戦前気の工業生産



牧野文夫




劉大鈞、巫宝三。近代中国経済史の研究者であれば、この二人の名を知らない人はおそらくいないだろう。実は恥をさらすことになるが、これまでもっぱら日本を研究領域としていた私は、このプロジェクトがスタートした時は知らなかったのである。中国経済史に関する知識がその程度であったのだから、「工業生産額」の推計を担当するようにと言われても、率直に告白して何から着手し、どのように進めていってよいか、当初は皆目見当がつかなかった。

まずパートナーである関権氏(東京都立大学経済学部)と話し合い、重点的に推計を行う時期を1949年の中華人民共和国建国以後とそれ以前のどちらにすべきか決定することにした。結論から言えば、われわれは後者を選択した。1949年以後の信頼できる基本的な統計はおそらく国家統計局がほぼ独占しているので、われわれが推計作業を行う場合はそこから資料を購入し、それをもとに若干の加工を施すこと程度の貢献しかできないのではないか。逆に日本でわれわれができることは、困難かもしれないが資料の収集から始められる戦前(中華民国期)を重点的に行った方がオリジナルな貢献ができる可能性が高い、というのがその理由であった。

戦前の工業生産の推計に重点を置く方針は決まったものの、さて一体どのような統計資料があるのか、またそれはどこに所蔵されているのかわからない。このような困難な状況のとき救いの神が現れた。中国近・現代経済史の専門家である久保亨・信州大学教授に、新たに研究協力者として加わっていただいた。回顧すれば、96年6月の中国部会定例研究会で久保氏が行った中華民国時代の鉱工業生産統計・推計に関するサーベイ報告が、工業班の事実上の仕事始めであった。冒頭に紹介した二人の中国人の名は、その時に知ったものであった。

さて前置きが長くなったが本題に移ろう。中華民国期中国の工業生産額については七つの全国ベースの工業統計(表1)と三つの代表的な推計作業(表2)がある。

表2に掲げた巫宝三推計とLiu & Yeh推計は、共にGDP推計作業の一環として工業部門の生産額・付加価値額を推計しており、その原資料の中心となったのが表1のC『中国工業調査報告』である。なお巫宝三推計は、国民政府直属の研究機関である中央研究院が国民所得推計のために総力を結集した研究成果(巫宝三主編『中国国民所得 1933年』)であり、作業時期が1940年代半ばという時代背景に鑑みれば、驚嘆すべき事業と言わざるを得ないほど充実している。中華民国時代の推計作業を行う人は、工業に限らず同書を熟読する必要がある。

上記のことからもわかるように、中華民国期の工業統計としては劉大鈞が中心となって実施・編集した『中国工業調査報告』(上・中・下全3冊)が、何と言っても調査の信頼度・カバレッジなどの点で最も優れた資料である。この調査は訓練を受けた調査員たちが実際に各工場を訪れ、担当者に対し面接調査する形で進められた。外国資本の工場に対する調査が実施されなかったこと、辺境諸省及び日本の占領下にあった東北地区も対象から外されたことを別にすれば、ほとんどの対象工場に対し調査が実施されたものとみられる。

したがって、われわれもまた1933年をベンチマーク年としたことは当然である。しかしそれがわずか1年次だけでは心許ない。そこで1910年代の時系列データが得られ、工業全体を包括している@『農商統計表』も採用することにした。こうして1933年および1912〜21年をベンチマーク年とし、それを他の資料にリンクして延長推計する基本方針をたてた。

作業は、牧野が『中国工業調査報告』の吟味と修正を中心とした1933年の工業生産額の確定、関が『農商統計表』の吟味と修正、久保がその他の文献・資料の調査・収集という分業システムをとった。牧野と関の作業は1997年秋にバージョン1というべき修正作業を一応終了させ、それをディスカッション・ペーパーとして提出した:牧野文夫・久保亨「中国工業生産額の推計:1933年」、関権「1910年代中国工業生産額の推計:『農商統計表』の評価と修正」。

次に推計作業の経過について述べよう。まず資料の収集であるが、一橋大学経済研究所の図書館には『中国工業調査報告』の上冊・中冊、巫宝三『中国国民所得 1933年』が − 両方ともマイクロフィルムからのコピーではあるが − 所蔵されている。また『農商統計表』は半分の年次が同所に所蔵されている。『農商統計表』については東京都立大学および東洋文庫でも所蔵されており、これら三ヵ所の所蔵分を合わせれば、東京でもすべての年次分が入手可能である。なお、京都大学経済学部図書館には全冊が所蔵されているとのことである。『中国工業調査報告』の下冊は、東洋文庫にアメリカ議会図書館所蔵本のマイクロフィルムのコピー版がありわれわれはそれを使ったが、実はその中の1枚(2頁分)が落丁になっていることを発見した。この落丁分については、結局中国・社会科学院経済研究所図書館所蔵本からのコピーで補った。またそれら以外の統計資料についても、中国・社会科学院経済研究所図書館、同・近代史研究所図書館、南開大学経済研究所、天津図書館、上海社会科学院図書館、遼寧省図書館などを訪問し約20点ほど収集した(これら資料の入手に際しては、羅歓鎮・カク仁平両氏にもご尽力いただいた)。

余談になるが、私は昨年(97年)10月に北京のある図書館を訪問した。そこで面白い体験を二つした。事務室に外国人訪問者用の署名簿があるが、最近の署名者を見ると、ほとんどが何とわが中国部会のメンバーではないか!。一橋大学の図書館に来たような錯覚が起きた。もう一つ。中国の図書館は司書の裁量権が強く、特に外国人が訪問する場合、彼(彼女)らに気に入ってもらえるか否かが資料収集のキーポイントになる。そこで私も「お土産」(中身は想像にお任せする)を持参したが、司書がそれを部外者の眼に触れずに受け取る様の手際良さにはほとほと感心させられた。もちろんくだんの「お土産」の霊験あらたかであったことは言うまでもない。

本題に戻ろう。データの吟味であるが、『中国工業調査報告』については、産業・地域別に職工規模30人以上と30人未満グループに分け、それぞれの1人当たり生産額を比較する方法をとった。ここで少なからぬケースで、30人未満規模の1人当たり生産額が30人以上規模のそれを上回る事態が見られた。これらについては、「職工30人未満グループの生産額が過大である」と仮定してそれを修正することにした。われわれはこの方法によって得た生産額を近代工場部門の工業生産額とした。手工業部門・外資工場・満州地域は『中国工業調査報告』の調査対象でなかったため、他の推計(特に巫宝三推計)を利用したり、あるいは別途資料を入手して独自の推計を行った(これらの詳細は、牧野・久保論文を参照されたい)。

最も困難な仕事は、関氏が行った『農商統計表』の修正である。収録された内容をみると、この統計は日本の『農商務省統計表』に似ているが、実態としては、北京の中央政府が各地の県政府がとりまとめて報告してきた自記式調査の回答結果を、ただ単純に集計した程度のものに過ぎなかった。政府に経営の実情を知られ、課税の際の資料にされるのを警戒した工場側が調査票へ正確に記入しない場合も多かったと見られ、調査の信頼性には後に紹介するように大いに疑問が残る。また中央政府の実効支配領域が狭まっていったことにともない、調査がカバーする地域も漸次縮小する傾向にあり、特に最終年の1921年には全国22省のうち収録されたのはわずか6省にとどまった。

報告された数字についても驚くべきものがある。前掲の関論文から一例を借りれば、1912年の食料油の生産額20億元が、翌年には1600万元に、さらに次の年には180万元に低下しているという。このような桁違いの変化は、他の生産物にも見られる。『農商統計表』がこれまで利用されなかった理由の一端がここにある。関氏のの修正作業が、如何に厄介な仕事か理解していただけるはずである。

最後に今後の研究課題について簡単にふれておこう。

第1は、現在までに行った推計作業のバージョン・アップである。1933年については、他の班とくに農業、人口、物価、貿易班等の作業成果と整合させる必要がある。『農商統計表』については、問題の大きさ・複雑さから判断して修正は今回限りというわけにはいかない。生産性・単価などの比率指標を使った多角的な修正を試み、バージョン2、3を公表したい。また『農商統計表』には表題の通り農業生産額の数字も収められているので、おそらく農業班でも同統計を利用することが予想される。工業班と農業班の間で改訂作業に関する情報交換も必要になるであろう。

第2は、1920年代および1933年以降の推計である。1920年代の資料は非常に乏しいので、貿易統計あるいは表2のChang推計に大きく依存する事になると思う。1930年代半ば以降については、表1のD、F、Gなどの資料が活用でき、また1920年代同様に貿易統計、Chang推計も利用できるだろう。

第3は付加価値額の推計である。付加価値を計算するためには、価格(費用)構成の資料が必要だが、幸いにも『中国工業調査報告』にそれがある。またFやGでも原材料費がわかる。これらを利用することによって付加価値額の推計は可能と思っている。


(まきの・ふみお 東京学芸大学教授)