思うところが多い。とはいえ、新自由主義的諸政策に対して何らかの経済学的な正当化の議論があえて為される時に持ち出されるのは、大抵は一般均衡分析の下では仮説的補償原理、そして部分均衡分析の下では費用-便益分析に基づく社会的余剰最大化原理を適用した評価であった。例えば、ある政策を実行するかどうかを判断するときに、(当該政策の効果のみを考慮して) 仮説的補償原理の意味で社会的改善を齎す政策はすべて遂行するという判断原則である。この際に、補償の実行可能性や政策全体の組み合わせから生じる相互効果などは考慮する必要がないとも主張される。なぜならば、補償を現実化せずとも、仮説的補償原理に基づく政策を続けていけさえすれば、長期的には大部分の人が得をするという意味で、事実上のパレート改善が実現されるからである。長期的になぜパレート改善となるのかは、「大数の法則」的ロジックに依拠している。つまり、仮説的補償原理で是認されたある1政策によって損失を蒙った個人たちであっても、長期的には、逆に彼らが過去の損失を補って有り余るだけの便益を享受できるような別の政策が、仮説的補償原理によって是認・遂行される機会があるだろうから、総じてパレート改善となるだろうという理屈である。この種の議論は、ヒックスに始まり、以降、仮説的補償原理の議論ではしばしば繰り返されてきた正当化のロジックである。しかしそうしたロジックは、それに喩え数学的に厳密な論証が与えられたとしても、現実的には妥当性を持たないだろう。

 

一つは、大数の法則が貫徹する程の「長期」を想定したところで、現在直面する経済政策上の諸課題への評価としては殆ど意味がない、という点があろう。現在直面する経済問題上の当事者たちが死んだ後であれば、そもそもパレート改善など、その定義上からも主張し得ない。だとすれば、このロジックに意味があるのは、事実上、無限に生きる経済主体を想定したモデルの世界でのみという事になろう。企業なり、社会的計画者(Social planner)である代表的個人なりを想定する限り、無限に生きる経済主体という想定も正当化できよう。しかし仮説的補償原理が適用される政策課題とは、そもそも複数の諸個人間の経済的資源配分が問われる経済問題を想定するものである。その種の論脈では、無限に生きる経済主体の想定は、一般的には無理があろう。

 

第二に、仮説的補償原理で是認される諸政策とは、国民所得を増大させる諸政策である。しかし国民所得の増大が直ちに当該社会の構成員である人々の福祉の改善を意味しない事は、いまさら繰り返すまでもない。[2] 国民所得の増大によって代理変数になりうる福祉の改善とは、貨幣的に換算可能なタイプの福祉的価値でしかない。しかし貨幣的に換算できない・ないしはすべきではないような福祉的価値が往々にして人々の善き生の充足上、重要な機能を担っている事について、経済学者はもっと配慮的であるべきだろう。

 

もっとも、「貨幣的に換算されないような福祉的価値に関しては、経済学者としては関知しません」というのは1つのあり得る立場であり、それはそれで尊重するに値する謙譲的自己限定であるとも言える。しかしそのような立場を貫くのであれば、新古典派的な経済学的価値観を共有しない人々が、十分な熟慮の上で貨幣換算可能な福祉的価値よりも貨幣換算不可能な福祉的価値にむしろ高いウエイトを付与して意思決定なり価値判断なりをする事があった場合には、それを黙認するしかない筈であろう。だが、「関知しません」と自己限定を口にしながら、往々にして効率性至上主義者であったり、のみならずその効率性至上主義の「思想」を他者に強要するような「帝国主義的」態度の自称「経済学の識者」が少なからず存在するように見える。例えば、「そういう馬鹿な議論を平気でするのも経済学を知らないからだ。まずは経済学の(標準的)教科書を勉強しなさい。」という説教じみた態度である。

 

現在、一般庶民にとっての「経済学」及び「経済学者」のイメージは、「非常に冷たい」、「異論を許さず、自説を押し付けてくる」等か、ないしは「数学的に難しい問題を解いて机上の空論に勤しむ人々」等、決して芳しいものではない。これらは経済学研究に勤しむ私の何人かの友人たちが、世間の人々との日常的会話の中で、自分が経済学を研究している旨を述べた際に浴びせられてきた世間の声である。とりわけ、最近のTVでの討論番組等に経済学者が登場する際の役割は、新自由主義政策のイデオローグというものであったから、尚更であろう。これらは世間の人々が「あまりに経済学的センスに疎い」ゆえの誤解という側面が全く無きにしもあらずではあろうが、むしろ経済学者が拠って立つ経済的効率性原理が、当該社会が尊重するに値すると見做している多様な社会的諸価値なり規範的諸原理の中の一部に過ぎない存在であって、それは確かに極めて重要な価値ではあるものの、それのみならず他の多様な諸価値とのバランスの中でしばしば人々は意思決定なり規範的判断を行うという事に対して、あまりに経済学者たちが無頓着であって、しばしば「経済的効率性至上主義」的観点から無神経に他の諸価値を蹂躙するような発言を口にしてしまう性向ゆえである側面も否定しがたいと言えよう。

 

科学主義的な還元主義的方法は、経済学に実り多き多くの研究上の諸成果を齎す事を可能にした。また、経済政策の是非に関する社会的厚生分析に際しても、経済的効率性原理に還元主義的に特化する事で、科学的裏づけのより堅固な多くの分析的成果と厚生指標の開拓に成功してきた事も事実である。だが、社会科学の直面する課題は、いわゆる科学主義的な還元主義的方法だけで全て分析しきれるわけではないという事を、経済学者たちはもう少し認識の隅に置くべきであろう。のみならず、経済学といえども本来は、科学主義的な分析的思考と人文科学的な多様な教養に裏付けられた洞察的思考とが、バランス良く両立する事が求められる学問分野であったし、現在とて原理的には同様であろう。現代経済学は科学主義的な分析的研究への比重を大きくする事で高度に発達してきたが、こうしたメインストリームな分野の経済学研究に従事する者たちは、自分たちとは違ったアプローチをする経済学研究――例えばより人文科学的な思考のウエイトが高いような経済史、経済思想、経済学史等の研究等――に対して、自分達の価値観の物指でもって裁断する性向を自戒すべきであろう。



[1] このように書くと、資本主義における労働疎外の問題を踏まえていない、ないしは、そもそも「生の充足」を覚えられるような仕事に従事できるのはエリート層だけであり、貧困層はそもそも疎外された労働の経験しかない故に、説得力のない空滑りの議論になっているとの批判を受けるかもしれない。だが、疎外された労働の担い手として、受動的存在に安住し続けるだけである限り、真の社会変革は為し得ない、という点の認識こそが肝心である。諸矛盾・諸困難に包囲された構造的環境の中であっても尚、人間は主体的に意思決定し、活動する可能性を探れる存在である。人間が持つその種の究極的な主体性に依拠するか、あるいは疎外され客体化されたままの受動的存在として人間を捉えるか、その違いは社会改革を展望する際に決定的となろう。因みに第二次世界大戦に到る歴史を鑑みれば、ファシズムにシンパシーを覚える、ないしは屈服する立場は、往々にして後者の人間認識に立脚するものであったのに対し、民主主義的改革を展望し貫徹する立場は前者の人間観に立脚するものであったと言えるかもしれない。もちろん、実際の歴史はこのように単純な悪玉・善玉論的二元論で割り切ることなどできないし、それは現代の歴史学の到達点からすれば不正確な認識ですらあろう。だが、社会変革の実践的観点からは、あえてこのような単純な二元論も必要なのかもしれない。

[2] 詳しくは拙稿「福祉社会の経済学(6)(8)」『経済セミナー』20089月・10月・11月号を参照の事。