ロシア極東・中央アジアの統計資料

データベース化の可能性を求めて


プロジェクト幹事 西村可明



ソ連極東・中央アジアの統計事情

周知の通り、ソ連邦は15の共和国から構成されていた。しかし各共和国は独立性を持たず、ソ連邦としてのまとまりの方が断然強かった。だから、わが国では従来、中央アジアの国別観察はほとんど行われず、せいぜい全ソ連統計資料の共和国別数値を、比較の視点から、ときたま参考にする程度であった。また、そうした数値を集めた共和国別統計集も出版されていたが、あまり熱心に収集されなかった。ましてロシア・ソビエト社会主義共和国連邦の一地方にすぎなかった極東の地域統計収集など、ソ連経済研究の観点からは、ほとんど問題にされなかった。近隣の極東は、一定の経済交流もあり、日本にとって重要な地域であったが、冷戦構造下で極東はソ連の最重要軍事基地の一つであり、軍需産業の集積地であったから、極東経済統計はベールに包まれていたこともその一因であった。さらには全ソ経済統計でさえ、スターリン時代には厳重な秘密扱いを受け、『国民経済統計年鑑』などが公開されるようになったのは、ようやく1950年代後半だということも忘れてはならない。

このような事情があったから、1994年に出版されたロシア科学アカデミー極東支部経済研究所編、望月喜市・永山貞則日本語版監修『ロシア極東経済総覧』は、その帯紙にあるように、「未知の大地」に光を照らす経済情報のパイオニアであったといえる。しかしそれにもかかわらず、そこに収集されているのは、大部分が1970年代以降に関する資料にすぎないのである。陸の孤島の中央アジアとなると、そのようなものも存在しなかった。これが、このCOEプロジェクト開始時点のわが国における極東・中央アジア経済統計事情である。



ロシア・中央アジア班の活動

したがって、極東・中央アジア班の当初の課題は、まず入手しやすい近年の資料を収集・整理し始めると同時に、それ以前の資料をできるだけ過去に溯って収集していくことに他ならなかった。後者のためには、とにもかくにも、われわれ自身の現地調査やソ連・ロシア専門書店の情報ネットワークを通じる資料探索が必要であった。中央アジアのウズベキスタンやカザフスタンでの資料収集は、古本屋での資料購入もできず、個人的コネを通じて出版公開された統計集を購入するより他ない。われわれは貴重な統計集をかなり入手できたが、しかし戦前期まで溯ろうとするこのプロジェクトの目的から見ると、穴だらけで、さらなる収集努力の必要がかえって痛感された。

極東では、ロシア科学アカデミー極東支部経済研究所の協力を得て、ハバロフスクとウラジオストックの統計委員会及び経済文書館の調査を実施した。統計委員会で明らかになったことは、極東各州の各統計委員会は、中央統計委員会の指定項目に関して企業から収集した数値を集計して中央に送付し、収集したデータは10年間保存した後に、経済文書館に移管するという点であった。これはロシア各地における統計データの作成・保存の制度を伝える貴重な情報である。そこで、われわれの関心は否応なしに州の経済文書館に引き寄せられることになる。たが文書館での調査は、「巨大な森林地帯に磁石を持たずに入り込む」(望月喜市「極東ロシアの長期統計データの収集」本誌1996年、No.3)ようなものであった。山のような資料の中から、カード検索によって一応の見当を付け、資料請求して出てきたものは、年代別、企業別、地域別生産高などを示す個々の一次資料である。そうしたものを次々に調べて、州単位に集計するには、膨大な作業を実施しなければならない。それは、かつてソ連時代に、政府機構が巨額の費用と人員を投じて行った作業をわれわれ自身が行うことに他ならず、われわれの力量を越えていた。しかしこれは、各州統計委員会の資料送付先、つまりモスクワにおける資料の存在を示唆するものであった。

こうして、資料収集は行きづまり、一同困惑していたところ、他の探索経路である専門書店が、実に良い情報を持ってきてくれた。一つは、ソ連で1970年頃までに出版公開された統計書のリスト(それ自体は研究所資料室に存在)に掲載の文献はコピーが入手出来るというものである。これには1920年代から30年代半ばまでの中央アジアやロシア極東の統計出版物も相当数含まれるから、それは朗報であった。経済混乱のロシアでは、図書館や文書館のトナーや用紙の不足のため、コピーサービスが滞り、注文してから半年以上経っても現物がまだ届いていないが、これは近い将来解決できよう。



ソ連秘密経済統計データーベース化プロジェクト

もう一つは、モスクワの国立経済文書館による「ソ連秘密統計データーベース化プロジェクト」の提案である。中央でも、統計委員会が使用した統計資料は、10年経過後に経済文書館に移管・保存されるというルールがあって、ソ連国家統計委員会(古くはソ連国家計画委員会統計局)の作成した様々な秘密統計(秘密扱いタイプ打ち統計資料や非公開出版物など)が国立経済文書館に保存されている。その内、革命直後から1960年代半ばまでのものは、30年経過後公開の新ルールに従って公開されたので、10か月と10万ドルをかけて、その解説付文献リストを作成してデータベース化し、世界の研究者がアクセス出来るようにしようというのがその趣旨である。これは、われわれにとって実に胸躍る情報であった。スターリン時代の地方統計が読めそうであるし、ソ連時代の統計作成の実態に関する情報も、そこには含まれているかもしれないからである。

そこで、今年の2月に3名のメンバーが現地調査に出かけることになった。直接の目的は、極東と中央アジアの統計資料を、秘密統計の中から収集する点にあるが、副次的には、提案されたプロジェクトの意義や実行可能性を確かめることも課題であった。極東や中央アジアのデータを実際に探って見れば、これは自ずと明らかになるからである。実際にやってみて、われわれは興味深い数値データを集めることができた。しかしその際感じたことは、極東の経済文書館におけるのと共通のものがある。というのは、確かにわれわれのほしい数字が見つかるのであるが、そこに到達するまでが迷宮の中を彷徨うようなもので、資料収集の効率がえらく悪いのである。秘密統計のデータベース化は意義が大きいし、また不可欠だというのがわれわれの共通の感慨であった。

しかし、このプロジェクトは、COEプロジェクトに組み入れるには金額が大きすぎるし、文部省科学研究費のスキームになじみにくい点がいろいろとある。そこでスポンサーを見つけなければならない羽目に陥ってしまったが、こちらの方も、統計データの発見に劣らず困難なことが明らかになった。またこの点が解決しても、データベースを利用できるのはもっと先のことになる。だから、今年も彷徨の旅をしなければならないようである。



今後の課題

ソ連の経済統計には、様々な問題のあることが指摘されてきた。統計上の概念や技術的問題だけでなく、ソ連型集権制下の生産高水増し報告など情報の歪曲の問題もあり、公式統計は信用がおけないというのがその一例である。冷戦構造下で情報が秘密にされたり、歪曲されたりしたため、公表された公式統計には問題があるはずだという議論にも、否定し難いものがある。確かに公式統計だから正確だとはいえないであろう。それをも疑ってかかるのが研究者のあるべき姿である。しかしそれ以外の統計データが存在しないことも確かである。またハバロフスクやウラジオストックの統計委員会でのわれわれの体験から明らかなように、ソ連当局に代わってわれわれが統計を作り直すことも、たとえ一生産物の州生産高を再計算するような場合でも、途轍もない大作業であり、事実上不可能であろう。さらに企業レベルの数値の吟味など、今になってはとうてい不可能である。

これが現実である。しかしそれは、われわれが何もできないということを意味するわけではない。技術的な面では、再計算の可能性があるかもしれない。公開された秘密統計を既発表統計と照合すれば、何か分かるかもしれない。少なくとも、従来欠けていたものを補完することくらいはできそうである。また現在なら、ソ連時代に統計資料を作成した人々が生きているのだから、統計作成の実態について社会学的調査を行うこともできよう。何か新しいものを付け加えて、中央アジアやロシア極東の統計データベースを作りたいと思うのである。

(にしむら・よしあき 一橋大学経済研究所教授)