戦前期の中国海関と貿易統計



小瀬  一




中国の諸統計の中でも海関(税関)統計あるいは報告は、その統一性と連続性において出色のものであろう。しかし統計というものが統治と不可分であるとの例にもれず、海関統計あるいは海関組織の在り方には、歴史的な規定性が色濃く反映されている。国内的には中央政府の力が弱く、国際的には外からの影響を強く受けるという中国近代の特徴から、海関統計も無縁ではありえなかったのである。この小論では中国社会あるいは国際関係の中での海関の位置に注目しつつ、海関統計の持つ問題の一端を紹介してみたい。




海関の設置

海関は税率表と検査に基づく課税を実行した。それ以前の中国商人あるいは通事が税務を執行するのに比べて、透明性の点で優れていた。また欧米人による海関事務が始まったのは、太平天国期の上海において英米仏領事の手によって税務事務が代行されたことを嚆矢とする。それらのために従来の研究では、海関組織の完成は近代化の一過程とも帝国主義勢力浸透の一道標としても評価されてきた。これらの議論に共通することは、海関が伝統的な中国と対立する徴税機関であったとの認識である。

しかしながら近年の研究では、より中国の論理を重視した見解が現れつつある。そもそも“海関”という呼称自体が、外国から導入された徴税システムをそのまま意味するものではなかったのである。それはわが国が明治期に西洋の科学体系を導入する過程で、種々の翻訳語が原義とは意味を違えながら定着していったのに似ている。海関とはもともと中国の行政機関であり、設置当初は中国人の出洋貿易を統括するものであった。後に外国の来航貿易を統括するにいたったとしても、あくまでも内政の一機関に位置づけられるものであった。これに対して後に設置される外国人の管理する「海関」は、従来「洋関」として区別されていたものが、母屋を奪うようにしていわゆる海関として理解されるようになったものである。しかしこのことすら一概に外国勢力の優勢の結果とは言えない。たとえば中国内地には、常関と呼ばれる徴税機関など海関の管轄外の流通税徴収機構が存在していたのである。中国の経済活動を語る時には、この海関の外にあるもう一つの経済が意識されている必要があろう。




国際機関としての海関

海関組織の特異性の一つとして、その長である総税務司が外国人によって占められ続けたことがあげられる。ただし総税務司の本来の役割が課税実務と外国人官吏人事に限られていたことは注意される必要がある。その意味では、お雇い外国人の一類型と言える。しかしやがて総税務司となるハート(Sir Robert Hart)は、清朝の信頼を得てその顧問としての役割も果たすこととなった。総税務司の地位が外国人、殊にイギリス人に占められ続けた根拠は、1898年に「イギリスの貿易が他国に超越する間は海関総税務司の職にイギリス人を当たらせる」という合意をイギリスが清朝から取り付けたことにあった。

このように海関制度と貿易関係とが結合されたために、中国との貿易という経済活動は、ただちに政治的な意味合いを持つこととなった。特に日本の中国市場への進出が拡大されると同時に、この問題は海関問題の一焦点となってゆく。日本には対中貿易の拡大にもかかわらず、海関組織の中で職員の人数が少ないことで、それに相応しい待遇を受けていないという不満があった。すなわち、日本製品は通関に際して相対的に厳しい査定を受けているとの認識がくすぶっていたのである。

特に第一次大戦期には、さかんに中国の貿易相手国の取引割合が問題とされている。例えば、中国のギルド研究で著名な根岸佶も次のような議論を展開している。1924年の中国対外貿易国のうち日本は二割七分で一位を占め、イギリスは一割四分にすぎない。しかし香港(二割三分)をイギリス分に含むならば、イギリスが首位を維持することになる。ただし香港貿易には日本の対中国貿易が含まれるから、おそらく日本が首位を占めるであろう。そして結論として根岸は、海関組織において日本人の登用がすすむことを主張するのである。果たして実際に海関官吏が、出身国以外の取引についてどのように接したかを窺い知ることはできない。しかし本来的には中国の徴税機関である海関が、国際的な利害の焦点であったことは注意されてよい。このことが統計に与えた影響としては、課税の基本となる商品価格の評価問題がある。中国関税の従価五%を確保するための価格再評価は、列強の対立の結果しばしば遅延させられたのである。




統計数値修正をめぐって

海関の発表する貿易統計によると、中国の対外貿易はほぼ連年入超続きである。そのために中国の国際収支が、いかに均衡を保っているかを合理的に説明することが大きな課題となっていた。この問題に関しては早くも1904年のモース(H.B.Morse)による推計があり、その後レーマー(C.F.Remer)らの推計などが次々と表わされている。いずれの場合においても入超額を補うものとして重要な項目は、華僑による本国送金であった。送金額の推定は移民数に一定の送金額を乗ずるという方法が一般的であるが、信頼性の点で問題を避けられない。

この本国送金とならんで、研究者が取り組んできた問題として入超額自身の再検討がある。この作業は二つの側面から海関統計を補正することを意味していた。つまり陸地貿易、密輸などの海関が捕捉する範囲から逸脱した取引額を推計し補足することと、商品価格の評価または為替変動によって生じる統計数値と実額との乖離の修正である。特に後者の問題は、既存の統計数値の扱い方と関連して今回のプロジェクトでも問題となるだろう。海関の統計数値は輸出の方が輸入に比べて問題があると言われている。それは輸入においては価格審査が厳重であることと、輸入商品の金建て価格を海関両(銀)に直接換算して統計に記載するため、統計が金銀比価変動の影響を受けず、輸出で起きるような問題は少ないと判断されるためである。

それでは輸出価額に対してどの程度の修正が施されているのであろうか。例えば先のレーマーは中国の輸出貨物について、1902-1928年は5%、1929年は7.5%、1930年は10%の過少評価があったと推定している。しかし鄭友揆は、レーマー推計では輸出貨物の低額申告に注目するだけで国外の物価騰貴、銀貨下落といった要因が考慮に入れらていないという批判を展開している。その他に鄭はレーマー推計に対して台湾・関東州の数値の取扱い不備、中国の輸出額と相手側の輸入額を比較する場合に、商品取引量の差異を考慮に入れず単純な数値の突き合わせを行っているなどの問題点を指摘している。そして鄭自身は統計値に次のような修正を加えている。輸出においては、@上海の物価と申告された商品価格との比較検討、A中国の輸出価格と外国の輸入価格の比較、B中国からの船積価格の修正、C陸地貿易の推計を行なっている。また輸入については、一般商品、アヘン、武器密輸の推計を行い合算している。その結果はのとおりである。それによると1932年以前の入超額は修正前に比べて小額であり、その変動も穏やかである。特に1929年、1930年における入超額の縮小は著しい。この推計はこれまでの中国の貿易収支に対する認識に修正を求めると同時に、今度は商品別の貿易額をどう扱うかの問題を提起しているのである。

海関統計の問題点は、陸地貿易・在来交易の包含といった捕捉範囲の問題と、数値自身にかかわる質的問題とに分けられる。これらの問題はCOEの作業の中でも、他地域の作業との釣合い、また何よりも残された情報との関係で処理される必要がある。しかし、少なくとも海関組織をめぐる問題等を踏まえて、統計の限界を整理する作業が行われる必要を感じる。







参考文献

岡本隆司 「洋関の成立をめぐって」『東洋史研究』50−1、1991年。

馬場鍬太郎 『支那経済地理誌 制度全編』1928年。

根岸 佶 『支那特別関税会議の研究』1926年。

南満州鉄道編 『支那国際収支論叢』1941年。




(こせ・はじめ 龍谷大学経済学部助教授)