I.ファイナンスという学問について
欧米の大学、特にアメリカのビジネス・スクールで教えられる金融関係の科目は、一般的には以下のようになっている。これは、ほぼ学問体系に沿っているといって言って良い。
(1) Finance (1-a) Investments あるいは Capital
Markets
(ファイナンス)
(投資理論) (資本市場論)
(1-b) Corporate Finance
(企業金融・企業財務)
(2) Macroeconomics あるいは Money and Banking
(マクロ経済学) (金融論・銀行論)
このうち(1)は、金融システム中の個々の経済主体についてのミクロ的分析であり、(2)は金融システムそのものを経済全体の中で捉え、政策的な議論に結び付けて行こうとする、マクロ的な議論である。日本の大学における、つい10年前までの伝統的な「金融論」というのは、主に(2)に相当する。
(1)の「ファイナンス」は、大きくは、株式・債券等の金融資産に投資をする投資家側の立つからものを見る「投資理論_(1-a)」と、株式・債券等を発行して資金を調達する企業側の立場からものを見る「企業金融(1-b)」に分けられる。
「投資理論」は、その議論の拠って立つフレームワークにおいて、さらに二つの分野に分けられる。その第一は、「資産価格論
Asset Pricing」であり、資産価格がどのように決定されるか、投資家の富をどのように金融資産に配分するかについての経済学的分析である。ノーベル経済学賞の受賞者の業績で言えば、マーコビッツMarkowitzとシャープSharpeのそれは、「資産価格論」についてのものである。第二は、「派生証券論(デリバティイブズ論)」である。これは、「金融商品の取引」に関する商品
である、金融派生商品(デリバティブズ)の価格決定について分析する学問である。金融派生商品は、元になる金融資産の価格の性質が与えられれば、それを上手く組み合わせることによって価格付けしてやることができ、このような手法を「無裁定条件による価格付け」という。
「派生証券論」というのは、分析の対象となる商品によってだけではなく、この「無裁定条件による価格付け」というフレームワークによっても特徴付けられる。ノーベル賞に関して言えば、マートンMertonとショールズScholes、そして生きていれば共に受賞したであろうブラックBlackの業績は、この分野についてのものである。
ただし、「資産価格論」と「派生証券論」の関係は、必ずしも同等でないことを理解しておく必要がある。派生証券が「派生」するためには、そのもととなる「本源的証券」が必要であり、その意味で「資産価格論」は「派生証券論」なしでも成立し得るが、その逆は成立しない。派生証券の価格を「無裁定条件」を用いて決定するには、もともとの資産の価格がちゃんと分析されているか、ある一定の確率過程にしたがうとあらかじめ仮定してしまわなければならい。別の言い方をすれば、「無裁定条件」によって価格を決定できる金融商品はあくまで限られており、それ以外の(そして最も重要な)金融商品については、あくまで経済学的な原理に基づいて、その価格決定を分析する必要がある。
「過去20年の間に、金融市場に関する理論・実証分析は飛躍的に進歩した。このような学問上の進歩は、次第に現実経済における、多様な新しい金融商品・金融サービスの爆発的な増加をもたらし、それに伴うリスクとリターンを管理するための、洗練された数量的な分析ツールの必要性を生み出した。そのようなツールは、今日のプロの投資家やファイナンシャル・マネージャーにとって必須のものとなり、その結果“Financial Engineering”と呼ばれる、明確な知識の体系(well-defined body of knowledge)を形成するに至った。」
Andrew Lo (1998) “Overview of The Track in Financial Engineering,”
より、祝迫が訳出
(http://mitsloan.mit.edu/tracks/tfe)
したがって、英語における“Financial Engineering”は、かなり限定された意味合いを持っている。ローが“Financial Engineering”という用語を、あくまで実務家の側(Practitioners)の立場から見て必要な知識、特に数量的なスキルに限定して使っていることからもわかるように、アメリカにおいても“Financial
Engineering”という学問分野が成立しているわけではない。現時点での“Financial Engineering”は、要約すれば「数量的な側面を重視した目的志向型のファイナンスという学問の実践」というふうに位置付けるのが最も適当であると思われる。実際、ロー在籍するMIT含め、幾つかのアメリカの大学が“Financial
Engineering”の看板を掲げた修士プログラムを積極的に展開しているものの、Ph.D.プログラムに関しては、どこもさほど積極的ではない。また同じ内容に対しても、Financial
Engineeringよりは、Mathematical FinanceやComputational Financeといった用語をあてている場合が多い。
では日本語の「金融工学」はどうだろうか? まず第1に指摘しておかなければならないのは、日本(特に日本の大学)では、しばらく前まで「ファイナンス」という用語が定着しておらず、「金融論」の一部分と見なされていたという点である。実際、今でも「ファイナンス」という題名の授業は無い大学の方が多く、「金融論」・「財務管理」等の授業名のもとで、運用上「ファイナンス」の授業をしている場合が多い。したがって、古色蒼然たる伝統的「金融論」とは一線を画す学問分野として、現代的な「ファイナンス」に「金融工学」という日本語の造語をあてるというのは、実は良いアイデアであったかもしれない。
しかし、残念ながら既に「金融工学」の直訳にあたる“Financial Engineering”という英語が存在しており、これは先ほど述べたように「数量的な側面を重視したファイナンスという学問の実践」という色彩を、強く持っている。例えば、ノーベル賞学者のマートンやマーコビッツに「あなたは“Financial
Engineering”の父だ」と言えば、自分達の業績が現実経済に大きな影響を与えたという意味で、彼らは素直に喜ぶだろう。しかし「あなたは素晴らしい“Financial
Engineering”の専門家(学者)だ」と言ったとすれば、彼らは「私は、そんな矮小なことだけをやってきたわけではない」と反論するであろう。
これで、なぜ、(特にアメリカで学者としての正規の訓練を受けた)ファイナンスの専門家(学者)が、マスコミや専門外の人間に「金融工学」呼ばわりされて嫌な顔をするかが、分かってもらえただろうか?