「東南アジア経済史における貿易統計」

                      杉原 薫(ロンドン大学SOAS)

 司会(寺西・一橋大学) 最後のセッションにいきたいと思います。

 ロンドン大学の杉原さんに「東南アジア経済史における貿易統計」ということでお願いします。

 杉原(ロンドン大学) 多分、私は一橋から今日の報告者の中で一番遠い人間で、もう10年以上ロンドンにおりまして、こういうグループでのプロジェクトにも不案内ですし、いわば、個人的にずっとここ20年ぐらい貿易統計をいじってきたという、そういうところでだいぶ勘が狂っていると思いますが、主として19世紀から20世紀、1945年までのことを考えてきた、どちらかといえば歴史家の立場から少しお話をしたいと思います。そういう意味では、私は1993年のSNAどころか、クズネッツ以前という感じです。

 私がこれまでやってきましたのは主としてアジアの貿易史で、非常に大まかに言いますと、最近アジア経済史というのは結構はやっているのですが、統計に関して言えば、大体これまで考えられてきたよりも経済成長が強かった。19世紀、植民地下でも、あるいは半植民地のような、中国のような場合でも強かった。ですから、1950年代、60年代の日本経済史のリビジョンと似たような過程が大まかに言えば現在なお進行中であると思います。 私は、貿易について、似たようなことをやりまして、お配りした資料の最後に少し入れておきましたけれども、アジア諸国10ヵ国ぐらいをとって、これはほぼ全部、オフィシャルな原統計に戻ってやった上でポンドに換算して、できるだけ比較可能な形にしてやったものです。最後の図のところだけ見ていただきますと、アジアの輸出と輸入が1880年から1939年まで、こういうふうになっているということをある程度実証できたのではないかと思います。

 特に、地域別構成に少しこだわってみますと、アジアの対欧米貿易が、これは戦間期だけですけれども、激しい変動を伴いながら停滞しているのに対して、アジアの中の貿易というのは、相対的な比重を上げていった。激しい変動を伴いながらも上げていったというふうに思います。

 尾高(一橋大学) 図の4−5と4−4ですか。

 杉原 図の4−5と4−6を、図の4−4と比較していただきますと、ちょっとわかりにくいですけれども、アジア間貿易の比重というのは、アジア貿易に対する比重、あるいは世界貿易に対する比重は、一貫してというか、毎年ではありませんけれども、どんどん増えています。これは、1880年からずっと増えています。

 尾高 アジア間貿易というのはどういうふうに定義するのですか。輸出と輸入は?

 杉原 アジア間貿易は、地域の定義はややこしいので、輸出ベースでやっています。大まかに言えば、インド、東南アジア、中国、日本の4地域間の貿易で、東南アジア間貿易は、シンガポールと香港の問題がありますので、ダブルカウンティングを除去するために、かなり意識的にとっています。非常に複雑なのでいま言えませんけれども。

 私の推計では、ものすごくいろんな仮定をやっていますので、いろいろ批判があり得るのですが、結論だけ言いますと、1942年のリーグ・オブ・ネイションズの到達点といってもいいレビュー・オブ・ザ・ワールド・トレードの世界貿易のマトリックスでは、私の定義するアジア間貿易は世界貿易の9%ぐらいですが、私のやったのでやり直すと16%ぐらいになります。したがって、国際連盟というのは国民国家の連盟であって、香港とか満州とか、ちょっとややこしいものに対しての貿易の補足は非常に限界を持っていて、戦前の、特に1930年代後半のアジアの強い経済成長というのを全く見失ったようなかっこうになっていたと思います。そういうことをずっとやって、いまは戦時と戦後にそれがどういうふうにつながっていくかに興味があるのですが。

 今日の話は、主としてそういう研究をやっていく中でどういう問題に突き当たったか。それと、このプロジェクトとどういうふうにつながるかということについて、少しスペキュレーションをまじえながらお話をしたいと思います。

 4つぐらいテーマを設定したのですが、まず最初は、地域の認定です。貿易といっても、アジアは19世紀にはほとんどが植民地ですから、インドでもマラヤでもどんどんテリトリーが拡大していって、単位が変わっていくわけですね。インドだって、藩王国というのが随分ありまして、その藩王国の中の統計もあるのですが、藩王国とブリテッシュ・インディアとの関係も変わっていく。それから、北のほうは陸上貿易というのがあって、これも領土が拡大していくにつれて、増えているのか減っているのかはよく見ないとわからない。中国はもちろん海関の数が増えるに従って貿易の額が増えていく。そういう時代のことでありますので、今朝から話をしているのとだいぶ感覚が違うんですけれども、まず、何の話をして、どういうテリトリーの貿易を考えているのかということをはっきりさせる必要があります。

 一番手っとり早いのは、1912年までに関しては、ブリテッシュ・パーラメンタリー・ペーパーズにあります、スタティスティカル・アブストラクトというのがあって、それは植民地に関してと、フォーリンカントリーズに関して、2つあるのですが、それを見れば毎年の、世界のすべての貿易の統計が大体出ています。1913年から1939年までは国際連盟のが、一応、サマリーをちょっと複雑な形ですけれどもやっていまして、ほとんどの研究者はそこをベースにいろいろな加工をします。ヒルガルトとか、ラヴディとか、そういう人が最初にやったもので、イエーツとかルイスとか、あるいはもっと後のキンドルバーガーとか、そういう人も、大体それをベースにしています。

 戦後は、UN、IMFの時代になるわけです。大体、1947年から1950年代の初めに、リーグ・オブ・ネイションズの形式を少し改善して、新たなフォーマットが出てきます。ですから、そういうものが、第一次的接近としては非常に重要なのですが、COEのようなレベルでの仕事をしようと思えば、そこのレベルでとどまっているというのはほとんど意味がないだろうと思います。ですから、どうしても国別の、少なくともオフィシャル・データにまでは戻っていただかなければならない。リーグ・オブ・ネイションズのデータなんかも少し見ていただければわかりますけれども、貿易の品目別、それから地域別、極めて数字が要約的で、100万ドル単位とかいう、そういうものだけしか出ていないことがある。「その他」というのが何を指すのかわからないことも多い。さらに、通貨の換算単位も、私が見ましたのはアジアの10ヵ国ですけれども、それに関する限りは信頼できません。特に1929年、30年というのは、ときどきわからないと、1231日のレートだなんて書いてある。そうなると全く信頼できないですね。年間の平均のレートでないと貿易の換算はできませんから。ですから、いろんな意味で、テリトリーアル・リミットをちゃんと確定して、そこのオフィシャル・データに戻る必要があるだろうと思います。

 それから、アジアをやっていて、ヨーロッパ間の貿易なんかと比べるときに、繰り返し出てくる印象というのは、インドと中国というものすごい大きな国がある。一体、私は何をやっているんだろう。つまり、東南アジアの小さい国と香港との貿易とか、そういうことばっかりやっているけれども、実際は、インドの中の、ベンガルとシンドとマドラス、ボンベイ、それからビルマというのは、5つはっきり分かれていて、要するにブリテッシュ・インディアの貿易統計というのはそれを足すだけですから。しかも、そこには膨大なレールボーン・トレードと、それからリバーボーン・トレード、それからコースタル・トレードの統計があるわけです。それは、東南アジア間貿易に、当然匹敵するぐらいの重要性を持っているし、また、ほとんど誰もやっていないと思いますけれども、十分分析可能な膨大なデータが、特にインディア・オフィス・ライブラリーに残っているわけです。

 中国に関しましても、最近は少し研究が出てきましたけれども、海関のデータを非常に丹念に追っていけば、一応国内の華北と東北の関係だとか、揚子江の中での、これは立派なロング・ディスタンス・トレードなので、これも、潜在的には重要な研究だと思います。 それはこのプロジェクトでできないとしても、どうしてもやらなければいけないのは、領土の変更をどういうふうに処理するかということだと思います。私がやった1つの例は、ビルマは1937年までブリテッシュ・インディアの一部ですけれども、そのビルマを一貫して独立した単位として扱う。そういうことになりますと、まず、ビルマの対外貿易をブリテッシュ・インディアの貿易額から除して、その後で、本来のブリテッシュ・インディアとビルマのコースタル・トレードを足さなければいけないわけです。その足すときに、例えば、ビルマの諸港の中の貿易というのが少しあって、それをとるとか、コースタル・トレードとフォリン・トレードの算入の仕方の少しの差を調整するとか、そういうことをかなりやらなければいけないわけです。つまり、領土の変更のリンクをやろうとするとものすごく時間がかかるわけです。マラヤの場合は特にそうです。やっても、大した差は出てこないことが多いのですが。ですから、それをどのくらいやるかというので、だいぶかかる時間が違うだろうと思います。

 そのほか、貿易のいろんな細かいところでは、私の場合は、貿易を中心にして考えましたので、政府貿易を一応とって、それから、トレージャーですね、貴金属を除く。それから再輸出、再輸入をどうするか。こういうところでも、アジア全体の中で統一を図らなければいけない。さらに、期間ですけれども、1月から12月でやっているところと、4月から3月でやっているところ、ちょっとおかしなところで7月とか、そういうややこしいところもありますので、そこの調整もある程度やる必要がある。あるいはやらないとしても、考慮しないと比較はできない。そういう問題があります。

 以上がインフラ的な問題です。

 次に、通貨というか、各貿易統計の比較について少し申し上げます。やはり、19世紀というのは何といってもポンドが基軸通貨で、そして戦後までポンドでやるバカはいないんですけれども、そうすると、どこかの時点で基軸通貨をポンドからドルに変えなければいけない。1850年の話をドルでやるというのは、歴史家としては何となく気分が悪くて。だけど、じゃ、1913年で変えるのか、どっかでそれを変える必要があります。

 通貨を基軸通貨にコンバートしなければいけないかどうかという問題もありますけれども、各国の国民所得統計をつくるだけなら、ある意味ではこれは決定的でないかもしれませんけれども、貿易統計の側から言いますと、細かいことをやるにはどうしても必要なのです。どうして必要かというのを少し申し上げます。

 1つは、アジアの貿易は、どこをやっても香港とシンガポールというのは大事ですけれども、中継港の問題があります。香港というのは1919年まで貿易統計がありません。19年から24年の初めまでと、28年から39年まではあります。それから1948年ぐらいからはずっとあります。シッピンクの統計はありますし、大変困るので、海関報告でも、それからイギリス側の報告でも幾つか推計の努力をしていますけれども、基本的には何もないわけです。私の場合は、それを日本側の統計とか、インド側の統計とか、そういうものをFOBとCIFの換算をやりまして、つまりつくっていくわけです。香港の貿易というのは実はこういうふうになっていたのではないかということを、比較的信頼できる外国貿易の側からつくり直すという、そういうことが可能なわけです。しかし、これをやるためには、換算率がきちっとしていないとどうしようもないわけです。 それから、話はちょっとズレますが、FOB、CIF換算というのも、これまた大問題でして、私が尊敬します山本さんの、山本・山澤編で『貿易と国際収支』も、その点はきちっと問題が解決できてないのではないかと思います。朝鮮と台湾についてもそれははっきりしないのです。実は世界貿易の歴史の研究を見ても、みんな5%だとか、8%だとか言っていろいろやっているのですが、決定的に、どうしてそうだ、どの時期からどの時期まで、大体フレイトは下がったのかという、それをきちっとやった研究は、私の知る限りではありません。私は7%派ですけれども、しかし、これもスポットでチェックする限りは、ロング・ディスタンス・トレードのほうが高いとか、植民地の場合は高いとか、そういう一般的なルールは全くなくて、どちらかというと、ショート・ディスタンスのほうが高い場合もありますし、戦争なんかがあった場合のほうが高いということもありません。非常に複雑で、ここもまだまだ検討の余地がある。少しお金と時間を使えば、かなりハードなデータが出てくるのではないかと思います。

 それから密輸の問題があります。これは日本、関東州、満州、華北、1930年代のところは、海関の側の報告と、関東州の貿易統計と、満州の貿易統計と、日本の貿易統計を突き合わせて考えると、明らかにあるわけですけれども、これも、さっき言いました通貨の換算をきちっとやるとか、FOB、CIFをどういうふうに推計するかとか、いろいろなところできちっとやらないとなかなかできない。私も少しやりましたけれども、結局、私みたいに1人でやっていると当然限界があります。こういうプロジェクトでやればかなりハードな決定版というのがわりあい簡単にできるだろうと思います。

 最後に通貨について、戦後との連続の問題を申し上げます。1920年代、30年代の金本位制が崩れていく過程、それから、ドルが、オールド・パリティとニュー・パリティというのが分裂して、基軸通貨もあいまいになってくる過程。それはわりあい研究があるのですが、1945年から50年代の初めにかけての動乱期というのは、それはインドから日本まで、インフレだとか独立だとか、スターリン・ブロックからドル・ブロックへの転換だとか、共産革命とか、そういうことが全部絡んできます。アジアの通貨は独立することによって、これまでは欧米の資産を守るために切り下げられなかったのが、ガーンと切り下げることができるようになる。そして工業化、輸入代替に進むことができるようになったのか。あるいは香港みたいに、そうではなくて、切り上げたままで、植民地のままでもうまくいくケースがあったとすれば、それはあまり重要でなかったのか。その辺はまだ経済史でもよくわからないところではないかと思いますが、これも、少し時間と労力を使えば、しかもアジアの各国を比較しながらやれば、ある程度の、大体こういうふうになったということがわかるのではないかと思います。これは、できればもう少し詳しく、今後私自身もやっていきたいと思います。

 3番目に、商品構成の問題を申し上げます。

 商品構成というのは、いまはもちろん国際標準商品分類というのがありますが、ブラッセル協定ができる、1904年ぐらいまでは何もないわけです。事実上、イギリスの植民地は大体同じような、フォーリー・マニファクチャード・グッズ、パートリィ・マニファクチャード・グッズ、プライマリープロデュース(フード・アンド・ドリンク)という、そういうふうに大体インドでもマラヤでもなっているのですが、しかし、例えば阿片はフォーリー・マニファクチャード・グッズになっている。ですから、19世紀のアジア貿易は工業品貿易ばっかりだったという変なかっこうになっていて、全然コントロールできていないんですね。ですから、これを何とかしないと、工業品とか、半製品とか、第一次産品という分類は、いまのところは全く意味がないと思います。

 これも、私は金と時間がなかったので、本当にスポットチェックでこれまで少しやってきただけですけれども、実は、レビュー・オブ・トレード・オブ・インディアとか、海関報告でも、1920年代の末から30年代になりますと、いろんな人が、特に海関の官吏みたいな人が、これはこうしたらどうかとか、ああしたらどうかとか、いろいろなサジェスチョンをやっておりまして、特にアジア産の商品ですね。扇子はどうかとか、仁丹はどうかとか、そういうことについていろんな意見を言っているわけです。そういうことは、これまで国際連盟でも、国際連合でも、一切議論されてこなかったと思います。それを少し体系的にやれば、アジアの実情に即した商品分類というのができるのではないか。日本には、行沢・前田編のものがありまして、ご存じだと思いますが、5ヵ年のベンチマーク・イヤーズについて国際標準分類に直したものがありますし、今朝の溝口先生のご報告で、台湾についてやっておられるということを伺いまして非常に心強く思いましたけれども、たぶん、コンピュータを使えば不可能ではない。私の力ではとても全年できませんけれども、それをもしすることができれば、いわゆる、プロダクトサイクル論とか、雁行形態論とか、貿易構造と工業化の関係について常識的にやられている理論がもう少し説得力を持ってやることができるのではないかと思います。

 もう一つ申し上げますと、アジアの経済史をやるときに、こういう技術の、あるいは加工度の問題で、パートリィ・マニファクチャード・グッズというふうにやるのがいいかどうかも大いに問題でして、例えば日本の経済史では、在来産業論というのがあって、在来品と移植工業、それからハイブリッドという、そういうふうに分類される。中村隆英さんなんかそうですけれども、実はそういう分類のほうがピンと来るという状況はアジア全体にあるわけですね。そういう点でも商品構成の理解について、あるいは工業化の質の理解について、もう少し何とかならないかというふうに思います。

 最後に地域別構成について簡単に申し上げます。

 もう何回も言いましたけれども、やはり香港とシンガポールというのが非常に大きな地位を占めているので、例えば、中国の貿易史にとって欧米がより重要だったのか、他のアジア諸国との貿易が重要だったのかというのは、ごく最近まで全然わからなかったわけですね。つまり、香港貿易が3分の1ぐらいを占めているということになると、それのファイナル・デスティネーションの問題、あるいは、どこからきたかということをある程度確定しない限りは何も言えないわけです。ですから、一体中国はどういうふうに欧米と結びついていったかというのは、大きなイメージすらわからないまま来ていたわけです。

 それは、さっきも言いましたような、いろいろな細かい作業をやればある程度わかってくるわけでけれども、大体これまでわかりつつあることは、実は、アジア間貿易というのは、欧米の貿易がふえればふえるほど、それ以上のスピードで伸びていくというというふうになっていた。私は、こういうのは苦手ですが、最近、松本貴典さんという人が、輸出結合度を分析されまして、例えば、華僑のネットワークに入っている中国の貿易というのは異常に地域間貿易に集中していて、遠隔地貿易は極めて少なかったというふうなことがわかりつつあります。

 最後に、幾つか、今日お話を聞いていたところでのコメントをアットランダムに申し上げます。

 私がずっと、そういういろいろな統計を見てきて、1つの印象は、間違いが非常に多いということです。たとえばスタティスティカル・アブストラクト・オブ・ブリテッシュ・インディアを見ればいいかというと、それだけを見てアニァル・ステートメントを見ないと、まず、何か間違っている可能性というのは相当高いと思います。それから、一番堅い、信頼できるところでも、毎年古いデータをある程度変えています。その場合に、1909年のデータを1909年で取るのか、1910年でとるのか、12年でとるのかでだいぶ変わってくることがあるのです。そのときに、改善された、オリジナルなデータが入っているから変わったというふうに何となく想像ができる場合はいいんですけれども、そこがよくわからないことが非常に多い。単なる誤記かもしれない。ですから、やはり、少し幅を広げて、必要なだけ、ダブってもいいから、いろんなシリーズを突き合わせる努力が要るのではないかと思います。それも、ちょっとしたところだけではなくて、かなり重要なところでそういう経験が何回かありますので特に申し上げます。

 それから、捕捉率については、さっきもタイの例が出てきましたけれども、バンコックについてはいいんですが、それ以外はほとんどわからないわけですね。捕捉率がバンコックが8割だったかどうかというそこのところは、ブリテッシュ・パーラメンタリー・ペーパーズにあるコマーシャル・リポートをずっと見ていけば、大体、7割派とか8割派というのが幾つか出くるわけですね。それを見ていけば多少はわかるわけです。

 それから物価ですが、やっぱり、タイの例でもおわかりのように、輸出額と人口というのが、これだけいいかげんだと言った後ですけれども、やっぱり一番堅いデータだと思います、19世紀は。国民所得統計をつくるときには、そういう意味では貿易統計というのは非常に重要だと思います。特に、各商品別の貿易額と貿易数量というのが、もちろんシャムの場合でもそうですけれども、一応全部出ているわけですから、一応価格指数が、割れば出る。それは、19世紀の後半から19世紀の末にかけて、大体、インド、東南アジアについて言えると思います。

 1930年ぐらいまでについて言えば、東アジアの交易統計の整備状況と、東南・南アジアのそれとでは、やはりだいぶ差があると思ったほうがいいので、少しずつキャッチ・アップしていきますけれども、全然精度が違うというふうに思ったほうがいいと思います。

 ただ、貿易統計についてだけ言えば、イギリスの海関が入っているところはかなりスタンダードなやり方でやっています。だから、インドと海峡植民地と香港と、そういうところは大体同じ見方でいいんです。日本も似ています。蘭印と仏印は大分違います。それからフィリピンも違います。タイはイギリス型ですからわりあい似ています。似ているだけでなくて、少し、下級官吏のところでは国際的に動いていますから、同じ人がやっている可能性もあるぐらいですから、そういう点ではかなり、信頼できるというのではないですが、共通性があるのです。共通性があるということが、さっきのFOB、CIF換算などをやったら、わりあい正確さにでる理由ではないかという感じがいたします。

 最後に一言だけ申し上げますと、広域アジアの経済統計をやるというふうになっているわけですけれども、東アジアについては明らかに比較優位があるわけです、日本人は。それは別に何故ということを言わなくてもいいのかもしれませんけれども、どうしてこういう地域だけをあえて選んでやられるのかということについて、いろんな議論をしたほうがいいのではないかと私はかねがね思っておりました。いずれにしても、私はこういうのをやりたかったので、このプロジェクトができて非常にうれしいのですが、それだけに感情移入をしてしまいまして、少し、クズネッツさん以来の発展をそのまま延長して、それを正確にアジアの歴史の中にアプライしていくというだけではなくて、もう少し、さっき幾つか申し上げましたような、アジアに独自の歴史的な事実を踏まえて、多少モデファイしながらやっていただきたいというふうに思います。

 司会 ありがとうございました。

 それでは、京都大学の山本さんにコメントをお願いいたします。

 山本(京都大学) 杉原さんの仕事は、今日話をされたことだけでは、いままで杉原さんの仕事を全然追いかけてこなかった人にはよくわからないのではないかという気がしますが、とにかく、今日与えられたペーパーだけについて、杉原氏のいままでの仕事については、そこまで踏み込まないで話をさせていただくことにいたします。

 今日のテーマは、一番ありがたいことは、こういうソース、特にインドを中心にしてのソースの丁寧な解説によって、私などは「あ、そうか」と、いままでボンヤリしていたことでも改めて教えていただいたことで、これで浜下氏が中国の海関統計についてだいぶ詳しい研究をされましたし、日本についてはいままであるわけですから、アジアについて、貿易のソース及びその性格というか、そういうことについては、これで非常に一般的な知識が共有されたということについて、特にソースという部分については大変ありがたい仕事をしていただいた。やっぱり、イギリスにおられた地域メリットは非常にあるという感じがいたしまして、この点については感謝をいたします。

 2つほど問題を提起しておこうと思います。このことは実は、一番最後の図ですが、簡単に言うと、アジアを一まとめにして貿易統計をまとめることの意味という、これは杉原さんのいままでの仕事と絡んできます。私は、やっぱりなお今でも、アジアの貿易の成長と世界貿易成長と比べるということは、その辺まではあるいは意味があるかもしれないけれども、アジア間貿易というものを、インドから日本まで全部足し合せて、それが上がったか下がったかという議論をすることにどれほど意味があるかということについては、これはかなり限定なり、あるいは、今ここに取り上げたインドから日本までがある一つのきちんとした経済連関を持っているという議論をした上でないと、単にアジアのインドから日本までの貿易を足し合せて、そのアジア間貿易が増えたとか減ったとかいう議論をしても、問題がいろいろ多いのではいなか。むしろ、これを例えばインド圏と東南アジアと中国圏と日本に分けて、その議論をするようなことをする必要がある。あえてそれをまた足し合わされたところに何か杉原さんの意味があるのだろうと思いますから、その辺について1点お伺いをしたい。私なら、インド圏、東南アジア圏、中国、日本というふうに分けてその議論をするほうが、もっと、意味があるのではないだろうと、そういう感じを持ちました。

 今度は逆のことを申しますけれども、付表の4−1ですが、なんでインドとビルマをわざわざそれだけご苦労して分けなければいけないかよくわからない。これは、今回のこのプロジェクト全体にもかかわる問題であるわけですけれども、戦後のある国民国家の範囲にきちんとそろえるんだということが一つのエクスキューズになるだろうと思うけれども、そんなに苦労して、しかも精度を落として、せっかくインドとビルマが一緒になって精度の高い統計があるのを、わざわざ苦心惨憺して2つに分けて、それだけの労力をかけて一体どんな意味があるんだろうか。むしろ、戦前についてはインドとビルマが合同でこうですよ。戦後は分かれました。もしも戦前・戦後を比較する必要があるのであれば、インデックスか何かでつないだほうが精度を落とさないというふうな意味ではそのほうがいいので、苦心惨憺して、いろんな仮定を入れてインドとビルマとを分ける。そういう問題。

 あるいは、ポンド・スターリングで統計が取られているものを、わざわざルピーに変えるというふうな問題にも、いまの問題はやや関連してくるので、戦前はスターリングで取られているならそれで取っておく。必要に応じてそれを換算してある地域についての貨幣の流れを取るというのは、これは貿易の話とは少し別の話になることですから、ここで苦労してインドとビルマを分け、スターリングで取られていたものをわざわざルピーに変えるという、非常に努力をする意味はどういうことだろうというのが第2の問題です。

 3番目の問題としては、これはわかっておられることをあえて言うようで気がひけるのですが、陸上貿易であるとか、密貿易であるとか、そういうものを省いた海上貿易だけで貿易の議論をすると、日本なんかの場合はそれでほとんど問題はないわけですけれども、特に東南アジアなんかのところについて言うと、半分は海上貿易、しかしあとの半分は陸上貿易なり密貿易なり、密貿易という言葉を非常に広くとって、国境を荷物を背負って渡っていくという、そういう貿易形態の問題を取り上げないと、話は半分にすぎないのではないだろうか。

 わかっていて喧嘩を売るようなことで恐縮ですけれども、一応その3つの問題を提起だけさせていただこうと思います。

 司会 その3つ、どうですか。

 杉原 最初の問題は、だいぶ前から山本さんに言われていまして、東アジアの朝貢貿易圏とインド洋交易圏というのは基本的に違うと思うんです、私も。歴史的にも違うし。ただ、ウェスタン・インパクトというのが私はやっぱり大事だと思っていまして、19世紀の後半に植民地化、あるいは開港というのは一挙にアジアで起こって、強制された自由貿易の体系が生じて、19世紀の末にドイツや大陸ヨーロッパが保護関税化するのに、アジアは世界で一番開かれた自由貿易圏になってしまう。そういうところでは決定的な共通性があって、歴史的、文化的な相違にもかかわらず、日印綿業競争に、あるいはジャワ糖が日本にどんどんサイゴン回りで入ってくるというふうにして、あるいは日中の1930年代の競合が起こるというふうに、非常に激しいアジア間競争が起こった、ということが日本の工業化にも非常に重要な役割を果たしたし、同じことは、ある程度までは戦後についても言える。ですから、従来の東アジア史を中心にした歴史観とは別に、貿易史のレベルで、もう一つ、ダイメンジョンをつけて、ウェスタン・インパクトと東アジア史との間の中間のレベルでの議論をする必要があるというのが私の主張でございます。

 それから、どうしてそんなに苦労してやらなければいけないのかということですが、それは、具体的に、インドとビルマをどうして分けなければいけないのかというのは、5つか6つ言いたいことがあるのですが、要するに全然違うわけです。それを、イギリスが全く人工的にブリテッシュ・インディアというふうにやっただけなのです。ですから、少し掘って経済史をやれば、全然違うというのが実感になるわけです。

 山本 ちょっとすみません、それならインドを例えば南北に分けるとか、という必要と同じレベル、私は、分けるならそういうレベルではないかということですけれども、それは違いますか。

 杉原 それはやっぱり東南アジアですよ、ビルマは。サブ・コンチネントとビルマは、やっぱり違うんじゃないですかね。これは、なぜ違うかというのは、あまり経済学的な議論ではできないですね。まさに歴史的、文化的な議論で。だから、その点では、おっしゃいますように、東アジアとインド圏とは違うわけです。それと同じような意味で、インドとビルマとは決定的に違うと思います。

 山本 それは認識不足でした。

 杉原 最後の陸上貿易・密貿易の話ですが、これは私も年来、何とかしたいと思っています。だけど、やっぱり、海上貿易のレビュー・オブ・トレード・オブ・インディアを毎年読んでいくと、やっぱり陸上貿易のことが随分出てくるわけです。シャン・ステーツと中国との、あるいはインドシナ経由での雲南と中国の関係などというのは、やっぱりシーボーン・トレードの統計の中に細かい情報が少しずつ入っているわけです。 ですから、わからないというので終わったら駄目です。結局ないわけですから、陸上貿易の数字というのは。だから、そこにこだわって、少しずつやっていくしかないだろう。

 いまのお話でちょっとリアクションを言えば、半分ということはあり得ないと思います。どう考えても、大陸東南アジアでも中国でも、陸上貿易は、わからないから何とでも言えるからみんな言うけれども、海上貿易と同じ額ということはあり得ないと思います。

 司会 それでは、加納さん。

 加納(東京大学) 私もこれに似たようなことをやったことがあります。ただし、私はセコンダリーなデータでしかやったことがなくて、これだけ大変なことをやっておられることに敬意を表します。その上で、東南アジアをやっている立場から2点コメントします。 まず、インドとビルマを分けることについては、私は杉原さんに全く同感です。どこが違うかということを一言だけ申しますと、例えば食文化についてもやっぱりアラカン山脈ではっきり分かれていまして、インドでは、牛を飼って、牛乳を飲み、そしてチーズみたいな乳製品を摂りますが、ビルマは大豆が基本であって、チーズのような乳製品にはなじみが薄いです。それから、ビルマ人のセルフアイデンティティーとしても、特に最近のビルマはそうですけれども、自分たちは東南アジアの人間であるということを強烈に意識しているようです。

 もう一つ、地域のテリトリーの変更をどう扱うかは大変難しい問題だということはよくわかるのですが、そのことでちょっと気になるので確認させてください。

 12枚目の、1880年から1913年までのデータと、それから1913年以降のデータの整合性の問題ですけれども、前のほうのでは、海峡植民地とマラヤが別建てになっていて、1913年以降のでは英領マラヤ1つになっていますね。前者の表の1913年を見ますと、例えば海峡植民地の輸出が388.91となっていて、後者の表の英領マラヤの数字と合っているんですね。つまり、前者におけるマラヤの輸出額118.62というのがどこかへ消えているのですが、どうしてこういうことになっているのか教えていただきたいと思います。

 杉原 単純に、1880年から1913年までのマラヤの貿易は、全部海峡植民地との貿易なんです。ですから、海峡植民地の対マラヤ貿易をただここにアディショナルに挙げているだけです。

 マラヤの海峡植民地、つまりシンガポールとペナンとラブワンを経由しない貿易というのがあるわけです。それは、1913年以前については私は捕捉しておりません。しかし、5%はいかないと思います。5%ルールというのがありましたけど。

 加納 それは恐らくタイとのボーダートレードというような要因のせいかも知れませんね。これは統計的な把握が困難ですけれど。

 杉原 それは、シー・ボーンのところでは間違いなく、5%どころか、もっともっと少ないと思います。それが、むしろ、1920年代にどんどん増えるんですね。しかし、これはブリティッシュ・マラヤでとらえられますから、私はそこは何もしなくて逃れたんです。

 柳沢(東京大学・東洋文化研究所) 国内貿易といっても、州内での交易もあれば、数州にまたがるようなトレードもあるわけです。例えばインドなんかの場合は、後者のような交易はある意味で非常に大きな、分けてもいいような世界であるわけですね。そうすると、そういう問題を、杉原さんご自身は、むしろ外国貿易に引きつけて理解されようとするのか、あるいは範疇的に違うように扱おうとするのか、その辺でちょっとお考えを……。

 杉原 インドについてというので、あまり柳沢さんに言いたいことはないんですけれども、私はやっぱりローカル・トレードと、ロング・ディスタンス・トレードという2分法は賛成できないんです。もう一つ、イントラ・リージョナル・トレードというのがあって、それは、ローカル・マーチャンツではできないリージョナルなネットワークを持った商人とか、金貸しとか、そういうものが、かなり異なった文化とか、そういうものを相互に理解し合うような人が携わるもので、イントラ・リージョナル・トレードのパートナーになっている地域は、一応独立した経済単位である。そういうことを漠然と考えると、インドもそれから中国も、ちょっと、ワン・ネイション・ステーツとしてとらえるのは無理だろう。ですから、インドと中国については、もう少し分けたほうが、ヨーロッパの感覚でのネイション・ステーツの間の貿易としての貿易統計にはふさわしい、あるいはコンパラブルなものであって、それを全部ネグって、ヨーロッパ貿易が世界貿易の3分の2だとかいう話をみんなするわけです。だけど、ちょっとそれは、そんなことばっかりやっているから話がいつまでたっても進まないので、少しそういう政治的なユニットを超えた、やや機能的な定義で組み変えるということに積極的な意味があるのではないかというふうに私は思っていますけれども。

 ただ、それを国民所得統計でやるというのはほとんど不可能ですね。ですから、それをやるなら、むしろ満州を無視して中国全体で、満州がなかったことにしてやるとか、そういうふうにしたほうが、国民所得統計としてはまだ、多少意味のあることができるかもしれないけれども。だから、私の視角からは、外国貿易に引きつけたような見方をしたいと思っています。

 小浜(静岡県立大学) 簡単なことを教えてほしいのですが、カレンシーのことで。文章の中で、もともとこういう貿易は、例えばポンドで記録されているとか書いた事実がありますね。契約そのものは、例えばイギリスとインドとかの植民地の間はポンドスターリングの契約になっていたのかどうかというのが第1の質問。

 それから、アジア間のところにはいろんな通貨が書いてありますね。これは、たまたまそういうふうなデータしかないということなのか、インドがアジアに輸出するときはルピー建てで契約していたのか、そういうことはどうなっているんですか、この時代は。

 杉原 それは、簡単に申し上げますと答えられません。つまり、貿易統計を見ている限りは全くわかりませんから、それは。通関でルピーでやっているかポンドでやっているかということしかわかりませんから。実際、華僑がどういうふうにコントラクトをやっていたかというのはいろんな意見がございまして、例えばシンガポールでは、ブック・キーピング・バーターというのが非常に盛んで、米取引なんかは、全然お金が動いてないんです。実際は、香港とシンガポールと、ファミリー・ビジネスでやっている米商の中では全く動いてないわけです。そういうことがたくさんありますので、全くわかりません。私の見ている資料からは全くわかりませんが、もっと単純に、貿易統計のレベルで言えば、これは、通関で何にするということが決まっているわけです。その決まっているレベルでもわからないと言いたかったわけです、このペーパーでは。

 仏印の場合は、最初はフランで、そしてだんだんピアストルのローカル・カレンシーとしての意味が増えてくる。それから、インドの場合でもそうですが、大体において対ヨーロッパ貿易は宗主国のカレンシーでやるけれども、アジア間貿易についてはかなり複雑だと思っていただいたほうがいいと思います。

 それでも、通貨は大体ヨーロッパのカレンシーですね。だから、通貨と船とそれからインシュアランスと、そういうものは大体ヨーロッパで、貿易を具体的に担った商人は大体アジアだというふうに思っていただくのがいいんじゃないかと思います。

 司会 どうもありがとうございました。(拍手)

                                 −閉会−